【ひとり寿司】第12章
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レックスの頭はグルグル回り始めた。トリッシュがいるはずの生物学研究室のあたりを行ったり来たりしていると、各研究室から化学物質がにおってくる。トリッシュの上司にばったり出くわさなければ、レックスは彼女を探すため、まだ研究室の周りを徘徊していただろう。
バイオ技術研究ビルに続く日当たりの良い通路を歩いたが、暖かな日を楽しむ気分ではなかった。トリッシュは、またしばらく教会に来ていない。考えてみれば、もう数週間、彼女と話していなかった。いつもはもっとよくおしゃべりするのに。何かあったのだろうか?
レックスは、エスビルのロビーに続くガラスのドアを開け、その場で立ち止まった。「ここで何やってるの?」
エイデンは振り向くと、鳥インフルエンザウィルスの感染者に会ったかのように、後ずさりした。「や、やあ」
レックスは、誰もいない受付デスクのカウンターをのぞき込んだ。「ブザー鳴らした?」
「五分前にね」彼はもう一度ブザーを叩いた。「これで満足?」
「満足」
「君こそ、ここで何してるんだよ?」エイデンは純粋に知りたがっているように見えた。
「トリッシュを探してるの」
一瞬、エイデンの顔に警戒心が光ったが、その後、あのお米のように味気ない表情になった。「トリッシュって、ここで働いてるの?」
エイデンは自分の表情をコントロールすることができる。彼を怒らせたらどうなるのだろうか、とレックスは思った。
「このビルにはいないわよ。あれっ、また会いたくなったとか?」レックスはニヤニヤ笑った。
彼の眉毛がピクピクした——その穏やかな仮面にできた割れ目のように。「どうも君たち二人から逃げられないようだね」
「何それ」レックスはショックを受けているふりをした。「ストーカーはあなたでしょ」
「君は、僕の後でこのドアを通ってきたんだよ。僕を一人にしてくれないのは君の方なんじゃない?」
彼は彼女をからかっていた。レックスは笑った。もしかしたら、最初に思ったほどつまらない人ではないのかもしれない。
受付嬢が、研究室からロビーに入る磁気で施錠されたドアをカチッと開けた。「ご面会ですか?」
「トリッシュ・坂井さんをお願いします」
「スペンサー・ウォングさんをお願いします」
受付嬢はトリッシュとスペンサーに電話をかけ、受付に来客がいることを早口で告げた。
最初に来たのはスペンサーだった——長身で恰幅がいいアジア系の男子、チョウ・ユンファとラッセル・ウォンを一つにしたようなハリウッド系の顔立ちをしている。レックスのことをチラリとも見なかった。
「ヘイ、エイデン。腹、減ってる? 今日はあまり時間がないんだ。やらなきゃいけない分析があってね」彼らはガラスのドアから出て行った。
数分後、トリッシュが磁気で施錠されたドアを通って来た。「ハーイ、レックス。今日はどうしたの?」
「ランチ行かない?」
「もちろん、中に入ってて。実験終わらせるから」
レックスは、トリッシュの後をついて、また別のにおいがする研究室に入った。トリッシュはラボ用の上着を着用し、数メートル離れたところにある椅子を指さした。「このピペットが終わるまで、そこで待っててくれる?」天井のパイプを通って空気を吸い込んでいる大きな差し込みフードの前に座った。
「何でわざわざここまで来たの?」繊細な機器と、フードの中の液体キャニスターを操作しながら、その騒音より大きい声で、トリッシュは叫んだ。
「ここに来たら確実に会えるでしょ。どうして電話に出ないのよ?」
トリッシュは、表情が見えないようにレックスに背を向けていたが、トリッシュの沈黙が全てを物語っていた。
「どうしちゃったの。最近、教会にも来ないし」
「実はさ……和夫と付き合ってるんだ」
「あの日本人のウェイター?」
「うん」
「日曜日の朝も?」
「そうなの……朝ごはんを食べに行くのよ」
心の隅で、黒い疑惑がレックスを悩ませたが、それを口にはしなかった。無視すれば、きっと実現しないだろう。「へえ」
「おばあちゃんに会ったわよ、二週間ぐらい前。ホビーズで朝ごはんを食べてた時にね」
「どんな様子だった?」
トリッシュは横目で見た。「レックス、おばあちゃんはモンスターじゃないのよ。トモヨシ夫妻と朝ごはんを食べてたわ」
