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【オンリー・ウニ】第6章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第6章  トリッシュの上司が「アジア人の時間感覚」を持つ人だったら、細胞培養室の壁時計が十分過ぎていても、会議の時間に間に合ったのに。だけど、ダイアナはアジア系アメリカ人の冗談を面白いと思う人ではない。  トリッシュはニトリル手袋を引っ張り抜き、バイオハザードの容器に入れた。正月休暇が終わった後の初出勤日はいつも忙しいものだ――ダイアナは分かってくれるはず。細胞培養室のドアまで走る途中、たまたまその容器が目に入った。困った、がん細胞に寄生された手袋は容器に入らなかったようだ。トリッシュはキーッと音を立てて止まり、振り返って、手袋の親指と人差し指の間の清潔な部分をつまみ上げて、赤いプラスチックの袋に落とした。  トリッシュはドアをバタンと閉めて、オフィスを出た。ラボ用白衣を引き剥がすように脱ぎ、シンクまでダッシュした。シンクの取っ手を回すと、細い蛇口から水がほとばしり、顔に飛んだ。  ツバを吐き、頭を振って、手を洗うために水量を減らした。手を拭こうとしてペーパータオルを引っ張ると、ほんの小さい一切れだけを切り落としてしまい、もう一度つかむとバサっと大量に出てきてしまった。おバカなタオルディスペンサー。ああそれに、おバカな水は、トリッシュの新しいブラウスにもはねていた。水のシミをこすり、ラボのドアを出て、廊下を走った。  あまりに早くオフィスに突進したトリッシュは、キュービクルの壁に当たって跳ね返り、誰もいない机にぶつかった。横滑りするように、その机の角を回った。ペンとカレンダーをつかもうとして落としてしまった。ペーパータオルは、そこら中に飛んで行った。  ドアを通って階段の吹き抜けにぶつかってから、階段を飛ぶように上がった。三階に着く頃には、息は苦しく、次の呼吸とともに口から肺が飛び出るのが見えるような気がした。カーペットが張られた廊下を進み、会議室まで走った。  ドアの外で、トリッシュは時計をチラッと見た。ゆがんだ顔で、重いオーク製のドアをそっと開け、中をのぞいた。  四組の目が、だんだん近づいてきた。  マズい。「申し訳ありません。今朝、細胞の解凍に問題がありまして」  上司のダイアナは、...

【オンリー・ウニ】第5章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第5章  生物学者の仕事は決して終わらない。  普段の週日か休日かにお構いなく、がん細胞は急激に増殖する。新年だというのに、トリッシュは病院を出てからほんの数時間後、バレー製薬の細胞培養室でダメージコントールをしていた。  正月の週末中に二台のインキュベータが動かなくなってしまわなければ、それほど悪くなかったのかもしれない。  その結果、トリッシュがやっていた研究のうち三つがダメになり、まだ生きている細胞を救出するために、一日中仕事をする羽目になった。上司のダイアナは、自分の上司が待っていた研究結果がバイオハザード用のゴミ箱に行く結果になってしまったので、機嫌が悪かった。トリッシュは、ストレスの上に緊急事態が積み重なり、睡眠不足がそれに追い討ちをかけた。  しかし、ジェニファーが作るダークチョコレート・トリュフで解決できないものは、何もない。  やっと仕事が終わり、家でリラックスしながら、トリッシュは居間のソファに深くすわり、チョコレートがついた指をなめ、閉じられた聖書を置いた膝を見つめた。先延ばしにしていたのであるが、行動に移すことができないでいた。緊張のために、手、足、みぞおちのあたりが震えた。あるいは眠れない夜と忙しい一日のために、エネルギーを費やしすぎたのかもしれない。  カウンターの上に置いてある金魚鉢の中でのんきに過ごす金魚を見つめた。何匹目のゴンゾウだろうか――トリッシュは、自分の金魚を全て、お気に入りのマペット(セサミストリートに出る操り人形)の名前で呼んでいた。  アパートの外で、マウンテンビューからサニーベール方向へ進む電車の音が聞こえた。何時だろう? ルームメイトのマーニーはもうすぐ帰ってくるだろうか? 会社へ行く前に着替えようと少しの間うちに戻ったとき、マーニーはもういなかった。パロアルトまでの通勤時間は短いから、立ち寄れてよかった――。  夕食はどうしよう。疲れ過ぎて料理はできない。外食にしようか――キャストロ通りにはいいレストランがたくさんある――だけど、一人で食べたくない。それに、マーニーがうちにいたとしても、彼女を誘うのはいやだ――マーニーと仲良くなろうとするのは...

