【オンリー・ウニ】第2章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第2章
トリッシュは二人をじっと見た。彼らも見つめ返した。
誰も動かなかった。
トリッシュは、父の方から何か言うのを待っていた。見つかったのは父なのだから、彼が何か言うべきではないのか? 彼女は何も言うつもりはなかった。何と言えばよいのだろう? 「ああ、お父さん。浮気相手を紹介してよ」とか?
それともメロドラマのように、「どうしてそんなことを?」はどうだろう。
または声を震わせて、「わがままで忌々しい虫けら」と呼ぼうか。
女性は表情のない目でトリッシュを見た。きれいな人。トリッシュは彼女が憎かった。
こんな風に言うべきだろうか。「どうして既婚者を追いかけるんですか?」それとも、「あなたも既婚者ですか?」
部屋がグルグル回り始めた。トリッシュは乾いた息をのみ込み、息を止めていたことに気がついた。波が浜辺を覆うように、少し開いたドアの隙間から聞こえてくるささやき声が、静かな部屋に入ってきた。
「トリッシュはどこかしら?」祖母の洗練された声が、何故かファミリールームの騒音を越えて聞こえてきた。
突然、祖母はそれほど悪くないように思えた。
向きを変えて、ドアを大きく開け、廊下に出た。廊下の照明のスイッチをつけ、行く道を照らした。
クリーム色のカーペットが目に入った。大嫌いだ。清潔で、きれいで、柔らかかった。
ジェニファーが角を曲がって廊下に入ってきたので、ぶつかりそうになった。「ビーナスを助けに来て――」ジェニファーの顔は、涼しい顔から心配そうな顔になった。「どうしたの?」
トリッシュは口を開けたが、その口から出てくる言葉は「ああ」と「うん」だけだった。
ジェニファーは本当に心配そうな顔をした。「トリッシュ?」トリッシュの肩越しをチラリと見た。
「ダメ!」しわがれ声だったが、何とか意味は通じたようだ。トリッシュは震える手で、ジェニファーを廊下の方に押し返した。最初は抵抗したが、ジェニファーは従った。いつもそうするように。
二人は、親戚が集まっている居間に突入した。ほとんどの人が食べていた。騒音は大きすぎ、照明は明るすぎた。トリッシュは、金切り声で「うるさい!」と怒鳴って逃げ出すという、つかの間の夢を見た。
耐えられなかった。親友である三人のいとこと一緒にどこかへ行き、怒りを発散させて泣き叫びたかった。
逃げ出したい、そのために、あと二人のいとこを見つけて引っ張っていかなくては。だけどそのためには、祖母を見つける必要がある。和夫を避けながら。「おばあちゃんは?」
「台所よ」
トリッシュは人混みの中をかき分けて進んだ。「挨拶して、帰るって言わなきゃ」
「えっ、私たち帰るの?」
「レックスとビーナスもね」
「そうなの?」
「緊急事態よ」
ジェニファーの目が丸くなった。「ああ、分かったわ」
「だけど、和夫を避けなきゃいけないの」
「何でよ」
「会いたくないのよ」実は、とても会いたかった。「彼が寄ってきたら、何とか遠ざけてくれない?」
「もうそうしてるわ。ビーナスと話してる。台所で」
「そうなんだ。じゃあ……ちょっと行って、おばあちゃんに挨拶してくる」
「あなたに会わせるために和夫を連れてきたのよ。きっと呼びに行くわ」
働かせすぎたトリッシュの頭脳では、ジェニファーの論理を理解することができない。「じゃあ、何とか和夫が近づいてこないようにしてよ。その後おばあちゃんに言うから。帰るって」
「おばあちゃんは喜ばないわよ」ジェニファーは唇を噛んだ。
もちろん祖母は嬉しくないだろう。レックスとビーナスは、祖母を苦しめるのが楽しいようだが、トリッシュとジェニファーは祖母を喜ばせたかった。その方が人生は楽なのだ。トリッシュは泣きたい気持ちをのみ込んだ。「彼とは話したくないの」
ジェニファーの眉間にシワがよった。「おばあちゃんに会いに行く前に、ちょっとここで待ってたら? レックスに何かいい考えがあるかもしれないから、呼んでくる」ジェニファーは方向を変えて、人混みの中に飛び込んでいった。
いい考えだった。トリッシュは、居間の中で誰もいない隅に立ち、人々の皿に載っている食べ物を見ないようにした。お腹がグーグー鳴った。スカートにできたシワを伸ばした――あの鏡もちについていたもち粉は、ずっとここについていたのだろうか? それにこのシール、あの忌々しいアリソンの悪戯だ。
