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【ひとり寿司】第12章

→ 作品ページにもどる 第12章 レックスの頭はグルグル回り始めた。トリッシュがいるはずの生物学研究室のあたりを行ったり来たりしていると、各研究室から化学物質がにおってくる。トリッシュの上司にばったり出くわさなければ、レックスは彼女を探すため、まだ研究室の周りを徘徊していただろう。 バイオ技術研究ビルに続く日当たりの良い通路を歩いたが、暖かな日を楽しむ気分ではなかった。トリッシュは、またしばらく教会に来ていない。考えてみれば、もう数週間、彼女と話していなかった。いつもはもっとよくおしゃべりするのに。何かあったのだろうか? レックスは、エスビルのロビーに続くガラスのドアを開け、その場で立ち止まった。「ここで何やってるの?」 エイデンは振り向くと、鳥インフルエンザウィルスの感染者に会ったかのように、後ずさりした。「や、やあ」 レックスは、誰もいない受付デスクのカウンターをのぞき込んだ。「ブザー鳴らした?」 「五分前にね」彼はもう一度ブザーを叩いた。「これで満足?」 「満足」 「君こそ、ここで何してるんだよ?」エイデンは純粋に知りたがっているように見えた。 「トリッシュを探してるの」 一瞬、エイデンの顔に警戒心が光ったが、その後、あのお米のように味気ない表情になった。「トリッシュって、ここで働いてるの?」 エイデンは自分の表情をコントロールすることができる。彼を怒らせたらどうなるのだろうか、とレックスは思った。 「このビルにはいないわよ。あれっ、また会いたくなったとか?」レックスはニヤニヤ笑った。 彼の眉毛がピクピクした——その穏やかな仮面にできた割れ目のように。「どうも君たち二人から逃げられないようだね」 「何それ」レックスはショックを受けているふりをした。「ストーカーはあなたでしょ」 「君は、僕の後でこのドアを通ってきたんだよ。僕を一人にしてくれないのは君の方なんじゃない?」 彼は彼女をからかっていた。レックスは笑った。もしかしたら、最初に思ったほどつまらない人ではないのかもしれない。 受付嬢が、研究室からロビーに入る磁気で施錠されたドアをカチッと開けた。「ご面会ですか?」 「トリッシュ・坂井さんをお願いします」 「スペンサー・ウォングさんをお願いします」 受付嬢はトリッシュとスペンサ...

【ひとり寿司】第11章

→ 作品ページにもどる 第11章 哀れなほど短い面接だった。彼らは、企業で受付嬢としての経験がないのに受付の職に応募したレックスは完璧な能なしであることを確認するような質問を二つか三つ尋ねた後、彼女がドアを出るときには、そのドアが背中に当たりそうなスピードで、彼女をドアの外に追い出した。 彼らが立ち上がって手も握らず、挨拶もしなかったことは、唯一の救いだった。だから、右手で問題なくできそうな握手を、わざわざ左手でする必要もなかった。ロビーに出ると、反対側に女性用トイレがすぐに見つかった。開いたままになっているドアの前に、(床の清掃中)とスペイン語で書かれた黄色いサインがあった。 中をのぞくと、無愛想に見えるヒスパニック系の清掃業者の男性が見えた。「ちょっと手だけ洗わせてもらえますか?」 「ダメダメ、危ないよ(スペイン語で)」 「手を洗うだけなんですけど」 「ノー、滑るよ(スペイン語で)」 「お願いですから使わせてください」 「オーマイゴッド! サインを見れば分かるだろ! (スペイン語で)」 ダメということだろう。男性用トイレに向かうと、ちょうど誰かが出てくるところで、別の男性が中にいるのが目に入った。ダメだ、こっそり入って洗面台を使うことはできない。 トイレから反対側の壁に、大きいソファが二つ並んでいる。レックスはそこまで歩いて、座り込んだ。 「待って!」男性の声がどこからともなく聞こえた。 (——グシャッ) ふわふわで心地よい椅子——特に、モダンで活気のある色の布張り——グシャッ、となるはずではなかった。皮膚の温度より冷たいものがスカートの中にしみこんできた。 レックスは肘掛けを手で押して体を持ち上げた。手のひらがベタベタだったのを思い出したが、もう遅い。布張りの毛玉が、ネバネバする手のひらの残留物にくっついた。 スカートがお尻にくっつき、不快でぬれた感じがした。 ポロシャツとスラックス姿の四○代ぐらいの男性が近づいてきた。「大丈夫? ついさっき、清掃業者が椅子のクッションのしみ抜きをしているのを見たんだよね」 トイレよりここの方が産業用クリーナーのにおいが強いことに、レックスはやっと気づいた。振り向いてクッションを見ると、サイケデリックな色調。レックスはとたんに頭痛がしてきた。「水の跡...