【オンリー・ウニ】第4章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第4章  トリッシュは、病院のにおいが大嫌いだった。空中にただよう重苦しい空気は、タバコの煙や安い香水のように消すのが難しい。肺が詰まり、吐きそうになった。  いとこ達はこちらに向かっているから、二〇分以内には到着するだろう。もっと早く来られないものだろうか。一人のいとこには手を握ってもらい、もう一人には看護師や医師と話をしてもらい、書類記入と、父との連絡を試みるのも、誰かに頼みたい。  ああそれに、彼女のRAV4を駐車し直した方がいいだろう。何も考えていなかったとは言え、入り口の真ん前に停めてしまった。なるべく端の方に停めようとしたのだが。  トリッシュは腕をさすり続けた。寒かったのと、筋肉の痛みを和らげるためだった。寝室から車までの短い距離だったのに、この小柄な母がこんなに重いとは。あるいは、トリッシュが軟弱なだけなのかもしれない。ミス体脂肪一八%のレックスだったら、筋肉の緊張度が足りないとか何とか言っただろう。でも、少なくとも、たくましい救急隊員に指図して、母を緊急治療室まで運ぶことができた。あの救急隊員の人たちはどこだろう? かわいかったな……。 (ちょっと! あんたの頭には男しかいないの? 神様が聞いてるわよ)  結局、元カレと(また)姦淫を犯した二日後に、こういう事態に突き落とされたのは、そこに因果関係があるのではないだろうか?  トリッシュは、その姦淫という言葉が好きだった。汚れ、不快で、惨めに思え、まさに今は、そんな気持ちになりたかった。  結局こうなってしまったのは、自分のせいではないか? 自分はムチで打たれるのにふさわしい。映画「パッション」で見たむごたらしい映像が浮かんだ。  スイングドアがシュッと開き、父が不意に入って来た。巻き毛が乱れている。とても穏やかな顔つきだったので、トリッシュはその冷静な顔をひっかきたくなった。 「どこにいたの? 何度も電話したのに!」その声は、ガラスが砕けそうなほど高くなった。心では落ち着こうとしているのだが、口はこう動いた。「携帯に電話するたびに、真っすぐ留守電に入っちゃうって、どういうこと?」 「ちょっと前までオフにしてたんだ。今は...

【オンリー・ウニ】第3章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第3章 「チャンキーモンキー、ないんだって」 「チェリーガルシアも」  トリッシュは冷凍ケースを揺さぶりたくなった。「スイフティマートに来るっていうのは誰の考えだった?」  ジェニファーは、向こう側でチーズナチョスを山盛りにした大皿を持っているレックスを指さした。「何も食べてないのにパーティーを出ないといけなかったって、文句を言ってるわ」  トリッシュは口をとがらせた。「体脂肪率十八パーセントなのよ。何を食べても百グラムも増えないの。私みたいな普通の人間と違ってね」小さい冷凍ケースをにらんだ。「アイスクリーム食べたい!」  ビーナスが滑るように前に出た。「うちに脂肪分ゼロのフローズンヨーグルトがあるわよ」 「オエッ」トリッシュとジェニファーは、二人そろってビーナスにしかめっ面をした。  ビーナスは、マニキュアをした指でトリッシュをつついた。「だったら、体重のことで文句を言わないでよ」  ジェニファーは笑顔になりそうになるのを我慢して、長い髪の毛をいじった。  トリッシュはブツブツ言いながら、冷たいガラスのドアにおでこを押しつけた。  ビーナスは腕を組んで、鼻をすすった。「それで、早く出ないといけなかった理由は?」
  トリッシュはあの時、アリスに何と言ったのか思い出せなかった。「どうして父とキスしてたんですか?」なんて言わなかったことを願う。  レックスがビーナスを後ろに従えたトリッシュとジェニファーを群衆の中で見つけたのは、実に絶妙のタイミングだった。パーティーを出るための言い訳も作った。ビーナスのアパートが一番近いので、そっちに向かった――まずベンアンドジェリーズに寄ってから。  ねばねばするフェイクチーズをのせたトルティーヤチップスのお皿を持って、レックスが近づいてきた。「じゃあ行こうか? どうして早く帰らないといけなかったの?」  ビーナスの冷ややかな目が光った。「和夫を避けるためってだけじゃないわよね?」  トリッシュのお腹の中は、ブクブクと音を立てた。「うん、そうじゃない」まあ、そのためでもあったけど。  なぜトリッシュは、いつも悪い男に引き寄せら...