「トリッシュ、そこにいたのね」
(あ、あ、ああっ、やめて)「おばあちゃん、探してたのよ」心臓が飛び出ないように、胸の前で手を握りしめた。そして、お腹を引っ込めて、少し小さくなろうとした。
祖母を見ると、トリッシュはいつも自分が太っているように思えた。新年会のような家族の豪華な集まりでも、祖母はほとんど食べない――そして、すでにスリムな体なのに、さらに五キロは痩せて見える素敵なビジネススーツを着ていた。トリッシュの方へ踊るように進みながら、クリーム色の下襟につけたすかし細工を施してある金色のピンを、指でもてあそんでいた。
「元気そうね。髪型変えたの?」お世辞を言えば効果があるかもしれない。着いてすぐ祖母に挨拶をしなかったトリッシュは、明らかにまずい状況に陥っている。
祖母は、グレーがかったブロンズ色の髪のカールをパタパタと叩いたが、完璧に縁取られた唇の真っ直ぐな赤い線は、決して緩まなかった。「あなたを探してたのよ」
「そうなの?」トリッシュは目を大きく開け、ヘッドライトの前ではね殺される直前の鹿のようにではなく、純真であるように見えることを願った。そして、グーグー鳴るお腹を手で押さえた。
「昨日、日本町で和夫に会ったのよ」
「そうなんだ。だけど、あの寿司屋さんではもう働いてないのよ、彼」その「寂しい芸術家」的な性格のために、仕事仲間と仲良くなることがなく、従業員を解雇しなくてはならなくなった時、最初にクビを切られたのは和夫だった。日本の両親が毎月大金を送って彼の生活を支えているから、他の仕事を探す必要もないようだった。
「資生堂の外で会ったの。少し寂しそうに見えたから、話しかけたのよ」
あるいは、二人が別れた理由を聞き出したかったのだろう。「この前会ったときは元気そうだったわ」まあ、元気なのと同じぐらい陰気でもあったが。
「しばらくあなたに会ってないって言ってたわよ」祖母の厳しい表情が柔らかくなった。明るい茶色の目は、トリッシュに何か懇願しているようだ。「仲直りすることを考えたらどうかしら? 彼、本当にいい子じゃない」
「私たち、合わなかったのよ、お互いに」(ただ、私のことをきれいで、愛されてると思わせてくれるだけ)違う、悪いことも覚えておかなくては。トリッシュは、怒って自分の作品に絵の具を飛ばしたり、ショックを受けている彼女の顔に、わめきながらツバを吐いたりする和夫を思い出した。
祖母は目を落とした。
トリッシュの心も、それと一緒に落ち込んだ。「ごめんね。おばあちゃん、彼のこと好きだったもんね」
祖母はため息をついた。
トリッシュは手を強く握った。「私たちも、本当に努力したの」確かに、トリッシュは努力した。話し合おうとすると、和夫はただ合意するだけで、その後は甘い言葉と眼差しでベッドインしようとするのだった。
祖母の顔が急に生き返り、喉元のダイアモンドのチョーカーのように輝いた。「和夫を呼んだのよ、今夜」
「あの……」
「自分は変わったんだって、言ってたわ。だから、あなたともう一度やり直したいって」
和夫はこれまでも喧嘩をするたびに、もっと努力するとか、変わるとか言ってきた。「だけど、おばあちゃん……」
「それってロマンチックじゃない? 女の子は、男性に追いかけられたいものでしょ」
トリッシュは、祖父が祖母を追いかけているのを想像することができなかった。逆だったらあり得るが。「だけど、和夫のことはもう好きじゃないの」
祖母が顔をしかめると、一点の曇りもない資生堂メーキャップにヒビが入った。「トリッシュ、あなたが嘘をついてる時は、すぐに分かるのよ」
トリッシュは唇の内側を噛んだ。彼女の嘘は、みんなにバレバレだ。「フライドポテトみたいなものよ」
「どういうこと?」
「だって、みんなフライドポテトは好きでしょ?」スリムな体の祖母には分からないかもしれない。「だけど、体に悪いの。すごくね。カロリーは高いし、炭水化物だし」
「それが何だって――」
「和夫はフライドポテトみたいなの」
祖母は、DNAクローニングベクターに関する演説を聞いているような顔になってきた。
「彼のことは好きよ。だけど長い目で見たら、彼はとても、とても私にとってはよくないの。だからダイエットするのよ」
祖母はトリッシュの腕を叩いた。「じゃあ、一キロか二キロぐらいは頑張って痩せなさいね」
(ええっ?)「そういう意味じゃなくて」
「それに、あなたが少し若返ったら、和夫もきっと喜ぶわ」
