【ひとり寿司】第14章

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第14章


「もっと低く!」レックスは手を叩いて、女子中学生にドリル(反復練習)のペースを上げさせた。

さっさとコンドミニアムを探さなくては。どこか安いところを。

「もっと!」中途半端にかがんでいる中二の女子を指さした。その子は膝を曲げ、さらに深く腰をかがめて、次のコーンへとダッシュした。

急がなきゃ。父の家はすぐに売れるだろう。しかしこの住宅難の中、たった二、三週間で予算に合ったコンドミニアムを見つけることが出来るのだろうか?

「ちょっと、後ろの子たちのために、ずれてあげて!」レックスは、最後のコーンで息を切らして立っている女の子に合図した。その子がずれると、次の子がコーンに向かってかがんでダッシュ、そして立つ。まだ呼吸が荒い。

自分からSPZでの仕事を蹴った今、もっと頑張ってエンジニアの仕事を探さなくては。今朝のクレイグズ・リストの求人情報は、励みにならなかった。

「ジャンプするときは膝曲げて!」レックスはドリルのラインに入り、ブロックに入る前の深いスクワットをやって見せた。そして、かがんで、次のコーンへダッシュ。「のろま!」レックスは立って、また手を叩いた。

すでに無職で、もうすぐホームレス。ボーイフレンドどころか、チームのスポンサーを探す時間などあるのだろうか?

「今日は結構タフなんじゃない?」アシスタントコーチのヴィンスが体を寄せてきて、女の子達に聞こえないように低くささやいた。

近すぎるので、レックスは少し離れたが、彼の言葉を受け入れてため息をついた。そうだ、自分の不満をチームに投影させているのかもしれない。力を抜かなくては——

それは、レックスが見ているときに起こった。それを阻止しようと動くと、筋肉を走る脈を感じた。一番手のヒッターであるキャシーがブロックの動きへと飛び上がるのと同時に、別の女子がキャシーのいるコーンに向かってダッシュしてきた。キャシーは着地し、その足はもう一方の女子のスニーカーの上でふらついた。不快な「バリッ、ポン」という音が、小さいジムの中で響いた。

その音を聞いて、ハンマーで打たれたような吐き気が、レックスの内臓を襲った。そのために、キャシーの方へ急ごうとする歩みが遅くなった。見たくなかった。足首が変な角度にねじれていたらどうしよう? 出血していたら……?

