【ひとり寿司】第13章
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レックスはペッパースプレーをポケットに入れた。ブラスナックル(金属製の拳当て)をバッグに忍ばせることも考えたが、警備員にダメと言われるかもしれない。
心配する必要はないはずだ。トリッシュの車の隣に駐車したが、彼女はそこにいなかった。レックスはクラブのドアから中へ入った。警備員はいない。
脈動するダンス音楽が内臓に響く一方、異様なライトがウインクしているような暗闇の中で、サングラスをかけてクリスマスツリーを見ているような気がした。
どうすればトリッシュを見つけることができるだろう?
電話をかけたが、答えがない——マナーモードにしていなければ、それも納得できる。それに、トリッシュが携帯をマナーモードにすることなどなかった。行きたくないが、バーの中に入ることは避けられない。
大学時代に行ったあの社交パーティのように、何故トリッシュは酔っ払ってしまったのだろうか? ここにいる多くの人たちも、ひどく酔っ払っているようだった。金髪が笑いながらぶつかってきた。「ウープス、ごめんね」
(臭っ)サワーマティーニの息がする。
レックスは、他の人に触れたくなかったので、なかなか前に進めない。人の合間を縫い、身をかがめ、飛び跳ね、横に歩き、後戻りした。
一時間後、ダンスフロアを二周し、バーを三回探し、スチレット・ヒールで足の甲を踏まれ、パンツにビールをこぼされた。トリッシュが思い出して携帯を見たなら、不在着信件数は十五件あるだろう。
レックスはバーに向かった。もう一周したら帰ろう。さわられたり、飲み物が入ったグラスを持つ腕にぶつかって、飲み物をこぼされないよう注意しながら、ダンスフロアの入り口の近くにいる大勢の人混みの中を少しずつ進んだ。
彼女の肩に、重い手が下りた。
レックスの体は一瞬にして鉄のようにこわばった。護身術教室が心をよぎった。「はいやーっ!」後ろに下がり、その手をつかみ、振り返って、同時に掌が上になるようひねった。
「イタ、タ、タ、タ——レックス! 俺、俺!」
「リチャード! あんた、何でそんなバカな——」
「離せ、離せ——ああっ」リチャードは手首を上下に振った。「呼んだのに、聞こえなかったのか」
「そうなんだ」レックスは、恥ずかしく思うだけの礼儀をわきまえている。
「あのさ、お前が好きそうな奴を紹介するよ。そいつもスポーツ好きなんだ」
それを聞いて、元気になった。「マジ?」そして空気が抜けたようになり、リチャードをにらんだ。「今度はどんな落とし穴?」
「へ?」
「既婚者? ゲイ? 母親と同居? それに、こんなバーで何してる人?」
レックスにピシャッ、と叩かれる前に、リチャードは指で彼女の額をつついた。「いい奴だよ。信用しろ」
「は! それって、ダサい証拠じゃない」と言いながらも、レックスはついて行った。リチャードの友達が本当にスポーツ好きなのかに好奇心をそそられることは認める。もしかしたら、レックスと同じように、普段はこういう場所には来ないのかもしれない。それに、人混みの中を通りながら、トリッシュを探すことができる。
長身でがっしりした体格のリチャードが、しゃべりながらお酒を飲む人の間をスムーズに通っていけるよう道を作ってくれたので、ありがたかった。レックスは彼の後ろでかがみ、体をくねらせながら、周りの人に触れるのを避けた。一〇人ぐらいの人が集まっているビストロテーブルをいくつか通り過ぎた。そしてやっと、ボックス席までたどり着いた——何と、あいつはブース席をサッとつかんで、二人の場所を確保した!——奥にあるので騒音レベルも少し低い。
三人の男がパッドのついた席でくつろいでいる。空になったグラスの数から想像すると、すでに何杯か飲み終わり、まだチビチビ飲んでいるようだ。ああ最高、酔っ払いとの会話。お気に入りのクロスワードパズルだ。
「レックス、こちらはタイ・アンダーズ」
こぼれるような微笑を浮かべた、体格はいいが太っていない男が、立ち上がって手を差し出した。その不格好な手は、鯨のようにレックスの手を呑み込んだ。
握手が長すぎる。レックスは手を引っ込めた。(ワン・ストライク)
「リチャードに聞いたよ、スポーツのこと、よく知ってるって」タイの口調は、ギリギリの線だったが、わざとらしくなかった。(ワン・ボール)
