【オンリー・ウニ】第5章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第5章
生物学者の仕事は決して終わらない。普段の週日か休日かにお構いなく、がん細胞は急激に増殖する。新年だというのに、トリッシュは病院を出てからほんの数時間後、バレー製薬の細胞培養室でダメージコントールをしていた。
正月の週末中に二台のインキュベータが動かなくなってしまわなければ、それほど悪くなかったのかもしれない。
その結果、トリッシュがやっていた研究のうち三つがダメになり、まだ生きている細胞を救出するために、一日中仕事をする羽目になった。上司のダイアナは、自分の上司が待っていた研究結果がバイオハザード用のゴミ箱に行く結果になってしまったので、機嫌が悪かった。トリッシュは、ストレスの上に緊急事態が積み重なり、睡眠不足がそれに追い討ちをかけた。
しかし、ジェニファーが作るダークチョコレート・トリュフで解決できないものは、何もない。
やっと仕事が終わり、家でリラックスしながら、トリッシュは居間のソファに深くすわり、チョコレートがついた指をなめ、閉じられた聖書を置いた膝を見つめた。先延ばしにしていたのであるが、行動に移すことができないでいた。緊張のために、手、足、みぞおちのあたりが震えた。あるいは眠れない夜と忙しい一日のために、エネルギーを費やしすぎたのかもしれない。
カウンターの上に置いてある金魚鉢の中でのんきに過ごす金魚を見つめた。何匹目のゴンゾウだろうか――トリッシュは、自分の金魚を全て、お気に入りのマペット(セサミストリートに出る操り人形)の名前で呼んでいた。
アパートの外で、マウンテンビューからサニーベール方向へ進む電車の音が聞こえた。何時だろう? ルームメイトのマーニーはもうすぐ帰ってくるだろうか? 会社へ行く前に着替えようと少しの間うちに戻ったとき、マーニーはもういなかった。パロアルトまでの通勤時間は短いから、立ち寄れてよかった――。
夕食はどうしよう。疲れ過ぎて料理はできない。外食にしようか――キャストロ通りにはいいレストランがたくさんある――だけど、一人で食べたくない。それに、マーニーがうちにいたとしても、彼女を誘うのはいやだ――マーニーと仲良くなろうとするのは、もうあきらめた。数か月前にルームメイトになった時、何度かおだてて一緒に夕食に出かけようとしたのだが、マーニーはいつも口数が少なく、心を開かないので、結局トリッシュだけがベラベラしゃべることになるのだった。
本当は、そんなに文句を言うのは間違っている。だって、マーニーはいいルームメイトだった――静かだし、自分のボーイフレンド以外の訪問客は滅多に来ない。それにトリッシュと同じで、「ズボラな人」と「幼児のいる家庭」の中間ぐらいこぎれいにしている。そう考えていて思い出した。今週はトリッシュが掃除をする順番だった……。
聖書を引っ張り出し、読むのではなく、ページを見つめた。
(しっかりして。だけど、その前に祈ったほうがいいのかな)ため息が出た。
(親愛なる神様)
白い壁が返事をした。窓から流れてくる風のために、ほこりのようなクモの巣が揺れている。マジで、アパートの中をきれいにしなくちゃ……。
(違う、集中しなきゃ。親愛なる神様――)
鍵を鍵穴に入れる音がして、マーニー・デラクルーズがゆっくり入ってきた。主に青と緑を使ったお気に入りのゆったりしたニットのセーターは、マーニーを実際よりも更に背が低くてぽっちゃりと見せていた。マーニーはいつもと同じように――ペットが死んだばかりのような顔をしていた。
「ハーイ、マーニー!」文句以外の返事が返ってくることを期待して、トリッシュは楽しそうな声で言った。
「ハイ」一言だけ。口紅を塗っていない口は、半ばしかめっ面の顔にはめ込まれている。マーニーは、台所のカウンターに鍵を置き、キラキラ輝く滝のような黒髪を後ろになでつけた。そして、なで肩からコンピュータバッグを下ろした。