(大変だ)レックスは、心臓が突然一〇キロの重みで胃の底まで落ちた気がした。手で頭を抱えた。「どんな話をしてた?」
「そんなの知らないわよ。挨拶しに行っただけだから。あなたのこともちょっと言っといたわ。必死でスポンサーを探してるって——」
「トリッシュ!」レックスは椅子から飛び降りた。「うそでしょ?」
「何が?」
「スポンサー探しのことを、おばあちゃんに言ったってこと」
トリッシュは口を尖らせ、眉を寄せた。
「ああ、私、スポンサーって言った? 彼氏の間違いよ。そうそう、彼氏を探してるって言ったんだった」しかし、トリッシュの声の震えと青くなった顔は、その反対だと告白しているようだった。
レックスは思い出した。トモヨシ氏の突然の心変わり。ジムの曖昧な「ノー」。他の自営業者からも丁寧に断られた。
祖母の金融サービスは誰にとっても非常に頼りになるため、その影響は日系アメリカ人社会の中に深く根付いていた。レックスのスポンサー勧誘になびかないよう警告し、賄賂を贈り、圧力をかけるために、祖母が自営業者に連絡を取っているのは明らかだ。
「トリッシュ、どうしてそんなことを?」
「うっかり間違えちゃったの」トリッシュは下唇を噛んだ。「どうする?」
レックスは二、三回深く息を吸ったが、お腹の中の煮えたぎりはおさまらなかった。「おばあちゃんと話すわ」
**********
レックスは子供が嫌いではなかったのだが、その時ばかりは全員を黙らせたかった。
「おばあちゃん!」ロータス幼稚園の中では、耳障りな子供の声のためにレックスの叫び声が消されてしまう。祖母は遊戯室の向こう側に立ち、レックスのいとこの子供、エリックが自分のことを片言でしゃべっているのを聞いている。それと同じように、祖母が孫の言うことも聞いてくれたらどんなにいいか。
「こんにちは、エリック。おばあちゃん、話があるの」
「エリック、あなたのいとこのレックスにハーイは?」
「ハーイ、あなたのいとこのレックス」
「おばあちゃん……」
「エリックを母親のところへ届けてから話しましょう。ママに会いたくなーい?」
エリックは曽祖母に笑顔をふりまき、一点のシミもないクリーム色のシャツをベタベタした手でさわった。
「ダメ、今、話したい。ここにいるのを突き止めるまでに、時間がかかりすぎたわ」
「水曜日はいつもエリックのお迎えなのよ」祖母は、エリックがプラスチックの恐竜をおもちゃの箱から出すのを見ていた。何と思いやりと愛情に溢れた曽祖母だろう。冗談じゃない!
「おばあちゃん、自営業の人たちに働きかけるの、やめてくれない?」
「何のことかしら?」レックスではなくエリックに対し、歌うような調子で言った。
「何のことだか、分かってるんでしょ」突然レックスは、祖母に何かを要求するなんて、バカげていることに気づいた。祖母がトモヨシ氏やジムに圧力をかけたことを、レックスは証明することもできない。
「別のスポンサーが必要だからって、おばあちゃんには関係ないことよ。女子チームを切るって決めたのはおばあちゃんなんだからね」
「まだ切ってないわよ」砂糖のように甘い祖母の声は、明らかに刃のような鋭さを帯びている。「私たち、合意したんじゃなかったかしら?」
「誰かを好きになることを強制できないわ。私の友達だって、いくら頑張って恋人を探していても、うまくいかない人は山ほどいるの」
「あなたの問題はね、そういう人を全く探していない、ってことなのよ」
「お父さんは別に気にしてないじゃない!」レックスは両手を放り上げた——幸運なことに、身長六○センチ以上の人は周りに誰もいなかった。「どうしてそこまで問題を大きくするの?」
祖母が瞬きすると、一瞬、年老いてやつれているように見えた。そして、ぼんやりお尻の右側をさすった。レッドエッグアンドジンジャー・パーティの日にかばっていた側だ。そして次の瞬間、表情が消えていった。
レックスはこれを想像しただろうか? 祖母が年老いて見えたことは一度もなかった。いつも完璧な服装、完璧な振る舞い、完璧な健康状態だった。それとも、他の人にそう思われることを祖母が望んでいる、ということなのか? その他の人類と同じように、祖母も自分の歳を感じているのだろうか? もっと曽孫が欲しいと言う彼女のキャンペーンの裏にある事実は、これだったのか?
