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【オンリー・ウニ】第6章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第6章  トリッシュの上司が「アジア人の時間感覚」を持つ人だったら、細胞培養室の壁時計が十分過ぎていても、会議の時間に間に合ったのに。だけど、ダイアナはアジア系アメリカ人の冗談を面白いと思う人ではない。  トリッシュはニトリル手袋を引っ張り抜き、バイオハザードの容器に入れた。正月休暇が終わった後の初出勤日はいつも忙しいものだ――ダイアナは分かってくれるはず。細胞培養室のドアまで走る途中、たまたまその容器が目に入った。困った、がん細胞に寄生された手袋は容器に入らなかったようだ。トリッシュはキーッと音を立てて止まり、振り返って、手袋の親指と人差し指の間の清潔な部分をつまみ上げて、赤いプラスチックの袋に落とした。  トリッシュはドアをバタンと閉めて、オフィスを出た。ラボ用白衣を引き剥がすように脱ぎ、シンクまでダッシュした。シンクの取っ手を回すと、細い蛇口から水がほとばしり、顔に飛んだ。  ツバを吐き、頭を振って、手を洗うために水量を減らした。手を拭こうとしてペーパータオルを引っ張ると、ほんの小さい一切れだけを切り落としてしまい、もう一度つかむとバサっと大量に出てきてしまった。おバカなタオルディスペンサー。ああそれに、おバカな水は、トリッシュの新しいブラウスにもはねていた。水のシミをこすり、ラボのドアを出て、廊下を走った。  あまりに早くオフィスに突進したトリッシュは、キュービクルの壁に当たって跳ね返り、誰もいない机にぶつかった。横滑りするように、その机の角を回った。ペンとカレンダーをつかもうとして落としてしまった。ペーパータオルは、そこら中に飛んで行った。  ドアを通って階段の吹き抜けにぶつかってから、階段を飛ぶように上がった。三階に着く頃には、息は苦しく、次の呼吸とともに口から肺が飛び出るのが見えるような気がした。カーペットが張られた廊下を進み、会議室まで走った。  ドアの外で、トリッシュは時計をチラッと見た。ゆがんだ顔で、重いオーク製のドアをそっと開け、中をのぞいた。  四組の目が、だんだん近づいてきた。  マズい。「申し訳ありません。今朝、細胞の解凍に問題がありまして」  上司のダイアナは、...

【オンリー・ウニ】第5章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第5章  生物学者の仕事は決して終わらない。  普段の週日か休日かにお構いなく、がん細胞は急激に増殖する。新年だというのに、トリッシュは病院を出てからほんの数時間後、バレー製薬の細胞培養室でダメージコントールをしていた。  正月の週末中に二台のインキュベータが動かなくなってしまわなければ、それほど悪くなかったのかもしれない。  その結果、トリッシュがやっていた研究のうち三つがダメになり、まだ生きている細胞を救出するために、一日中仕事をする羽目になった。上司のダイアナは、自分の上司が待っていた研究結果がバイオハザード用のゴミ箱に行く結果になってしまったので、機嫌が悪かった。トリッシュは、ストレスの上に緊急事態が積み重なり、睡眠不足がそれに追い討ちをかけた。  しかし、ジェニファーが作るダークチョコレート・トリュフで解決できないものは、何もない。  やっと仕事が終わり、家でリラックスしながら、トリッシュは居間のソファに深くすわり、チョコレートがついた指をなめ、閉じられた聖書を置いた膝を見つめた。先延ばしにしていたのであるが、行動に移すことができないでいた。緊張のために、手、足、みぞおちのあたりが震えた。あるいは眠れない夜と忙しい一日のために、エネルギーを費やしすぎたのかもしれない。  カウンターの上に置いてある金魚鉢の中でのんきに過ごす金魚を見つめた。何匹目のゴンゾウだろうか――トリッシュは、自分の金魚を全て、お気に入りのマペット(セサミストリートに出る操り人形)の名前で呼んでいた。  アパートの外で、マウンテンビューからサニーベール方向へ進む電車の音が聞こえた。何時だろう? ルームメイトのマーニーはもうすぐ帰ってくるだろうか? 会社へ行く前に着替えようと少しの間うちに戻ったとき、マーニーはもういなかった。パロアルトまでの通勤時間は短いから、立ち寄れてよかった――。  夕食はどうしよう。疲れ過ぎて料理はできない。外食にしようか――キャストロ通りにはいいレストランがたくさんある――だけど、一人で食べたくない。それに、マーニーがうちにいたとしても、彼女を誘うのはいやだ――マーニーと仲良くなろうとするのは...

