【ひとり寿司】第17章
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「レックス。申し訳ない。数週間前に売り切れたんだよ」
気落ちした、一瞬だけ。「ロジャーさん、同窓会で持ってるブロックがよくありますよね。二枚だけ譲っていただけないでしょうか?」
「そうだねえ」ロジャーの声がゆっくりになった。「可能性はあるかもな」
やっぱり。「広告料を少し割引できるかもしれません」
「いや、広告は、もうあまり必要じゃないんだ」
(何だ)「ホームページにプレミアム・ストーリー、っていうのはどうですか? UWのことで強調したいのはどんなことですか?」
「野球チームは調子がいいんだが、席が埋まらないんだ」
「ホームページにストーリーを載せるのはどうでしょう」彼を引き寄せた。
「次の試合にスカウトが来てくれてもいいんだけどね」
分かった! 彼が探っていたのはこれだった。「SPZはスカウトにコネがありますよ」実際、今日は、ウェブサイトに載せられたばかりの高校チームのスタッツのことで、一〇人のスカウトから電話がかかってきた。
「レックス、チケットのことは、ちょっと他の人と話をさせてくれるかな。また電話するよ」
「ありがとうございます、ロジャーさん」電話を切った。有力者が取引を成立させたとき、またはストックブローカーがウォールストリートで成功したときの快感を、今では理解することができた。
レックスはウォーターボトルに手を伸ばした。空っぽだ。
音が鳴らない電話をチラリと見た。ロジャーからコールバックがある前に、水を補充する時間がある。ナルゲンボトルのフタを閉め、通路を通って冷水機の方へ向かった。
キュービクルに座っているグレイの長い足が通路に突き出しているので、それをよけた。サンノゼ州立大学の野球チームのことで、何か深刻なことを電話で話しているようだ。ブラウンのキュービクルからは、彼の声が流れてくる——多分、彼も電話中——ブラウンの足が通路に突き出るのが見えた時には——遅すぎた。
つまずきながら、腕が激しく揺れた。(パシッ!)ウォーターボトルが何か硬いものにあたった気がした。
「ウップ!」
手を突き出したが、薄い仕切りはダンのキュービクルに倒れた。(ゴン!)仕切りがダンの頭に当たる音がした。
「あうっ!」
レックスと仕切りが倒れた。仕切りがダンの体に当たり、レックスはひっくり返った。ウォーターボトルのループを手に引っ掛けていたのだが、その手は乱暴に揺れ、ボトルは突然放たれた。
二つのことが一度に起こった。
キュービクルの仕切りが、ダンを床に叩きつけた。レックスのウォーターボトルは、上部が重くなっている冷水機の方に飛んでった。
仕切りが倒れた。
冷水機が倒れた。
水は事務所の薄いカーペットに浸み込んでいき、海の波のように彼女に押し寄せてきた。そして、洋服の中まで浸み込んできた。
「レックス! 大丈夫?」グレイが来た。一方の腕を彼につかまれ、もう一方の腕はブラウンがつかんだ。二人は注意しながらレックスを引き上げた。助けてもらったことには感謝するが、すぐに片足でバランスを取り直し、彼らの手を解きほどいた。
冷水機のボトルを元に戻して事務所の洪水を止めようと、ダンは走った。「大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
「本当に? 怪我してない?」
ダンはこめかみに巨大な赤い傷があったが、彼女のことだけに全注意を集中させようとした。
「そうだよ、君、本当に大丈夫なの?」
「ダン、私は大丈夫だから。あなたは? ブラウン」
ブラウンは腫れたあごをさする手を止めた。そうだ、レックスのウォーターボトルが最初に当たったのに違いない。プリンスチャーミングのように笑顔をきらめかせた。「僕は、全然大丈夫だよ」
うーん、トワイライト・ゾーンに迷い込んだようだ。「一体みんな、どういうこと?」
ダンが瞬きした。「どういう意味?」
「どうして急に親切になったのよ」
グレイは手を胸まで上げた。「レックス、僕らも苦しんでるんだ。そして、同僚として君のことを深く尊敬している」
「いつから?」
「君が電話で話すのを聞いた時から」グレイはウォーターボトルを彼女に渡した。「AAたちは君と話すのが好きなようだね。君、いい仕事しているよ」
彼の目は誠実そうに見えた。レックスは彼の称賛を好意的に受け止めた。
グレイはデスクの上の書類を指さした。「広告の注文、今週だけでも一〇%から二〇%は増えてる」
彼らが気づいていたとは思わなかった。レックスが同窓会リエゾンのポジションをもらったことについて、誰もが癇癪を起こしていると思い込むべきではなかった。
「ダン、タオルを持ってきてあげて。はい、隣のオフィスの冷水機から水を入れてきてあげるよ」グレイが彼女のボトルを取った。
「ありがとう」
「ブラウン、君は彼女をオフィスまで送って」
「いいわ、私は大丈夫だから」通路を戻り始めた。
「はい、タオル」ダンはとてもひたむきに見え、レックスが断らなければ、彼女のお尻の水も拭いてくれるような雰囲気だったので、彼女は彼の手からタオルをとった。「本当に大丈夫よ、どうもね」
「何か要るんだったら、何でも聞いてくれ」ダンは微笑んだ。
「ありがとう」彼女は自分のオフィスに入り、ドアを閉めた。
あーあ、お尻が濡れてる。スカートを拭いて、座る前に椅子にタオルを置いた。
彼らは、実はいい人たちだった。レックスの判断が間違っていた。それに、実は意外とハンサム。さらに言えば、彼女と同じぐらいスポーツのことが分かっていた。チコのスタッツや、ピストンズの最新スカウトレポートのことを聞いた時も、すぐにその情報をくれて、そのことについて知的に話すことすらできた。
もしかしたら、ここでボーイフレンドが見つかるかもしれない。自分の部署以外でも、ここにはスポーツを生き甲斐としている男性が山ほどいる。デート相手を探すためにワサマタユに入る必要はない。
ワサマタユに入るために、第一子を犠牲にするつもりもない。
電話が鳴った。すぐに受話器をつかみそうになって、自分の手を叩いた。(急ぎすぎちゃダメ)もう一度鳴るまで待った。「SPZ同窓会リエゾン、レックス・坂井です」
「レックス、ロジャーです。チケットの件、大丈夫だったよ」
「良かった! ありがとうございます、ロジャーさん。スカウトの件は、話しておきますね。いくつかの試合に何人か手配します」そうだ、頼めそうな人はいる。
「じゃあ、そういうことで、ありがとう」電話を切った。
レックスは数人のスカウトに電話をして、折り返し電話を頼む伝言を残した。
返事を待っている間にすることは他にもあったが、心は、今お気に入りのトピック——ワサマタユのトライアウトに戻っていった。テニスボールを空中に投げた。「私は順番待ちリストのどの辺にいるのかなあ?」
テニスボールが床に落ちた。
「誰に電話をすれば分かる?」
テニスボールは黙っていた。
「ワサマタユで働いてる人、誰か知らないかな?」
「ワサマタユ?」グレイがドアから頭を突っ込んで、彼女のナルゲンボトルを差し出していた。「はい、お水」
「ありがとう、そうなの。女子バレーに空きがあるのよ」
「ああ、いとこが男子サッカーのトライアウトに呼ばれたよ」
(すごいラッキー! )「入れた?」
「ダメ、ダメ」
「そうか」(なーんだ)
「空きが出たのはいつ?」
レックスは肩をすくめた。「私が聞いたのは一週間前」
「じゃあ、今頃は順番待ちリストの人たちをスカウト中じゃないかな」
「順番待ちなのにスカウトするの?」
「いとこがそう言ってた。プレイを見てない人は呼ばないって」
レックスは喉が硬くなった。心臓もドキドキしている。あの、二人の白人男性。日系ジムのトーナメントで。ああ良かった。殴って気絶させるようなことをしなくて。考えただけでも恐ろしく、デスクに寄り掛かりたくなった。
(だけど、そんなことしなかったんだから、それが大事なの)「情報をありがとう」しかし、先週の金曜日は試合に出なかった。そんな!
