【ひとり寿司】第36章
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誰かと結婚するとしたら、きっと駆け落ちだ。
クスクス笑うマリコのブライズメイドの後をついて、レックスはよろめきながらパゴダブリッジ・レストランに入った。泣きわめくティキの隣で四時間立ちっぱなし——マリコはレックスを列の最後に入れてくれたから、ありがたい——抜歯と同じぐらい喜ばしい経験だった。ノボケインなしで。
(ウェディングそのものは一時間だけ。よかった)リハーサルも終わり、あとはオリバーを見つけ、四時間ぶりに椅子に座って、祖母のおごりで高価なリハーサルディナー(結婚式リハーサル後の食事会)を楽しむだけ。
あと一週間で、ブライズメイドという拷問のような任務は終わる。結婚式が来週の土曜日ではなく、明日だったらいいのに。マリコがパゴダブリッジ・レストランでリハーサルディナーをすることにこだわったので、ウェディング前日の金曜日は、レストランが空いていなかったのだ。
ビーナスが先にレックスを見つけた。「あなた、気に入らないと思うわ」
「うそ——マリコったら、私をフィッツ叔父さんの隣にしたの? 私が食べさせてあげる、ってこと?」
「もっと良くない。あなたはトリッシュとジェンと一緒で、私は違うテーブルなの」
眼球の後ろで頭痛が爆発し、レックスは目を閉じた。「オリバーをつかまえて、帰ろうかな」
「手遅れよ、彼はもう食べ始めてる。もっとひどくなるわ」
「もっとひどくなるって、どういうこと?」
「ミミがいるの——」
「だけど、ミミとは最近うまく付き合ってるわ。少しは」
「あの子、エイデンをパートナーに連れてきたわ」
うっ。それはかなり最悪だ。突然、トリッシュとジェニファーのことはどうでもいいように思えてきた。「エイデンと会ったことなんて——」
ビーナスはうなずいた。「もう遅い。同じよ」
それは素晴らしい。レックスは食事を楽しむことなどできないだろう。ある男性との時間を楽しもうとしている一方で、本当は別の男性といたい。だけどその人はクリスチャンじゃないから、一週間、会うのを避けてきた。だけどこの五日間、毎晩その人とキスすることを夢見ている。
レックスは丸テーブルが嫌いだ。元気よく春巻をつつくオリバーと、お尻の軽いミミと楽しそうにしゃべるエイデンとの間で、押しつぶされそうだ。
レックスは、オリバーに笑いかけ、エイデンとミミの方はチラリとも見ずに座っていた。ラッキーなことに、トリッシュとジェンも——二人ともパートナーを連れてきていない——レックスと目を合わせるのを避けているようだった。
「はい、レックス」オリバーが春巻を回してくれた。「餃子も食べてみて——僕の祖母の味に似てる」
すると祖母が彼らのテーブルを過ぎていった。饗宴を監視する貴婦人のように。まず、八人がけのテーブルに集まっている叔父と叔母に温かい微笑みを送った。そして、ジェニファーとトリッシュに優雅に微笑み、二人は弱々しくニヤッとした。ミミにはわざとらしく微笑んだ。多分、彼女の消防車のように赤く、胸の割れ目を見せているピチピチのブラウスのせいだろう。
エイデンが礼儀正しく会釈すると、祖母の眉にしわが寄った。レックスは飛び越え——驚くことではない——興味深げにオリバーを見て、行ってしまった。
息を止めていたことにも気づかず、レックスは息を吐いた。オリバーがいても、祖母は彼女をいじめるために資金を切るのだろうか。二人が真剣に付き合うことになれば、祖母がいなくても彼が資金を援助してくれるだろう。それに彼は、好きになれないようなタイプでもなかった。
別のテーブルに、ウェイターがデザートを並べた——アイシング(飾りの糖衣)が一杯ついた小さい正方形のケーキ。ミミが立ち上がってケーキを取りに行ったので、レックスも後を追った。
「ねえ、エイデンのこと知ってたの?」レックスの声は、ちょっと悲しそうに聞こえただろうか? それとも、やきもち? 中傷気味?
