【オンリー・ウニ】第1章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第1章
トリッシュ・坂井がドアを通って歩いてくると、部屋全体が静まりかえった。いや、ピン一本落ちても聞こえそうなほど静かになったわけではない。正確には、叔母の広々とした居間に集まっている数十人の親戚のうち、四、五人が会話をやめて彼女の方を振り向いた。トリッシュは、指をさされて笑われると思っただろうか。
白い服を着るんじゃなかった。反抗的なムードで、クローゼットにあったベベのワンピースを選んだのに、叔母の家の玄関口に立った時、その反抗心に裏切られた気がした。目の前で爆発するような赤やオレンジ、金色の洋服を着た人たちを見ていると、頭がクラクラしてきた。
少なくとも、彼女のワンピースのスタイルは、その平凡な体型をより曲線的かつスレンダーに見せていた。仕立てのいい洋服を着れば、見かけをよくするために努力する必要がなくなるからいい。
サンダルを蹴って脱いだ――ああ見て、寒いから爪先が青くなってる――サンダルは、玄関を埋め尽くしている靴の海の中にすぐ消えてしまった。ドアの枠から垂れ下がっている薄っぺらい紙製のドラゴンを払いのけ、スカートをなでた。手を引っ込め、後ろに回して強く握った。
(ダメダメ。お尻が巨大に見えるわ)
手を前に持ってきて、強く握った。
(ああ、緊張してるって、親戚中に思われる)
ウエストのあたりで手をゆるく握り、堂々とした表情を見せようとした。
「トリッシュ、お前、便秘中か?」
トリッシュは苦笑いした。いとこのボビーは鼻先で笑っている。「あなたって、面白いわね。吐きそう」
「吐くんだったら、ばあさんが来る前にしろよ」
「まだ来てないの?」おっと、少し安心したのを声にしてしまった。我を忘れて興奮しているように聞こえないよう、咳払いをして声の調子を調節した。「おばあちゃん、いつ来るの?」
「叔父さんが迎えに行ったんだけど、叔母さんに電話があって、ばあさん、何か忘れたそうなんだ。それで、うちに一度戻ったらしい」
ああ助かった。「レックスは?」
「食べ物のとこ」
やっぱりそうか。先週いとこのレックスが言っていた。週三回のバレーボールの練習と、週二回のコーチを再開することについて、外科医の許可が出たと。だから、また新陳代謝にエンジンがかかったんだろう。きっと馬のように食べているはずだ。
時々、トリッシュはレックスを殺したくなる。
スカートをグイッと引っ張った――今夜は少しきつい。もっと自制し、職場でバースデーケーキを食べなければよかった。今週は一日余分に走らなくては……できれば。
トリッシュは親戚の間をピンボールのように行ったり来たりした。広く風通しのよい台所へ向かうと、生姜のにおいが強くなってきた。スー叔母さんが、またコールドジンジャー・チキンを作ったのだろう。そのいい香りは、ピリッとするブラックビーンソース(レイチェル叔母さんの海老かな?)、ニンニクの炒め物(バリー叔父さんが作る料理は何でも、ニンニクが二玉以上入っていた)、ネギ入り白身魚(多分、いとこのリンダが作った中華風スズキだろう)のにおいと混じり合っていた。
赤いハイライトを入れた髪の小さい子供がぶつかってきて、トリッシュの足の親指を踏みつけた。