「どういたしまして、週末はどうだった?」
「ESPNを見まくったわ」テレビの前で、少し重量挙げもしたが、トライアウトに呼ばれなければ、何の意味もない。「あなたは?」
グレイは肩をすくめた。「別に。ソファーを飾ったぐらいかな。だけど今度の週末は、バークレーのいとこに会いに行くんだ」
「仲がいいの?」
「兄弟みたいなもんだ」グレイの目は、彼女のオフィスの小さい窓に流れて行った。「ひょっとして、バークレーのAAと最近話した?」
レックスは、このような含みのある言い方を理解するのが下手だったが、興味がなさそうなふりをして、落ち着きがなく彼女のデスクの上に何か模様を描く彼の様子を見ると、目が細くなっていった。「先週、話したわよ」
彼の目は金色の炎のように輝いていた。「今週末のバスケのチケット、余ってないかなあ?」
レックスは……作り物になった気がした。本物じゃない、偽物。グレイは動かなかったが、二人の間に突然、深い割れ目ができて、彼も本物ではなくなったように見えた。そして、気がついた。他人に利用されたくないことに。想像するのも嫌だ。
「出てってもらえる?」椅子にもたれて彼を睨み倒した。
「何か問題でも——」
「三秒以内に出ていかないと、ウォーターボトルを頭に投げつけるわよ、このスライム男」
グレイは小走りで出て行った。
電話が鳴った。外線だ。誰かと話したい気分ではなかった。取らずに交換手に回そうか。いや……誰かとスポーツのことを話したら元気が出るかもしれない。「SPZ同窓会——」
「レックス、ジェニファーよ」
レックスは椅子の中で背筋を伸ばした。「どうした?」
「近くに来てるの——ママが友達のうちで麻雀だっていうから、そこで降ろしたところ。ちょっと早いけど、ランチ行ける?」
なんていいタイミング。「じゃあユニオンで会おう」
**********
「特製の香港スタイルヌードルをお願いします」
「私も同じものを」
ウエイトレスは広東語で叫びながら、戸口を通ってキッチンまで忙しそうに行ってしまった。
ジェニファーはジャスミン茶をすすった。「最近どう?」
「別に、どうして?」レックスはお茶を冷まそうと息を吹きかけた。
「だって……」ジェニファーは、長い髪をクルクルといじっている。「いつもは自分からユニオンでランチしよう、なんて言わないじゃない」
「どういう意味よ? 中華、美味しいじゃない」レックスはテーブルを覆う透明のガラスをこすった。
「トレーニング中じゃないときだったら、そうかもね」
「何で私がトレーニング中だって分かったの?」
ジェニファーの目は、警戒心から大きくなった。「私は知らない方がよかったの? ごめん、リチャードから聞いたの——」
「落ち着いて、ジェン。別に秘密でも何でもないんだから」
「そうか」ジェニファーの肩は沈み、いつもの猫背に戻った。
彼女の姿勢のことでうるさく言う気分ではない。レックスは、オイルに入ったスパイシーな胡椒の、小さい調味料用キャニスターについているスプーンで遊び始めた。
「それで……仕事はうまくいってる?」ジェニファーは唇を噛んだ。「何かよくないことはない……?」
かわいそうなジェニファー。この娘は、レックスには全くない気配り、というものがありすぎる。「何で? 私、そんなにストレスがたまってるように見える?」
「そんなことないけど……たださ……あなたがハードなトレーニングをやってる時って、デニース・オースティンより食べっぷりがいいから」
レックスは笑い、気分が楽になった。「デニース・オースティンだったら、香港スタイルのヌードルは食べないの?」
ジェニファーは可愛い笑顔をのぞかせた。「ヘルシーな食べ物じゃない、って言おうとしてる?」
「揚げ中華麺の上に塩とソースがいっぱいかかってるもんね」ただ、脂肪が血管を凝固させ、お尻に堆積しているように感じさせようとして言ってるだけだ。
構うものか——レックスは外出中で、グレイや、他のバカ者たちを相手にする必要はないのだから。「ちょっと落ち込んでたけど、あなたが電話をくれたから、良くなったわ。しばらく一緒にランチしてないし」
レックスは不満を解放させた。塩とソースが一杯かかった揚げ中華麺を食べている途中も、彼女は話し続けた。
「だってさ、ジェン。彼の頭に仕切りが倒れたのよ。それなのに彼は顔を歪めもしない」
「それに、あごを殴られたそのかわいそうな人」ジェニファーはブロッコリーを一口噛んだ。
「そうそう、みんな『大丈夫?』だって。痛いとか言いもしない」レックスはクリスピー・ヌードルをむしゃむしゃ食べた。「全てチケットのためだったのよ」
ジェニファーは答えなかった。
レックスは彼女をチラッと見た。
ジェニファーは顔をしかめた。「だけど……」
レックスはため息をついた。「違うかしら」
ジェニファーは肩をすくめ、食べ続けた。
「職場でボーイフレンドを探そうか、って思った。おばあちゃんの最終通告、覚えてる? だけど今は、クールな人とクリープ(気味の悪い人)の見分けもつかないわ」
「難しいよね」
「強制的に誰かと付き合わされるのだけは、嫌。おばあちゃんは、どうしてそこまで曽孫にこだわるのかしら」
ジェニファーは、はしでチャーシューをつかんだまま止まった。そのまん丸い茶色の目がレックスの目と同じ高さになった。
「知らないの?」
「どういう意味?」
「レックス、私たちの親とその親にとってはね、子供っていうものは不死を意味するのよ」
レックスは、突然冷たい水が入ったバケツに沈められたように感じた。お尻の右側をかばう祖母が、とても老けて疲れているように見えた、あの瞬間。老化を感じている祖母は、自分の遺産を増やそうと頑張っているのだろうか? 自分の命をさらに伸ばそうとでも?