ミミはケーキのスライスを見渡す前に、眉毛を釣り上げてレックスを見た。
「覚えてない? 手術の後、あなたのアパートへ行った時に会ったのよ」
ああ、あの惨めに横になってた時か。記憶が少し不鮮明だった。それとも、心があの時の記憶を締め出そうとしてるのかも。
ミミは、一切れのケーキのアイシングに指を突っ込み、なめた。「そうなの、メール交換してるのよ」別のケーキを取った。「彼ってキュートだと思わない?」飛び跳ねるように行ってしまった。
キュート? あの下品な顔にあのケーキを塗りたくったら、キュートだろう。
エイデンはキュートじゃない。嘘つきで、ずるく、高慢な裏切り者のゴキブリだ。そして、レックスは彼とキスすることを夢見ている。
「レックス」トリッシュが後ろから忍び寄ってきた。細い髪の毛の束を耳の後ろにかけ、ケーキを見渡している。レストランの照明のために、目の下のくまが、使用済みのリプトン・ティーバッグより大きく見えた。さっと瞬きして、心配そうにレックスを見た。
「彼氏は?」レックスは、トゲのある口調を和らげなかった。
「別れたわ」パーティの騒音のために、トリッシュの声はほとんど消された。
「それは残念ね」皮肉な言い方をしないように頑張った——本当に——しかし、惨めにも失敗した。
トリッシュは身構えた。「あなたに男がいて、私はいないから、今は、あなたの方が偉いわね。私は一人でもいいけど、あなたは、あなたのことを風変わりだと思わない人を探すのに必死だったものね」
レックスは鼻をふくらませた。「私はね、いつ教会へ行くべきだとか、友達と時間を過ごすべきだとか私に指示する人じゃなくて、私を尊重してくれる人を探したの——」
トリッシュはすすり泣き、大広間から走り出て、女性用トイレのドアをバンと開けた。テーブルでは、彼女が逃げていくのをジェニファーが見ていて、レックスに非難の目を送った。立ち上がって、トリッシュを追いかけた。
ここから出たい。レックスが反対方向を向くとレストランの裏にある、日本庭園に続くガラスのドアが見えた。
夜の空気はひんやりしていたが、彼女の怒りは冷めなかった。途中でシダの葉をピシャッとたたき、コイの池にかかった橋の方へと通路をどんどん歩いていった。
石の橋は、肌寒さを発散していた。レックスは身震いしたが、アーチを登って真ん中に立った。
「レックス」
最初、その声はエイデンだと思った。いや違う、オリバーだ。「君があの女の子と言い合ってて、こっちに向かったのを見たんだ。誰かいた方がいいかなと思って」
別に。だけど気がつくということは、彼はとても繊細な人だ。何故レックスは、彼にもっと感謝できないのだろう? 何故、彼のことをもっと好きになれないのだろうか?
オリバーは近くに来た。手が彼女の腕を軽くかすめた。「冷たくなってるよ」自分のスポーツジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけてくれた。
ああ、なんて気が利く人だろう。しかしその時、彼は彼女の腰に手を回してきた。
レックスは深呼吸して、筋肉を無理やりリラックスさせようとした。まずいことになってしまった。暗闇、親密さ。普段なら、このような状況に自分を置くことはしなかった。
しかし、これはオリバーだ。ボーイフレンド兼バレーボールのスポンサーになるかもしれない人だ。すでにキスも許した。こんなこと、何でもないはずだ。
どうしても、リラックスできなかった。
オリバーはレックスの緊張を勘違いして、彼女をもっと近くに引き寄せ、顔を自分の方に向けさせた。彼の口が彼女の口に降りてきた。