「あなたも今日仕事だったの?」
マーニーはシマリスのように丸く膨らんだ頬に手を持って行き――そうすれば陽気に見えるはずだが、見えなかった――ため息をついた。「サーバーが落ちちゃって」
トリッシュは顔をしかめた。「それは大変だったね」
マーニーは肩をすくめた。
会話は終わり。
まあ、マーニーのオリーブ色の肌がほんの少しほてったのと、少しいつもより悲しそうだったのは、疲れているからだろうとトリッシュは理解した。疲れていると、マーニーは更に口数が減りがちで――長い一日の仕事が終わった後は、よくテレビの前に倒れ込んだ。
しかし今日、マーニーはトリッシュを驚かせた。「お母さん、大丈夫?」
驚きを隠す前に、トリッシュは数秒まばたきをした。「うん、父と話したけど」形式的な会話。「大丈夫みたい」
「心臓発作?」マーニーは冷蔵庫を開けた。
「そう。経過観察のために入院中」そして、心臓発作の原因となった娘を遠ざけているのだろう。「二、三か月、静養しないといけないみたい。誰かお世話をしてくれる人も必要だし」
「お父さんは?」
トリッシュは横を向いた。「父は看護師を雇わないって言うの。自分で母の世話をするんだって。驚いたわ」分からなかった。そんなことをしたら、確実に女の尻を追いかけ回す時間がなくなる。もしかしたら父は、看護師が母の健康と自分の行動の両方を観察することになるという状況が嫌なのかもしれない。
マーニーがソーダの缶をポンと開けた。どうしたのだろう、その大きく黒い目は少し曇り、遠くを見ているようだった。具合でも悪いのだろうか。「お母さんのことを愛してるからよ」
トリッシュは胃が締め付けられた。吐かないように、唇をキュッと堅く閉じた。罠にはめられた気がした――母が回復しようとしているときに、父の浮気のことを母に話すことはできないが、父と話したくもなかった。今は、できることは何もない。「そうかもね」
ソーダをすすりながら、マーニーはテレビの方へふらりと歩いて行き、トリッシュの膝を見た。「それ、教会の?」
トリッシュは、明らかに真っ白なノートを閉じた。無神論者のルームメイトに対する何と素晴らしいあかし人だろうか。「始めたところ。テレビ見たいんだったら、部屋に行くわ」寝室に入り、ドアを閉めた。
布団に寝転がって、聖書とノートを前に置いた。頭を下げた。(主よ、あの……ええと、最近、聖書を読んでません。ごめんなさい。だけど、答えてください)泣き言がわき上がってくるのを感じたが、何とか抑え込んだ。(あなたの前に出るのは、ちょっと変な気がします。最近の私は、クリスチャンらしく行動していませんでした。ごめんなさい。今回こそ、本当にごめんなさい。昨日、悪いことがたくさん起こりました……ああ、もちろんご存知ですよね。これは、私が悔い改めるように、二回目のチャンスを下さったということでしょうか。助けてください。私はあなたの助けに値しない者ですが、憐れんでください)
肋骨が伸びきっているのを感じるまで、トリッシュは肺を満たした。息を吐くと、ゆっくりした優しい波のような平安が心をきよめ、ビクビクした緊張を流し去った。聖書を開くと、コリント人への第一の手紙の始まりだった。読み始めた。
第一章を読みながら、トリッシュはドキッとした。「主はあなた方を最後まで堅く保って……責められるところがない者としてくださいます。」
(責められるところがない)厄介者ではなく、責められるところがなく純粋な人になりたい。それにこの聖句は、キリストが彼女を堅く保ってくれるから、責められるところがない者になれると言っているのだろうか?
もう一度、責められるところがない人になれるのか? 失ってしまったものをまた手に入れることができるのか? 文字通りではないだろうが――だって、何人か前の彼の時に、うかつにもなくしてしまった処女を取り戻すことはできないのは分かっている。しかし、他のもの全てを取り戻すことは可能なのだろうか? 純潔さと、いとこ達の愛情と支え、そして、なくしてしまった信頼を?
