【ひとり寿司】第10章

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第10章


火曜日の朝——ガラスのドアを開けた途端、レックスは心臓が胸から胃のあたりまでドサッと落ちる気がした。目の前にある会議室は、立っている同僚でぎゅうぎゅう詰めになっている。

時計を見ると朝九時十五分。昨日は、夜十一時近くまで残って働いた——エベレットは、七時に退社する前に、彼女の様子を見に来た——だから、全員参加の会議があることについてメールも電話もなかったことは、どう考えても明らかだ。

こっそり部屋の隅に入ろうとしたが、反対側に座っているエベレットが陰険な目つきで彼女を見ていた。開いたドアのそばに立つと、隣にいるジェリーが大げさにふらつき、女の腕にぶつかった。レックスは一歩横にずれた。

アドミの不機嫌な声は、うなずくみんなの頭上を通り越していった。「……ということで、余分な仕事が全て私に回ってきていますので、今後はこのフォームの写しを提出してもらいます——」彼女は一枚の白い用紙を振った。「——三枚綴りです。締め切りは一週間前まで、ギリギリに提出されても受け付けません」

「お客様の分でもダメなんですか?」アンナが懐疑的な声で発言した。

アドミのゴルゴンの頬が、くすんだオレンジ色になった。「お客様の場合は——」

「全てお客様のためなんですけど。ドライクリーニングを取りに行ってくれ、って頼んでるわけじゃないわ」

レックスは、せせら笑いを抑えようとして、思わず鼻水を飛ばしそうになった。アドミはエベレットに一目惚れしていたので、まさに彼と同じことをする。

ゴルゴンは主導権を取り戻そうと、ベラベラしゃべった。

レックスはうわの空だった。今日はすることが沢山ある。この無意味な会議に座って——いや、彼女の場合は立って——いるということは、今日もまた残業になることを意味していた。

会議はやっと終わり、レックスは自分のデスクへと急いだ。

案の定、メールは届いていた。送信時間は今朝の八時半。九時の「大事な会議」に参加が必須だという。

「レックス、話がある」エベレットが近寄ってきて、カンカンになっている。「僕のオフィスで」

圧迫感がシューッと蒸気をたてて、お腹の中で大きくなってくる。まさか。エベレットはレックスが昨晩、遅くまで働いていたのを知っているのだから、今朝十五分遅刻したことなど問題にしないはずだ。

多分。でも結局、彼はエベレットだ。

彼はオフィスのドアをバタン、と閉めた。「全員参加の会議に出ないとは、どういうことだ」

「今朝八時半までメールしなかったじゃないですか」レックスのお腹の中は泡立ち始めた。

「九時までに会社に来るはずじゃないのか」

「昨日十一時まで働いたんですよ」穏やかな声を保とうと、低い声で話した。(『私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました』……)

「君は正直に話してるんだろうか。それを証明できるのか?」

その質問に答える前に、レックスは鼻の穴を膨らませてゆっくり息を吸った。「七時にお帰りになる前に、わたしの様子を見に来ましたよね?」

「どうせ、僕が出たすぐ後に帰ったんだろう」

「十一時にメールを送りましたよ。会社を出る直前です」

エベレットの雷のような眉にシワがより、コンピュータを見ようとデスクの方にまわった。顔が赤くなっていった。「ああ……コンピュータのタイムスタンプを変えた可能性もあるしな」

「何ですって?」(『私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました』……満足……満足……)

エベレットはレックスの顔をまっすぐ見た。二人の間にデスクがあった方が、彼は自信を持てるようだ。「とにかく、いくら残業したからといって、遅刻していい理由はない。全員参加の会議に君が遅れて、こそこそ入って来るのを見たときは、実に恥ずかしかった」

レックスは、ギャスケットが壊れそうになっている、使いすぎたレース用エンジンになった気がした。「それほど大事な会議じゃなかったですよね」

「会議は全て大事だ。今日から君を試用期間中にするからな」

視界の隅が濁ってきたが、気を失いそうだったからではない。その無分別で優越感にあふれた笑顔を殴り飛ばしたかった。「私を試用期間中にするなんて、できないわ」

「それはどうしてかな?」エベレットのゆるんだ魚のような唇から出る皮肉は、愚かで分別がないように聞こえる。

「辞めるからよ」

何てことだ、本当に言ってしまったのか?