悪くはなかった——彼女が期待していたよりも、ちょっと強かったが。彼の手は、彼女の脇をもむようにさわっていた——これも、彼女が期待してたよりちょっと強かった。彼女が安心できるレベルを超えて、二人はエスカレートしていった。彼女は抑えようとしたが、その手は彼の指関節の上で横滑りした。彼は、彼女が期待している以上に彼女を近くに引き寄せた。
彼のキスは深くなり、その息が彼女の皮膚に当たる。違う、彼女はこんなことをしたくなかった。鳥肌が立ってきた——さわられ過ぎて。これ以上、さわられたくなかった。レックスにとって、これは非常に困難なことだった。まだ心構えができていなかったのだ。彼女は彼のキスから離れた。
「やめて、オリバー」
彼はまた唇を押しつけてきた。彼女は頭をねじり、彼を押した。「やめて」
「ああベイビー」彼は石の手すりに彼女を押し、体をくっつけてきた。
彼は彼女を捕らえた。彼女の体をなで回した。彼女はもがいたが、そうすると彼はもっと燃え上がるようだった。彼女の手首をつかみ、手すりに押しつけた。
「やめて、オリバー!」
「いつも君がリードできるとは思わないで」もっと押さえつけられて、息ができない。
(ああ神様、お願いです。助けてください)彼女は自分自身の中に縮み込み、一瞬、八年前に戻っていた。ほんの一瞬。
レックスは、思わず抵抗していた。かかとでオリバーの足の甲を思いっきり踏んだ。彼が一歩下がってかがむと、膝で彼の鼻を蹴り上げた。そして、彼を突き飛ばした。
レックスはヨタヨタと橋を下り、左に曲がって庭園から出る門に向かい、駐車場に出ようとした。門にぶつかり、掛け金をいじり回した。門を強く引いて開け、よろめきながら外に出た。
セメントの階段にヒビが入っているとは思わなかった。足をひねった。背中をひねった。膝をひねった——右膝を。
(ポン)
痛みのほとばしり。膝関節で水風船が爆発するように。
(嫌だ)
(嫌だ、嫌だ、嫌だ)
(神様、やめて)
(お願いです。やめてください)
(お願い)
レックスは曲げた脚をつかみ、膝を爪で引っかいた。関節が腫れ上がってくるのを止めることができるかのように。手を伸ばして、切れた靭帯を元に戻すことができるかのように。やってしまったことを、やってないようにできるかのように。
(ああ、神様)
叫んだ。音を出さずに叫んでいた。見えない。涙が暗闇と混ざり、ぼやけてきた。痛みは弱くなった。皮膚の中の小さいうずきを残して。
(ああ、神様)
(レックス、私はここにいる)
胸がつぶれた。うずくような痛みは硬くなった喉を過ぎて、鼻から、目から流れ出た。大きく開いた口から、叫び声が溢れ出た。
神様、彼女は何を間違えたのでしょうか? 何故、こんなことが起きてしまったのでしょうか? 彼女は、とても疲れていました。疲れ切っていました。
(休みなさい)
突然、自分に巻かれた腕を感じた。レックスは抱かれていた。
耳の中のごう音は、窓の網戸をなでるフジの花のように、ささやきに変わった。心臓は脈打ち、締めつけられ、そして解放された。温かみが、胸から腕全体に、そしてお腹の中まで広がった。
濡れた目で見上げた。誰もいないのに、まだ誰かの腕に抱かれている気がした。手が頭の上に置かれた。目を閉じた。
熱い涙が膝に落ち、脚を伝ってきた。砂利がお尻にささる。コオロギが鳴いていた。そよ風が涙をにがし、顔を冷やした。
サンダルでジャリを踏む音が近づいてきた。
「レックス!」
顔を上げた。ミミの顔が目の前にあった。違う、ミミは、いやだ。ミミは、嫌だ。ビーナスはどこだろう? トリッシュは? ジェンは?