【オンリー・ウニ】第4章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第4章  トリッシュは、病院のにおいが大嫌いだった。空中にただよう重苦しい空気は、タバコの煙や安い香水のように消すのが難しい。肺が詰まり、吐きそうになった。  いとこ達はこちらに向かっているから、二〇分以内には到着するだろう。もっと早く来られないものだろうか。一人のいとこには手を握ってもらい、もう一人には看護師や医師と話をしてもらい、書類記入と、父との連絡を試みるのも、誰かに頼みたい。  ああそれに、彼女のRAV4を駐車し直した方がいいだろう。何も考えていなかったとは言え、入り口の真ん前に停めてしまった。なるべく端の方に停めようとしたのだが。  トリッシュは腕をさすり続けた。寒かったのと、筋肉の痛みを和らげるためだった。寝室から車までの短い距離だったのに、この小柄な母がこんなに重いとは。あるいは、トリッシュが軟弱なだけなのかもしれない。ミス体脂肪一八%のレックスだったら、筋肉の緊張度が足りないとか何とか言っただろう。でも、少なくとも、たくましい救急隊員に指図して、母を緊急治療室まで運ぶことができた。あの救急隊員の人たちはどこだろう? かわいかったな……。 (ちょっと! あんたの頭には男しかいないの? 神様が聞いてるわよ)  結局、元カレと(また)姦淫を犯した二日後に、こういう事態に突き落とされたのは、そこに因果関係があるのではないだろうか?  トリッシュは、その姦淫という言葉が好きだった。汚れ、不快で、惨めに思え、まさに今は、そんな気持ちになりたかった。  結局こうなってしまったのは、自分のせいではないか? 自分はムチで打たれるのにふさわしい。映画「パッション」で見たむごたらしい映像が浮かんだ。  スイングドアがシュッと開き、父が不意に入って来た。巻き毛が乱れている。とても穏やかな顔つきだったので、トリッシュはその冷静な顔をひっかきたくなった。 「どこにいたの? 何度も電話したのに!」その声は、ガラスが砕けそうなほど高くなった。心では落ち着こうとしているのだが、口はこう動いた。「携帯に電話するたびに、真っすぐ留守電に入っちゃうって、どういうこと?」 「ちょっと前までオフにしてたんだ。今は...

【オンリー・ウニ】第3章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第3章 「チャンキーモンキー、ないんだって」 「チェリーガルシアも」  トリッシュは冷凍ケースを揺さぶりたくなった。「スイフティマートに来るっていうのは誰の考えだった?」  ジェニファーは、向こう側でチーズナチョスを山盛りにした大皿を持っているレックスを指さした。「何も食べてないのにパーティーを出ないといけなかったって、文句を言ってるわ」  トリッシュは口をとがらせた。「体脂肪率十八パーセントなのよ。何を食べても百グラムも増えないの。私みたいな普通の人間と違ってね」小さい冷凍ケースをにらんだ。「アイスクリーム食べたい!」  ビーナスが滑るように前に出た。「うちに脂肪分ゼロのフローズンヨーグルトがあるわよ」 「オエッ」トリッシュとジェニファーは、二人そろってビーナスにしかめっ面をした。  ビーナスは、マニキュアをした指でトリッシュをつついた。「だったら、体重のことで文句を言わないでよ」  ジェニファーは笑顔になりそうになるのを我慢して、長い髪の毛をいじった。  トリッシュはブツブツ言いながら、冷たいガラスのドアにおでこを押しつけた。  ビーナスは腕を組んで、鼻をすすった。「それで、早く出ないといけなかった理由は?」
  トリッシュはあの時、アリスに何と言ったのか思い出せなかった。「どうして父とキスしてたんですか?」なんて言わなかったことを願う。  レックスがビーナスを後ろに従えたトリッシュとジェニファーを群衆の中で見つけたのは、実に絶妙のタイミングだった。パーティーを出るための言い訳も作った。ビーナスのアパートが一番近いので、そっちに向かった――まずベンアンドジェリーズに寄ってから。  ねばねばするフェイクチーズをのせたトルティーヤチップスのお皿を持って、レックスが近づいてきた。「じゃあ行こうか? どうして早く帰らないといけなかったの?」  ビーナスの冷ややかな目が光った。「和夫を避けるためってだけじゃないわよね?」  トリッシュのお腹の中は、ブクブクと音を立てた。「うん、そうじゃない」まあ、そのためでもあったけど。  なぜトリッシュは、いつも悪い男に引き寄せら...