レックスはぎこちなく笑った。「少しね」
タイは、名前が分からない二人の男を身振りで示した。「今シーズン、ホシュがナイナーズに戻るかも、って話してたところ」
「可能性は低いわね」
タイは眉毛を上げ、ニヤリとした。「僕もそう言ってたんだ。賢いね」
(ツー・ボール)レックスはためらわなかった。「リハビリしてから攻撃性が弱くなった。一マイル走るのも、普段の八○パーセントも出せてないわ」
タイは思慮深そうに見えた。
(スリー・ボール)
彼はあごをかいた。「それ、広報戦略じゃないかな」
これは新しい考えだ。「そう?」
「レポーターは、先シーズンにベネットの回復がすごく早かったのと、ホシュの回復が遅いのを比べてる。ほら、ステロイドを使ってない、ってやたら反論してただろ」
タイの理論は面白い。(一塁ゴロ)
ダンスフロアを身振りで指した。「踊る?」
まあいい、彼は一塁打を獲得した。
タイについてダンスフロアに向かいながら、胃の中で神経質な曲芸が始まった。(やめて、慌てちゃダメ、速い曲だから大丈夫、周りの男に触れることにこだわりすぎてる、パニクらない)。
かつてはダンスが大好きだった。正しいパートナーとだったら、また好きになれるはずだ。きっと。
レックスは、ビートに乗って楽しもうとした。誰かの手が背中にあたっても、ピクピクしないようにした。タイに笑いかけようとした。すると彼は、もっと近づいてきた。
彼女は硬くなりすぎて、肩甲骨の筋肉が震えた。彼がその大きい手を軽く彼女の腰に回しただけだったのに、ガタガタ震え出した。
タイはそれをダンスの動きだと勘違いしたに違いない。レックスの腰をしっかり掴んで、リズムに合わせて彼女のお尻を揺らそうとした。
レックスは胃けいれんを起こした。タイの手をぐいと押して、後ろに下がった。
彼はついてきた。その顔はぼやけ、混乱しているようだが、まだ人当たりはいい。今度は、その手が上の方にさまよってきて、カップの形をした手で受けるように、彼女の胸郭に手を置いた。
「離して!」レックスは身をよじって離れた。
タイの顔が暗くなり、彼女に向かって暴言を吐いた。
彼女も暴言を吐いて返した。
レックスはダンスフロアから降りた。ばか! タイが酔っていることは分かっていたのに。出口へ向かいながら、最後にもう一度、トリッシュの携帯に電話をかけた。
「ハロー?」しゃっくり。
「トリッシュ! どこにいる?」
クスクス笑い。「バーの近く。この素敵な彼が——」
レックスは携帯をパチンと閉じ、バーの方へどんどん歩いて行った。タイと会って緊張しすぎたせいか、少しぐらい誰かと接触しても、さっきほど神経にさわらなかった。
居た。トリッシュは、Vネックのブラウスの中を見下ろそうとしている中年男性と、バーでくつろいでいた。レックスはトリッシュをつかんだ。「一人で来たの?」
「ううん」トリッシュは、アルコールが入っているせいで、急速に惨めなほどの憂鬱に呑み込まれていった。「ボーイフレンドとね……喧嘩になって」すすり泣き。「出ていっちゃったの、あのバカが……」トリッシュは大声で泣き出した。
レックスは彼女を駐車場へ連れ出したが、新鮮な空気は普段と反対の効果があるようだった。トリッシュが胃の中身を空っぽにしている間、レックスは車のトランクにもたれていた。
「レックス、だったね?」
SPZで面接の時に会った、落ち着かない男。今は意外と陽気だ。「ああ、こんにちは」
「そうそう、向こうで見たと思ったんだ」
ミスター・ハンズと踊った時か、ミス・アップルマティーニをバーから引っ張ってきた時だったか。「いらしたんですね、気がつきませんでした」
「ああ、タイ・アンダーズに会ってるところを見たんだ」
ヘアブラシで皮膚に線を引くように、奇妙で不快なチクチクする感覚が肩の上を走った。「タイさんを知ってるんですか?」
「もちろん、SPZの社員だから」
チクチクが首の後ろから上がってきて、頭蓋底でブーンと音を立てた。「部署はどこですか?」
「僕の上司なんだ」
**********
レックスがストレスによる過食にふけったのは、生まれてからほんの数回だけ。今回もその一つだった。
ドライブスルーの列で少しずつ進みながら、レックスは財布を手探りした。現金はあっただろうか?