「ビーナスを呼んでくる」行ってしまった。ミミは行ってしまった。(だめ、帰ってきて。一人にしないで)
レックスは一人じゃなかった。その腕は、まだ彼女を抱きかかえていた。
「レックス!」
ミミが三人のいとこを連れてきた。ビーナスが走り寄ってきて、レックスが手で膝を抱えているのを見た。「大変、神様」ささやき、そして祈り。ビーナスはレックスの肩に触れた。
レックスは激しく震えた。皮膚は、日焼けをしたように痛い。(ダメ、さわらないで)
「レックス、どこが痛いの?」ビーナスの手が彼女の上でさまよっていた。
トリッシュはビーナスの手を引っ張って、ミミの方を向いた。「エイデンを呼んできて」
「どうしてエイデン?」
トリッシュは、レックスの無感覚な眼差しから目を離さなかった。
「彼はレックスのセラピストなの。何週間もこの子をさわってる。エイデンじゃなきゃダメよ」
ジェニファーがレックスの前にひざまずいた。そこに座り、彼女にささやき、近くにいてくれる。トリッシュが何かビーナスにささやいた。
(彼らがレイプのことを知ったからって、何だって言うの?)その言葉を思うだけで震えがきた。(何年も前のことよ。もうどうだっていい。どうなってもいいわ)
彼女らのささやきが聞こえてきた。「そんなことが起こったって、どうして分かるの?」
トリッシュの答えは断固としていた。
「推論するとね、オリバーは彼女を追いかけていったけど、戻ってきたときは一人だった。レックスは早く走ろうとして怪我をした。そして、今は、誰にもさわられたくない。私たちにも。あの時と全く同じなの」
あの時。レックスはあの時のことを思い出すこともできなかった。
ジェニファーが砂利の上で動いた。素足が痛いのだろう。近くに傾いてきた。そしてレックスは、彼女が祈っているのに気がついた。
突然、安堵を感じた。
また砂利の音。深い声——男性の声だ。「どうしたの?」
トリッシュがささやいた。「八年ぐらい前のことだけど……」
返事がない。
レックスの筋肉は動かなくなった。石のように硬い。彼女の肩は震え始めた。呼吸をするのも困難だった。
ジェニファーが一歩下がった。レックスの上に影が出来た。体を丸くした。
「レックス、僕の車に運ぶからね」エイデンの声だった。優しい。心地よい。しかし、リラックスできなかった。
すると彼は、膝を曲げて近くに来た。彼女はそのにおいをかいだ。石けん、モミ、そして一筋のジャコウ。そのにおいを覚えていた。彼の手の柔らかい圧迫で痛みが和らいだのを、覚えていた。
彼の手が背中に触れた。他方の腕は足の下に。そのにおいが彼女の肺を満たし、彼女を包んだ。背筋は緩んだ。
「レックス、僕の首に腕を回して」彼女は言われた通りにして、強いモミとジャコウのにおいを吸い込んだ。鎮静薬のように、それは彼女の体、筋肉に流れ込み、緊張をときほぐした。
エイデンがレックスを持ち上げると、皮膚に跡をつけていた砂利が落ちた。少し揺らして握り方を調整し、もっとしっかりと彼女の体に腕を巻いた。そして、車と車の間を通って歩いていった。
彼女は目を閉じ、息を吸った。
エイデンは自分の車までレックスを連れて行き、いとこ達は後に続いた。レックスのシートベルトをつけた。
ビーナス、トリッシュ、ミミ、ジェニファーは、開いた助手席のドアの周りに集まっていた。
「エイデン、お父さんの家に連れていってあげて」
そう、レックスは父親を必要としている。
「お父さんとお兄さんを探してくる」ミミが走っていった。
「おばあちゃんは?」トリッシュは眉をひそめた。「いろいろ聞かれたくないわ」
「おばあちゃんのことは私に任せて」ジェニファーが背筋を伸ばした。レックスは、その背中に強靭な態度を見て取った。彼女の目はチラチラ周りを見ることなく、真っ直ぐにトリッシュを見ていた。
「それから……」トリッシュの口がかたく横に引っ張られた。
ビーナスの目はドラゴンのように光っていた。「リチャードには私が言う。言っといた方がいいわ」
「行こう」トリッシュは、エイデンの車の後部席に乗り込んだ。
トリッシュが、父のアパートまで案内した。父とメアリーは、彼らが到着してから一分後に着いた。エイデンがレックスを居間まで運び、ソファの上に寝かせた。
父は歳を重ね、口と手にシワが沢山あった。何も言わず、レックスと一緒にソファに座った。メアリーが何かつぶやいているのが聞こえたが、その後、父とレックスだけになった。父は、レックスに触れなかった。
あの時も、父は彼女に触れなかった。
一度目の襲撃の後、彼女は磁器製の能面のようにかたい顔で、叫びたくなるほど緊張させた輪ゴムの塊のような体で座っていた。単音節でしゃべり、誰にもさわって欲しくなかった。