【オンリー・ウニ】第2章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第2章 トリッシュは二人をじっと見た。  彼らも見つめ返した。  誰も動かなかった。  トリッシュは、父の方から何か言うのを待っていた。見つかったのは父なのだから、彼が何か言うべきではないのか? 彼女は何も言うつもりはなかった。何と言えばよいのだろう? 「ああ、お父さん。浮気相手を紹介してよ」とか?  それともメロドラマのように、「どうしてそんなことを?」はどうだろう。  または声を震わせて、「わがままで忌々しい虫けら」と呼ぼうか。  女性は表情のない目でトリッシュを見た。きれいな人。トリッシュは彼女が憎かった。  こんな風に言うべきだろうか。「どうして既婚者を追いかけるんですか?」それとも、「あなたも既婚者ですか?」  部屋がグルグル回り始めた。トリッシュは乾いた息をのみ込み、息を止めていたことに気がついた。波が浜辺を覆うように、少し開いたドアの隙間から聞こえてくるささやき声が、静かな部屋に入ってきた。 「トリッシュはどこかしら?」祖母の洗練された声が、何故かファミリールームの騒音を越えて聞こえてきた。  突然、祖母はそれほど悪くないように思えた。  向きを変えて、ドアを大きく開け、廊下に出た。廊下の照明のスイッチをつけ、行く道を照らした。  クリーム色のカーペットが目に入った。大嫌いだ。清潔で、きれいで、柔らかかった。  ジェニファーが角を曲がって廊下に入ってきたので、ぶつかりそうになった。「ビーナスを助けに来て――」ジェニファーの顔は、涼しい顔から心配そうな顔になった。「どうしたの?」  トリッシュは口を開けたが、その口から出てくる言葉は「ああ」と「うん」だけだった。  ジェニファーは本当に心配そうな顔をした。「トリッシュ?」トリッシュの肩越しをチラリと見た。 「ダメ!」しわがれ声だったが、何とか意味は通じたようだ。トリッシュは震える手で、ジェニファーを廊下の方に押し返した。最初は抵抗したが、ジェニファーは従った。いつもそうするように。  二人は、親戚が集まっている居間に突入した。ほとんどの人が食べていた。騒音は大きすぎ、照明は明るすぎた。トリッシュは、...