レックスは、深く荒い息を吸い、あご、首、肩を緊張させた。キャシーの横に腰を下ろし、周りに集まってきた女子らを追い払った。

キャシーは泣きじゃくっている。膝はまだ腫れていないが、すぐグレープフルーツのような大きさになるだろう。腫れが足に降りてくる前に、靴を脱がさなくては。

「ちょっと痛いわよ、キャシー」レックスは靴紐を緩め、かかとをつかんで足を固定させ、スニーカーを緩めようとした。

「痛いっ! やめて——!」

レックスは動きを緩めたが、やめなかった。キャシーは泣き叫んでいる。靴はやっと地面に落ちた。

レックスは自分の心配を隠そうとした。キャシーは普段、痛いと言わない——何も言わずに床へ飛び込む子だった。今回は、とてもまずい。

「救急へ連れて行こう。私が運転する」もしかしたら、ただの捻挫かもしれない。キャシーのスキルを持つ選手をもう一人失えば、夏のプレイオフでは手も足も出ないだろう。

「僕が運ぶよ」ヴィンスが入ってきて、隣でしゃがんだ。「腕を両方とも僕の首に……そうそう。よっこらしょっ、と!」

レックスはキャシーのバッグと用具一式を取りに走った。携帯が鳴った。「もしもし?」ジムバッグを肩にかけながら話し出した。

「アレクシス・坂井さんですか?」かすかに聞き覚えのある女性の声だ。

「そうです」レックスはヴィンスの後ろをついて行った。

「SPZ人事部のウェンディ・トランです」

不採用通知のために電話をかけてくれるのか? まあEメールよりは親切だ。

「レックス、練習はどうなるの?」女子の一人が彼女のシャツを引っ張った。

「ヴィンスは行かない。私だけよ。ドリルを終わらせて」

その子はブツブツ言いながらも、他の選手に伝えるために戻っていった。

「坂井さん?」

「ごめんなさい……」何と言う名前の女性だったか? 「ご用件は?」レックスは車の鍵を手探りし、ヴィンスとキャシーに追いつこうと急いだ。

「SPZの『大学部門』で採用が決まりました。よかったですね」

「……(ええっ?)」

その瞬間、ヴィンスが歩道の縁石でつまずき、キャシーは彼の首から手を離した。ヴィンスが片足でよろめいている間に、彼女は地面に転がった。

「きゃあ、大変!」レックスはキャシーの方へ走った。

「喜んでくださっているようで、私も嬉しいです」SPZ人事部の女性本人も、喜んでいるようだ。

「痛いっ、イタ、タ、タッ!」キャシーは足首をつかみ、前後に揺れている。

「ちょっと持ち上げてて」レックスは、足が地面につかないように、キャシーの太ももの下に手を入れた。

「もしもし?」人事の女性が尋ねた。

「『大学部門』っておっしゃいました?——キャシー、足首を圧迫しないようにして——『大学部門』には応募してませんけど」

「そうなんですか? あなたの応募書類がここにあるんですが……。取締役からの採用通知も」

「ごめん」ヴィンスが、キャシーのそばで膝をついた。「もう一回やるよ」

「絶対嫌よ!」キャシーは後ろに下がろうとしたが、かかとが地面に当たり、顔をしかめた。「また落とされるのはイヤ」

あの女性の名前は何だったっけ? レックスは記憶力が良くない。「私の応募書類を渡したのは誰ですか? キャシー、今度は落とさないから」

「落とすわ!」

「部長のラッセル・デイビスから直接もらったんですが」

「分かった? キャシー、一、二、三、持ち上げて!」レックスは電話をもっと耳の近くに持ち直した。「ラッセル? スタンフォード・インディアンのブリーフケースの人ですか?」

「そう、その彼です」

わあ。スカートはパインソル(液体洗剤)びたし、ブラウスにはコーヒーのシミ、手には何だか訳の分からないものがついていた、あの時。「どんなポジションですか? 受付かしら? ヴィンス、ここに載せてあげて」

「ご存じないんですか? 同窓会リエゾン(連絡窓口)ですよ」

「なるほど」これ以上、無能なように思われたくなかったので、思慮深く知性があるような調子で言った。少なくともそう聞こえることを願った。

「明日、採用通知が届くと思います。月曜日から出社できますか?」

「もちろんです!」何の迷いもなく答え、運転席に乗り込んだ。

「良かったです。では、八時にフロントデスクに来てください。あとは、その時に話しましょう」

**********


今度こそ、キンムンをこてんぱんにする。

レックスは、一番下手なパッサーに真っ直ぐサーブした。前衛にいる長身のアタッカーは、多分、ボールをそらすだろう。やっぱり、ボールはそれた。慌ててトス、そして、効果的なアタックにならなかった。

ボールはレックスのチームに移り、四番セット(アウトサイドヒッターへの高めのパス)——キンムンの守りのスキをついた。

得点。

レックスは、ネットの向こう側にいるキンムンに、思わずあの「笑って指さす」しぐさをした。今週末のトーナメントはお互い別のチーム——キンムン対レックスだった。自慢する権利——大事なのはこれだけだった。

長身の白人男性が二人、数メートル離れたところに立っていた。二人ともレックスをじっと見ているようだった。

何だろう? 次のボールをサーブしながら、レックスは気まずい震えを払い落とした。

しかし彼女のサーブは遠くに飛び過ぎ、ライトスパイカーはセッターに完璧なボールをパス、セッターはキンムンに完璧なトス、そして完璧なラインショット。サイドアウト、そして彼のチームの得点。

レックスは構えた。キンムンはどんなサーブを出すだろう? 多分、短めのフローターサーブか。

ちょっと待った、あの白人男性は、さっき彼女の写真を撮っていたようだ。

レックスは、キンムンの深く強いサーブを受け損ねた。彼のチームの得点。

歯ぎしりした。拳で太腿を叩き、その痛みで自分を集中させようとした。

得点。「みんな、何やってるの、声かけて!」

得点。「パスしよう! やるよ!」

得点。「ダブルブロック!」

得点。「タイムアウト!」後衛に立って、チームが周りに集まってくるのを待ちながら、レックスはお尻の片側に重心を移した。

「どうしたのよ、みんな」

ヒッターの一人が目で合図した。「よく叫ぶね」

「叫んでないわ! ええっと……叫んでないわ」白人男性二人は話をしながら、時々、レックスの方をチラチラ見ている。他の選手のことは全く見ていなかった。レックスはゾッとした。「みんな、行くわよ。キンムンをやっつけよう——じゃなくて、キンムンのチームを」

レックスのセッターは、あきれた表情をした。

五点差で負けた。

レックスは、相手チームとネットの下で手をたたき合い、バッグがおいてある床に座った。遠い方の壁にもたれ、ゲータレードをごくごく飲んだ。

目を閉じると、落ちたボール、ブロックされたアタック、そらしたパスが浮かんできた。その半分は自分の責任だった。ここまで調子が悪いのが信じられなかった。あの二人の男とその不気味な視線が、この試合をそこまで混乱させてしまったなんて。あの二人は一体、誰だったのだろう?