今回は、違った。もっとひどいことになってたかもしれない。唇を噛んだ。
父はソファの上で少しずれた。そして、手を伸ばしてレックスの指に触れた。
彼女は手を前に出して、父の手をつかんだ。
父はそれをかたく握った。指の感覚がなくなってきて、骨が折れそうな気がしたが、抵抗しなかった。涙が頬を伝って落ちた。
そして、泣き出した。腕を父に伸ばし、昔のように、彼のシャツに顔を埋めた。父は手を回し、彼女はその手に抱かれていた。
(私はここだよ)
(ああ、神様。本当に、ごめんなさい)
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第36章
誰かと結婚するとしたら、きっと駆け落ちだ。
クスクス笑うマリコのブライズメイドの後をついて、レックスはよろめきながらパゴダブリッジ・レストランに入った。泣きわめくティキの隣で四時間立ちっぱなし——マリコはレックスを列の最後に入れてくれたから、ありがたい——抜歯と同じぐらい喜ばしい経験だった。ノボケインなしで。
(ウェディングそのものは一時間だけ。よかった)リハーサルも終わり、あとはオリバーを見つけ、四時間ぶりに椅子に座って、祖母のおごりで高価なリハーサルディナー(結婚式リハーサル後の食事会)を楽しむだけ。
あと一週間で、ブライズメイドという拷問のような任務は終わる。結婚式が来週の土曜日ではなく、明日だったらいいのに。マリコがパゴダブリッジ・レストランでリハーサルディナーをすることにこだわったので、ウェディング前日の金曜日は、レストランが空いていなかったのだ。
ビーナスが先にレックスを見つけた。「あなた、気に入らないと思うわ」
「うそ——マリコったら、私をフィッツ叔父さんの隣にしたの? 私が食べさせてあげる、ってこと?」
「もっと良くない。あなたはトリッシュとジェンと一緒で、私は違うテーブルなの」
眼球の後ろで頭痛が爆発し、レックスは目を閉じた。「オリバーをつかまえて、帰ろうかな」
「手遅れよ、彼はもう食べ始めてる。もっとひどくなるわ」
「もっとひどくなるって、どういうこと?」
「ミミがいるの——」
「だけど、ミミとは最近うまく付き合ってるわ。少しは」
「あの子、エイデンをパートナーに連れてきたわ」
うっ。それはかなり最悪だ。突然、トリッシュとジェニファーのことはどうでもいいように思えてきた。「エイデンと会ったことなんて——」
ビーナスはうなずいた。「もう遅い。同じよ」
それは素晴らしい。レックスは食事を楽しむことなどできないだろう。ある男性との時間を楽しもうとしている一方で、本当は別の男性といたい。だけどその人はクリスチャンじゃないから、一週間、会うのを避けてきた。だけどこの五日間、毎晩その人とキスすることを夢見ている。
レックスは丸テーブルが嫌いだ。元気よく春巻をつつくオリバーと、お尻の軽いミミと楽しそうにしゃべるエイデンとの間で、押しつぶされそうだ。
レックスは、オリバーに笑いかけ、エイデンとミミの方はチラリとも見ずに座っていた。ラッキーなことに、トリッシュとジェンも——二人ともパートナーを連れてきていない——レックスと目を合わせるのを避けているようだった。
「はい、レックス」オリバーが春巻を回してくれた。「餃子も食べてみて——僕の祖母の味に似てる」
すると祖母が彼らのテーブルを過ぎていった。饗宴を監視する貴婦人のように。まず、八人がけのテーブルに集まっている叔父と叔母に温かい微笑みを送った。そして、ジェニファーとトリッシュに優雅に微笑み、二人は弱々しくニヤッとした。ミミにはわざとらしく微笑んだ。多分、彼女の消防車のように赤く、胸の割れ目を見せているピチピチのブラウスのせいだろう。
エイデンが礼儀正しく会釈すると、祖母の眉にしわが寄った。レックスは飛び越え——驚くことではない——興味深げにオリバーを見て、行ってしまった。
息を止めていたことにも気づかず、レックスは息を吐いた。オリバーがいても、祖母は彼女をいじめるために資金を切るのだろうか。二人が真剣に付き合うことになれば、祖母がいなくても彼が資金を援助してくれるだろう。それに彼は、好きになれないようなタイプでもなかった。
別のテーブルに、ウェイターがデザートを並べた——アイシング(飾りの糖衣)が一杯ついた小さい正方形のケーキ。ミミが立ち上がってケーキを取りに行ったので、レックスも後を追った。
「ねえ、エイデンのこと知ってたの?」レックスの声は、ちょっと悲しそうに聞こえただろうか? それとも、やきもち? 中傷気味?