「それに……噂話じゃないといいんだけど……」
レックスは待った。ジェニファーはそのうち全てを吐き出すだろう。
「おばあちゃんがママに言ってるのを聞いたの。お友達の松本さんに会うのをやめたんだって」
松本さんは、レックスといとこたちの子守をしてくれた人だ。クリスチャンでもあり、そのことをよく口にしていた。「おばあちゃんと松本さんはよくぶつかるの。似たもの同士なのよ——二人とも自分を主張しすぎる」
「違うの、今回は深刻みたい。松本さんが、おばあちゃんに何て言ったのか知らないけど、もう絶対に話さないって」ジェニファーは、クリスピーヌードルを箸で突き刺した。「だから、私たちがおばあちゃんの標的になったんだと思う。あなたを含めてね」
「は? はっきり言ってくれる?」ジェニファーは、低くハスキーな声でしゃべりがちなだけでなく、こもった話し方をする。
ジェニファーは困ったように見上げた。「はっきりとは分からないんだけど……あなたがいつもクリスチャンと付き合うことにこだわってるから、あなたに対して厳しいのかも」
レックスは瞬きした。仏教徒の友人の息子を押し付けようとする祖母を遠ざけるために、レックスはその戦術を使っていた。「それって変だわ。私たち四人がクリスチャンだってことを、おばあちゃんが気に入らないのは分かるけど、あからさまに敵対心を見せることはなかったのに……」今までは。
ジェニファーはまたヌードルを突き刺した。「おばあちゃんが本当に気まずくなるようなことを、松本さんは何か言ったのかしら」
「だから松本さんを切って、私たちを突っつき出した。特に、私を」
ジェニファーはうなずいた。
レックスはため息をついた。つまりこの一連の出来事は、ずっと複雑な問題なのかもしれない。彼女は、複雑なことが大嫌いだった。
「あのさ……」ジェニファーはまた唇を噛んだ。
「何よ?」
「聞きたくないかもしれないんだけど」
「大丈夫よ、噛みつかないから」
「そのチケットのことだけど……職場の外の男性にも影響してる気がする」ジェニファーの目は、同情を放っていた——哀れんでいるのではなく、レックスの痛みを取り去ってあげたいと願っているように見えた。
「どう言う意味?」
「キンムン」
勢いよく顔に息を吹きかけるように話し出した。「だけど、彼はチケットを頼んだわけじゃない。私の方から——」
「彼はその話題をどうやって持ち出してきた?」
レックスは思い返した。(「ハーイ、キンムン」「新しい仕事、始めたんだって?」「そう、シアトルに行くんだ」「試合に行けたらいいんだけど……」)
肺がつぶれそうになった。それか、心臓をえぐり取られたのかも。どっちにしろ、胸の中で巨大な空虚感がこだまするのを感じた。
「落ち込むわ——」レックスは椅子に深く座った。リストに加えよう。(私の仕事に関連した特典を知らないか、大学スポーツに興味がないこと)
「ごめんね、言うべきじゃなかったわ」ジェニファーは、お皿を横にどかした。
「いいの、気にしないで。私が現実を見なきゃいけないだけ」レックスは湯気が出ているヌードルをじっと見て、ため息をついた。「新しい戦略が必要だわ。私の仕事のことを知ってる人は信頼できない」
「そうすると、職場は問題外ね。バレーボール関係の男性が全てだめ、ってことじゃないけど」
「ワサマタユもだめ。他のスポンサーを探そうと思ってたんだけど、おばあちゃんは事実上日系アメリカ人コミュニティ全体に爪を立ててるの」
「レックス、おばあちゃんはさ、本当は私たちのことが好きなのよ。そうすることが私たちの幸せだって思ってる」
「冗談でしょ? おばあちゃんは自分を幸せにしたいだけよ」
ジェニファーは視線を落とした。
「あなたは楽よ。おばあちゃんは、いつもうちの親のところにいるんだから。譲歩した方がいいこともあると思わない?」
「思わないわ。そんなの、私のやり方じゃない」レックスはウエイトレスを呼んだ。「喧嘩も避けられないと思ってる。おばあちゃんの思い通りにはさせない——もっと型破りなことをしなきゃ」
**********
レックスはビーチが好きだったが、砂は嫌いだった。砂だらけになる。今もそうだ——靴の中や靴下の中、そしてショーツのウエストバンドとスポーツブラの中にまで入ってくる。
そして、なぜこれほどバカなのか、彼女はバレーボールのドリルをやり続けた。
いや、バカではない。熱心なだけだ。トライアウトに呼ばれると仮定して、ワサマタユに入るという目標に集中する必要があった。もっとシェイプアップしなくては。
昨日のランチに食べた香港スタイルのヌードルは、本当に無駄だった。
横方向のシャッフルを終えてストレッチ、息が切れる。近くのビジネスパークから吹いてくる風が涼しく、屋外のバレーボールネットが揺れていた。日光のために砂が温かくなり、トースターオーブンのように熱を発散させていた。
レックスは、ネットでブロッキングのドリルをしようと準備した。天候にさらされているこの古いネットは、そのビジネスパークにある会計事務所が提供してくれたもので、二つのポールの間で垂れ下がっていた。レックスにとっては十分だ。しゃがんで、ジャンプした。
ネットが肘にピシャッと当たった。(イタッ!)ズキズキする痛みが腕を伝って降りてくる間、彼女はじっとしていた。一時間前の護身術クラスの時に、もっと注意していれば——打撲が彼女のパスに影響しない限り、大丈夫だ。
声が聞こえてきたために、ためらった。背筋が硬くなった。
広い駐車場では、アジア人、インド人、白人が混じった三○代の男性のグループが、サンドバレーボールのコートに向かっていた。いや、近くのバスケットボールのコートの方だ。
そのほとんどが、ショートパンツとスニーカーという服装だったが、ビジネスカジュアルのスラックスとポロシャツの人が数人いた。夕方、その辺りにいる人を適当に集めてやる試合だから、多分会社の同僚だろう。気にすることはない。
レックスの方をチラチラ見ている人がいた。それは本当に何の意味もないことだろうか?