祖母の厳しい目が、新たな力を得てレックスに突き刺さった。「あなた自身のためなのよ」
レックスはあきれた表情をした。(悪気はないけど、威張って全てを仕切りたがる祖母から、私を救ってください)
祖母の目は、黒い爪楊枝のように細くなった。「やっぱり、私が真剣だと思ってないようね。別のスポンサーが見つからなければ、私が真剣だってことが分かるわ」
「どうして中学生の女の子達に罰を与えようとするの? あの子たちは何も関係ないのに」
「あなたにとって大事なことだからよ」その頑固な視線の中できらりと光る抜け目なさ——だから祖母は、祖父のいいビジネスパートナーだった。「レックス、これはゲームじゃないの。ボーイフレンド探しを始めなければ、あなたにとって大事な人がどうなるか——」
わずかな氷がシャツの中に落ちた気がした。「どういう意味? 何する気?」
「私の影響力が分かったでしょ? リチャードがコンドミニアムから追い出されたら、どうするつもり? あなたのお父さんの車が差し押さえられたら?」
祖母は、自分の息子に対して本当にそんなことをするのだろうか? 孫息子に対しても? 孫娘一人のために?
確かにレックスは祖母の言うことを聞かず、反抗した。タスマニアデビルのように、祖母は敵のうなり声を警告であると捉えず——それを侵略行為であると捉えた。そして祖母は、同じ手段で応酬したのであった。
祖母はかがんで、エリックを抱き上げた。「うちに帰る時間よ、スイーティ」
祖母に凝視されて、レックスは一歩下がった。「レックス、もっと努力してるところを見せなさい」祖母は幼稚園から歩いて出て行った。
**********
祖母がガミガミ言うという理由だけで死んだふりをするのはやめた。だがレックスはバカでもない。デート相手のみならず、スポンサーを探すという二つの目的を持って、木曜夜の独身者グループに駆け込んだ。そこは、祖母が侵入することのできない唯一の場所——教会だ。
祖母は、レックスとその三人のいとこの信仰を理解していなかったが、祖母ですら神様に歯向かうことはできない。
先週の日曜日、レックスは教会の年配の人たちに話してみた。彼らはみんな親切だったが、少しよそよそしいところがあった。自分たちと同じ年代で、日本語や中国語や韓国語など、自分の言葉を話す人と一緒にいることを好む傾向があり、言葉のバリア自体のために、レックスを遠ざけているところがあった。スポンサーになって欲しいと頼むこと自体が失礼なようで、気まずく感じた。
それに、結婚していて子供がいる人たちとはほとんど話したことがなかったので、どうやってアプローチしたらいいのかも分からない。レックスの名前も思い出せない人たちにスポンサーになることを頼むのも、少し失礼なように思える。
だから、自分が知っている教会の人たち——独身者をターゲットにした。
それなのに、独身者グループが始まる前の貴重なおしゃべりの時間に間に合わなかった。レックスを迎えに来るはずだったトリッシュが二○分過ぎても現れず——そう言うレックスも六時半までに出かける準備はできていなかったのだが、六時四○分には準備ができていた ——レックスは自分のホンダに飛び乗って、教会へ向かったのであった。
ワーシップリーダーがギターをチューニングしていた——レックスに残されたのは五分間だけ。友情以外のことには興味がないと、男子全員に対し明言していたことを、今頃になって後悔した。みんなレックスのことを怖がっているのだろう。
しかし、クリスチャンの慈善に対する感性に訴えることができるかもしれない。「ヘイ、アルビン」
「やあ、レックス」捕獲された動物のように、用心深い顔つきをしている。
レックスは心の中で、「エペソ」のリストを思い出していた。アルビンはクリスチャン(誠実な出席者)で、いい仕事(エンジニア)を持っているが、身体的な魅力がなく(目が丸くて口が大きいため、ヒキガエルのように見えた)、面白いスポーツもせず(釣りが好きだなんて、レックスには一ミリの忍耐も持てないスポーツだ)、フケがひどかった(もう十分)。
「アルビン、中学生のバレーボールチームに寄付するのってどう思う?」
アルビンの目が明るくなり、目が電気で光っているカエルのように、実に薄気味悪い顔になった。「ああ、中学生ミニストリー? すごくいいね」
「あの、ミニストリーってほどじゃなくて……」
その光が消えた。「違うの?」
確かにミニストリーみたいなことはしている。「私のことを信頼してくれてるから、時々男の子の問題なんかを聞かされると、神様のことを話すように努力してるわ」
「それって伝道?」
「ええっと……」
「その子たちが死に到るほど罪深いことや、個人的な救い主が必要なことに対して、目と心を開かせるの?」
レックスは瞬きして彼をじっと見た。
アルビンは、それを励ましと捉えたようだ。「告白の祈りをして、キリストに明け渡すように導いて、イエス様が心の中に住んでくださるよう招くの?」