ミミはケーキのスライスを見渡す前に、眉毛を釣り上げてレックスを見た。
「覚えてない? 手術の後、あなたのアパートへ行った時に会ったのよ」
ああ、あの惨めに横になってた時か。記憶が少し不鮮明だった。それとも、心があの時の記憶を締め出そうとしてるのかも。
ミミは、一切れのケーキのアイシングに指を突っ込み、なめた。「そうなの、メール交換してるのよ」別のケーキを取った。「彼ってキュートだと思わない?」飛び跳ねるように行ってしまった。
キュート? あの下品な顔にあのケーキを塗りたくったら、キュートだろう。
エイデンはキュートじゃない。嘘つきで、ずるく、高慢な裏切り者のゴキブリだ。そして、レックスは彼とキスすることを夢見ている。
「レックス」トリッシュが後ろから忍び寄ってきた。細い髪の毛の束を耳の後ろにかけ、ケーキを見渡している。レストランの照明のために、目の下のくまが、使用済みのリプトン・ティーバッグより大きく見えた。さっと瞬きして、心配そうにレックスを見た。
「彼氏は?」レックスは、トゲのある口調を和らげなかった。
「別れたわ」パーティの騒音のために、トリッシュの声はほとんど消された。
「それは残念ね」皮肉な言い方をしないように頑張った——本当に——しかし、惨めにも失敗した。
トリッシュは身構えた。「あなたに男がいて、私はいないから、今は、あなたの方が偉いわね。私は一人でもいいけど、あなたは、あなたのことを風変わりだと思わない人を探すのに必死だったものね」
レックスは鼻をふくらませた。「私はね、いつ教会へ行くべきだとか、友達と時間を過ごすべきだとか私に指示する人じゃなくて、私を尊重してくれる人を探したの——」
トリッシュはすすり泣き、大広間から走り出て、女性用トイレのドアをバンと開けた。テーブルでは、彼女が逃げていくのをジェニファーが見ていて、レックスに非難の目を送った。立ち上がって、トリッシュを追いかけた。
ここから出たい。レックスが反対方向を向くとレストランの裏にある、日本庭園に続くガラスのドアが見えた。
夜の空気はひんやりしていたが、彼女の怒りは冷めなかった。途中でシダの葉をピシャッとたたき、コイの池にかかった橋の方へと通路をどんどん歩いていった。
石の橋は、肌寒さを発散していた。レックスは身震いしたが、アーチを登って真ん中に立った。
「レックス」
最初、その声はエイデンだと思った。いや違う、オリバーだ。「君があの女の子と言い合ってて、こっちに向かったのを見たんだ。誰かいた方がいいかなと思って」
別に。だけど気がつくということは、彼はとても繊細な人だ。何故レックスは、彼にもっと感謝できないのだろう? 何故、彼のことをもっと好きになれないのだろうか?
オリバーは近くに来た。手が彼女の腕を軽くかすめた。「冷たくなってるよ」自分のスポーツジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけてくれた。
ああ、なんて気が利く人だろう。しかしその時、彼は彼女の腰に手を回してきた。
レックスは深呼吸して、筋肉を無理やりリラックスさせようとした。まずいことになってしまった。暗闇、親密さ。普段なら、このような状況に自分を置くことはしなかった。
しかし、これはオリバーだ。ボーイフレンド兼バレーボールのスポンサーになるかもしれない人だ。すでにキスも許した。こんなこと、何でもないはずだ。
どうしても、リラックスできなかった。
オリバーはレックスの緊張を勘違いして、彼女をもっと近くに引き寄せ、顔を自分の方に向けさせた。彼の口が彼女の口に降りてきた。