(やめよう)
(沢山いる。群集心理というものがあるのだろうか? ニューズウィークにも昔そんなことが書いてなかったか?)
(気にしすぎだわ)
レックスは一人だった。
(バカげてる)
車に乗って、そこを離れた方がいいのではないだろうか。
(トレーニングしなきゃ、何の害もない人たちなんだから)
レックスは深呼吸をして、灰色でボロボロのネットを見つめた。彼女はなんて無力なのだろう。
深くかがみ、三回続けてブロックの動きで飛び跳ねた。一歩横にダッシュし、また跳んでブロックを三回。それをネットの終わりまで続けた。
ポールのそばに立って息を吸った。ネットは金属のポールに当たってはためきながら、静かに響く音を立てている。その男性グループはバスケットボールのコートに着いて、ストレッチを始め、フリースローの練習をしている。しゃべる声はほとんど聞こえてこない。温厚そうな冗談や、やじぐらいだ。
だから、レックスはリラックスした。彼らは、彼女の兄、男性のいとこや友人のように見えたし、そのように聞こえた。昔はよく、男性のいとこたちがキャンベル公園で集まってゲームをしたものだった。レックスは自分も入れて欲しいとせがみ、彼らをやり込めたっけ。
駐車場での動きが目に留まった。
長身で髪の毛がぼさぼさの白人男性——木綿のボタンダウンシャツとスラックスは、一日の仕事の後でシワシワだ。レックスをじっと見ていた。
首から腰まで降りてきた乱暴な震えを隠そうと、目が固まった。
知り合いではなかった。細面の顔と不揃いの髭は、レコーディング・アーティストのデイビッド・クラウダーを思い出させたが、多分そのビジネスパークのテック会社で働いているのだろう。アインシュタインのようなIQと博士号を二つ持っていても驚くことではない。何故、レックスを見つめ続けているのだろうか。
レックスは、向こうまで歩いていって、面と向かって言おうかと考えた。勝手に女性をジロジロ見続けるなんて、許されるものではない。口を閉じ、砂のコートを出た。
車の警笛。SUVが視野に飛び込み、砂のコートの近くにとまった。心臓が一瞬ドキドキしたが、出てきたのはエイデンだった。何故だろう、早い心拍数はおさまらない。
ミスター・サンタクルーズとの喧嘩を始める必要はなさそうだ。「何してるの?」手で日の光をさえぎった。
「やっぱり、ここにいたんだね。スタンフォードのバレーボール・クリニックでさ、ここでドリルをやるのを勧められたんだ。日系リーグの選手もこのコートのことを言ってた」
「うん、タダで使える砂のコートってあんまりないからね」
「僕も入れてもらっていい?」
ダメな理由があるのだろうか? もっと長く、もっと激しいトレーニングができるかもしれない。そうすれば、最高のコンディションでトライアウトに臨めるだろう。「ウォームアップして始めるわよ」
砂の上でダッシュ、ブロック、アタック、飛び込みのドリルを一時間やった。エイデンは、スタンフォードのバレーボール・クリニックで覚えた新しいドリルを知っていたので、レックスもさらに頑張った。クタクタになったが、終わった後の気分は最高だった。
砂のコートとの境界になっている草の上に座り、水をがぶ飲みして、顔を流れる汗を拭いた。エイデンの優れた肺活量は尊敬に値するものだった——レックスの方が苦しそうに呼吸をしている時もあった。そういえば、走るのが趣味だと言ってたな——
「新しい仕事はどう?」エイデンは素足から砂を払い落とした。
首の付け根のコリコリが硬くなった。エイデンは、彼女がキンムンと話していたときに、彼女の仕事のことを聞いていた。「まあまあよ」いつ言われても不思議ではない……(チケット取ってくれない?)