【オンリー・ウニ】第1章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第1章 トリッシュ・坂井がドアを通って歩いてくると、部屋全体が静まりかえった。  いや、ピン一本落ちても聞こえそうなほど静かになったわけではない。正確には、叔母の広々とした居間に集まっている数十人の親戚のうち、四、五人が会話をやめて彼女の方を振り向いた。トリッシュは、指をさされて笑われると思っただろうか。  白い服を着るんじゃなかった。反抗的なムードで、クローゼットにあったベベのワンピースを選んだのに、叔母の家の玄関口に立った時、その反抗心に裏切られた気がした。目の前で爆発するような赤やオレンジ、金色の洋服を着た人たちを見ていると、頭がクラクラしてきた。  少なくとも、彼女のワンピースのスタイルは、その平凡な体型をより曲線的かつスレンダーに見せていた。仕立てのいい洋服を着れば、見かけをよくするために努力する必要がなくなるからいい。  サンダルを蹴って脱いだ――ああ見て、寒いから爪先が青くなってる――サンダルは、玄関を埋め尽くしている靴の海の中にすぐ消えてしまった。ドアの枠から垂れ下がっている薄っぺらい紙製のドラゴンを払いのけ、スカートをなでた。手を引っ込め、後ろに回して強く握った。 (ダメダメ。お尻が巨大に見えるわ)  手を前に持ってきて、強く握った。
 (ああ、緊張してるって、親戚中に思われる)  ウエストのあたりで手をゆるく握り、堂々とした表情を見せようとした。 「トリッシュ、お前、便秘中か?」  トリッシュは苦笑いした。いとこのボビーは鼻先で笑っている。「あなたって、面白いわね。吐きそう」 「吐くんだったら、ばあさんが来る前にしろよ」 「まだ来てないの?」おっと、少し安心したのを声にしてしまった。我を忘れて興奮しているように聞こえないよう、咳払いをして声の調子を調節した。「おばあちゃん、いつ来るの?」 「叔父さんが迎えに行ったんだけど、叔母さんに電話があって、ばあさん、何か忘れたそうなんだ。それで、うちに一度戻ったらしい」  ああ助かった。「レックスは?」 「食べ物のとこ」  やっぱりそうか。先週いとこのレックスが言っていた。週三回のバレーボールの練習と、週...

【ひとり寿司】第38章

→ 作品ページにもどる 第38章 レックスは、ダイヤモンドのイヤリングを指でいじった。さわりたくなかった。彼女の不器用な指には繊細すぎる。バレーボールをさわっている方がいい。 母が亡くなる前に家に戻ってきた時、このイヤリングをつけていた。 そういう理由もあって、レックスは一度もこれをつけたことがなかった。母は疲れた顔をしていた。生きるのをあきらめ、安堵した表情をしていた。 レックスは決してあきらめない。母も、あきらめるべきではなかったと思う。 理不尽であることは分かっていた。母は、死を避けて通ることができなかった。しかし、そのイヤリングを見ると、母が死を受け入れた時、あきらめた時を思い出した。 レックスも、あきらめようとしていた。神様の手に、明け渡そうとしていた。 喜びに満ちた平和も、全てがうまくいくという驚くべき確信もない。ただ、静かな希望があり、少し感覚も麻痺していた。うまくいくかもしれないし、いかないかもしれない。ただ、待ってみるだけ。 イヤリングをつけた。 ブライズメイドのドレスを着るのに少し苦労した。淡いラベンダー色のフワッとしたスカートが、ぎこちない膝にまとわりついて、手染めのパンプスがうまく履けない。もう一方のACLも切れそうだ。 レックスは靴を箱に放り投げ、スニーカーに手を伸ばした。スカートが長いから、靴は見えなかった。ほとんど。 さて、松葉杖を使おうか? どうしよう。 壁に立てかけた松葉杖をにらんだ。不安定になり、痛みを感じていたときに、また取り出したのだった。 しかし、強いこと、強がることは、重要なのだろうか? レックスは、わざわざ手を伸ばしてイヤリングをいじった。そして、バッグと松葉杖をつかんだ。 レックスが松葉杖で足を引きずって側廊を歩くのを見たら、マリコは気が狂うだろう。 歩道の縁石まで出ていった。SUVが停まっているが、父の車が見えない。レックスはすでに遅れている。父も遅れているのだろうか? 待って、あのSUVは見覚えがある。 エイデンが後ろに回って、トランクを開けた。 「ここで何してるの?」 「僕が運転手だ」レックスの松葉杖を取って、後ろに滑らせた。 「お父さんは?」 「もうメアリーと教会へ向かってる」 レックスは、エイデンの平然とした顔が読...