悪くはなかった——彼女が期待していたよりも、ちょっと強かったが。彼の手は、彼女の脇をもむようにさわっていた——これも、彼女が期待してたよりちょっと強かった。彼女が安心できるレベルを超えて、二人はエスカレートしていった。彼女は抑えようとしたが、その手は彼の指関節の上で横滑りした。彼は、彼女が期待している以上に彼女を近くに引き寄せた。
彼のキスは深くなり、その息が彼女の皮膚に当たる。違う、彼女はこんなことをしたくなかった。鳥肌が立ってきた——さわられ過ぎて。これ以上、さわられたくなかった。レックスにとって、これは非常に困難なことだった。まだ心構えができていなかったのだ。彼女は彼のキスから離れた。
「やめて、オリバー」
彼はまた唇を押しつけてきた。彼女は頭をねじり、彼を押した。「やめて」
「ああベイビー」彼は石の手すりに彼女を押し、体をくっつけてきた。
彼は彼女を捕らえた。彼女の体をなで回した。彼女はもがいたが、そうすると彼はもっと燃え上がるようだった。彼女の手首をつかみ、手すりに押しつけた。
「やめて、オリバー!」
「いつも君がリードできるとは思わないで」もっと押さえつけられて、息ができない。
(ああ神様、お願いです。助けてください)彼女は自分自身の中に縮み込み、一瞬、八年前に戻っていた。ほんの一瞬。
レックスは、思わず抵抗していた。かかとでオリバーの足の甲を思いっきり踏んだ。彼が一歩下がってかがむと、膝で彼の鼻を蹴り上げた。そして、彼を突き飛ばした。
レックスはヨタヨタと橋を下り、左に曲がって庭園から出る門に向かい、駐車場に出ようとした。門にぶつかり、掛け金をいじり回した。門を強く引いて開け、よろめきながら外に出た。
セメントの階段にヒビが入っているとは思わなかった。足をひねった。背中をひねった。膝をひねった——右膝を。
(ポン)
痛みのほとばしり。膝関節で水風船が爆発するように。
(嫌だ)
(嫌だ、嫌だ、嫌だ)
(神様、やめて)
(お願いです。やめてください)
(お願い)
レックスは曲げた脚をつかみ、膝を爪で引っかいた。関節が腫れ上がってくるのを止めることができるかのように。手を伸ばして、切れた靭帯を元に戻すことができるかのように。やってしまったことを、やってないようにできるかのように。
(ああ、神様)
叫んだ。音を出さずに叫んでいた。見えない。涙が暗闇と混ざり、ぼやけてきた。痛みは弱くなった。皮膚の中の小さいうずきを残して。
(ああ、神様)
(レックス、私はここにいる)
胸がつぶれた。うずくような痛みは硬くなった喉を過ぎて、鼻から、目から流れ出た。大きく開いた口から、叫び声が溢れ出た。
神様、彼女は何を間違えたのでしょうか? 何故、こんなことが起きてしまったのでしょうか? 彼女は、とても疲れていました。疲れ切っていました。
(休みなさい)
突然、自分に巻かれた腕を感じた。レックスは抱かれていた。
耳の中のごう音は、窓の網戸をなでるフジの花のように、ささやきに変わった。心臓は脈打ち、締めつけられ、そして解放された。温かみが、胸から腕全体に、そしてお腹の中まで広がった。
濡れた目で見上げた。誰もいないのに、まだ誰かの腕に抱かれている気がした。手が頭の上に置かれた。目を閉じた。
熱い涙が膝に落ち、脚を伝ってきた。砂利がお尻にささる。コオロギが鳴いていた。そよ風が涙をにがし、顔を冷やした。
サンダルでジャリを踏む音が近づいてきた。
「レックス!」
顔を上げた。ミミの顔が目の前にあった。違う、ミミは、いやだ。ミミは、嫌だ。ビーナスはどこだろう? トリッシュは? ジェンは?