トリッシュはいつも、必要な時に彼女を救う魔法のランプのように神様のことを考えていた。でも今は、もっといい人間になりたいと思う。より良い選択をしたい。和夫の存在と、彼に対する祖母の行為に惑わされている今のように惨めなジレンマの中ではなく、もっといい場所にいたい。
トリッシュは純潔さを取り戻したかった。それができれば、全ては以前と同じようになるだろう。
第七章で、また御言葉が語りかけた。「あなたがたが思い煩わないように、と私は願います……私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるようになるためです。」
トリッシュはベッドから転がり落ちそうになった。ひたすら主に奉仕する。それは、彼女が望む魂の場所だった。神様は、ご自分のために奉仕することを願っておられる。ひたすら。
気を取られることなく。
ちょっと待って。気を取られる? どこに行っても、トリッシュは男性に気を取られた。その目はいつもあちこちを見回していた。いつも恋こがれ、(あの人はシングルかな? かわいい。おっ、友達が素敵。ああ、あの老婦人に親切にしてるから――いい人に違いない)などと考えていた。
しかし気を取られなければ、コリント人への第一の手紙第七章にあったように、主のことだけを考えるだろう。でも、正直言って、ちょっと退屈そうだ。
ひたむきな信仰。うーん。後でもう一度考えてみよう。
その週ずっと、トリッシュはコリント人への第一の手紙と第二の手紙を読み続け、メモを取り、気がついた聖句を書き留めた。木曜日の夜、自分の部屋で第二コリントを読んでいた時、ある聖句が稲妻のように光った。息をのみ、背筋をピンと伸ばした。
不運なことに、その時トリッシュは椅子の背にもたれ、爪先を座席のクッションに押し込んでいた。突然動いたので、バランスが崩れ、椅子が後ろに動き出した。
目の前で、腕がぼやけて見えるほど激しく揺れ、毛玉を吐き出す猫のような音を立てて転倒した。尾骨を強く打ち、肘がカーペットの上で擦れた。聖書はページをはためかせて、胸の上に落ちた。
トリッシュは慌てて立ち上がった。壁の向こう側の居間では、マーニーがテレビを見ていた。カーペットにどさっと落ちた音が、スペイン語のメロドラマに消されていたらいいのだが。トリッシュは聖書を机に置き、椅子を元に戻した。蹴飛ばしたい衝動を抑えて――爪先の方が弱いに決まっている。
どこまで読んだだろうか? トリッシュは、今度こそきちんと椅子に座り、シワのよったページをめくった。あった、第五章。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
この箇所は、新しいクリスチャンになるためのプロセスのことを言っているのだと、いつも思っていたが、もしかしたら、昔からのクリスチャンで、堕落してしまった人にも当てはまるのではないだろうか? トリッシュが若くないというわけではないが、ただ……もっと分別があってもいい歳であることは確かだ。
昔の自分、昔の問題、昔の誘惑(つまり、和夫)を完全に捨てて、心から新しい自分へと飛び込むことができる。新しい人生の冒険。何と素晴らしいことだろう!
「これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」
神様のところへ戻り、他の人にその御言葉を告げる。もちろんだ! やれる。話をするのは得意だ。
第六章は、読むのが辛かった。「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。」
この箇所は何百回も読んだのに、全然理解していなかった。クリスチャンではない男性と付き合うことによる弊害が見えていなかったから、わざと見ないようにしていたのかもしれない。しかし、本当に神様のために尽くすのであれば、自分と同じように考えない人と人生を共有することなど考えもしなかっただろう。
トリッシュは、恐ろしい真実に気がついた。クリスチャンの男性とだけしか付き合わないということは、デート相手の数が減るということだ。劇的に。
素敵な男性が通り過ぎる時、キリスト教が自分の頭の中になかったことは認める。その彼が振り返って彼女を見たときは特にそうだ。だけど、どうしてクリスチャンの男性だけ? それって、すごく難しいことだ。でも和夫がクリスチャンだったら、そそのかされて、また寝てしまうこともなかっただろう。