「イン・アンド・アウトにいるの?」トリッシュは、レックスの車のあまりきれいではない窓に鼻を押しつけている。「黄色いわ」
「ようこそイン・アンド・アウトへ。ご注文をどうぞ」注文用のスピーカーは、レックスに静電気を吹き飛ばしているように聞こえる。
「スリー・バイ・スリーのアニマルスタイル、ポテトとストロベリーシェイクもお願いします」
「五ドル二二になります」
なんて言った? レックスはバッグの底を探りながら、前に進んだ。どこかにお札がなかったか? 手の中にあるお金を数えた。三ドル。
「私に何も買ってくれなかったじゃない」トリッシュが口をとがらせた。「ダブル……トリプル……が欲しかったのに」彼女は指を折り始めた。
「仕方ないわね」レックスは、トリッシュのバッグをひったくろうと、彼女の膝の右側をはたいた。
「これは私のっ!」
ドライブスルーのウィンドウにたどり着くまでに、レックスは白と赤のユニフォームを着た店員の女の子に渡す一〇ドル紙幣を手に持っていた。
油脂のにおいは、カリッとしたフライドポテト、ジューシーなバーガー、柔らかいパンの味を口の中で感じさせるようなものだった。レックスはイン・アンド・アウトの駐車場に戻り、空いている駐車スペースを見つけた。
最初の一口で、お腹の中の結び目がほどかれた。
二口めで、木のハンガーのような肩がほぐれた。
フライドポテトで、頭痛が楽になった。
シェイクを飲んだら、また頭がキーンと痛くなった。
タイのことで何か言えるとしたら、ジョージの時に失敗してから初めて、不健康なイン・アンド・アウトでの食事にレックスが導かれたことだろう。「レックスのばか」とか「間抜け」とか「能なし」という言葉では、SPZで働くという夢が砕かれ、焼け落ちてしまった瞬間の感情を正確に表現することはできなかった。
とにかく、すぐに触ってくる男のために働くなど、ゴメンだ。
そうだ、一日中、職場でスポーツのことだけを話すというエクスタシーなんて、何の価値もない。全く。
レックスはシェイクを飲みながら、すすり泣きを始めた。
「泣いてるの?」トリッシュが、レックスの鼻先五センチのところまで顔を突き出した。「ああ、可哀想なレックスちゃん。トリッシュちゃんがいい子、いい子してあげる——」
トリッシュの息がくさいので、バーガーを楽しんでいたレックスは、冗談抜きでひきつってきた。トリッシュを押し戻すと、彼女はよろけてドアにもたれ、深呼吸を始めた。
レックスはポテトを食べ終わった。気分はあまり良くならなかった。と言うか、全然だめだ。できたてのフライドポテトで冷静になれないことはなかったのに。フラフラ揺れるジェンガ・タワーのような気分だった。
スカーレットは、何て言ったっけ? 「明日は明日の風が吹く」
お祭りだ。失業に乾杯。
**********
∗タムズはどこ——タムズ、タムズ、タムズ、タムズ……
あのシェイクがいけなかったのか。
レックスの胃はグルグル鳴っていた。朝になったら求人情報を見て、履歴書を出そうと思っていた。父と一緒に生活費を負担しているので、数ヶ月は大丈夫なはず。問題は、本当に仕事が見つかるのか、ということだった。
ドアを開け、転がり込むように中に入り、玄関の鍵をかけた。父は電気をつけっぱなしにしていたのか——
いや違う、父は椅子から降りていなかったのだ。レックスを見上げた。「遅かったね」
「ちょっと緊急事態があって」
濃い眉毛が上に動いた。「緊急事態って?」
「トリッシュの非常事態よ。大丈夫」
「ああ、なるほど」
肩のチクチクがまた始まった。「どうしてまだ起きてるの、お父さん?」
父がまたいつものように肩をすくめたので、レックスはため息をついた。「もう、言ってよ」
肩をすくめるのを途中でやめた父は、「ノートルダムの鐘」の鐘突き男のように見えた。彼は肩を下ろした。
「レックス、出ていってもらわないといけなくなった。家を売ることにしたんだ」
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第13章
レックスはペッパースプレーをポケットに入れた。ブラスナックル(金属製の拳当て)をバッグに忍ばせることも考えたが、警備員にダメと言われるかもしれない。
心配する必要はないはずだ。トリッシュの車の隣に駐車したが、彼女はそこにいなかった。レックスはクラブのドアから中へ入った。警備員はいない。
脈動するダンス音楽が内臓に響く一方、異様なライトがウインクしているような暗闇の中で、サングラスをかけてクリスマスツリーを見ているような気がした。
どうすればトリッシュを見つけることができるだろう?