「エンジニアリングとは違うだろうね、絶対」
「そうね」
エイデンは彼女の目を真っ直ぐに見た。「君や僕みたいにラッキーな人は少ないよ。大好きなことを仕事にしていて、それがうまくできる」
エイデンの眼差しは温かみがあり、理解力があるように見えた。レックスは元気が出て、同時にリラックスしてきた。首のコリコリはなくなってしまった。「そんなに理学療法(PT)が好きなの?」
彼はうなずいた。「忙しいよ。膝の手術をした患者がトレッドミルでジョギングするのを見て、手根管の患者がジムマシーンでウエイトを上げるのを見る」
レックスにとって、PTは癒しではなく、負傷を連想するものだった。「素敵ね」
「君は一日中、スポーツの話をしていられる。まるで、君のために作られた仕事だよね」
その通りだった。レックスは初めて、最近起こった人生の紆余曲折の中に、神の御手を垣間見た。神様と会話をする時間をあまり取っていなかったのだが、それでも神様は働いてくださっていた。不思議だ——その御手の中にあるという安心感と同時に、思っていたほど自分は自立していないし、主導権を握ってもいないという不安を感じた。
あっという間に三○分以上話していた。レックスは不承不承うちに帰ることにした。引越しの準備をしなくてはならない。色々と物が多すぎるので、早く始めるに越したことはないだろう。
エイデンに手を振って、車が動き出した後だった。彼がチケットのことを一言も持ち出さなかったことに気がついたのは。
携帯が鳴った。うちからだ。「お父さん?」
「ああよかった、つながって。レックス、不動産屋と話したところなんだ」
「もう売れたの?」
「それだけじゃない、指し値もすごくいいんだ」
「よかったわね、お父さん」もっと嬉しそうに思わせようと頑張った。
「なんだが、買い手はエスクローを早めることを要求してるんだ」
「どういうこと? 早めるって」
「申し訳ない、レックス。二週間で出ていかないといけない」
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第17章
「レックス。申し訳ない。数週間前に売り切れたんだよ」
気落ちした、一瞬だけ。「ロジャーさん、同窓会で持ってるブロックがよくありますよね。二枚だけ譲っていただけないでしょうか?」
「そうだねえ」ロジャーの声がゆっくりになった。「可能性はあるかもな」
やっぱり。「広告料を少し割引できるかもしれません」
「いや、広告は、もうあまり必要じゃないんだ」
(何だ)「ホームページにプレミアム・ストーリー、っていうのはどうですか? UWのことで強調したいのはどんなことですか?」
「野球チームは調子がいいんだが、席が埋まらないんだ」
「ホームページにストーリーを載せるのはどうでしょう」彼を引き寄せた。
「次の試合にスカウトが来てくれてもいいんだけどね」
分かった! 彼が探っていたのはこれだった。「SPZはスカウトにコネがありますよ」実際、今日は、ウェブサイトに載せられたばかりの高校チームのスタッツのことで、一〇人のスカウトから電話がかかってきた。
「レックス、チケットのことは、ちょっと他の人と話をさせてくれるかな。また電話するよ」
「ありがとうございます、ロジャーさん」電話を切った。有力者が取引を成立させたとき、またはストックブローカーがウォールストリートで成功したときの快感を、今では理解することができた。
レックスはウォーターボトルに手を伸ばした。空っぽだ。
音が鳴らない電話をチラリと見た。ロジャーからコールバックがある前に、水を補充する時間がある。ナルゲンボトルのフタを閉め、通路を通って冷水機の方へ向かった。
キュービクルに座っているグレイの長い足が通路に突き出しているので、それをよけた。サンノゼ州立大学の野球チームのことで、何か深刻なことを電話で話しているようだ。ブラウンのキュービクルからは、彼の声が流れてくる——多分、彼も電話中——ブラウンの足が通路に突き出るのが見えた時には——遅すぎた。
つまずきながら、腕が激しく揺れた。(パシッ!)ウォーターボトルが何か硬いものにあたった気がした。
「ウップ!」
手を突き出したが、薄い仕切りはダンのキュービクルに倒れた。(ゴン!)仕切りがダンの頭に当たる音がした。
「あうっ!」
レックスと仕切りが倒れた。仕切りがダンの体に当たり、レックスはひっくり返った。ウォーターボトルのループを手に引っ掛けていたのだが、その手は乱暴に揺れ、ボトルは突然放たれた。
二つのことが一度に起こった。
キュービクルの仕切りが、ダンを床に叩きつけた。レックスのウォーターボトルは、上部が重くなっている冷水機の方に飛んでった。
仕切りが倒れた。
冷水機が倒れた。
水は事務所の薄いカーペットに浸み込んでいき、海の波のように彼女に押し寄せてきた。そして、洋服の中まで浸み込んできた。
「レックス! 大丈夫?」グレイが来た。一方の腕を彼につかまれ、もう一方の腕はブラウンがつかんだ。二人は注意しながらレックスを引き上げた。助けてもらったことには感謝するが、すぐに片足でバランスを取り直し、彼らの手を解きほどいた。
冷水機のボトルを元に戻して事務所の洪水を止めようと、ダンは走った。「大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
「本当に? 怪我してない?」
ダンはこめかみに巨大な赤い傷があったが、彼女のことだけに全注意を集中させようとした。
「そうだよ、君、本当に大丈夫なの?」
「ダン、私は大丈夫だから。あなたは? ブラウン」
ブラウンは腫れたあごをさする手を止めた。そうだ、レックスのウォーターボトルが最初に当たったのに違いない。プリンスチャーミングのように笑顔をきらめかせた。「僕は、全然大丈夫だよ」
うーん、トワイライト・ゾーンに迷い込んだようだ。「一体みんな、どういうこと?」
ダンが瞬きした。「どういう意味?」
「どうして急に親切になったのよ」
グレイは手を胸まで上げた。「レックス、僕らも苦しんでるんだ。そして、同僚として君のことを深く尊敬している」
「いつから?」
「君が電話で話すのを聞いた時から」グレイはウォーターボトルを彼女に渡した。「AAたちは君と話すのが好きなようだね。君、いい仕事しているよ」
彼の目は誠実そうに見えた。レックスは彼の称賛を好意的に受け止めた。
グレイはデスクの上の書類を指さした。「広告の注文、今週だけでも一〇%から二〇%は増えてる」
彼らが気づいていたとは思わなかった。レックスが同窓会リエゾンのポジションをもらったことについて、誰もが癇癪を起こしていると思い込むべきではなかった。
「ダン、タオルを持ってきてあげて。はい、隣のオフィスの冷水機から水を入れてきてあげるよ」グレイが彼女のボトルを取った。
「ありがとう」
「ブラウン、君は彼女をオフィスまで送って」
「いいわ、私は大丈夫だから」通路を戻り始めた。
「はい、タオル」ダンはとてもひたむきに見え、レックスが断らなければ、彼女のお尻の水も拭いてくれるような雰囲気だったので、彼女は彼の手からタオルをとった。「本当に大丈夫よ、どうもね」
「何か要るんだったら、何でも聞いてくれ」ダンは微笑んだ。
「ありがとう」彼女は自分のオフィスに入り、ドアを閉めた。
あーあ、お尻が濡れてる。スカートを拭いて、座る前に椅子にタオルを置いた。
彼らは、実はいい人たちだった。レックスの判断が間違っていた。それに、実は意外とハンサム。さらに言えば、彼女と同じぐらいスポーツのことが分かっていた。チコのスタッツや、ピストンズの最新スカウトレポートのことを聞いた時も、すぐにその情報をくれて、そのことについて知的に話すことすらできた。
もしかしたら、ここでボーイフレンドが見つかるかもしれない。自分の部署以外でも、ここにはスポーツを生き甲斐としている男性が山ほどいる。デート相手を探すためにワサマタユに入る必要はない。
ワサマタユに入るために、第一子を犠牲にするつもりもない。
電話が鳴った。すぐに受話器をつかみそうになって、自分の手を叩いた。(急ぎすぎちゃダメ)もう一度鳴るまで待った。「SPZ同窓会リエゾン、レックス・坂井です」
「レックス、ロジャーです。チケットの件、大丈夫だったよ」
「良かった! ありがとうございます、ロジャーさん。スカウトの件は、話しておきますね。いくつかの試合に何人か手配します」そうだ、頼めそうな人はいる。
「じゃあ、そういうことで、ありがとう」電話を切った。
レックスは数人のスカウトに電話をして、折り返し電話を頼む伝言を残した。
返事を待っている間にすることは他にもあったが、心は、今お気に入りのトピック——ワサマタユのトライアウトに戻っていった。テニスボールを空中に投げた。「私は順番待ちリストのどの辺にいるのかなあ?」
テニスボールが床に落ちた。
「誰に電話をすれば分かる?」
テニスボールは黙っていた。
「ワサマタユで働いてる人、誰か知らないかな?」
「ワサマタユ?」グレイがドアから頭を突っ込んで、彼女のナルゲンボトルを差し出していた。「はい、お水」
「ありがとう、そうなの。女子バレーに空きがあるのよ」
「ああ、いとこが男子サッカーのトライアウトに呼ばれたよ」
(すごいラッキー! )「入れた?」
「ダメ、ダメ」
「そうか」(なーんだ)
「空きが出たのはいつ?」
レックスは肩をすくめた。「私が聞いたのは一週間前」
「じゃあ、今頃は順番待ちリストの人たちをスカウト中じゃないかな」
「順番待ちなのにスカウトするの?」
「いとこがそう言ってた。プレイを見てない人は呼ばないって」
レックスは喉が硬くなった。心臓もドキドキしている。あの、二人の白人男性。日系ジムのトーナメントで。ああ良かった。殴って気絶させるようなことをしなくて。考えただけでも恐ろしく、デスクに寄り掛かりたくなった。
(だけど、そんなことしなかったんだから、それが大事なの)「情報をありがとう」しかし、先週の金曜日は試合に出なかった。そんな!