【ひとり寿司】第37章

→ 作品ページにもどる 第37章 レックスの足は段ボール箱の端に引っかかり、膝がズキズキした。痛みが消えるまで、うめきながら我慢した。 荷物を詰める前に、住む場所を探すべきだ。だけど、動いて何かしてないと、ダメだ。何が起こったのかを考え始める前に。 ドアベルが鳴った。段ボール箱の間を通って、小股で足を滑らせた。 トリッシュだった。 「入っていい?」 レックスは横にずれた。「あんまり場所はないけどね」 トリッシュは、ベッドまで通り抜けて座った。レックスは少しの間、ドアのそばに立っていたが、彼女についてベッドの方に戻った。 トリッシュは、ほっぺたの内側を噛んで、頭を落としていた。「ごめんね、レックス」 昨日の夜、強情で愚かな自分を思い、イエス様の赦しの中で静まっていた時、トリッシュに腹を立てるのは、単純にバカげた理由のためだと思えてきた。「いいのよ」 「よくない、和夫のことは、あなたが正しかったわ。彼に好きなようにさせてたのは、私だった」 「別れたんでしょ、いいじゃない。白紙に戻ったのよ」 しかし、トリッシュは泣き始めた。「終わってない。あいつに処女をささげちゃった」 驚いた。しかし実際には、驚くべきことではなかった。現実から目をそらしていたとは言え、そうではないかと疑っていたはずだ。 「ある晩、酔っ払っちゃって、そうなったの」涙がトリッシュの鼻を伝い、シーツに落ちた。 レックスは、静けさの中で自分の呼吸が聞こえ、トリッシュの小さい泣き声が聞こえた。何と言えばいいのだろう? 何を考えれば? 「感覚が麻痺しちゃったみたい」トリッシュは鼻をすすった。「これ以上、何か感じないといけないの?」 感覚がない、という気持ちをレックスは理解した。「分からないわ」手を見つめた。 しばらく経って、トリッシュは立ち上がった。「行くわ」 「待って、行かないで」レックスは彼女に手を伸ばした。 「他にいてもらいたい人がいるでしょ」 「あなたにいて欲しいの」 「私に何ができるって言うの?」突然、トリッシュの声の調子が変わった。 「好きよ、トリッシュ」 トリッシュの顔はクシャクシャになった。ベッドにまた座り込み、掛け布団の下に頭を詰め込んだ。泣きじゃくっている。レックスは彼女の頭、肩をさわった。 ...

【ひとり寿司】第36章

→ 作品ページにもどる 第36章 誰かと結婚するとしたら、きっと駆け落ちだ。 クスクス笑うマリコのブライズメイドの後をついて、レックスはよろめきながらパゴダブリッジ・レストランに入った。泣きわめくティキの隣で四時間立ちっぱなし——マリコはレックスを列の最後に入れてくれたから、ありがたい——抜歯と同じぐらい喜ばしい経験だった。ノボケインなしで。 (ウェディングそのものは一時間だけ。よかった)リハーサルも終わり、あとはオリバーを見つけ、四時間ぶりに椅子に座って、祖母のおごりで高価なリハーサルディナー(結婚式リハーサル後の食事会)を楽しむだけ。 あと一週間で、ブライズメイドという拷問のような任務は終わる。結婚式が来週の土曜日ではなく、明日だったらいいのに。マリコがパゴダブリッジ・レストランでリハーサルディナーをすることにこだわったので、ウェディング前日の金曜日は、レストランが空いていなかったのだ。 ビーナスが先にレックスを見つけた。「あなた、気に入らないと思うわ」 「うそ——マリコったら、私をフィッツ叔父さんの隣にしたの? 私が食べさせてあげる、ってこと?」 「もっと良くない。あなたはトリッシュとジェンと一緒で、私は違うテーブルなの」 眼球の後ろで頭痛が爆発し、レックスは目を閉じた。「オリバーをつかまえて、帰ろうかな」 「手遅れよ、彼はもう食べ始めてる。もっとひどくなるわ」 「もっとひどくなるって、どういうこと?」 「ミミがいるの——」 「だけど、ミミとは最近うまく付き合ってるわ。少しは」 「あの子、エイデンをパートナーに連れてきたわ」 うっ。それはかなり最悪だ。突然、トリッシュとジェニファーのことはどうでもいいように思えてきた。「エイデンと会ったことなんて——」 ビーナスはうなずいた。「もう遅い。同じよ」 それは素晴らしい。レックスは食事を楽しむことなどできないだろう。ある男性との時間を楽しもうとしている一方で、本当は別の男性といたい。だけどその人はクリスチャンじゃないから、一週間、会うのを避けてきた。だけどこの五日間、毎晩その人とキスすることを夢見ている。 レックスは丸テーブルが嫌いだ。元気よく春巻をつつくオリバーと、お尻の軽いミミと楽しそうにしゃべるエイデンとの間で、押しつぶされそうだ。 ...