「ビーナスを呼んでくる」行ってしまった。ミミは行ってしまった。(だめ、帰ってきて。一人にしないで)
レックスは一人じゃなかった。その腕は、まだ彼女を抱きかかえていた。
「レックス!」
ミミが三人のいとこを連れてきた。ビーナスが走り寄ってきて、レックスが手で膝を抱えているのを見た。「大変、神様」ささやき、そして祈り。ビーナスはレックスの肩に触れた。
レックスは激しく震えた。皮膚は、日焼けをしたように痛い。(ダメ、さわらないで)
「レックス、どこが痛いの?」ビーナスの手が彼女の上でさまよっていた。
トリッシュはビーナスの手を引っ張って、ミミの方を向いた。「エイデンを呼んできて」
「どうしてエイデン?」
トリッシュは、レックスの無感覚な眼差しから目を離さなかった。
「彼はレックスのセラピストなの。何週間もこの子をさわってる。エイデンじゃなきゃダメよ」
ジェニファーがレックスの前にひざまずいた。そこに座り、彼女にささやき、近くにいてくれる。トリッシュが何かビーナスにささやいた。
(彼らがレイプのことを知ったからって、何だって言うの?)その言葉を思うだけで震えがきた。(何年も前のことよ。もうどうだっていい。どうなってもいいわ)
彼女らのささやきが聞こえてきた。「そんなことが起こったって、どうして分かるの?」
トリッシュの答えは断固としていた。
「推論するとね、オリバーは彼女を追いかけていったけど、戻ってきたときは一人だった。レックスは早く走ろうとして怪我をした。そして、今は、誰にもさわられたくない。私たちにも。あの時と全く同じなの」
あの時。レックスはあの時のことを思い出すこともできなかった。
ジェニファーが砂利の上で動いた。素足が痛いのだろう。近くに傾いてきた。そしてレックスは、彼女が祈っているのに気がついた。
突然、安堵を感じた。
また砂利の音。深い声——男性の声だ。「どうしたの?」
トリッシュがささやいた。「八年ぐらい前のことだけど……」
返事がない。
レックスの筋肉は動かなくなった。石のように硬い。彼女の肩は震え始めた。呼吸をするのも困難だった。
ジェニファーが一歩下がった。レックスの上に影が出来た。体を丸くした。
「レックス、僕の車に運ぶからね」エイデンの声だった。優しい。心地よい。しかし、リラックスできなかった。
すると彼は、膝を曲げて近くに来た。彼女はそのにおいをかいだ。石けん、モミ、そして一筋のジャコウ。そのにおいを覚えていた。彼の手の柔らかい圧迫で痛みが和らいだのを、覚えていた。
彼の手が背中に触れた。他方の腕は足の下に。そのにおいが彼女の肺を満たし、彼女を包んだ。背筋は緩んだ。
「レックス、僕の首に腕を回して」彼女は言われた通りにして、強いモミとジャコウのにおいを吸い込んだ。鎮静薬のように、それは彼女の体、筋肉に流れ込み、緊張をときほぐした。
エイデンがレックスを持ち上げると、皮膚に跡をつけていた砂利が落ちた。少し揺らして握り方を調整し、もっとしっかりと彼女の体に腕を巻いた。そして、車と車の間を通って歩いていった。
彼女は目を閉じ、息を吸った。
エイデンは自分の車までレックスを連れて行き、いとこ達は後に続いた。レックスのシートベルトをつけた。
ビーナス、トリッシュ、ミミ、ジェニファーは、開いた助手席のドアの周りに集まっていた。
「エイデン、お父さんの家に連れていってあげて」
そう、レックスは父親を必要としている。
「お父さんとお兄さんを探してくる」ミミが走っていった。
「おばあちゃんは?」トリッシュは眉をひそめた。「いろいろ聞かれたくないわ」
「おばあちゃんのことは私に任せて」ジェニファーが背筋を伸ばした。レックスは、その背中に強靭な態度を見て取った。彼女の目はチラチラ周りを見ることなく、真っ直ぐにトリッシュを見ていた。
「それから……」トリッシュの口がかたく横に引っ張られた。
ビーナスの目はドラゴンのように光っていた。「リチャードには私が言う。言っといた方がいいわ」
「行こう」トリッシュは、エイデンの車の後部席に乗り込んだ。
トリッシュが、父のアパートまで案内した。父とメアリーは、彼らが到着してから一分後に着いた。エイデンがレックスを居間まで運び、ソファの上に寝かせた。
父は歳を重ね、口と手にシワが沢山あった。何も言わず、レックスと一緒にソファに座った。メアリーが何かつぶやいているのが聞こえたが、その後、父とレックスだけになった。父は、レックスに触れなかった。
あの時も、父は彼女に触れなかった。
一度目の襲撃の後、彼女は磁器製の能面のようにかたい顔で、叫びたくなるほど緊張させた輪ゴムの塊のような体で座っていた。単音節でしゃべり、誰にもさわって欲しくなかった。
今回は、違った。もっとひどいことになってたかもしれない。唇を噛んだ。
父はソファの上で少しずれた。そして、手を伸ばしてレックスの指に触れた。
彼女は手を前に出して、父の手をつかんだ。
父はそれをかたく握った。指の感覚がなくなってきて、骨が折れそうな気がしたが、抵抗しなかった。涙が頬を伝って落ちた。
そして、泣き出した。腕を父に伸ばし、昔のように、彼のシャツに顔を埋めた。父は手を回し、彼女はその手に抱かれていた。
(私はここだよ)
(ああ、神様。本当に、ごめんなさい)
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