「どういたしまして、週末はどうだった?」
「ESPNを見まくったわ」テレビの前で、少し重量挙げもしたが、トライアウトに呼ばれなければ、何の意味もない。「あなたは?」
グレイは肩をすくめた。「別に。ソファーを飾ったぐらいかな。だけど今度の週末は、バークレーのいとこに会いに行くんだ」
「仲がいいの?」
「兄弟みたいなもんだ」グレイの目は、彼女のオフィスの小さい窓に流れて行った。「ひょっとして、バークレーのAAと最近話した?」
レックスは、このような含みのある言い方を理解するのが下手だったが、興味がなさそうなふりをして、落ち着きがなく彼女のデスクの上に何か模様を描く彼の様子を見ると、目が細くなっていった。「先週、話したわよ」
彼の目は金色の炎のように輝いていた。「今週末のバスケのチケット、余ってないかなあ?」
レックスは……作り物になった気がした。本物じゃない、偽物。グレイは動かなかったが、二人の間に突然、深い割れ目ができて、彼も本物ではなくなったように見えた。そして、気がついた。他人に利用されたくないことに。想像するのも嫌だ。
「出てってもらえる?」椅子にもたれて彼を睨み倒した。
「何か問題でも——」
「三秒以内に出ていかないと、ウォーターボトルを頭に投げつけるわよ、このスライム男」
グレイは小走りで出て行った。
電話が鳴った。外線だ。誰かと話したい気分ではなかった。取らずに交換手に回そうか。いや……誰かとスポーツのことを話したら元気が出るかもしれない。「SPZ同窓会——」
「レックス、ジェニファーよ」
レックスは椅子の中で背筋を伸ばした。「どうした?」
「近くに来てるの——ママが友達のうちで麻雀だっていうから、そこで降ろしたところ。ちょっと早いけど、ランチ行ける?」
なんていいタイミング。「じゃあユニオンで会おう」
「特製の香港スタイルヌードルをお願いします」
「私も同じものを」
ウエイトレスは広東語で叫びながら、戸口を通ってキッチンまで忙しそうに行ってしまった。
ジェニファーはジャスミン茶をすすった。「最近どう?」
「別に、どうして?」レックスはお茶を冷まそうと息を吹きかけた。
「だって……」ジェニファーは、長い髪をクルクルといじっている。「いつもは自分からユニオンでランチしよう、なんて言わないじゃない」
「どういう意味よ? 中華、美味しいじゃない」レックスはテーブルを覆う透明のガラスをこすった。
「トレーニング中じゃないときだったら、そうかもね」
「何で私がトレーニング中だって分かったの?」
ジェニファーの目は、警戒心から大きくなった。「私は知らない方がよかったの? ごめん、リチャードから聞いたの——」
「落ち着いて、ジェン。別に秘密でも何でもないんだから」
「そうか」ジェニファーの肩は沈み、いつもの猫背に戻った。
彼女の姿勢のことでうるさく言う気分ではない。レックスは、オイルに入ったスパイシーな胡椒の、小さい調味料用キャニスターについているスプーンで遊び始めた。
「それで……仕事はうまくいってる?」ジェニファーは唇を噛んだ。「何かよくないことはない……?」
かわいそうなジェニファー。この娘は、レックスには全くない気配り、というものがありすぎる。「何で? 私、そんなにストレスがたまってるように見える?」
「そんなことないけど……たださ……あなたがハードなトレーニングをやってる時って、デニース・オースティンより食べっぷりがいいから」
レックスは笑い、気分が楽になった。「デニース・オースティンだったら、香港スタイルのヌードルは食べないの?」
ジェニファーは可愛い笑顔をのぞかせた。「ヘルシーな食べ物じゃない、って言おうとしてる?」
「揚げ中華麺の上に塩とソースがいっぱいかかってるもんね」ただ、脂肪が血管を凝固させ、お尻に堆積しているように感じさせようとして言ってるだけだ。
構うものか——レックスは外出中で、グレイや、他のバカ者たちを相手にする必要はないのだから。「ちょっと落ち込んでたけど、あなたが電話をくれたから、良くなったわ。しばらく一緒にランチしてないし」
レックスは不満を解放させた。塩とソースが一杯かかった揚げ中華麺を食べている途中も、彼女は話し続けた。
「だってさ、ジェン。彼の頭に仕切りが倒れたのよ。それなのに彼は顔を歪めもしない」
「それに、あごを殴られたそのかわいそうな人」ジェニファーはブロッコリーを一口噛んだ。
「そうそう、みんな『大丈夫?』だって。痛いとか言いもしない」レックスはクリスピー・ヌードルをむしゃむしゃ食べた。「全てチケットのためだったのよ」
ジェニファーは答えなかった。
レックスは彼女をチラッと見た。
ジェニファーは顔をしかめた。「だけど……」
レックスはため息をついた。「違うかしら」
ジェニファーは肩をすくめ、食べ続けた。
「職場でボーイフレンドを探そうか、って思った。おばあちゃんの最終通告、覚えてる? だけど今は、クールな人とクリープ(気味の悪い人)の見分けもつかないわ」
「難しいよね」
「強制的に誰かと付き合わされるのだけは、嫌。おばあちゃんは、どうしてそこまで曽孫にこだわるのかしら」
ジェニファーは、はしでチャーシューをつかんだまま止まった。そのまん丸い茶色の目がレックスの目と同じ高さになった。
「知らないの?」
「どういう意味?」
「レックス、私たちの親とその親にとってはね、子供っていうものは不死を意味するのよ」
レックスは、突然冷たい水が入ったバケツに沈められたように感じた。お尻の右側をかばう祖母が、とても老けて疲れているように見えた、あの瞬間。老化を感じている祖母は、自分の遺産を増やそうと頑張っているのだろうか? 自分の命をさらに伸ばそうとでも?