エベレットの目と口は、野球のボール三つ分ぐらいの大きさになった。

レックスは脳みそが沸騰してきた。それを感じることができた。いい気分。「辞めるわ。スターバックスで働いたって、ここより大事にされる。それに、時給にすれば結局同じことよ」

レックスは振り返り、オフィスのドアを押し開けた。敷居で立ち止まり、エベレットの方を向いた。「エベレットさん、あなた、完璧な能無しね!」わあ、気持ちがいい。

自分のデスクまで足を踏み鳴らして歩き、ランチが入ったビニール袋をつかんだ。そして、個人的な持ち物だけを集め——お気に入りのペンだけは、盗んだ——バッグを肩にかけて、ドアまで堂々と歩いていった。

外に出ると太陽の光が顔に当たり、デスクの周囲を片付けている時には無視していた現実が照らし出された。

一体、何をしてしまったのだろうか?

(中に戻って取り繕うのよ。『自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』

(嫌よ、絶対に。エベレットと話すなんて、二度とごめんだわ)

(忍耐よ、覚えてる? アドミのゴルゴンのところへ行って話すのよ。人事関係のことは彼女の仕事だから)

(わたしの話を聞いてくれるはずないわ)

確かにそうだ。もちろん、シリコンバレーでエンジニアとして転職するのは難しい——いや、不可能に近いかもしれない。でも、無能なエベレットの恐ろしい顔を見てきたレックスにとって、もうこれ以上は無理。受付の仕事であっても——SPZじゃなくても——今よりマシだ。

車の方まで歩いた。退職願は、うちからファクスか郵便かメールで送ればいい。きれいで議論の余地がない一撃。レックスは自由だ。拘束もされない。高く飛べる。

そして、財務状況は不健全。

まあ破産したわけじゃない。実家に住んできたから、何年か生き延びるだけの蓄えはあるが、融資担当者からは見放されるだろう。さようなら、コンドミニアム。

携帯電話が鳴った。「ハロー?」

「アレクシス・坂井さんですか?」

「はい、そうです」背筋が伸びた。

「こちら、SPZ人事部のウェンディ・トランです。履歴書を拝見しまして、面接に来ていただきたいと思います。明日は空いてらっしゃいますか?」

**********


何で~! 遅刻だ!

レックスは自分のオンボロ車に飛び乗り、ドライブウェイから車を急発進させた。プロレーサーのように勢いよく車線を変えながら、ハイウェイ85号をサニーベール方向へと走った。

デアンザ通りでハイウェイを降りた。SPZの巨大な四角いビルが目の前に立っている。右側のレーンに飛び移った——

(キキキキーッ! ガツッ!)

右前方の衝撃のために車が横に滑り出した。胸が剥ぎ取られるように痛い。そして、不気味なほど静かになった。

太陽が明るい。音は聞こえない。それに、なぜ息が出来ないのだろうか?

あえぎながら息を呑んだ。そして、もう一度ゴクリ。耳は機能を再開し、後ろの車が鳴らすクラクションの音が聞こえた。

胸が痛い。心臓麻痺を起こしたのだろうか? 違う、面接用に着ていたブラウスの薄い生地にシートベルトが食い込んでいて、胸骨の上が、ひりひりする。

これは夢だ。これは夢だ。これは夢だ。

相手のドライバーは、エベレットのように恐ろしい顔つきをした年配の男性で、船乗り以上に口が悪かった。議論の余地がないほど自分に非があるときは特に、何も言ってはダメだ、という父の警告をレックスは思い出した。保険の情報を交換した。

ラッキーなことに、その事故は小さいショッピングモールの駐車場に入る入り口から一メートルも離れていないところで起こった。駐車スペースまでその小さい車を押していくに足りる体力はあった。

