【オンリー・ウニ】第4章

『オンリー・ウニ』

寿司シリーズの第二作
著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
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第4章

 トリッシュは、病院のにおいが大嫌いだった。空中にただよう重苦しい空気は、タバコの煙や安い香水のように消すのが難しい。肺が詰まり、吐きそうになった。

 いとこ達はこちらに向かっているから、二〇分以内には到着するだろう。もっと早く来られないものだろうか。一人のいとこには手を握ってもらい、もう一人には看護師や医師と話をしてもらい、書類記入と、父との連絡を試みるのも、誰かに頼みたい。

 ああそれに、彼女のRAV4を駐車し直した方がいいだろう。何も考えていなかったとは言え、入り口の真ん前に停めてしまった。なるべく端の方に停めようとしたのだが。

 トリッシュは腕をさすり続けた。寒かったのと、筋肉の痛みを和らげるためだった。寝室から車までの短い距離だったのに、この小柄な母がこんなに重いとは。あるいは、トリッシュが軟弱なだけなのかもしれない。ミス体脂肪一八%のレックスだったら、筋肉の緊張度が足りないとか何とか言っただろう。でも、少なくとも、たくましい救急隊員に指図して、母を緊急治療室まで運ぶことができた。あの救急隊員の人たちはどこだろう? かわいかったな……。

(ちょっと! あんたの頭には男しかいないの? 神様が聞いてるわよ)

 結局、元カレと(また)姦淫を犯した二日後に、こういう事態に突き落とされたのは、そこに因果関係があるのではないだろうか?

 トリッシュは、その姦淫という言葉が好きだった。汚れ、不快で、惨めに思え、まさに今は、そんな気持ちになりたかった。

 結局こうなってしまったのは、自分のせいではないか? 自分はムチで打たれるのにふさわしい。映画「パッション」で見たむごたらしい映像が浮かんだ。

 スイングドアがシュッと開き、父が不意に入って来た。巻き毛が乱れている。とても穏やかな顔つきだったので、トリッシュはその冷静な顔をひっかきたくなった。

「どこにいたの? 何度も電話したのに!」その声は、ガラスが砕けそうなほど高くなった。心では落ち着こうとしているのだが、口はこう動いた。「携帯に電話するたびに、真っすぐ留守電に入っちゃうって、どういうこと?」

「ちょっと前までオフにしてたんだ。今はここにいるよ、スイーティ」ゾッとするような笑みを浮かべ、近づいて来た。

「そういう呼び方しないで!」トリッシュは一歩下がった。「どこに、誰といたの?」

 父は何も知らないように、厚かましくも目を大きく開けた。「おばあちゃんを迎えに行ってたんだよ」自分の後ろを身振りで示した。

 日本の国旗のような白と赤のスカーフを巻いた祖母は、鋼鉄の戦艦の指令を受けたように、さっそうと部屋に入ってきた。トリッシュの金切り声は、どこまで響いたのだろうか。礼儀に関する説教をまた聞かなくてはいけないのかと思い、縮み上がった。しかし祖母は、彼女のそばを通り過ぎて看護師のステーションへ向かい、怒鳴るように質問をし始めて、看護師を困らせた。

 祖母に電話をかけることは考えていなかった。かけた方がよかったのだろうか? 祖母は苛立っているので、できるだけ控えめにトリッシュを無視しているのだろうか?

 父はトリッシュのことを知りすぎていた。「いや、お前はおばあちゃんに電話をしなくてよかったんだよ、スイーティ。お前から伝言があったすぐ後で、おばあちゃんからたまたま電話があったんだ」

 トリッシュは唇をキュッと閉じ、鼻から荒く息をした。「お父さんがうちにいるべきだったのよ」父が家にいたとしたら、トリッシュは母に話をしにいかなかっただろうし、そうすれば、母は倒れなかったかもしれない。もし倒れたとしても、母を病院へ連れて来るのを手伝ってくれたかもしれない。外で、彼女が考えたくない色々なことをしているのではなく。

「とてもいい対応だったよ」父は、励ますような笑顔でトリッシュを見た。その笑顔は、昔だったらスーパーモデルのドゥ・ジュアンのように背が高く、痩せていて、ゴージャスになった気分にさせられるものだった。

「言い訳はしないで。私が全部しないといけなかったのよ」イライラしているような言い方をしてしまった。父にひれ伏して謝らせたいのだろうか? 父を泣かせたいのだろうか? 待合室の真ん中で、告白を強要したいのだろうか?

 父は体を傾けて、トリッシュの耳に低くささやいた。「お前はお父さんにどうして欲しいんだ? 今はここにいる。何が起こったのかは、お父さんとお母さんの問題なんだよ。お前には関係ないことだ」

「関係あるに決まってるじゃない。別に関係ないけど、ちょっとはあるの。何であんなことしたのよ、お父さん」

 父はトリッシュの肩の後ろに目をそらせ、それから肩をすくめた。

 肩をすくめたのだ!