若返る? トリッシュはまだ三〇だ。「私、太ってはいないんだけど」
「もちろんよ。だけど、レックスほどは痩せてないわね」
レックスはアスリートで、四六時中運動している。だけどトリッシュは、とりあえず胸があるんだし……と、それで自分を慰めている。「私はレックスじゃない――」
「和夫は今のあなたが好きなのよ」
「だけど、私のことを好きになって欲しいとは思わないの」
祖母の目つきが鋭くなり、その声は、刀を抜く侍のように鋭く響いた。「あなたたちがまた一緒になってくれたら、とても嬉しいわ」
トリッシュはまばたきした。これは脅しだろうか? 祖母は、決して彼女を脅したりしなかった。確かに、レックスとビーナスを脅したことはあったが、この二人は祖母が機嫌を損なうようなことをし過ぎた。だけどトリッシュもそうなのか? 祖母はトリッシュのことを気に入っていた。トリッシュはいつもボーイフレンドを家族の集まりに連れて行き、祖母が早く結婚して欲しいと言う時は、耳を傾けた。祖母のために曽孫を産むことを望んでいた。
祖母にまっすぐ見られると、もじもじしてしまう。ちょっと和夫と話すだけだったらいいか。大きいパーティーの中なのだ。何も起こらないはず?
「和夫はどこなの?」イヤリングを触りながら、ぼんやりと辺りを見渡した。真剣に探さなければ、見つからないかもしれない。
ビーナスのハッとするほどゴージャスな顔と体型に心を奪われて、トリッシュのことを見たくもないんだったら、それに越したことはない。だた、和夫とビーナスという組み合わせを考えただけで、トリッシュは胸の中で、ビビーンとギターの弦がはじかれるような気持ちがした。
「呼んでくるわ」祖母は、忍者より早く消えた。
トリッシュは、一瞬狂気に襲われ――このまま出て行こうかと考えた。しかし祖母の怒りを想像したら、椅子に縛りつけられるしかなかった。日本語で見た角川映画「天と地と」のように、大勢の武士が押し寄せてくるほうが、まだマシだ。
悲しいことにトリッシュにとっては、祖母を不愉快にさせることのほうが、手足を切られて死ぬことよりも怖かった。
波を分けて進む船のように、彼は人混みの中から現れた。ブラックホールに引っ張り込もうとする渦のように、和夫は彼女の皮膚の隅から隅までを感情的に吸い込んだ。
彼のところに戻るつもりはなかった。黒いタートルネックのセーターを着た和夫はとてもいい体格で、彼女を包み込んでくれるように見える。それでも、答えは「ノー」だ――。
(そうよ、あの筋肉のことを考えちゃダメ)
近くにいた女性が息をのんだ。そう、和夫は女性に対してそういう効果を持つ男性だった。ポニーテールにしたあのシルキーな長髪と、不可解な黒い目が――。
(彼の目のことを考えちゃダメ)
「トリッシュ、そこにいたんだね」日本人であることが分かるアクセントを持つその深い声は、少し舌足らずでセクシーだった。MP3で和夫の声を録音して、それを聞きながら眠りに落ちたいと思う人はいないのだろうか――。
(バカ、この人と眠りに落ちることを考えるなんて、ダメよ)
絶望的だ。
「ハロー、和夫。もう食べた? いいパーティーでしょ? 私の親戚の集まりはいつも食べ物がすごいのよ。叔母さんと叔父さんの中には、中国人と結婚している人もいるのね。だから中華を持ってくる人も多いの。いとこのビーナスとジェニファーは中国人とのミックスだし。二人とも中国語を話せるのよ。ジェニファーはマンダリン語で、ビーナスは広東語だけどね。だって父親が……。その、中国人だから。それに――」
「会いたかったよ、トリッシュ」
和夫は、「眺めのいい部屋」のジュリアン・サンズのように情熱的な顔で言った。トリッシュは、引き寄せられてドキドキしながらキスされる自分を想像した。
(ノーノーノー。新年会の途中でキスなんて、ダメ)トリッシュは息をのんで、後退りした。
和夫は彼女の方に身を寄せてきた。
それに、父が別の女性とキスをしていたのを目撃したばかりなのに、なぜキスすることを考えているのだろうか? 両親から逃げ、パーティーから逃げ、和夫から逃げなくてはいけないのに。「和夫、私たちって、油と水みたいなの――」
「油は水の上を覆い、自由に流れて渦を巻く」和夫の柔らかい声は、ハスキーなエコーを帯びていた。
本当に口がうまい。トリッシュはため息をついた。「素敵ね」では、付き合っていた頃は、なぜそれほど素敵だと思わなかったのだろうか?