【ひとり寿司】第35章

→ 作品ページにもどる 第35章 レックスは永遠に続くような階段を見上げた。「四階?」 「そう」 「で、エレベータないの?」 「ない」 「オリバー」レックスは彼の方を向いた。「膝は良くなってきてるけど、階段を昇る時は、まだすごく痛いの」 浅黒い皮膚と対照的な明るく白い歯を輝かせて、オリバーは顔をゆがめた。「引っ越すまでにはもっとよくなってるんじゃない?」 「さあ。理学療法は頑張ってるんだけど」(嘘つき。ここ数回のセッションはキャンセルしたくせに。臆病者) 「そっちの方は上手くいってる?」コンバーチブルのメルセデスまで戻った。 「順調よ。回復はゆっくりだけどね」 「うん、そんなもんだよね。大学の時、半月板が裂けたことがあってさ、六ヶ月かかったよ、ビーチバレーボールができるようになるまでに」 「ビーチバレーするの?」確かにオリバーは体格が良かった。 「もうしてない」悲しそうに笑った。「膝がついていかないから、やめたんだ」 「それは大変だったわね」レックスだったら、車椅子を余儀なくされるまでやめないだろう。車椅子になったとしても、まだやめずにみんなを追いかけ回すかもしれない。 オリバーは肩をすくめた。「思ってたほど悪くないよ。君もやるんだろ?」 「月曜と金曜が男女混合、水曜日がSCVAの女子チームよ。中学生女子チームのコーチもやってる」 「そうなの? 楽しそうだね。どんな調子?」 「ああ……順調だけど、六月から資金が切られるかもしれなくて」事実、水曜日の夜以降、祖母が資金を切っても驚くことではない。 「本当?」彼女のために助手席側のドアを開けながら、オリバーは立ち止まった。「いくら?」 レックスの全身は、その場でブンブンと音を立てるハチの巣に変わった。九月までに必要な金額を彼に告げた「この夏、プレイオフのために遠征するから、高いの」 エジプト人のような形の目が、思慮深そうに細くなった。「もしかしたら、何とかできるかも」 「マジで?」 「約束はできない。ちょっと考えさせて。計算してみるけど、しばらく考えてたんだ。こんなことができないかなって。悪気はないんだけど、僕のビジネスにとっても有利かもしれないから」 「もちろんよ、分かるわ」 「それに僕の牧師がいつも言うんだ。イエス様...