「ちょっと……違うかな。私はバレーボールのコーチだから」
「そのアウトリーチ(奉仕活動)は、未信者が、『神様の子供としての愛』を経験するように招くためのもの?」
「そうね……誰でも参加できるの。クラブチームだから」
「試合の前後に祈って、礼拝する?」
「それは、しないわ」
「じゃあ、その子たちと何をするの?」
「神様が愛していて、その子たちの問題を気にかけてくれてる、って言うわ。友達のことを赦して、男の子たちが気に留めてくれることを祈ってる、って言うの」
ショックを受けたアルビンは、一歩ひいた。「それはミニストリーじゃない。娯楽だね」
「娯楽のどこが悪いのよ?」
口がとても小さく閉じられたので、ほとんどあごの中に消えてしまった。「悪いけど、神様に全ての名誉と栄光を捧げるものじゃなければ、神様のお金を捧げることはできないよ」
レックスは彼をにらんだ。「結構よ」
次の獲物。
注意深く選ばなくては。アルビンみたいなのはいらない——
「みんな、座って」ワーシップリーダーは、十二弦のアコースティックギターでコードをかき鳴らした。
チッ、アルビンのために時間を無駄にし過ぎた。
席に座り、「言い尽くせない」という歌が始まると、レックスは自分自身の中に引き込まれていった。歌いながら、その歌詞がいかに自分を居心地悪くさせているかを無視しようとした。何故、神様を言葉で言い尽くすことができないのだろう? 神様は、人の語彙を増やすよう努力したほうがいいのではないだろうか? この、神様が無限であるということ自体が気に入らなかった。
次は、「なんと素晴らしい神」という歌——この歌は我慢できた。神様は素晴らしい。歌いながら、初めて信じた時に感じた偉大なものに引っ張れられる感じ——信じる以外に選択肢はないほどレックスを圧倒する力を感じた。
独身者と青年グループの世話をしている副牧師は、神様を信頼することについて話している。スポンサーやボーイフレンドを見つけることについて神様を信頼しているのだから、これはとても納得できる。そう、神様が助け舟を出してくれる。やれるはずだ。
会の終わりに牧師が祈り終わるとすぐ、レックスは次の標的を見つけた。急に席から立って、ランディの隣にドスン、と座った。
「ヘイ、ランディ。中学生のバレーボールチームをサポートする気ある? とてもいい機会なん——」
「ごめん、レックス。海外宣教しかサポートしない主義なんだ」
レックスは二、三回瞬きした。「どうして?」
「イエス様はすべての国で弟子を作りなさい、って言ってるよね」
「アメリカは国よ」
ランディは手を横に振った。「僕らは自由に教会へ行けるけど、ほかの国では、福音を聞く機会すらないところもある」
首が痒くなった。つまり胸から上が火照ってきて、つまり癇癪を我慢できなくなってきた。「アメリカでもインドでも、貧困で死ぬ人はいるじゃない」
「だけど、インドの人は、キリストのことを聞いたことがないから、もっと大事なんだ」
ほっぺたの内側にレモンが入っているような気がしてきた。「私は家族にクリスチャンになって欲しい、って思ってる。ほとんどの親戚は仏教徒だからね。彼らはアメリカに住んでるわ」
ランディは肩をすくめた。「僕の家族は、もうクリスチャンだよ」
(鼻から息を吸って、鼻から息を吐いて)わざわざランディとあのリストを比較するのはやめた。リストに入れることがもう一つ:(神学上の考え方が、キリストを知らないアメリカ人を除外するものではないこと)
レックスは、少人数だった、その夜の独身者グループを見回した。ゼロ勝二敗、だけどもしかしたら——
携帯電話が鳴り出した。「ハロー?」
「レーックス?」
「トリッシュ? 何かあった?」
「レーックス」(息を吐く音)「迎えに来てくれる?」
「酔ってる?」
「ちょーっとね」
ランディがびっくりした目でレックスを見つめている。おっと、声が大きすぎたようだ。聞こえないふりをしている人も数人いた。
投げるようにバッグを肩にかけ、立ち上がってドアの方へ向かった。「どこ?」
「ええっと……イエローフィーバー・クラブ」
ナビで調べた。「そこから動かないでね。それで、着いたらどこに行けばいい?」
「車……開かないの」(クスクス笑い)「ハンドルがなくなっちゃった」
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第12章
レックスの頭はグルグル回り始めた。トリッシュがいるはずの生物学研究室のあたりを行ったり来たりしていると、各研究室から化学物質がにおってくる。トリッシュの上司にばったり出くわさなければ、レックスは彼女を探すため、まだ研究室の周りを徘徊していただろう。
バイオ技術研究ビルに続く日当たりの良い通路を歩いたが、暖かな日を楽しむ気分ではなかった。トリッシュは、またしばらく教会に来ていない。考えてみれば、もう数週間、彼女と話していなかった。いつもはもっとよくおしゃべりするのに。何かあったのだろうか?