正確には、まだ彼と別れたとは言えなかった。それに、一緒に過ごしたあの魔法のような時間、本当に楽しかった。彼女にとって良くない男性は、みんなどうして彼女をいい気分にしてくれるのだろうか? 興味を持てるような魅力的なクリスチャンの男性は誰も知らなかった。だけどやはり、自分が神様を中心に置いていれば、デート相手の候補がいないことすらも気にならなかったのだろう。
そうだ、そこに明らかに書かれているではないか。それは、神の子どもとなった者に要求されることなのだ。そして、約束してくださっている。従うなら、「わたしは、あなたがたを受け入れ」ると。ああ、愛情深い腕の中に受け入れられること、それがトリッシュの望むことだった。「わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。――」
トリッシュは、愛される娘になるという親しい関係が欲しかった。病院の待合室の真ん中で和夫に抱きしめられるのを見られた後、いとこ達の好意を失い、祖母は、トリッシュが和夫とよりを戻さなければ優しくしてくれない。母は重病、父とは……柔らかい表現をするなら、緊張した関係にあった。トリッシュのためにそこにいてくれる人は、誰もいなかった。
もっといい人間になることができれば――神様に愛されるような人になれたら――神様は、完璧なクリスチャンの男性を送ってくれるかもしれない。探すのをやめたら、探していたものが見つかったと、よく言うではないか? いとこのレックスの場合はそうだった。エイデンと素晴らしい関係を築くことができた。
トリッシュの場合、第一コリントの第七章あたりでパウロが言う「欲情に燃える」ようなものがあるのは確かだ。頼りになるクリスチャンのボーイフレンド、強い信仰を持った人が必要だった。自分の信仰が強くなくても大丈夫なように。
トリッシュは読み続けた。ノートには、聖句と彼女の思いが何ページにも書き綴られた。
金曜日の夜、トリッシュは完璧な社会の落伍者のように家の中に引きこもり、第二コリントの最後の数章を終わらせた。第二コリントの第十二章で、パウロに対するキリストの言葉に目を留めた。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」
涙が溢れ出した。
彼女はとても弱く、落伍者で、ふしだらな女だった。でもキリストは、その弱者・落伍者・ふしだらな女という立場にもかかわらず、その力をくださると約束してくださった。パウロ自身もそう言っている。「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」パウロがムチ打たれ、投獄されても信仰を保つことができたのなら、朝の交通渋滞のために癇癪を起こさないことぐらいできる。
ティッシュで鼻をかみながら、トリッシュは第二コリントを読み終え、最後のメモを取った。椅子の背にもたれ、深呼吸して、喉の中で空気が小さい音を立てるのを感じた。ぼんやりとした緊張感が、お腹の真ん中でぐつぐつ煮え始め、少し吐き気がした。これは、ちょっと重大なことだった。
キリストとの和解。責められるところがない。ひたむきな――気を取られることがない――信仰。
緊張感が素早く沸騰し始め、トリッシュは大きく呼吸した。彼女にできるのだろうか? クリスチャンではない男の子に――つまり、全ての男の子に背を向ける。だって、クリスチャンの男の子だったとしても、男の子に目が行ってしまうトリッシュに、神様は決してボーイフレンドをお与えにならないだろう。心の中にある欲望に背を向け、ひたむきな信仰を持つことができるのだろうか? ジェニファーはできるようだ――模範的なクリスチャンの女の子だから。トリッシュは、今まで以上に神様に頼ることができるだろうか? 大抵の場合、神様のことを考えるのを単に忘れていた。
ナイキのスローガンのように、「やるしかない」別の人、より良い人になることを約束する。全てを元通りにして、純潔を取り戻す。
冷たい水しぶきが飛んだようにトリッシュは我に返り、緊張が鎮まり、新しい目的で活気づいた。心の奥深くにある欲望を追いやって、キリストを第一にする。どうすればいいかは、第一・第二コリントが教えてくれる。
メモに目を通しながら、パターンに当てはまっていることがたくさんあることに気がついた。手と足に、エネルギーのほとばしりを感じた。学校に戻り、他の生徒が途方に暮れている微積分の概念を理解したような気分だった。
(できると思う……)
「ハーロウ?」ジェニファーの声は、寝起きのためにシワがれていた。
「ジェン、フリーウェイを降りたところ。あなたのとこへ行く途中よ」
「トリッシュ? 今何時なの?」