【ひとり寿司】第34章

→ 作品ページにもどる 第34章 「ヘーイ、レックス、友達の——」 「今はやめて、リッチ」レックスは、ドアを押えてくれているリチャードと、その痩せた男「友達」を過ぎ、足を踏み鳴らして祖母の部屋の前まで行った。 「おいおい」リチャードは、彼女が過ぎていく前に腕をさっとつかんだ。 「おばあちゃんに挨拶しなきゃ」 「ジェンのお母さんと話してる。待ってくれるよ。それで、紹介するよ——」 「こんにちは」レックスは手を出した。ミスター・スキニーは、ベタベタした手でその手を握った。 「レックスです。リチャードが何て言ったか知らないけど、私は興味ないから」キッチンへ向かった。 「レックス」ありがたいことにミスター・スキニーを居間において、リチャードが追いかけてきた。 「頼むよ、今日だけは俺に優しくしてくれ。男の子の日だから」 「違う、五月五日は『こどもの日』よ。男の子の日じゃない。つまり、あなたに親切にする必要はないって意味。一体何なのよ。あんな人たちがあんたの男友達なの?」 「誰のことだよ」リチャードは、突然、リノリウム(床の材料)に魅力を感じ出したようだ。 「まるで男性エスコートサービスね」 「ええっ?」彼の男らしさをついた一撃が、明らかに彼を突き刺したようだ。「違う。俺は社交的なんだ。お前もちょっと見習ったほうがいいぞ」 「そこらの落伍者を紹介しといて、私に説教しよう、っていうの? どんな人なのか、ほとんど知りもしないくせに」 「そんなこと、どうして分かるんだよ? 親友かもしれないだろ」 「あなたの友達はみんな見てきた。あなたみたいな人ばかりよ。居間でミスター・スキニーと一緒に死にたくないでしょ? 叔父さんのバースデー・パーティの食いしん坊もそう、それに——」 「お前の女らしい感性に訴える繊細な奴を探そうとしてるんだよ」リチャードは手を上げて、胸を押さえた。「お前のためと思ってやってるんだ」 レックスは、面と向かって兄をあざ笑った。その朝、エイデンとケンカになって以来初めての、悲しくない感情だった。「他には?」 リチャードは急いで考えようとしたが、金魚のように口を大きく開けただけだった。 「考えてる間に、おばあちゃんに挨拶してくるわ。縁を切られそうだから」 ジェニファーの両親の家の奥にあ...

【ひとり寿司】第33章

→ 作品ページにもどる 第33章 スペンサーと一緒に前の列に座ると、牧師の説教の標的になるのではないかと思ったが、牧師はエイデンのことをチラリとも見なかった。 説教は、知性ではなく心に焦点を当てていた。二週間前に話した時、牧師はエイデンの質問に対し、論理で答えたのだが、あの時とは対照的だ。 「神様は私たちを解放してくださいます」メモを見て、水を一口飲んでから続けた。「ですが、これは誰にとっても同じではありません。身体的な監禁からの解放もあれば、精神的な監禁からの解放もあります。欠点からの解放や、隠れ続けることからの解放も」 これは自分に対するメッセージではないのかと、エイデンは思った。無表情の仮面の裏に隠れ、いつも穏やかで主導権をにぎっているように見える彼の性格について話したからだ。 講壇から、牧師は会衆に指を振った。「神様はあなたを解放したいと願っています。あなた方一人一人を愛しておられます」 エイデンにとって、それは信じ難いことだった。ギデオンが一頭分の羊の毛を打ち場に置いて神様を試したように、神様に証拠を求めてみてはどうかと牧師は言っていたのだが、エイデンはどうやってそうするのかが分からなかった。 牧師が言った一つのことが、まだ彼の心の中で響いていた。(エイデン、信仰に踏み出す前に、全ての答えを見つける必要はないんだよ) 今、彼の話を聞いていると、エイデンは、判断基準が十分ではないという事実と格闘していた。そして、それが信仰というものだった。 (分かった)深く座り直した。神様への道筋をどうやって開くのかは分からないが、神様は彼のことを聞いていると仮定した。(じゃあ、僕に証明してください。信じることは約束しません。だけど聞いています。変化を見せてください) それだ。 雷鳴が響き渡る啓示(神が真理を人間にあらわし示すこと)も、花火も、感情のほとばしりもない。 それで? 変わったことは何も感じない。どうすればいいのだろう? 牧師は突然、エイデンの方を見て、説教の途中で話すのをやめた。そして、また話し出した。 何か変だった。 隣のスペンサーは横を向き、じっと彼を見た。そして、元に戻った。 ふーむ。 そして、スペンサーが横に傾いてきた。「礼拝の後、釣りに行こうよ」 「オッケー」 *****...