 父の下襟をつかんだ。「許されることじゃないわ!」

 一瞬、白檀のにおいがしたと思ったら、後ろから両腕が見え、トリッシュの手を父のレインジャケットから引っ張って離した。腕の温かみがジャケットからトリッシュのセーターへとにじみ出て、ショールのように彼女を包んだ。長い指の手が優しく彼女の指をにぎり、親指が彼女の皮膚をなでた。

 トリッシュを父から引き離し、その腕で彼女を包んだのは、和夫だった。拘束衣を着ているように感じさせるつもりはなかったのだろうが、どっちにしろ素敵な拘束衣だ。

 和夫の息のために、耳の近くで一房の髪の毛が揺れ、くすぐったい。「大丈夫だよ、ベイブ。僕がここにいる」

 その言葉を聞けて嬉しかった。母のことをどうするかについて看護師や医師に相談しなくてはならないストレスと混乱の後、トリッシュの心臓は壊れそうだった。鼻が急に熱くなり、涙が溢れてくる目をかたく閉じた。和夫のたくましい前腕に顎を落とすと、目の粗いノース・フェイスのジャケットが頬にあたった。

 心の中では――とても小さい部分だが――やめるべきだ、また危険な道を歩むことになる、と自分に警告していた。しかし、トリッシュの頭とホルモンの大部分は、男性の腕に抱かれるのはよいことで、そう努力してくれる和夫はとても優しいと考えていた。

「トリッシュ!」

 ビーナスの鋭い声に飛び上がり、和夫の顎にくっついていた頭を離した。押し返したが、彼は簡単に腕を離してくれない。クモの巣を剥がそうとするかのようだった。

 ビーナスは腰に手を置き、一方の足に重心を傾けて、ポーズを取っていた。「ほんの二時間前に、私のアパートで祈らなかったっけ?」感じの悪い態度を取っているのに、待合室に居合わせた他の男性は、ビーナスをジロジロ見ていた。

 もしかしたら、トリッシュは和夫のことを考え直すべきなのかもしれない。ビーナスに惹かれなかった数少ない男性の一人なのだから。この二人は会話をする機会があって、男性は概して無益な生き物だとするビーナスの極端な見解を知ったことが、多分役に立ったのだろう。

 レックスは、決して歓迎しているような表情をしていなかった。「私たちは必要なかったみたいね」

 トリッシュはあわてて唇の内側を噛んだので、血の味がした。「すごく大変だったの。和夫も来てくれたところ……ちょっと待って。どうして分かったの?」振り向いて、和夫を見上げた。

「君のおばあさんに連絡があった時、一緒にいたんだ」

 やっぱり。レックスがボソッと言った。「おばあちゃんのお見合いサービスは年中無休」

「あれ、ジェンは?」

 ビーナスは、携帯を持っていた手を振った。「電話があって、お母さんの具合がよくないらしい。今日は来られないって」

 ああ。リム叔母さん、最後の化学療法の後、具合が悪そうだった。トリッシュは、母親が病に伏しているジェニファーの気持ちが分かる気がした。

 アジア系の女医が、スイングドアから勢いよく入って来た。「ミスター坂井は?」

 父はスッと女医の前に立った。少なくとも、トリッシュが期待していたより速かった。女医が入ってくるなり、トリッシュは祖母を邪魔にならないところに何とか押しのけた。

「……心臓発作ですね。今は、休まれてます。ご家族の方は、二、三分入ってもらっていいですよ。ミスター坂井、あなたと娘さんは、向こうにいる看護師について行ってください」

 祖母の目が暗くなった。「私は母親なんですが」

 医師は祖母をじっと見た。「ミセス坂井、看護師には義理のお母さんだとおっしゃいましたよね」

 祖母は鼻をすすって首を伸ばしたが、反抗的な人を始終相手にしているこの女医より十センチは低いので、あまり効果はなかった。

 トリッシュは、スイングドアを通っていく父と看護師の後を小走りで追った。

 ベッドの母を見たら、思わず泣き出しそうになった。一〇歳年を取ったように見える。母が安静にしている姿を、トリッシュはほとんど見たことがなかった。母の目は、ソワソワと動いていなかった――目の前のテレビをじっと見ていて、ぼんやりトリッシュと父の方に動いた。手は、話していない時でも動いているいつもの手ではなかった――ゆったりと白いシーツの上で開いていた。

(大変、薬漬けにされたんだわ)