「きゃっ!」その子は素足だったからよかったが、そうでなければ足の指の骨が折れたかもしれない。トリッシュは後ろに飛び跳ね、手探りで低いサイドテーブルをつかんだ。指の下でワックスペーパーと片栗粉がすべり、その小さいテーブルは倒れ、飾ってあった鏡もちが落ちた。デザイン入りの紙、みかん、ゴムのような硬いもちが、クリーム色のカーペットに落ちた。まあ、もちを覆う片栗粉の色となじんでいるから助かった。
他の親戚が次々と周りに集まってきた。新年の飾りつけを少し冒涜したことについては、無関心のようだ。ああよかった、大したことなくて――。
子供がハッと息をのんで驚く声が聞こえて振り向いた。これら一切の混乱を引き起こした弾丸のような小さないとこのアリソンが、シャーベット・パンチでも飲んだのだろうか――赤く染まった丸い唇を手で押さえて立っていた。アリソンは、(あなた、ピンチよ)とでも言うように、もう一方の手で床のもちを指さしながら、茶色い目を大きく開けた。
トリッシュは一瞬それが信じられなかった。「手伝ってくれる?」クリスマス気分の残り香を、自分の声に吹き込もうとした。
アリソンの軽蔑した表情は、七歳というよりティーンエージャーのようだ。「あなたが散らかしたのよ」
トリッシュはため息をついて、鏡もち――円盤状のアイスホッケー用パックのように大きいもちと、それより少し小さいもち――と、それが置かれていた四方紅(お供え物をのせる色紙)を拾おうとかがんだ。四方紅を落としてしまったので、今年は家が火事から守られないのではないかと思った。
「叔母さん、それを飾るのに、とても時間がかかったのよ」
(まさか)「そうなの?」その四方紅をテーブルに戻して端から垂れ下げ、上にワックスペーパーを載せた。そして、大きい方のもちでそれを固定した。
「あなたが壊しちゃったから、今年は叔母さんの家に幸運が来ないってこと?」
「ただのしきたりよ。もちがあるから成功するわけじゃないし、みかんは代々続く家族の象徴ってだけ」トリッシュは、下のもちの上に小さい方のもちをうまく重ねようとしたが、どうしてもバランスが悪く、何度やってもテーブルに落ちてしまった。
「叔母さんが言ったことと違うわ」
「叔母さんはね、新年のしきたりを伝えたいだけなの」小さい方のもちが、また落ちた。「いつか、あなたも自分のうちにこんなのがあるようになるわ」トリッシュはもちを拾った。何てくだらない日本の新年のしきたり。去年、接着剤でくっつけてあったのを見つけた母は、新しい鏡もちをアパートに持ってきてくれたっけ。トリッシュは神道の信者ではない。彼女の家族だってそう――家族がいつもしてきたこと、というだけだった。
「違うわ、私はうちに住んで、ママのお世話をするんだもん」
ありがたい、この子はやっと話題を変えた。「それは素敵ね」ぐらつくもちの上にみかんを叩きつけようとした。やめよう、逃げ出すつもりはない。「本当にいい娘ね」
アリソンは嬉しそうにため息をついた。「そうよ」
(お嬢ちゃん、そのエゴ、この居間より大きくなりそうね)「ねえ……台所に行きましょ」積み上げられたもちの上にみかんを押しつけ、また床に落ちるのをアリソンが見つける前に、振り返って彼女を急かした。
「トリーッシュ、あのね」
急に向きを変えて急停止したガーディアンライオンのようなこの少女を、トリッシュは踏みつぶしそうになった。台所に入って食べ物に手を出すのを防ごうとしているのだろうか。横に一歩ずれたが、集まって会話をしている親戚一同は、そうとは知らずに両側からトリッシュを封じ込めた。
アリソンがそっと近づいてきた。「明けましておめでとう!」
「あ……明けましておめでとう」アリソンは、そのずる賢い小さい頭脳を最大限に利用して、何をしたいのだろうか?