電話をかけたが、答えがない——マナーモードにしていなければ、それも納得できる。それに、トリッシュが携帯をマナーモードにすることなどなかった。行きたくないが、バーの中に入ることは避けられない。
大学時代に行ったあの社交パーティのように、何故トリッシュは酔っ払ってしまったのだろうか? ここにいる多くの人たちも、ひどく酔っ払っているようだった。金髪が笑いながらぶつかってきた。「ウープス、ごめんね」
(臭っ)サワーマティーニの息がする。
レックスは、他の人に触れたくなかったので、なかなか前に進めない。人の合間を縫い、身をかがめ、飛び跳ね、横に歩き、後戻りした。
一時間後、ダンスフロアを二周し、バーを三回探し、スチレット・ヒールで足の甲を踏まれ、パンツにビールをこぼされた。トリッシュが思い出して携帯を見たなら、不在着信件数は十五件あるだろう。
レックスはバーに向かった。もう一周したら帰ろう。さわられたり、飲み物が入ったグラスを持つ腕にぶつかって、飲み物をこぼされないよう注意しながら、ダンスフロアの入り口の近くにいる大勢の人混みの中を少しずつ進んだ。
彼女の肩に、重い手が下りた。
レックスの体は一瞬にして鉄のようにこわばった。護身術教室が心をよぎった。「はいやーっ!」後ろに下がり、その手をつかみ、振り返って、同時に掌が上になるようひねった。
「イタ、タ、タ、タ——レックス! 俺、俺!」
「リチャード! あんた、何でそんなバカな——」
「離せ、離せ——ああっ」リチャードは手首を上下に振った。「呼んだのに、聞こえなかったのか」
「そうなんだ」レックスは、恥ずかしく思うだけの礼儀をわきまえている。
「あのさ、お前が好きそうな奴を紹介するよ。そいつもスポーツ好きなんだ」
それを聞いて、元気になった。「マジ?」そして空気が抜けたようになり、リチャードをにらんだ。「今度はどんな落とし穴?」
「へ?」
「既婚者? ゲイ? 母親と同居? それに、こんなバーで何してる人?」
レックスにピシャッ、と叩かれる前に、リチャードは指で彼女の額をつついた。「いい奴だよ。信用しろ」
「は! それって、ダサい証拠じゃない」と言いながらも、レックスはついて行った。リチャードの友達が本当にスポーツ好きなのかに好奇心をそそられることは認める。もしかしたら、レックスと同じように、普段はこういう場所には来ないのかもしれない。それに、人混みの中を通りながら、トリッシュを探すことができる。
長身でがっしりした体格のリチャードが、しゃべりながらお酒を飲む人の間をスムーズに通っていけるよう道を作ってくれたので、ありがたかった。レックスは彼の後ろでかがみ、体をくねらせながら、周りの人に触れるのを避けた。一〇人ぐらいの人が集まっているビストロテーブルをいくつか通り過ぎた。そしてやっと、ボックス席までたどり着いた——何と、あいつはブース席をサッとつかんで、二人の場所を確保した!——奥にあるので騒音レベルも少し低い。
三人の男がパッドのついた席でくつろいでいる。空になったグラスの数から想像すると、すでに何杯か飲み終わり、まだチビチビ飲んでいるようだ。ああ最高、酔っ払いとの会話。お気に入りのクロスワードパズルだ。
「レックス、こちらはタイ・アンダーズ」
こぼれるような微笑を浮かべた、体格はいいが太っていない男が、立ち上がって手を差し出した。その不格好な手は、鯨のようにレックスの手を呑み込んだ。
握手が長すぎる。レックスは手を引っ込めた。(ワン・ストライク)
「リチャードに聞いたよ、スポーツのこと、よく知ってるって」タイの口調は、ギリギリの線だったが、わざとらしくなかった。(ワン・ボール)
レックスはぎこちなく笑った。「少しね」
タイは、名前が分からない二人の男を身振りで示した。「今シーズン、ホシュがナイナーズに戻るかも、って話してたところ」
「可能性は低いわね」
タイは眉毛を上げ、ニヤリとした。「僕もそう言ってたんだ。賢いね」