【オンリー・ウニ】第2章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第2章 トリッシュは二人をじっと見た。  彼らも見つめ返した。  誰も動かなかった。  トリッシュは、父の方から何か言うのを待っていた。見つかったのは父なのだから、彼が何か言うべきではないのか? 彼女は何も言うつもりはなかった。何と言えばよいのだろう? 「ああ、お父さん。浮気相手を紹介してよ」とか?  それともメロドラマのように、「どうしてそんなことを?」はどうだろう。  または声を震わせて、「わがままで忌々しい虫けら」と呼ぼうか。  女性は表情のない目でトリッシュを見た。きれいな人。トリッシュは彼女が憎かった。  こんな風に言うべきだろうか。「どうして既婚者を追いかけるんですか?」それとも、「あなたも既婚者ですか?」  部屋がグルグル回り始めた。トリッシュは乾いた息をのみ込み、息を止めていたことに気がついた。波が浜辺を覆うように、少し開いたドアの隙間から聞こえてくるささやき声が、静かな部屋に入ってきた。 「トリッシュはどこかしら?」祖母の洗練された声が、何故かファミリールームの騒音を越えて聞こえてきた。  突然、祖母はそれほど悪くないように思えた。  向きを変えて、ドアを大きく開け、廊下に出た。廊下の照明のスイッチをつけ、行く道を照らした。  クリーム色のカーペットが目に入った。大嫌いだ。清潔で、きれいで、柔らかかった。  ジェニファーが角を曲がって廊下に入ってきたので、ぶつかりそうになった。「ビーナスを助けに来て――」ジェニファーの顔は、涼しい顔から心配そうな顔になった。「どうしたの?」  トリッシュは口を開けたが、その口から出てくる言葉は「ああ」と「うん」だけだった。  ジェニファーは本当に心配そうな顔をした。「トリッシュ?」トリッシュの肩越しをチラリと見た。 「ダメ!」しわがれ声だったが、何とか意味は通じたようだ。トリッシュは震える手で、ジェニファーを廊下の方に押し返した。最初は抵抗したが、ジェニファーは従った。いつもそうするように。  二人は、親戚が集まっている居間に突入した。ほとんどの人が食べていた。騒音は大きすぎ、照明は明るすぎた。トリッシュは、...

【オンリー・ウニ】第1章

『オンリー・ウニ』 寿司シリーズの第二作 著者:キャミー・タング 日本語訳:西島美幸 → 作品ページにもどる 第1章 トリッシュ・坂井がドアを通って歩いてくると、部屋全体が静まりかえった。  いや、ピン一本落ちても聞こえそうなほど静かになったわけではない。正確には、叔母の広々とした居間に集まっている数十人の親戚のうち、四、五人が会話をやめて彼女の方を振り向いた。トリッシュは、指をさされて笑われると思っただろうか。  白い服を着るんじゃなかった。反抗的なムードで、クローゼットにあったベベのワンピースを選んだのに、叔母の家の玄関口に立った時、その反抗心に裏切られた気がした。目の前で爆発するような赤やオレンジ、金色の洋服を着た人たちを見ていると、頭がクラクラしてきた。  少なくとも、彼女のワンピースのスタイルは、その平凡な体型をより曲線的かつスレンダーに見せていた。仕立てのいい洋服を着れば、見かけをよくするために努力する必要がなくなるからいい。  サンダルを蹴って脱いだ――ああ見て、寒いから爪先が青くなってる――サンダルは、玄関を埋め尽くしている靴の海の中にすぐ消えてしまった。ドアの枠から垂れ下がっている薄っぺらい紙製のドラゴンを払いのけ、スカートをなでた。手を引っ込め、後ろに回して強く握った。 (ダメダメ。お尻が巨大に見えるわ)  手を前に持ってきて、強く握った。
 (ああ、緊張してるって、親戚中に思われる)  ウエストのあたりで手をゆるく握り、堂々とした表情を見せようとした。 「トリッシュ、お前、便秘中か?」  トリッシュは苦笑いした。いとこのボビーは鼻先で笑っている。「あなたって、面白いわね。吐きそう」 「吐くんだったら、ばあさんが来る前にしろよ」 「まだ来てないの?」おっと、少し安心したのを声にしてしまった。我を忘れて興奮しているように聞こえないよう、咳払いをして声の調子を調節した。「おばあちゃん、いつ来るの?」 「叔父さんが迎えに行ったんだけど、叔母さんに電話があって、ばあさん、何か忘れたそうなんだ。それで、うちに一度戻ったらしい」  ああ助かった。「レックスは?」 「食べ物のとこ」  やっぱりそうか。先週いとこのレックスが言っていた。週三回のバレーボールの練習と、週...