【ひとり寿司】第10章

→ 作品ページにもどる 第10章 火曜日の朝——ガラスのドアを開けた途端、レックスは心臓が胸から胃のあたりまでドサッと落ちる気がした。目の前にある会議室は、立っている同僚でぎゅうぎゅう詰めになっている。 時計を見ると朝九時十五分。昨日は、夜十一時近くまで残って働いた——エベレットは、七時に退社する前に、彼女の様子を見に来た——だから、全員参加の会議があることについてメールも電話もなかったことは、どう考えても明らかだ。 こっそり部屋の隅に入ろうとしたが、反対側に座っているエベレットが陰険な目つきで彼女を見ていた。開いたドアのそばに立つと、隣にいるジェリーが大げさにふらつき、女の腕にぶつかった。レックスは一歩横にずれた。 アドミの不機嫌な声は、うなずくみんなの頭上を通り越していった。「……ということで、余分な仕事が全て私に回ってきていますので、今後はこのフォームの写しを提出してもらいます——」彼女は一枚の白い用紙を振った。「——三枚綴りです。締め切りは一週間前まで、ギリギリに提出されても受け付けません」 「お客様の分でもダメなんですか?」アンナが懐疑的な声で発言した。 アドミのゴルゴンの頬が、くすんだオレンジ色になった。「お客様の場合は——」 「全てお客様のためなんですけど。ドライクリーニングを取りに行ってくれ、って頼んでるわけじゃないわ」 レックスは、せせら笑いを抑えようとして、思わず鼻水を飛ばしそうになった。アドミはエベレットに一目惚れしていたので、まさに彼と同じことをする。 ゴルゴンは主導権を取り戻そうと、ベラベラしゃべった。 レックスはうわの空だった。今日はすることが沢山ある。この無意味な会議に座って——いや、彼女の場合は立って——いるということは、今日もまた残業になることを意味していた。 会議はやっと終わり、レックスは自分のデスクへと急いだ。 案の定、メールは届いていた。送信時間は今朝の八時半。九時の「大事な会議」に参加が必須だという。 「レックス、話がある」エベレットが近寄ってきて、カンカンになっている。「僕のオフィスで」 圧迫感がシューッと蒸気をたてて、お腹の中で大きくなってくる。まさか。エベレットはレックスが昨晩、遅くまで働いていたのを知っているのだから、今朝十五分遅刻したことなど問題にしないは...

【ひとり寿司】第9章

→ 作品ページにもどる 第9章 リチャードは死んだも同然。彼の死は、百パーセント確実だ。 レックスは鍵を鍵穴に押し込み、家の中へ入った。何か大きな音を立てて壊したい衝動に駆られたが、父親が眠っていた。 「おかえり、レックス」 「あれ、お父さん? まだ起きてた?」レックスはドアを閉め、バッグをソファの上に落とした。 父は、リクライニングチェアの中で上半身を起こそうと、もがいている。「デートはどうだった?」 レックスは、スタイロフォームの持ち帰りボックスをにらんだ。「残りをテイクアウトしてきた」他に言えることは何もなかった。 父はため息をついた。「いい男かもしれないと期待してたんだが」 レックスはキッチンへ行く途中で固まった。彼女がイン・シンクに夢中だった時でも、父は、彼女の恋愛に関心を持つことはなかった。「どうしてよ?」 父は腕を下に降ろしたまま肩をすくめ、上下させた。 それは、父が何かを隠している時にするしぐさだった。 「どうして突然興味を持ち出したのよ、お父さん?」レックスは、彼がその質問を避けられないよう、鋼鉄のように重々しい声で尋ねた。 父は横目でレックスを見た。レックスは腕を組んでいる。 「もう寝るよ」リクライニングチェアから起き上がった。 レックスは戸口から廊下へと滑るように動き、自分の体で父をさえぎった。唇を固く閉じ、にらんでいる。 いつも上手くいくわけではないが、その夜は成功した。そこに立っている父は、落胆しているように見えた。「おばあちゃんから電話があったよ」 レックスは目を閉じ、ドアに頭をぶつけたい衝動に駆られた。「何のことで?」 「お前がデートに出かける回数が少ないって、文句を言ってた。努力が足りないとさ」父はレックスの顔を見ようともしない。 「他には?」 父は長い間、答えなかった。レックスは、父が、自分に言いたくないどんなことを祖母から聞かされたのだろうかと思った。とうとう父はため息をついた。「ちょっと努力して、いい男の子と付き合えないものかな? おばあちゃんを喜ばせると思って」 刀でお腹を突き刺されたように、その言葉が刺さった。一瞬、胃が引きつった。レックスは軽く息を吸った。 これまで、父が彼女に何かを頼んだことはなかった。一度も。いつも自分のやりたい...