「新年には赤い封筒をもらうの」その微笑みは、略奪者のようにキラリと光った。
「そうよ」このしきたりだけは、大歓迎だ。トリッシュやレックスのように年かさのいとこでも、まだ結婚していないから、高齢の親戚がお年玉をくれた。
アリソンの顔が輝いた。「それじゃあ、あなたも私に赤い封筒をくれるの?」
(ええっ?)ちょっと待って。子供たちに赤い封筒を持ってこないといけなかったの? そんなはずはない。「違うわ、結婚してる人だけがくれるのよ」それに、いとこの子供だったらまだしも、いとこにあげるものではない。いとこの子供にだって、あげるべきものだったか? 忘れてしまった。
アリソンの顔が紫色に暗くなった。「それは違う。叔母さんは赤い封筒をくれたけど、結婚してないもん」
「昔は結婚してたの。叔父さんは亡くなったのよ」
「今は結婚してない。だから、あなたも私に赤い封筒をくれなきゃいけないのよ」
そんなバカな。「いとこやいとこの子供全員に赤い封筒をあげてたら、破産しちゃうわ」
「嘘つき。ママに言うわ」アリソンはふくれっ面をしたが、そのずるそうな目から、そんな気はないのが見え見えだった。
警戒心が体の中で脈打った――叔母さんは私のことを何と思うかしら? それに、お母さんには何て言うのかな?――だがそれは、ゆっくりと確固とした怒りに変わっていった。このチビの脅しにはだまされない。今晩だけは。
彼女はアリソンの目の高さまでかがみ、無理やり笑顔を作った。「それはちょっといじわるね。嘘を広めるのと同じだわ」
アリソンは、かすかにニヤリとして、歯をむき出しにして見せた。
「嘘をつくのはよくないわ」トリッシュは、白いレースで縁取られた、少女の赤いベルベットのワンピースをなでた。
「嘘つきはあなた。赤い封筒を私にくれるのは間違ってるって言ったけど、それも嘘」
このガキの思考は短絡的だ。「嘘じゃないわ」
「じゃあママに聞く」ニヤリとしたその可愛い顔を見ると、吐き気がしてきた。
「私だったらそんなことしないわ」トリッシュが、カーリングアイロンで巻いたアリソンのコルクスクリューのような巻き毛を一つひねると、それは残りのストレートヘアから飛び出した。
「しようと思ったら、何でもできるわ」醜い性格のせいで、天使のような仮面が台なしだ。
「もちろんそうね」
アリソンはまばたきした。
「だけどね、そんなことしたら、おばあちゃんが失くしたヒスイのブレスレットをあなたの寝室で見つけたって、言いつけるわよ」(やった!)
「私の部屋で何してたの?」アリソンの顔は、その洋服と同じ色になった。
トリッシュは目を大きく開けた。「あなたのママが家族を呼んでクリスマスパーティーを開いた時、ドアを開けっぱなしにしてたでしょ……」
アリソンは唇を固く閉じ、鼻の穴をふくらませた。「嘘つき――」
「おばあちゃんがきっとあなたのお母さんに言うわよ、あなたの部屋の中を探せって」
アリソンの顔が白くなった。
「だから、そんな赤い封筒のことはお互いに忘れることにしましょうよ、ね?」トリッシュは、アリソンのネックレスについたゴールドのハート型ペンダントをまっすぐに直し、感情のない笑みを送った。
アリソンは、音が聞こえるほど大きく長い息を吸った。叫ぼうとしているのではないかと思い、トリッシュは一瞬パニックに陥ったが、その息は音を立てずに吐き出された。
トリッシュは立ち上がった。「じゃあね」柱のように立っている人々の間を抜けて、強引に進んでいった。
熱追尾式ミサイルのように台所のカウンターへ向かった。「ヘーイ、みんな」
いとこのビーナス、レックス、ジェニファーが振り向いて、トリッシュを迎えた。
「レックスより遅いって、何?」ビーナスはセロリスティックを噛みながら、トリッシュが落ち込むほどセクシーで曲線的な体をカウンターにもたれさせた。
「何よ、それ!」レックスはゴツゴツした肘でビーナスを突っついてから、トリッシュに話しかけた。
「おばあちゃんはまだ来てないけど、あなたのお母さんが――」