レックスは、エスビルのロビーに続くガラスのドアを開け、その場で立ち止まった。「ここで何やってるの?」
エイデンは振り向くと、鳥インフルエンザウィルスの感染者に会ったかのように、後ずさりした。「や、やあ」
レックスは、誰もいない受付デスクのカウンターをのぞき込んだ。「ブザー鳴らした?」
「五分前にね」彼はもう一度ブザーを叩いた。「これで満足?」
「満足」
「君こそ、ここで何してるんだよ?」エイデンは純粋に知りたがっているように見えた。
「トリッシュを探してるの」
一瞬、エイデンの顔に警戒心が光ったが、その後、あのお米のように味気ない表情になった。「トリッシュって、ここで働いてるの?」
エイデンは自分の表情をコントロールすることができる。彼を怒らせたらどうなるのだろうか、とレックスは思った。
「このビルにはいないわよ。あれっ、また会いたくなったとか?」レックスはニヤニヤ笑った。
彼の眉毛がピクピクした——その穏やかな仮面にできた割れ目のように。「どうも君たち二人から逃げられないようだね」
「何それ」レックスはショックを受けているふりをした。「ストーカーはあなたでしょ」
「君は、僕の後でこのドアを通ってきたんだよ。僕を一人にしてくれないのは君の方なんじゃない?」
彼は彼女をからかっていた。レックスは笑った。もしかしたら、最初に思ったほどつまらない人ではないのかもしれない。
受付嬢が、研究室からロビーに入る磁気で施錠されたドアをカチッと開けた。「ご面会ですか?」
「トリッシュ・坂井さんをお願いします」
「スペンサー・ウォングさんをお願いします」
受付嬢はトリッシュとスペンサーに電話をかけ、受付に来客がいることを早口で告げた。
最初に来たのはスペンサーだった——長身で恰幅がいいアジア系の男子、チョウ・ユンファとラッセル・ウォンを一つにしたようなハリウッド系の顔立ちをしている。レックスのことをチラリとも見なかった。
「ヘイ、エイデン。腹、減ってる? 今日はあまり時間がないんだ。やらなきゃいけない分析があってね」彼らはガラスのドアから出て行った。
数分後、トリッシュが磁気で施錠されたドアを通って来た。「ハーイ、レックス。今日はどうしたの?」
「ランチ行かない?」
「もちろん、中に入ってて。実験終わらせるから」
レックスは、トリッシュの後をついて、また別のにおいがする研究室に入った。トリッシュはラボ用の上着を着用し、数メートル離れたところにある椅子を指さした。「このピペットが終わるまで、そこで待っててくれる?」天井のパイプを通って空気を吸い込んでいる大きな差し込みフードの前に座った。
「何でわざわざここまで来たの?」繊細な機器と、フードの中の液体キャニスターを操作しながら、その騒音より大きい声で、トリッシュは叫んだ。
「ここに来たら確実に会えるでしょ。どうして電話に出ないのよ?」
トリッシュは、表情が見えないようにレックスに背を向けていたが、トリッシュの沈黙が全てを物語っていた。
「どうしちゃったの。最近、教会にも来ないし」
「実はさ……和夫と付き合ってるんだ」
「あの日本人のウェイター?」
「うん」
「日曜日の朝も?」
「そうなの……朝ごはんを食べに行くのよ」
心の隅で、黒い疑惑がレックスを悩ませたが、それを口にはしなかった。無視すれば、きっと実現しないだろう。「へえ」
「おばあちゃんに会ったわよ、二週間ぐらい前。ホビーズで朝ごはんを食べてた時にね」
「どんな様子だった?」
トリッシュは横目で見た。「レックス、おばあちゃんはモンスターじゃないのよ。トモヨシ夫妻と朝ごはんを食べてたわ」
(大変だ)レックスは、心臓が突然一〇キロの重みで胃の底まで落ちた気がした。手で頭を抱えた。「どんな話をしてた?」
「そんなの知らないわよ。挨拶しに行っただけだから。あなたのこともちょっと言っといたわ。必死でスポンサーを探してるって——」
「トリッシュ!」レックスは椅子から飛び降りた。「うそでしょ?」