「それに……噂話じゃないといいんだけど……」
レックスは待った。ジェニファーはそのうち全てを吐き出すだろう。
「おばあちゃんがママに言ってるのを聞いたの。お友達の松本さんに会うのをやめたんだって」
松本さんは、レックスといとこたちの子守をしてくれた人だ。クリスチャンでもあり、そのことをよく口にしていた。「おばあちゃんと松本さんはよくぶつかるの。似たもの同士なのよ——二人とも自分を主張しすぎる」
「違うの、今回は深刻みたい。松本さんが、おばあちゃんに何て言ったのか知らないけど、もう絶対に話さないって」ジェニファーは、クリスピーヌードルを箸で突き刺した。「だから、私たちがおばあちゃんの標的になったんだと思う。あなたを含めてね」
「は? はっきり言ってくれる?」ジェニファーは、低くハスキーな声でしゃべりがちなだけでなく、こもった話し方をする。
ジェニファーは困ったように見上げた。「はっきりとは分からないんだけど……あなたがいつもクリスチャンと付き合うことにこだわってるから、あなたに対して厳しいのかも」
レックスは瞬きした。仏教徒の友人の息子を押し付けようとする祖母を遠ざけるために、レックスはその戦術を使っていた。「それって変だわ。私たち四人がクリスチャンだってことを、おばあちゃんが気に入らないのは分かるけど、あからさまに敵対心を見せることはなかったのに……」今までは。
ジェニファーはまたヌードルを突き刺した。「おばあちゃんが本当に気まずくなるようなことを、松本さんは何か言ったのかしら」
「だから松本さんを切って、私たちを突っつき出した。特に、私を」
ジェニファーはうなずいた。
レックスはため息をついた。つまりこの一連の出来事は、ずっと複雑な問題なのかもしれない。彼女は、複雑なことが大嫌いだった。
「あのさ……」ジェニファーはまた唇を噛んだ。
「何よ?」
「聞きたくないかもしれないんだけど」
「大丈夫よ、噛みつかないから」
「そのチケットのことだけど……職場の外の男性にも影響してる気がする」ジェニファーの目は、同情を放っていた——哀れんでいるのではなく、レックスの痛みを取り去ってあげたいと願っているように見えた。
「どう言う意味?」
「キンムン」
勢いよく顔に息を吹きかけるように話し出した。「だけど、彼はチケットを頼んだわけじゃない。私の方から——」
「彼はその話題をどうやって持ち出してきた?」
レックスは思い返した。(「ハーイ、キンムン」「新しい仕事、始めたんだって?」「そう、シアトルに行くんだ」「試合に行けたらいいんだけど……」)
肺がつぶれそうになった。それか、心臓をえぐり取られたのかも。どっちにしろ、胸の中で巨大な空虚感がこだまするのを感じた。
「落ち込むわ——」レックスは椅子に深く座った。リストに加えよう。(私の仕事に関連した特典を知らないか、大学スポーツに興味がないこと)
「ごめんね、言うべきじゃなかったわ」ジェニファーは、お皿を横にどかした。
「いいの、気にしないで。私が現実を見なきゃいけないだけ」レックスは湯気が出ているヌードルをじっと見て、ため息をついた。「新しい戦略が必要だわ。私の仕事のことを知ってる人は信頼できない」
「そうすると、職場は問題外ね。バレーボール関係の男性が全てだめ、ってことじゃないけど」
「ワサマタユもだめ。他のスポンサーを探そうと思ってたんだけど、おばあちゃんは事実上日系アメリカ人コミュニティ全体に爪を立ててるの」
「レックス、おばあちゃんはさ、本当は私たちのことが好きなのよ。そうすることが私たちの幸せだって思ってる」
「冗談でしょ? おばあちゃんは自分を幸せにしたいだけよ」
ジェニファーは視線を落とした。
「あなたは楽よ。おばあちゃんは、いつもうちの親のところにいるんだから。譲歩した方がいいこともあると思わない?」
「思わないわ。そんなの、私のやり方じゃない」レックスはウエイトレスを呼んだ。「喧嘩も避けられないと思ってる。おばあちゃんの思い通りにはさせない——もっと型破りなことをしなきゃ」
レックスはビーチが好きだったが、砂は嫌いだった。砂だらけになる。今もそうだ——靴の中や靴下の中、そしてショーツのウエストバンドとスポーツブラの中にまで入ってくる。
そして、なぜこれほどバカなのか、彼女はバレーボールのドリルをやり続けた。
いや、バカではない。熱心なだけだ。トライアウトに呼ばれると仮定して、ワサマタユに入るという目標に集中する必要があった。もっとシェイプアップしなくては。
昨日のランチに食べた香港スタイルのヌードルは、本当に無駄だった。
横方向のシャッフルを終えてストレッチ、息が切れる。近くのビジネスパークから吹いてくる風が涼しく、屋外のバレーボールネットが揺れていた。日光のために砂が温かくなり、トースターオーブンのように熱を発散させていた。
レックスは、ネットでブロッキングのドリルをしようと準備した。天候にさらされているこの古いネットは、そのビジネスパークにある会計事務所が提供してくれたもので、二つのポールの間で垂れ下がっていた。レックスにとっては十分だ。しゃがんで、ジャンプした。
ネットが肘にピシャッと当たった。(イタッ!)ズキズキする痛みが腕を伝って降りてくる間、彼女はじっとしていた。一時間前の護身術クラスの時に、もっと注意していれば——打撲が彼女のパスに影響しない限り、大丈夫だ。
声が聞こえてきたために、ためらった。背筋が硬くなった。
広い駐車場では、アジア人、インド人、白人が混じった三○代の男性のグループが、サンドバレーボールのコートに向かっていた。いや、近くのバスケットボールのコートの方だ。
そのほとんどが、ショートパンツとスニーカーという服装だったが、ビジネスカジュアルのスラックスとポロシャツの人が数人いた。夕方、その辺りにいる人を適当に集めてやる試合だから、多分会社の同僚だろう。気にすることはない。
レックスの方をチラチラ見ている人がいた。それは本当に何の意味もないことだろうか?