「中に入れてね。叔母さんを起こしたくないから、携帯に電話したのよ」
「ええっ? 何時にマウンテンビューを出た?」ジェニファーが何かを手探りしている音が聞こえた。
「途中でコーヒーを買ったけどね。ちょっと話があって――」
「トリッシュ、土曜日の朝七時よ!」
(マズい)「あの……もうちょっと遅い方がいい? ちょっとドライブして回って……」
ジェニファーはため息をついた。「もういいわ、起きちゃったし。鍵、開けとくから」
二〇分後、トリッシュはジェニファーの家の台所に飛び込んだ。コーヒーメーカーの前に立って居眠りしていたジェニファーは、かすんだ目をトリッシュに向けた。
トリッシュは、カウンターの上に聖書を置いた。「おはよう。私の分もある?」
「もうコーヒー買ったんでしょ」ジェニファーは、トリッシュの手の中にある超グランデサイズのポップコーン容器のようなコーヒーカップを身振りで指した。
「ああ、全部飲んじゃった」
「もう一回淹れるわ。その前に、一杯飲ませて。まともに話せない」
わあ、今朝のジェニファーは確かに機嫌が悪い。トリッシュは朝食用のテーブルに後退りした。「ごめん、昨日の夜読んだ聖書箇所に興奮してて」
「何なの?」
「私の問題はね、男だって分かったの」
ジェニファーは称賛してくれなかった。もっと説明を求めるように、手で空中に弧を描いた。「それって、女の子に共通の問題でしょ?」
「だけど、特に男性がいるときの私の行動がさ。和夫も含めて、他の男性に対する欲求をやめなきゃ。純潔さを取り戻したいの」
「それはすごい啓示かもね」ジェニファーはあくびをした。「どこを読んだの?」
「第一コリントと第二コリント」トリッシュは椅子に座って上下にはねた。「暗記した聖句もあるわよ――愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか(第二コリント七章一節)」
ジェニファーはトリッシュを見つめていた。
目を開けながら眠りに落ちることができる人なんて、いるのだろうか? 「ジェン?」
ジェニファーは鼻をすすった。「何よ」
「ああ、起きてるのね。だから、完全な変革が必要なの。すべてを神様に捧げるためにね。だから、決まりを三つ作った――」
「ちょっと待って、その決まりって、どうやって決めたの?」
「心配しないで、第一、第二コリントだから。神様が私に示してくれた言葉なの。そこから大事なテーマが三つ浮かんだのよ」トリッシュは、聖書から小さいメモを三枚取り出した。
「くどいかもしれないんだけど、聖書を参照してる?」
「うん、文脈から解釈したってこともない。じゃあ、ちょっと黙って聞いててね。ルール一番――」
「ルール一番」ジェニファーは、トリッシュの向かいにある椅子に深く腰かけ、手で頭を支えた。
「見ない」
ジェニファーは、一瞬混乱してじっと見た。「はあ?」
「男を見るのをやめなきゃいけないの」
「目隠しでもするつもり?」
「違うわ、たださ……私って、どこに行ってもいい男に会えないかなって、見回してるの。会話を始めて、品定めして、独身だったら、ちょっと誘ってみたりとか……。そういうの、やめなきゃ」
「もう一回聞くけど、目隠しでもするの?」
「ジェン!」大人しいジェンが、朝の七時にこんな利口ぶった発言をするとは、誰が思うだろうか?
「ごめん、ごめん。もっと親身になる。だけど……クリスチャンの男性にも、そうするの?」
「そうね、けしかけなくても私に興味を持ってくれる男性だったら、必ずしも遠ざけないかも。だけどこのルールは、魅力的だけどクリスチャンじゃない男性に誘惑された時に、私が神様の御心を忘れないようにするためなの」
「そのルール、本当にうまくいくと思う?」
トリッシュは唇を噛み、メモをチラッと見た。「……そう願うわ。少なくとも、自分の問題が何なのかが分かった。この性癖をやめるのは難しいかもしれないけど、やめなきゃいけないの」
ジェニファーは疑っているように見えた。「オッケー、じゃあ次は?」
「ルール二番、他の人にキリストの話をする」
「それは、いつだってそうあるべきでしょ」
「今よりもっと、ってこと」つまり、今まではほとんど全くしなかった。
「街角で説教するつもりじゃないよね?」
「違う、だけど職場は未信者ばかりよ。もっと神様の話をするようにできる」トリッシュは、細胞株をまきながら会話を始め、頭をかがめて生化学分析をしながら救いに導かれる同僚を思い描いた。
ジェニファーは唇を噛んだ。「周りの人全てに伝道する必要はないのよ。神の愛を行動で示せばいいの。会社の冷蔵庫に入れてあったアイスクリームを誰かに盗まれた時に、その人を赦してあげるとか」