「何が?」
「スポンサー探しのことを、おばあちゃんに言ったってこと」
トリッシュは口を尖らせ、眉を寄せた。
「ああ、私、スポンサーって言った? 彼氏の間違いよ。そうそう、彼氏を探してるって言ったんだった」しかし、トリッシュの声の震えと青くなった顔は、その反対だと告白しているようだった。
レックスは思い出した。トモヨシ氏の突然の心変わり。ジムの曖昧な「ノー」。他の自営業者からも丁寧に断られた。
祖母の金融サービスは誰にとっても非常に頼りになるため、その影響は日系アメリカ人社会の中に深く根付いていた。レックスのスポンサー勧誘になびかないよう警告し、賄賂を贈り、圧力をかけるために、祖母が自営業者に連絡を取っているのは明らかだ。
「トリッシュ、どうしてそんなことを?」
「うっかり間違えちゃったの」トリッシュは下唇を噛んだ。「どうする?」
レックスは二、三回深く息を吸ったが、お腹の中の煮えたぎりはおさまらなかった。「おばあちゃんと話すわ」
レックスは子供が嫌いではなかったのだが、その時ばかりは全員を黙らせたかった。
「おばあちゃん!」ロータス幼稚園の中では、耳障りな子供の声のためにレックスの叫び声が消されてしまう。祖母は遊戯室の向こう側に立ち、レックスのいとこの子供、エリックが自分のことを片言でしゃべっているのを聞いている。それと同じように、祖母が孫の言うことも聞いてくれたらどんなにいいか。
「こんにちは、エリック。おばあちゃん、話があるの」
「エリック、あなたのいとこのレックスにハーイは?」
「ハーイ、あなたのいとこのレックス」
「おばあちゃん……」
「エリックを母親のところへ届けてから話しましょう。ママに会いたくなーい?」
エリックは曽祖母に笑顔をふりまき、一点のシミもないクリーム色のシャツをベタベタした手でさわった。
「ダメ、今、話したい。ここにいるのを突き止めるまでに、時間がかかりすぎたわ」
「水曜日はいつもエリックのお迎えなのよ」祖母は、エリックがプラスチックの恐竜をおもちゃの箱から出すのを見ていた。何と思いやりと愛情に溢れた曽祖母だろう。冗談じゃない!
「おばあちゃん、自営業の人たちに働きかけるの、やめてくれない?」
「何のことかしら?」レックスではなくエリックに対し、歌うような調子で言った。
「何のことだか、分かってるんでしょ」突然レックスは、祖母に何かを要求するなんて、バカげていることに気づいた。祖母がトモヨシ氏やジムに圧力をかけたことを、レックスは証明することもできない。
「別のスポンサーが必要だからって、おばあちゃんには関係ないことよ。女子チームを切るって決めたのはおばあちゃんなんだからね」
「まだ切ってないわよ」砂糖のように甘い祖母の声は、明らかに刃のような鋭さを帯びている。「私たち、合意したんじゃなかったかしら?」
「誰かを好きになることを強制できないわ。私の友達だって、いくら頑張って恋人を探していても、うまくいかない人は山ほどいるの」
「あなたの問題はね、そういう人を全く探していない、ってことなのよ」
「お父さんは別に気にしてないじゃない!」レックスは両手を放り上げた——幸運なことに、身長六○センチ以上の人は周りに誰もいなかった。「どうしてそこまで問題を大きくするの?」
祖母が瞬きすると、一瞬、年老いてやつれているように見えた。そして、ぼんやりお尻の右側をさすった。レッドエッグアンドジンジャー・パーティの日にかばっていた側だ。そして次の瞬間、表情が消えていった。
レックスはこれを想像しただろうか? 祖母が年老いて見えたことは一度もなかった。いつも完璧な服装、完璧な振る舞い、完璧な健康状態だった。それとも、他の人にそう思われることを祖母が望んでいる、ということなのか? その他の人類と同じように、祖母も自分の歳を感じているのだろうか? もっと曽孫が欲しいと言う彼女のキャンペーンの裏にある事実は、これだったのか?