「トリッシュ、ここにいたのね」母がヒラヒラ飛ぶ蝶のように入ってきた。「まだ食べてないの? お皿に取ってきてあげる。黒豆は縁起がいいから食べなきゃ。栗と黒豆は好きじゃなかったと思うけど、一つだけでいいから食べるのよ。昆布は? 海藻はすごく体にいいの」
「やめて、お母さん――」
「アイリーン叔母さんの吸い物は? 何が入ってるのか分からないけど、今年のは牛の胃袋みたいに見えないわよ――」
「お母さん、自分で取るから」
「そうよね」母は大きなお皿をトリッシュに渡した。
トリッシュはそれをつかみ、肉、魚、野菜を少しずつ載せたビーナスの小さいお皿をチラッと見た。フン。砂時計のようにくびれた体型なのに、カロリー摂取に対して超人的な自制心を持つビーナス――餃子ばかり食べているトリッシュの体型は、ずんぐりむっくりしている気がしてくる。小さいお皿に取り替えた。
レックスは、チキンと麺をいっぱい載せたお皿を持っていて、それを口に投げ込んでいた。「この麺、美味しいわよ」
「今日はよく食べるのね」
「エイデンに強化トレーニングさせられてさ。もうすぐバレーボールのトーナメントだから」
レックスのボーイフレンドの名前を聞いて、トリッシュはチクチクする心の痛みを隠そうと、きしむ食器棚のほうに向きを変えた。トリッシュの理学療法士だった人。トリッシュがエイデンに言い寄り、彼がそれをはねつけたのは――彼女の意見ではかなり無情に――レックスに出会う前だったが、その後、彼はクリスチャンになり、レックスと幸せな日々を過ごしていた。
嫉妬しているわけでは全然なかった。
何故いつも、いい人に逃げられて、悪い人が手元に残るような気がするのだろうか? それが彼女の人生なのか。トリッシュの男性に関する趣味は、ゾッとさせられるようなレックスの洋服の趣味に似ていた――レックスは、醜くてだらりとしたエクササイズ用の洋服しか着ないし、トリッシュは醜い(少なくとも性格という点で)敗北者とばかり付き合っていた。
隣にいたジェニファーが、苦痛を感じているかのように息を吸った。「おばあちゃんが来たわ」
「ええっ、今はダメよ。不公平だわ。まだ何も食べてない」
「まだあるから大丈夫」ビーナスの辛辣な口調が響くのと同時に、彼女はトリッシュのお皿をつかんだ。「それにあなた、脂肪分の摂りすぎよ」
トリッシュがにらんだ。「私は太ってない――」
ビーナスは辛抱強くため息をついた。「太ってるとは言ってない。健康的じゃないものを食べてるって言ったの」
「レックスにはそんなこと言わないじゃない」チキンロングライスを口に押し込んでいる、体育会系のいとこに指を突きさした。
レックスの動きが止まった。「もう言われた」ライスヌードルをすすった。
ビーナスは天井を見ながら、呆れた表情をした。「あんたたち、ひどい食生活ね。ジャンクフードばっかり食べない方がいいわよ」
「ジェンがあの死ぬほど美味しい自家製のトリュフをくれなくなったらね」トリッシュは、料理の達人ジェニファーとハイタッチした。
「それにさ、チョコレートは体にいいのよ」ブラックビーン入りの海老をほおばりながら、レックスがしゃべった。
負けそうになっていると思ったビーナスは、セロリスティックを見せびらかした。「あなたたちはもっと食物繊維を摂取したほうが――」
トリッシュは手羽肉の揚げ物をつかみ、滑稽な顔をして見せた。「低炭水化物よ」あとでビーナスが見ていないときに、あのチャイニーズヌードルをゆっくり味わいたいのだが……。
チキンを二口噛む時間しかなく、残りはナプキンの中に入れて指を拭いた。そして、新年の挨拶をしようと祖母の周りに群がり始めた親戚一同について行った。
祖母は、トリッシュのいとこの赤ん坊を抱き上げた。指を覆う赤いフィルムのように見えるベタベタしたものが、高価なシャネルのスーツにあたらないよう抱っこできるなんて、何という才能だろう。同じように、白髪が混じったそのエレガントなヘアスタイルは、決して乱れることがなかった。
それから祖母は、後ろでうろうろしている人の手をつかみ、その人を前に押し出した。
(まさか)
和夫はここで何をしているのか?
祖母と?