「君は僕のミューズ(ギリシャ神話の女神)。君がいなければ、僕は空っぽの貝殻なんだ」和夫は青白く長い指を伸ばして、トリッシュの頬に触ろうとした。「僕の中に息を吹き込んでもらわなきゃいけないんだ」
トリッシュは生きている。元気いっぱい。和夫が欲しがるものを、あげることができる。震える息を吸って、彼の鋭い白檀の香りで肺を満たした。そして、彼は自分の前にトリッシュを立たせ、その力強い腕で彼女を抱きしめる――。
ダメ。覚えてる? そもそもトラブルに巻き込まれたのは、それが原因だった。
(もしかしたら、神様の罰を受けてるのかな)
その考えは、冷たい水のように背中を伝った。トリッシュのあらゆる問題……父とあの女性のことだって……。いや、神様は、和夫と寝たトリッシュを罰するはずはない。馬鹿げている。それに……和夫が初めての男性というわけではなかった。
急に一歩下がったので、後ろにいた叔母が壁にぶつかりそうになった。「あっ、ごめんなさい」しかし、和夫の魅惑的な魔力を打ち破ることができた。
「トリッシュ」ジェニファーが急に姿を見せた。よかった。だけど、レックスを探しに行ったんじゃなかったか?
トリッシュはジェニファーに背を向けて、和夫に面と向かった。「帰るわね、和夫」
和夫の唇が曲がって半ば笑顔になり、その目は黒漆のように光っていた。「家まで送るよ」
(バカ!)和夫は、自分が誘われていると勘違いしたようだ。トリッシュは心の中で自分を数回叩いた。「違うの、ジェンと一緒に行くのよ。女同士の話があって」
ジェニファーは唇を噛んだ。
(あ、マズい)「何?」
「ビーナスを乗せてきたの」
「彼女も行くのよ」
和夫の眉が歪んだ。「俺、ビーナスと話したけど、帰るなんて聞いてない」
「多分忘れてたのよ」ビーナスは何も忘れないということを、和夫は知らなかった。
「トリッシュ。いた、いた」母だった。
(マズい)さっき見てしまったものの後で、母にどんな顔を見せればよいのだろう? 顔を笑顔で整えて、彼女の苦しみに母が気づかないことを願った。
母は、叔父の横を過ぎ、トリッシュとその仲間の方へと進みながら、招くように手を空中でバタバタさせた。頭を前後に揺らし、後ろから来る人に笑いかけていたために、母のまっすぐな髪の毛は、少し鳥の巣のように見えた。「大切な人を紹介したいの」元気なスズメのように、母の明るい目はトリッシュを見てキラキラしていた。「たまたま叔母さんに招かれたそうなの」
母は、真っ黒な滝のように垂れ下がった黒髪の、長身で痩せた女性を前に押し出した。
父がキスしていた女性だった。
トリッシュが驚いてじっと見ると、その女性の目は震えていた。そして、少しだけ笑顔を見せた。
母は気がつかなかった。その女性の手を握って、ニコニコ笑っている。「一人娘のパトリシアよ。トリッシュ、この人は、大学時代のルームメイトのアリス・小川さん」
→ 第3章へすすむ
→ 作品ページにもどる
→ 他の作品を見る
※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
Comments
Post a Comment