祖母の厳しい目が、新たな力を得てレックスに突き刺さった。「あなた自身のためなのよ」
レックスはあきれた表情をした。(悪気はないけど、威張って全てを仕切りたがる祖母から、私を救ってください)
祖母の目は、黒い爪楊枝のように細くなった。「やっぱり、私が真剣だと思ってないようね。別のスポンサーが見つからなければ、私が真剣だってことが分かるわ」
「どうして中学生の女の子達に罰を与えようとするの? あの子たちは何も関係ないのに」
「あなたにとって大事なことだからよ」その頑固な視線の中できらりと光る抜け目なさ——だから祖母は、祖父のいいビジネスパートナーだった。「レックス、これはゲームじゃないの。ボーイフレンド探しを始めなければ、あなたにとって大事な人がどうなるか——」
わずかな氷がシャツの中に落ちた気がした。「どういう意味? 何する気?」
「私の影響力が分かったでしょ? リチャードがコンドミニアムから追い出されたら、どうするつもり? あなたのお父さんの車が差し押さえられたら?」
祖母は、自分の息子に対して本当にそんなことをするのだろうか? 孫息子に対しても? 孫娘一人のために?
確かにレックスは祖母の言うことを聞かず、反抗した。タスマニアデビルのように、祖母は敵のうなり声を警告であると捉えず——それを侵略行為であると捉えた。そして祖母は、同じ手段で応酬したのであった。
祖母はかがんで、エリックを抱き上げた。「うちに帰る時間よ、スイーティ」
祖母に凝視されて、レックスは一歩下がった。「レックス、もっと努力してるところを見せなさい」祖母は幼稚園から歩いて出て行った。
祖母がガミガミ言うという理由だけで死んだふりをするのはやめた。だがレックスはバカでもない。デート相手のみならず、スポンサーを探すという二つの目的を持って、木曜夜の独身者グループに駆け込んだ。そこは、祖母が侵入することのできない唯一の場所——教会だ。
祖母は、レックスとその三人のいとこの信仰を理解していなかったが、祖母ですら神様に歯向かうことはできない。
先週の日曜日、レックスは教会の年配の人たちに話してみた。彼らはみんな親切だったが、少しよそよそしいところがあった。自分たちと同じ年代で、日本語や中国語や韓国語など、自分の言葉を話す人と一緒にいることを好む傾向があり、言葉のバリア自体のために、レックスを遠ざけているところがあった。スポンサーになって欲しいと頼むこと自体が失礼なようで、気まずく感じた。
それに、結婚していて子供がいる人たちとはほとんど話したことがなかったので、どうやってアプローチしたらいいのかも分からない。レックスの名前も思い出せない人たちにスポンサーになることを頼むのも、少し失礼なように思える。
だから、自分が知っている教会の人たち——独身者をターゲットにした。
それなのに、独身者グループが始まる前の貴重なおしゃべりの時間に間に合わなかった。レックスを迎えに来るはずだったトリッシュが二○分過ぎても現れず——そう言うレックスも六時半までに出かける準備はできていなかったのだが、六時四○分には準備ができていた ——レックスは自分のホンダに飛び乗って、教会へ向かったのであった。
ワーシップリーダーがギターをチューニングしていた——レックスに残されたのは五分間だけ。友情以外のことには興味がないと、男子全員に対し明言していたことを、今頃になって後悔した。みんなレックスのことを怖がっているのだろう。
しかし、クリスチャンの慈善に対する感性に訴えることができるかもしれない。「ヘイ、アルビン」
「やあ、レックス」捕獲された動物のように、用心深い顔つきをしている。
レックスは心の中で、「エペソ」のリストを思い出していた。アルビンはクリスチャン(誠実な出席者)で、いい仕事(エンジニア)を持っているが、身体的な魅力がなく(目が丸くて口が大きいため、ヒキガエルのように見えた)、面白いスポーツもせず(釣りが好きだなんて、レックスには一ミリの忍耐も持てないスポーツだ)、フケがひどかった(もう十分)。
「アルビン、中学生のバレーボールチームに寄付するのってどう思う?」
アルビンの目が明るくなり、目が電気で光っているカエルのように、実に薄気味悪い顔になった。「ああ、中学生ミニストリー? すごくいいね」
「あの、ミニストリーってほどじゃなくて……」
その光が消えた。「違うの?」
確かにミニストリーみたいなことはしている。「私のことを信頼してくれてるから、時々男の子の問題なんかを聞かされると、神様のことを話すように努力してるわ」
「それって伝道?」
「ええっと……」