(やめよう)
(沢山いる。群集心理というものがあるのだろうか? ニューズウィークにも昔そんなことが書いてなかったか?)
(気にしすぎだわ)
レックスは一人だった。
(バカげてる)
車に乗って、そこを離れた方がいいのではないだろうか。
(トレーニングしなきゃ、何の害もない人たちなんだから)
レックスは深呼吸をして、灰色でボロボロのネットを見つめた。彼女はなんて無力なのだろう。
深くかがみ、三回続けてブロックの動きで飛び跳ねた。一歩横にダッシュし、また跳んでブロックを三回。それをネットの終わりまで続けた。
ポールのそばに立って息を吸った。ネットは金属のポールに当たってはためきながら、静かに響く音を立てている。その男性グループはバスケットボールのコートに着いて、ストレッチを始め、フリースローの練習をしている。しゃべる声はほとんど聞こえてこない。温厚そうな冗談や、やじぐらいだ。
だから、レックスはリラックスした。彼らは、彼女の兄、男性のいとこや友人のように見えたし、そのように聞こえた。昔はよく、男性のいとこたちがキャンベル公園で集まってゲームをしたものだった。レックスは自分も入れて欲しいとせがみ、彼らをやり込めたっけ。
駐車場での動きが目に留まった。
長身で髪の毛がぼさぼさの白人男性——木綿のボタンダウンシャツとスラックスは、一日の仕事の後でシワシワだ。レックスをじっと見ていた。
首から腰まで降りてきた乱暴な震えを隠そうと、目が固まった。
知り合いではなかった。細面の顔と不揃いの髭は、レコーディング・アーティストのデイビッド・クラウダーを思い出させたが、多分そのビジネスパークのテック会社で働いているのだろう。アインシュタインのようなIQと博士号を二つ持っていても驚くことではない。何故、レックスを見つめ続けているのだろうか。
レックスは、向こうまで歩いていって、面と向かって言おうかと考えた。勝手に女性をジロジロ見続けるなんて、許されるものではない。口を閉じ、砂のコートを出た。
車の警笛。SUVが視野に飛び込み、砂のコートの近くにとまった。心臓が一瞬ドキドキしたが、出てきたのはエイデンだった。何故だろう、早い心拍数はおさまらない。
ミスター・サンタクルーズとの喧嘩を始める必要はなさそうだ。「何してるの?」手で日の光をさえぎった。
「やっぱり、ここにいたんだね。スタンフォードのバレーボール・クリニックでさ、ここでドリルをやるのを勧められたんだ。日系リーグの選手もこのコートのことを言ってた」
「うん、タダで使える砂のコートってあんまりないからね」
「僕も入れてもらっていい?」
ダメな理由があるのだろうか? もっと長く、もっと激しいトレーニングができるかもしれない。そうすれば、最高のコンディションでトライアウトに臨めるだろう。「ウォームアップして始めるわよ」
砂の上でダッシュ、ブロック、アタック、飛び込みのドリルを一時間やった。エイデンは、スタンフォードのバレーボール・クリニックで覚えた新しいドリルを知っていたので、レックスもさらに頑張った。クタクタになったが、終わった後の気分は最高だった。
砂のコートとの境界になっている草の上に座り、水をがぶ飲みして、顔を流れる汗を拭いた。エイデンの優れた肺活量は尊敬に値するものだった——レックスの方が苦しそうに呼吸をしている時もあった。そういえば、走るのが趣味だと言ってたな——
「新しい仕事はどう?」エイデンは素足から砂を払い落とした。
首の付け根のコリコリが硬くなった。エイデンは、彼女がキンムンと話していたときに、彼女の仕事のことを聞いていた。「まあまあよ」いつ言われても不思議ではない……(チケット取ってくれない?)
「エンジニアリングとは違うだろうね、絶対」
「そうね」
エイデンは彼女の目を真っ直ぐに見た。「君や僕みたいにラッキーな人は少ないよ。大好きなことを仕事にしていて、それがうまくできる」
エイデンの眼差しは温かみがあり、理解力があるように見えた。レックスは元気が出て、同時にリラックスしてきた。首のコリコリはなくなってしまった。「そんなに理学療法(PT)が好きなの?」
彼はうなずいた。「忙しいよ。膝の手術をした患者がトレッドミルでジョギングするのを見て、手根管の患者がジムマシーンでウエイトを上げるのを見る」
レックスにとって、PTは癒しではなく、負傷を連想するものだった。「素敵ね」
「君は一日中、スポーツの話をしていられる。まるで、君のために作られた仕事だよね」
その通りだった。レックスは初めて、最近起こった人生の紆余曲折の中に、神の御手を垣間見た。神様と会話をする時間をあまり取っていなかったのだが、それでも神様は働いてくださっていた。不思議だ——その御手の中にあるという安心感と同時に、思っていたほど自分は自立していないし、主導権を握ってもいないという不安を感じた。
あっという間に三○分以上話していた。レックスは不承不承うちに帰ることにした。引越しの準備をしなくてはならない。色々と物が多すぎるので、早く始めるに越したことはないだろう。
エイデンに手を振って、車が動き出した後だった。彼がチケットのことを一言も持ち出さなかったことに気がついたのは。
携帯が鳴った。うちからだ。「お父さん?」
「ああよかった、つながって。レックス、不動産屋と話したところなんだ」
「もう売れたの?」
「それだけじゃない、指し値もすごくいいんだ」
「よかったわね、お父さん」もっと嬉しそうに思わせようと頑張った。
「なんだが、買い手はエスクローを早めることを要求してるんだ」
「どういうこと? 早めるって」
「申し訳ない、レックス。二週間で出ていかないといけない」
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