(ツー・ボール)レックスはためらわなかった。「リハビリしてから攻撃性が弱くなった。一マイル走るのも、普段の八○パーセントも出せてないわ」
タイは思慮深そうに見えた。
(スリー・ボール)
彼はあごをかいた。「それ、広報戦略じゃないかな」
これは新しい考えだ。「そう?」
「レポーターは、先シーズンにベネットの回復がすごく早かったのと、ホシュの回復が遅いのを比べてる。ほら、ステロイドを使ってない、ってやたら反論してただろ」
タイの理論は面白い。(一塁ゴロ)
ダンスフロアを身振りで指した。「踊る?」
まあいい、彼は一塁打を獲得した。
タイについてダンスフロアに向かいながら、胃の中で神経質な曲芸が始まった。(やめて、慌てちゃダメ、速い曲だから大丈夫、周りの男に触れることにこだわりすぎてる、パニクらない)。
かつてはダンスが大好きだった。正しいパートナーとだったら、また好きになれるはずだ。きっと。
レックスは、ビートに乗って楽しもうとした。誰かの手が背中にあたっても、ピクピクしないようにした。タイに笑いかけようとした。すると彼は、もっと近づいてきた。
彼女は硬くなりすぎて、肩甲骨の筋肉が震えた。彼がその大きい手を軽く彼女の腰に回しただけだったのに、ガタガタ震え出した。
タイはそれをダンスの動きだと勘違いしたに違いない。レックスの腰をしっかり掴んで、リズムに合わせて彼女のお尻を揺らそうとした。
レックスは胃けいれんを起こした。タイの手をぐいと押して、後ろに下がった。
彼はついてきた。その顔はぼやけ、混乱しているようだが、まだ人当たりはいい。今度は、その手が上の方にさまよってきて、カップの形をした手で受けるように、彼女の胸郭に手を置いた。
「離して!」レックスは身をよじって離れた。
タイの顔が暗くなり、彼女に向かって暴言を吐いた。
彼女も暴言を吐いて返した。
レックスはダンスフロアから降りた。ばか! タイが酔っていることは分かっていたのに。出口へ向かいながら、最後にもう一度、トリッシュの携帯に電話をかけた。
「ハロー?」しゃっくり。
「トリッシュ! どこにいる?」
クスクス笑い。「バーの近く。この素敵な彼が——」
レックスは携帯をパチンと閉じ、バーの方へどんどん歩いて行った。タイと会って緊張しすぎたせいか、少しぐらい誰かと接触しても、さっきほど神経にさわらなかった。
居た。トリッシュは、Vネックのブラウスの中を見下ろそうとしている中年男性と、バーでくつろいでいた。レックスはトリッシュをつかんだ。「一人で来たの?」
「ううん」トリッシュは、アルコールが入っているせいで、急速に惨めなほどの憂鬱に呑み込まれていった。「ボーイフレンドとね……喧嘩になって」すすり泣き。「出ていっちゃったの、あのバカが……」トリッシュは大声で泣き出した。
レックスは彼女を駐車場へ連れ出したが、新鮮な空気は普段と反対の効果があるようだった。トリッシュが胃の中身を空っぽにしている間、レックスは車のトランクにもたれていた。
「レックス、だったね?」
SPZで面接の時に会った、落ち着かない男。今は意外と陽気だ。「ああ、こんにちは」
「そうそう、向こうで見たと思ったんだ」
ミスター・ハンズと踊った時か、ミス・アップルマティーニをバーから引っ張ってきた時だったか。「いらしたんですね、気がつきませんでした」
「ああ、タイ・アンダーズに会ってるところを見たんだ」
ヘアブラシで皮膚に線を引くように、奇妙で不快なチクチクする感覚が肩の上を走った。「タイさんを知ってるんですか?」
「もちろん、SPZの社員だから」
チクチクが首の後ろから上がってきて、頭蓋底でブーンと音を立てた。「部署はどこですか?」
「僕の上司なんだ」
レックスがストレスによる過食にふけったのは、生まれてからほんの数回だけ。今回もその一つだった。
ドライブスルーの列で少しずつ進みながら、レックスは財布を手探りした。現金はあっただろうか?