「だけど、あれはパイントサイズのハーゲンダッツだったのよ」
ジェニファーの眉が、意味ありげに上がった。
「分かった、分かった。でもさ、いい人だって思われるだけじゃない? 神様が私のことを、信じられないぐらい新しいトリッシュに変えてくださったからだとは思わないでしょ」トリッシュは「ジャ、ジャーン」というポーズで腕を広げた。
ジェニファーは笑顔すら見せなかった。「そんなに簡単じゃないと思うよ」
「だけど、そうしたいの。神様が助けてくれるわ。そしてルール三番、忍耐を持って、神様に頼ること。パウロはコリント人に耐え忍びなさいって言ったの。困難な時には、神様が力と恵みを与えてくれて、助けてくれるって」
「そんなルールを守ったって、自動的に神様に自分を捧げることにはならないのよ」
「だけど、このルールを守ったら、神様はいつか私の心を変えてくれて、神様に自分を捧げることになるんじゃないかな」
「そんなこと、どこに書いてある?」
「第二コリントのここよ。『くびきをともにしてはいけない』ってとこの後」トリッシュはページをめくった。「『わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。――全能の主は言われる』ってね。ほら、私は神様の娘になるの。後ろめたくなるような娘じゃなく、いい娘になる」
「なるほど……、その通りかもね」ジェニファーはその聖句をじっと見つめた。
「何か心配してるみたいだけど」
「ちょっと律法主義的な気がしてさ」
「違うわ、これはね、私がするべきことを思い出させてくれるの。生きていく上での新しいルールよ!」トリッシュがまた腕を広げると、コーヒーカップが倒れそうになった。
「静かに、お母さんが起きる」
「あっ、ごめん」トリッシュはテーブルにもたれた。「で、どう思う?」
「誤解しないで欲しいんだけど――神様にしっかり目を向けなきゃいけないことに気がついたのは、いいことよ。とても大きい霊的な進歩だと思う。それに、ルールもいい。悪いところは何もないし、聖書に基づいてる」
トリッシュは、スターバックスの外で五ドル札を見つけたかのように、明るくなった。「じゃあ、アカウンタビリティー・パートナーになってくれない?」祈りのパートナーが要ることを覚えていた自分を誇らしく思った。本当に誰かに頼んだのだから、なおさらそうだ。
ジェニファーの眉間にシワがよった。「私が?」
「そうよ、ダメなの?」
「そうねえ……」ジェニファーは、髪の毛をクルクルいじった。「あなたのことが好きじゃないっていうんじゃないけど、いつもレックスの方が仲いいじゃない」
トリッシュは、頬の内側を少し噛んで、首の後ろをひっかいた。「ああ……最近レックスからメールの返事がないの」
ジェニファーの目が少し大きくなった。「レックス、大丈夫なの?」
「うん、そう思う……多分、怒ってるの。私のこと」首の周りに温熱パッドを巻いているように、首が温かくなってきた。
「あなたのことを? どうしてよ」
「あの夜病院でさ、和夫と私が……ちょっと抱き合ってたから」
「抱き合ってたって、病院で?」
男性との抱擁の場所として好ましい場所ではないことはトリッシュにも分かっていたが、あの時は、彼女だけに非があるわけではなかった。「浮気なお父さんを引っ叩こうとしたら、後ろから和夫に抱きつかれたの。正当な理由でしょ」
ジェニファーは、傷がついた木製の台所テーブルに目を落とした。「それは確かに」
「それに、ビーナスはいつも仕事が忙しい」
「スタートアップだからね、もちろん忙しいわよ。毎週ビーナスのアパートに食べ物届けてるもんね、私」
トリッシュは驚いた。「あなたの料理、食べるの?」
ジェニファーは呆れた顔をした。「ビーナス用の特別料理よ。ローファット、高繊維、低タンパクのね」
「ああ」マズそう――ビーナスが好きそうな食べ物だ。「とにかく、だからあなたが必要なの。だってさ……」トリッシュは唇の内側を噛んだ。「……私、あの二人から見捨てられた気がする」トリッシュがレックスを見捨てたように。
ジェニファーはトリッシュの手に触った。「見捨ててないと思うよ、絶対」
「だけど、そんな気がするの。ビーナスは忙しいし、レックスは話もしてくれない」
「トリッシュ、レックスだって完璧な人じゃないの。初めに傷つけたのはあなたなんだから、レックスも時間が必要なの。だけど、いつか電話がかかってくるわ。それに――」しかしジェニファーは、言おうとしていたことをのみ込んだ。一房の髪の毛を編み始めた。
トリッシュはジェニファーをじっと見つめた。「何?」