胸の中で、懐かしいようなドキドキする感情がわいてきた。(ダメ、ダメ、ダメダメ)
彼に対してまたこんな反応をすることはできない。前回困ったことになったのも、そのせいだった。
トリッシュはジェニファーの腕をつかみ、台所の方へ引っ張っていった。「隠れなきゃ」
ジェニファーの眉間にシワがよった。「どうして?」
「あれ、和夫よ」
ジェニファーの目は、サイドボードの月餅より大きくなった。「ほんと? 初めて見る」ふり返って見た。
「見ないで。私を隠してくれる」
ジェニファーはため息をついた。「それ、ちょっと恥ずかしくない? 彼、新年会だから来たんでしょ」
トリッシュは、台所から戸口、そして小さいテレビルームまでをサッと見渡した。「百人以上いるわ。もしかしたら避けられるかも」
「彼、多分あなたに会いに来たのよ」ジェニファーは、夢見るように微笑んだ。何てロマンチック……。
トリッシュは、もちつきの杵でみぞおちの辺りを搗かれた気がした。ロマンチックという言葉は、どう考えてもこの状況には当てはまらない。
「どうしたのよ」ビーナスとレックスは、人が集まっているところを離れ、トリッシュを取り囲んだ。
「あれ、和夫なの」
「ほんと?」レックスは向きを変えて、戸口の向こうの部屋を見ようとした。「会ったことない――」
「今は見ないで! 私を隠して!」
ビーナスの整った眉が上がった。「何言ってるの、大丈夫よ」
「どうしておばあちゃんが彼のことを知ってるの?」ジェニファーの落ち着いた声は、ビーナスの皮肉な言い方を打ち消した。
「付き合ってた頃に会ったことがあるの」
「おばあちゃん、和夫が大好きだもんね」戸口に立って、親戚の間を通り過ぎていく和夫をじっと見ながら、レックスはその肩越しにコメントを投げた。
ビーナスの眉間にシワがよった。「大好きって、どうして?」
トリッシュはもうお手上げ、という仕草をした。「日本人だからよ。おばあちゃんに日本語で話すの。好きになるのは当然よ」
ジェニファーは唇を噛んだ。「おばあちゃんは人種差別主義者じゃない――」
ビーナスは鼻先で笑った。「もちろん人種差別主義者じゃないけど、確かに偏見は持ってるわね」
「それだけじゃ十分な理由とは言えないわ。どうしてトリッシュが和夫とよりを戻して欲しいのかな。何か怪しくない?」
ビーナスは口を開けたが、何も言わなかった。そしてすぐ、口を閉じた。「確かにそうね」
トリッシュは腕を広げた。「どうしてなのか、さっぱり分からないわ」
「だから仲人みたいなことしてるの? 今?」
「ここよりいい場所ないでしょ」トリッシュは山積みの食べ物を指さした。「彼を太らせて、それから私をお皿に入れて彼に差し出すのよ」
ビーナスは呆れた顔をした。「トリッシュ――」
「マジで、おばあちゃんの好きにはさせない。和夫だけは絶対にノーよ」二度と会いたくない男性。しかし、正確にはそうではなかった。トリッシュの生身の体は、確かに彼に会いたがっていた。頭と心が(逃げろ! 逃げろ!)と叫んでいるのに。
「そんなにひどい別れ方だったの?」レックスは肩越しに彼女らを見た。
トリッシュはもじもじした。「って言うか……、彼はまだ別れたって思ってないと思う」
「どういうこと? 六か月も前でしょ」ビーナスは、真っ直ぐトリッシュを見た。
「実は……おととい会ったの」
ビーナスは眉をひそめた。「それで……?」
トリッシュは素早くまばたきした。「私たち、とても意気投合して……」
ビーナスは腕を組んで、にらんだ。
どうすれば、ビーナスにはできるのだろう? トリッシュが口を開く前からその嘘を見抜いていた。「あの、実は……、本当の意味で意気投合したの」
ジェニファーが最初にピンときて、呼吸するのさえ忘れ、酸素不足で気絶するのではないかと、トリッシュは心配になった。
ビーナスは鋭い目でジェニファーを見てから、トリッシュに視線を戻した。口は大きく開いている。「まさか、してないよね」
「何を?」レックスはその輪に加わり、ドラマを繰り広げた。ジェニファーとビーナスの方をのぞき込むと――一人はショックで凍りつき、もう一人は怒りで青白くなっていた。