「イン・アンド・アウトにいるの?」トリッシュは、レックスの車のあまりきれいではない窓に鼻を押しつけている。「黄色いわ」
「ようこそイン・アンド・アウトへ。ご注文をどうぞ」注文用のスピーカーは、レックスに静電気を吹き飛ばしているように聞こえる。
「スリー・バイ・スリーのアニマルスタイル、ポテトとストロベリーシェイクもお願いします」
「五ドル二二になります」
なんて言った? レックスはバッグの底を探りながら、前に進んだ。どこかにお札がなかったか? 手の中にあるお金を数えた。三ドル。
「私に何も買ってくれなかったじゃない」トリッシュが口をとがらせた。「ダブル……トリプル……が欲しかったのに」彼女は指を折り始めた。
「仕方ないわね」レックスは、トリッシュのバッグをひったくろうと、彼女の膝の右側をはたいた。
「これは私のっ!」
ドライブスルーのウィンドウにたどり着くまでに、レックスは白と赤のユニフォームを着た店員の女の子に渡す一〇ドル紙幣を手に持っていた。
油脂のにおいは、カリッとしたフライドポテト、ジューシーなバーガー、柔らかいパンの味を口の中で感じさせるようなものだった。レックスはイン・アンド・アウトの駐車場に戻り、空いている駐車スペースを見つけた。
最初の一口で、お腹の中の結び目がほどかれた。
二口めで、木のハンガーのような肩がほぐれた。
フライドポテトで、頭痛が楽になった。
シェイクを飲んだら、また頭がキーンと痛くなった。
タイのことで何か言えるとしたら、ジョージの時に失敗してから初めて、不健康なイン・アンド・アウトでの食事にレックスが導かれたことだろう。「レックスのばか」とか「間抜け」とか「能なし」という言葉では、SPZで働くという夢が砕かれ、焼け落ちてしまった瞬間の感情を正確に表現することはできなかった。
とにかく、すぐに触ってくる男のために働くなど、ゴメンだ。
そうだ、一日中、職場でスポーツのことだけを話すというエクスタシーなんて、何の価値もない。全く。
レックスはシェイクを飲みながら、すすり泣きを始めた。
「泣いてるの?」トリッシュが、レックスの鼻先五センチのところまで顔を突き出した。「ああ、可哀想なレックスちゃん。トリッシュちゃんがいい子、いい子してあげる——」
トリッシュの息がくさいので、バーガーを楽しんでいたレックスは、冗談抜きでひきつってきた。トリッシュを押し戻すと、彼女はよろけてドアにもたれ、深呼吸を始めた。
レックスはポテトを食べ終わった。気分はあまり良くならなかった。と言うか、全然だめだ。できたてのフライドポテトで冷静になれないことはなかったのに。フラフラ揺れるジェンガ・タワーのような気分だった。
スカーレットは、何て言ったっけ? 「明日は明日の風が吹く」
お祭りだ。失業に乾杯。
∗タムズはどこ——タムズ、タムズ、タムズ、タムズ……
あのシェイクがいけなかったのか。
レックスの胃はグルグル鳴っていた。朝になったら求人情報を見て、履歴書を出そうと思っていた。父と一緒に生活費を負担しているので、数ヶ月は大丈夫なはず。問題は、本当に仕事が見つかるのか、ということだった。
ドアを開け、転がり込むように中に入り、玄関の鍵をかけた。父は電気をつけっぱなしにしていたのか——
いや違う、父は椅子から降りていなかったのだ。レックスを見上げた。「遅かったね」
「ちょっと緊急事態があって」
濃い眉毛が上に動いた。「緊急事態って?」
「トリッシュの非常事態よ。大丈夫」
「ああ、なるほど」
肩のチクチクがまた始まった。「どうしてまだ起きてるの、お父さん?」
父がまたいつものように肩をすくめたので、レックスはため息をついた。「もう、言ってよ」
肩をすくめるのを途中でやめた父は、「ノートルダムの鐘」の鐘突き男のように見えた。彼は肩を下ろした。
「レックス、出ていってもらわないといけなくなった。家を売ることにしたんだ」
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