「別に……」
「言ってよ、ジェン」
ジェニファーは、トリッシュを見上げた。「私たちがあなたを助けて、ほこりを払い落として、問題を解決してあげるとするじゃない。そうしたら、あなたっていつも、またどっかへ行っちゃって、同じことをするよね」
「違う、私は――」そうだった、去年、あの「もうデートはしない」(ジョシュア・ハリス* 流に)の時期があったが、長続きしなかった。それから、また教会へ行くと言っていたこともあった。あの時は数週間続いたが、また日曜日はゆっくり寝る習慣に逆戻りした。それに、とうとう和夫とは終わったと誓った後で、また親しくなるという始末。その結果、和夫ほど重要ではないと、レックスに思わせてしまった。それから……
ジェニファーは、まばたきをしてそこに座っていた。
「だけど、今度は本当に真剣よ」
「どうすれば、そう信じられる? 」ジェニファーの質問には偽りがなかった。
トリッシュは椅子に深く腰かけた。今回はこれまでの衝動的な決心とは違うことを、分かってくれる人がいるのだろうか? 今回は本当に違う。どうしてだか分からないが、トリッシュには分かっていた。心の奥深くに、感情以上のものがあった。「私が心の底からそう思っていること、どうやったら証明できる?」
ジェニファーは、まだまばたきしている。
神様に捧げ、心から神様のために奉仕をしたいと願う、いいクリスチャンの女の子になったことを、どうすれば紛れもなく証明することができるだろうか? そして――。
ちょっと待って。いいクリスチャンの女の子。捧げる。誰よりも教会のために奉仕をする人――牧師だ。
「神学修士を取るわ!」
ジェニファーはもっと速くまばたきした。「何それ?」
「神学修士よ。そうすれば、私が本当に変わったことに誰も反論できないでしょ」
「その神学修士で何するつもり?」
トリッシュは手をふった。「必ず神様が教えてくれる」
「だけど、神様はあなたに神学修士を取れって言ってるの?」ジェニファーは髪の毛をくるくる巻き始めた。「どうかしら、トリッシュ……」
「どうしてダメなの? 完璧だわ。勉強するの、大好きだし」
「大変なことよ。何年もかかるかもしれないし」
「勉学は恐くない。言語も得意だし――ヘブライ語もギリシャ語も楽勝よ」
「そんなことないと思うよ――」
「レックスとビーナスだって、私が頑張って神学修士を取ったら、真剣だって分かってくれる」
ジェニファーは目を閉じ、額に手を当てた。「こういう話をするには朝早すぎるわ」
「近くに神学校ないかなあ? 教会で聞いてみる。リモートプログラムか何かに申し込むこともできるし」
ジェニファーは指と指の間からトリッシュをチラリと見た。「いいことなのかもね。一見クレイジーな考えだけど」
「クレイジーじゃないわ、最高の考えよ。とりあえず、今は私のアカウンタビリティ・パートナーになってくれるでしょ?」
「もちろん」ジェニファーはため息をついた。
「どれぐらい時間がかかるかなあ」
「何のため? 学位?」
「違う、神様のために全てを捧げられるようになるため」
ジェニファーの口が開いたままになった。「何? 本気?」
「和夫ね、この夏しばらく日本に帰るの――叔父さんが新しい画廊を開くことになって、そのオープン記念で和夫の絵を飾ってくれるんだって――だからその間に、この三つのルールを守ってこれまでと違う私になるわ。和夫の誘惑に負けないように」
「それより早く誘惑にぶち当たること、ないの?」
トリッシュは怒って言った。「どこで? 教会? 教会ではそんな人に絶対会わないでしょ」
「あなたのアパートはどうなの?」
「ウェッ、絶対ないわ。既婚者か、巨大な感情的お荷物を抱えている人ばっかりだもん。それに、上の階の人は何か違法なことやってるみたい」
「職場は? みんな賢くて、定収入がある人ばかりでしょ」
「クリスチャンじゃないし、ブサイクな人が多いの。誘惑されない」トリッシュは立ち上がってコーヒーに手を伸ばした。「見てて。変わってみせる。そして神学修士を取って、一時的なものじゃないって証明する」
*アメリカ人の作家・牧師で、聖書に基づく交際・人間関係に関する思想を提示、ミレニアル世代の純潔文化の形成に貢献した。
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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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