 母の眼差しは、父を見て柔らかくなり、それを見たトリッシュは拳を強く握った。父がその魅力を振りまけば、全ては赦された。しかし、トリッシュは赦さない。

 母の目がトリッシュに向き、その中に苦痛が溢れているのが見えた。

 何? 母はその女たらしを赦して、悪い知らせを持って来たトリッシュを責めているのだろうか? フェアじゃない。トリッシュは胸をさすった。少しだけチクッとした。ほんの少し。自分の母に、赤く焼けた火かき棒を胸に突き刺されたわけではないのに。

 父とトリッシュは、ベッドの両側に座った。父は母の手を取り――まれなPDA* だ――多分、看護師に印象づけて、気に入られようとしているのだろう――だからトリッシュは、もう一方の手を取った。

「マリアン、みんな待合室にいるよ」父は、明るすぎることもなく、悲しすぎるようでもなく、母に笑いかけた。正しいレベルの希望的憂慮――何というペテン師。「お母さんも連れて来たよ」

 母はトリッシュの方を向いた。「おばあちゃん、あの噂のこと言ってた?」

(は?)「どんな噂?」

 母は、空気が抜けていくような深いうなり声とともに、ため息をついた。「今日聞いたのよ。今朝。あなたが浮気ばっかりするから、和夫に捨てられたって」

「何? 私が捨てられた? 私が捨てたの! それに、浮気ばっかりしてない」トリッシュの指が引きつった。手をきつく握りすぎて、母のもろい骨を折らないように緩めようとした。「それ、大嘘よ」

 かすれた息で、母はまたため息をついた。「あなた……」

 父がトリッシュの方に身体を傾けてきた。「そういう人たちなんだよ、スイーティ。それに、お前といとこは頑としてお寺に行こうとしない。だから、あの人たちはお前たちに裁かれているように思うんだ」

 もう一方の手で耳の後ろの脈打ちをさすりながら、トリッシュは頬の内側を噛んだ。「お父さんだって、それは違うって知ってるでしょ」嘘のかたまり。そんな意地の悪いことを誰が言うのだろう? 和夫の友達? 和夫はそれほど多くの友達がいない。典型的なアーティストだから……孤独で気分屋の。

「ただの噂よ……」母は目を閉じた。母は、こういうことが大嫌いだった。自分で修復することができないから。特に今は。

 父は、妻の疲れた顔に悲しげなまなざしを向けた。「トリッシュ、待合室に行きなさい。お母さんの具合が悪くなるから」

 嘘つきのイタチと二人だけにしろと?

 母の目が小さく開いた。「行きなさい、トリッシュ。また明日ね」

 トリッシュは、喉の奥の火の玉をのみ込んだ。チクチクするしびれが手足を走った。震えているのを気づかれる前に、母の手を離して立ち上がった。「じゃあ、明日ね」待合室へと歩いて行った。

 祖母がトリッシュの腕をつかんだ。「大丈夫?」

「疲れてるけど、大丈夫よ」いとこ達が周りに集まった。たくさんの人に取り囲まれて、温かみを感じるはずなのだが、トリッシュは震え、こわばった足に重心を交互に移した。

 和夫が隣に現れると、心の中が少し温かくなったのを感じた。あまり気持ちの良い温かみではなかったが、少なくとも何かを感じた。和夫は、心配しているというより親密な関係であることを見せるように、トリッシュに腕を巻きつけた。

 トリッシュは一歩離れた。二人はもう付き合っていない。彼に寄りかかりって、昔のように大事にしてもらいたくても、これだけは忘れてはならない。

 何を考えていたのだろう? 和夫に対するその行為そのものが、今起きていることの理由ではなかろうか。神の怒りは、このようにして人々の上に落ちてくるものだろうか?

 祖母がため息をついた。「まだ若いのよ。どうしてこんなことが起こるのかしら?」

 何故、母なのか? トリッシュじゃないのか? 母は、何も悪いことをしていない。まあ、忠実な仏教徒であることを除いては。トリッシュがキリストのことを話すときは、礼儀をわきまえて、ただ微笑んでいる。

 もしかしたら、こうなること、母が苦しむのを見ることがトリッシュを苦しめるのを、神様は知っているからだろうか? 彼女の姦淫に対するもっと苦しい仕打ちだ。

 それとも、神様はトリッシュにもう一度チャンスを与えたいのかもしれない。イスラエル人を何度も赦したように。もしかしたら、(人生をやり直すのは今だよ)と言いたいのだろうか?

 トリッシュは椅子に沈み込んだ。和夫は隣に座ろうとしたが、ビーナスとレックスが割り込んできて、トリッシュの両側を守った。彼女のことを誰よりもよく分かっているいとこ達――その性格も、トリッシュ自身が和夫から守られる必要があることも、分かっていた。

 トリッシュは、誰と一緒に座っていようとどうでもよかった。手を握ってくれる人は、もう必要なかった。

 夜が明けたら、神様と二人だけの時間が必要だ。



* Public display of affection(人前で愛情表現すること)

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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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