トリッシュの心臓は、胸の中で縮こまった。唇を噛むと、血の味がした。いとこ達の顔が見られなかった。そのことを言うことすらできない。
ビーナスが彼女のために口を開いた。「また彼と寝たのね」
レックスは開いた口が塞がらない。「嘘でしょ」その目に映った苦痛は、「氷の微笑」のオープニング場面でのシャロン・ストーンとアイスピックのように、トリッシュの心を突き刺した。
確かに、何かに取り付かれたような和夫との関係のために、去年レックスがACL(膝前十字靭帯)を切った時、トリッシュが完全にレックスを見捨てたことは事実だ。トリッシュがまたレックスを裏切る下準備をしているように感じられるのも無理はない。
「一回だけよ。どうしても抑えられなくて――」
「和夫との関係について神様に一度も祈ったことがなかったとか、やっと自由になれたとか言ってたくせに」
レックスの目が暗くなっていくのを見て、トリッシュは彼女が初めてACLを切った日の夜を思い出した。あまりにもわがままで、人生で最悪のことが起こったレックスを助けずに、和夫と一緒にいることを選んだのだった。
「どうしても自分を抑えられなかったの――」トリッシュは、それしか言えないようだった。
「結局、和夫の方が私より大事ってことね? 一体いつになったらあなたのことを信頼でき――」レックスの声は途切れ、顔をそむけた。
不快な苦痛がトリッシュの胃を苦しめた。あまり食べていなかったから、よかった――胃の内容物がかき回されて、今にもタイルの床に飛び散りそうだったから。肩を丸め、筋肉が硬く締め付けられるのを感じた。
トリッシュがいとこ達を傷つけ、裏切り、また彼女のしたことによって面倒なことになったり、ストレスを感じるようなことがあったりしても、彼女らはいつも思いやりがあった。トリッシュの思いやりのなさを理解し、「大丈夫よ、トリッシュ。私たちが何とかする」と言ってすぐにハグしてくれた。だけど、やっと分かった――赦してくれたけど、それでも毎回傷ついていたのだ。もしかしたら、これは彼女らの限界を超えることだったのかもしれない。
「トリッシュはどこかしら?」人々の会話の中から、祖母の洗練された声が聞こえた。「きっとあなたに会いたいはずよ」その声は、台所に近づいてきた。
「会いたくないわ」トリッシュは、自分の声が古いクモの巣のようにか細いことにも気づかないようだ。「おばあちゃんにも会えないわ」震えが体を伝った。
ビーナスの目は、理解を示すように柔らかくなった。「私はあなたの味方よ」
トリッシュは急に逃げ出した。
居間へ入る戸口とは逆の方へ。大きいスクリーンのテレビでスポーツ観戦をしている親戚を数人かわし、叔母の寝室へ向かう短い廊下を見つけた。そこに隠れ、元気を取り戻す。パニックになりながら。
廊下に滑り込むと、奥のドアが閉じられているのが見えた。そのドアの下から漏れている細い光がカーペットの上で光っていた。心臓が落ち着き始めた。
そこで横になって、具合が悪いフリでもしようか? いや、だめだ。祖母が和夫に、彼女を家に送っていくことを提案するかもしれない。
職場から緊急の電話がかかってきたフリをしようか。だが祖母は、大晦日に細胞生物学研究室で緊急事態が起こるはずはないことを知っている。
最悪なのは、まだ何も食べていないことだった。
ドアのノブを回したが、ドアは開かなかった。湿った天気のせいに違いない。肩でドアを押してみたら、ドアがカチャッと開いた。寝室に滑り込んだ。
薄暗いランプの光の中で、『スター誌』から出てきたように熱く抱き締め合うカップルが立っていた。心臓が喉に詰まった気がした。(キャッ! 行かなきゃ!)トリッシュは急に向きを変えた。
ちょっと待って。
振り返った。
クセのある黒髪の男性――背中しか見えなかったのだが、その立ち方が少し……。
そのカップルは跳ぶように離れ、トリッシュを見た。
(お父さん)
母ではない女性とキスをしていた。
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