ただ、面接の時間を三○分過ぎていて、ゴムタイヤのにおいが洋服に染みついている。

ひとブロック先にあるSPZのビルまで、レックスはゆっくり走った——ハイヒールでできる限り早く、よろけながら——ガラスのドアを勢いよく通リ抜けて、空調の効いた中へ入り、受付デスクに倒れこんだ。「レックス・坂井です。遅れましたが、面接に来ました」

受付嬢の代わりに警備員がデスクに座っていて、冷静な表情を向けた。キーを二、三回叩くと、ミニプリンターからレックスの情報が入ったカードがブーンと音を立てて出てきて、そのIDタグが彼女に渡された。

「ホールをまっすぐ行って、左に曲がり、C12番会議室で待っていてください」

レックスは空いているドアの中をチラチラ見ながら、通路をすっ飛んで行った。誰もいない大きなオフィスが二部屋、会議室が二部屋あった。角を左に曲がった。

「ちょっと!」

何か温かい——いや、何か熱いものが前ではねた。レックスはかがんだが、遅すぎた——下着の中までポタポタ垂れている。

コーヒーだった。においからすると、とても濃いコーヒー。白いブラウス全体にかかり、細身のスカートにも縦方向の細い線が入っている。

厚化粧の女がにらんでいた。「前見て歩きなさいよ、自業自得だわ」

ムカつく! 「もう少しぜい肉が少なければ、ぶつからなかったんですけどね」

声が出ないあえぎ声をあげるように、その女性は鮮やかな赤紫色の唇を開け、甲高いうめき声をあげながら、プリプリと去っていった。レックスは、その女性がオフィスの中へスタスタと歩いて行き、ドアをバタンと閉めるのを見ながら、洋服に飛びはねたコーヒーにスチームミルクをかけられたように熱くなっていた。

トイレのドアはまだ過ぎていないので、スタッフラウンジが見えるまで歩いた——あのコーヒーは多分そこから来たものだろう。ペーパータオルを数枚つかみ、C12番会議室へと急いだ。

待っている間に、洋服のシミを軽く叩いた。一〇分。二○分。

どうしたのだろう?

受付デスクまで戻った。別の警備員がカウンターの後ろに座っている。

「二○分前に着きまして、別の警備員さんにC12番会議室に行くよう言われたんですが、どなたもいらっしゃいません」

「お名前は?」

レックスは自分の名札を指さした。

警備員はそれをコンピュータに入力している。「ああ、坂井さん、D22番会議室の間違いです。みなさんあなたをお待ちですよ」

レックスはヒステリックに叫びたいのをぐっと耐えた。「どこですか?」

「階段を上がって右に進み、左側二番目のドアです」

この忌々しい細身のスカートでは、階段を一段飛ばしに登ることはできない。熱くなり、息を切らして会議室に入った。三組の目が彼女を見つめていた。

少し白髪が入った年配の紳士が受話器を置いた。「警備員に別の会議室に行けと言われたそうだね」声の調子から、レックスのことも警備員のことも信じていないように思われた。

「申し訳ありません」(息切れ)「最初の(——息切れ)——警備員さんが(息切れ、ゼーゼー)」

「気にしなくていいよ」長細い顔の中年男性が、席を指してレックスを促し、その白髪の男性と、若いそわそわしている男性を紹介した。「君の履歴書のコピーを取ってないんだけど、持ってきてますか?」

「はい、もちろんです ——」レックスは革のフォリオを開き、つかんだ——

一枚だけ。他のコピーはどこへ行ったのか?

うちのプリンターだ。急いで家を出たので、忘れてしまったのだった。「あの……一枚しか持ってませんでした」

そわそわした男はあきれた表情をした。

なめらかなプラスチックの肘掛けに手を置いて、レックスは椅子に腰掛けた——

(うっ、何これ)

肘掛け全体が、糊とバターにはさまれた十字架のように何かベタベタ、ぬるぬるしていて、それが今、レックスの手のひらを覆っている。

これは短すぎるか、長すぎる面接になりそうだ。


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