出て行ったようで、その姿はなかった。もしいれば、二人の方へ歩いていき、そのうち一人を引っ叩いていたかもしれない。あの、背の高い方。彼はボコボコにされるだろう。

「レックス、どうしたんだよ? ガッカリだな」キンムンが隣に座った。

彼女は頭を抱えてうなった。「ほっといてくれる?」

キンムンはレックスを突っついた。「君が元気になるようなニュースがあるんだけど」

レックスは、少し離れた。「私の機嫌を取れることなんて、何もないわよ」

「本当にそう思う?」

彼のいたずらっぽい声は、不本意にも彼女の興味をそそった。「何よ?」

「ワサマタユに空き出たんだって」

レックスは驚いた。「うそ! それって、本当なの?」この有名なスポーツクラブの順番待ちリストは何年分もあった。レックスも、最低五年は待っている。

キンムンは肩をすくめたが、その笑顔が全てを物語っていた。

「あそこのバレーボールチームは絶対に空きが出ないのよ」

「女の人が一人、ドロップアウトしたんだ。半月板がほとんどなくなってて、もうプレイできないらしい」

レックスの心はグルグル回り始めた。彼女のようなアマチュアアスリートにとって、ワサマタユはバレーボール・キャリアの頂点であった。このクラブは、エリートクラブの全国的組織に属していて、そこのスポーツチームはアスリートに厳格な要件を課している。だから、クラブ対抗のトーナメントは非常に競争が激しかった。「私は順番待ちリストの何番にいるのか調べなきゃ」

「残念だけど、僕には分からない」

「それに、入部のためのトライアウトに向けてトレーニングもしないと。トライアウトに呼ばれるのは何人?」

「普通は一〇人」キンムンはコートを見回した。

「まずは選ばれなきゃ」

「僕のチームが審判だ。行くよ」コートの方へ急いで行ってしまった。

ワサマタユ・スポーツクラブに入るのは長年の夢だっただけでなく、レックスの問題を全て解決できるかもしれない。会費は安くないから、会員は優れたアスリートであることに加え、そのほとんどが高い支払い能力を持っていた。

女子バレーボールチームのスポンサーになってくれそうな、裕福で若い選手が山ほどいるだろう。それに、レックスのスポーツの能力に見合う、ハンサムで感受性が豊かなクリスチャンのソウルメイトを見つけられるかもしれない。

もしトライアウトに呼ばれたら……。もし選ばれたら……。そして、選ばれなかったら返金されるとはいえ、トライアウトの前に支払わなくてはならない入会金を払うお金があったら……。

ほどほどに良い給料をもらっていたペアのエンジニアだった時なら、心配する必要がないことだった。レックスは、SPZから採用通知をもらっていたが、彼女のポジションでどんな仕事が要求されているのかは分からなかった。最低賃金ではないけれど、以前の給与とは比べものにならなかった。

「もし」が多すぎる。

祖母の最終通告を考えると、頭が痛くなった。アジア人でバレーボール関係の友人に、チームのスポンサーを頼むことはできない—— 祖母の手が伸びているからだ。しかし、最終通告の第一の目的——デート相手を探す努力はできる。

ジムを見回した。ボーイフレンドのふりをして欲しいと、誰に頼むことができるだろうか?

いや、それはできない。長期的な関係でなければ。マリコの結婚式が終わってすぐ「破局」してしまったら、祖母は資金を引っ込めるだろう。

じゃあ、レックスは誰とデートに行けば良いのだろう? 壁にもたれてくつろいでいる選手の列を一人ずつ見ていった。既婚者、デート中、既婚者、既婚者、デート中、別れたばかり、離婚したばかり、既婚者、デート中。

誰が独身だったっけ?

ジム、スティーブ、そしてニール。

ジムはすでに、あの変わった女の子にストーカーされている。

スティーブは、スターウォーズの人形コレクションにちょっと、とりつかれている。

ニールは、いつもニンニクと魚のにおいがする。

バレーボールのコミュニティは小さ過ぎた。レックスはほぼ全員を知っている。新しい血統が必要だ。

SPZは新しい血統だろう。ワサマタユもそうだ、入れたら。それまでは……SPZか。

よく知らない男が数人いた。その列を見下ろしていくと、全員白人であることに気がついた。

ほんとに?

もう一度、その群れをサッと見た。そうだ。レックスが知らないのは、ほとんど白人かヒスパニックの男性だった。

(私って人種差別主義者かしら? ひどいわ。これはもしかして——?)

彼が白人だったから。

肩をすくめた。暗い思い出を脇へ追いやった。この人たちは、多分いい人たちなのだろう。彼らのことをもっと理解しようとしなければ。

汗が首をつたって落ちてきた。そっと、においを嗅いでみた。

また今度にしよう、汗臭くない時に。


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