「その子たちが死に到るほど罪深いことや、個人的な救い主が必要なことに対して、目と心を開かせるの?」
レックスは瞬きして彼をじっと見た。
アルビンは、それを励ましと捉えたようだ。「告白の祈りをして、キリストに明け渡すように導いて、イエス様が心の中に住んでくださるよう招くの?」
「ちょっと……違うかな。私はバレーボールのコーチだから」
「そのアウトリーチ(奉仕活動)は、未信者が、『神様の子供としての愛』を経験するように招くためのもの?」
「そうね……誰でも参加できるの。クラブチームだから」
「試合の前後に祈って、礼拝する?」
「それは、しないわ」
「じゃあ、その子たちと何をするの?」
「神様が愛していて、その子たちの問題を気にかけてくれてる、って言うわ。友達のことを赦して、男の子たちが気に留めてくれることを祈ってる、って言うの」
ショックを受けたアルビンは、一歩ひいた。「それはミニストリーじゃない。娯楽だね」
「娯楽のどこが悪いのよ?」
口がとても小さく閉じられたので、ほとんどあごの中に消えてしまった。「悪いけど、神様に全ての名誉と栄光を捧げるものじゃなければ、神様のお金を捧げることはできないよ」
レックスは彼をにらんだ。「結構よ」
次の獲物。
注意深く選ばなくては。アルビンみたいなのはいらない——
「みんな、座って」ワーシップリーダーは、十二弦のアコースティックギターでコードをかき鳴らした。
チッ、アルビンのために時間を無駄にし過ぎた。
席に座り、「言い尽くせない」という歌が始まると、レックスは自分自身の中に引き込まれていった。歌いながら、その歌詞がいかに自分を居心地悪くさせているかを無視しようとした。何故、神様を言葉で言い尽くすことができないのだろう? 神様は、人の語彙を増やすよう努力したほうがいいのではないだろうか? この、神様が無限であるということ自体が気に入らなかった。
次は、「なんと素晴らしい神」という歌——この歌は我慢できた。神様は素晴らしい。歌いながら、初めて信じた時に感じた偉大なものに引っ張れられる感じ——信じる以外に選択肢はないほどレックスを圧倒する力を感じた。
独身者と青年グループの世話をしている副牧師は、神様を信頼することについて話している。スポンサーやボーイフレンドを見つけることについて神様を信頼しているのだから、これはとても納得できる。そう、神様が助け舟を出してくれる。やれるはずだ。
会の終わりに牧師が祈り終わるとすぐ、レックスは次の標的を見つけた。急に席から立って、ランディの隣にドスン、と座った。
「ヘイ、ランディ。中学生のバレーボールチームをサポートする気ある? とてもいい機会なん——」
「ごめん、レックス。海外宣教しかサポートしない主義なんだ」
レックスは二、三回瞬きした。「どうして?」
「イエス様はすべての国で弟子を作りなさい、って言ってるよね」
「アメリカは国よ」
ランディは手を横に振った。「僕らは自由に教会へ行けるけど、ほかの国では、福音を聞く機会すらないところもある」
首が痒くなった。つまり胸から上が火照ってきて、つまり癇癪を我慢できなくなってきた。「アメリカでもインドでも、貧困で死ぬ人はいるじゃない」
「だけど、インドの人は、キリストのことを聞いたことがないから、もっと大事なんだ」
ほっぺたの内側にレモンが入っているような気がしてきた。「私は家族にクリスチャンになって欲しい、って思ってる。ほとんどの親戚は仏教徒だからね。彼らはアメリカに住んでるわ」
ランディは肩をすくめた。「僕の家族は、もうクリスチャンだよ」
(鼻から息を吸って、鼻から息を吐いて)わざわざランディとあのリストを比較するのはやめた。リストに入れることがもう一つ:(神学上の考え方が、キリストを知らないアメリカ人を除外するものではないこと)
レックスは、少人数だった、その夜の独身者グループを見回した。ゼロ勝二敗、だけどもしかしたら——
携帯電話が鳴り出した。「ハロー?」
「レーックス?」
「トリッシュ? 何かあった?」
「レーックス」(息を吐く音)「迎えに来てくれる?」
「酔ってる?」
「ちょーっとね」
ランディがびっくりした目でレックスを見つめている。おっと、声が大きすぎたようだ。聞こえないふりをしている人も数人いた。
投げるようにバッグを肩にかけ、立ち上がってドアの方へ向かった。「どこ?」
「ええっと……イエローフィーバー・クラブ」
ナビで調べた。「そこから動かないでね。それで、着いたらどこに行けばいい?」
「車……開かないの」(クスクス笑い)「ハンドルがなくなっちゃった」
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