【ひとり寿司】第35章
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レックスは永遠に続くような階段を見上げた。「四階?」
「そう」
「で、エレベータないの?」
「ない」
「オリバー」レックスは彼の方を向いた。「膝は良くなってきてるけど、階段を昇る時は、まだすごく痛いの」
浅黒い皮膚と対照的な明るく白い歯を輝かせて、オリバーは顔をゆがめた。「引っ越すまでにはもっとよくなってるんじゃない?」
「さあ。理学療法は頑張ってるんだけど」(嘘つき。ここ数回のセッションはキャンセルしたくせに。臆病者)
「そっちの方は上手くいってる?」コンバーチブルのメルセデスまで戻った。
「順調よ。回復はゆっくりだけどね」
「うん、そんなもんだよね。大学の時、半月板が裂けたことがあってさ、六ヶ月かかったよ、ビーチバレーボールができるようになるまでに」
「ビーチバレーするの?」確かにオリバーは体格が良かった。
「もうしてない」悲しそうに笑った。「膝がついていかないから、やめたんだ」
「それは大変だったわね」レックスだったら、車椅子を余儀なくされるまでやめないだろう。車椅子になったとしても、まだやめずにみんなを追いかけ回すかもしれない。
オリバーは肩をすくめた。「思ってたほど悪くないよ。君もやるんだろ?」
「月曜と金曜が男女混合、水曜日がSCVAの女子チームよ。中学生女子チームのコーチもやってる」
「そうなの? 楽しそうだね。どんな調子?」
「ああ……順調だけど、六月から資金が切られるかもしれなくて」事実、水曜日の夜以降、祖母が資金を切っても驚くことではない。
「本当?」彼女のために助手席側のドアを開けながら、オリバーは立ち止まった。「いくら?」
レックスの全身は、その場でブンブンと音を立てるハチの巣に変わった。九月までに必要な金額を彼に告げた「この夏、プレイオフのために遠征するから、高いの」
エジプト人のような形の目が、思慮深そうに細くなった。「もしかしたら、何とかできるかも」
「マジで?」
「約束はできない。ちょっと考えさせて。計算してみるけど、しばらく考えてたんだ。こんなことができないかなって。悪気はないんだけど、僕のビジネスにとっても有利かもしれないから」
「もちろんよ、分かるわ」
「それに僕の牧師がいつも言うんだ。イエス様がしたように、コミュニティーに貢献するようにって」
「どこの教会に行ってるの?」レックスは信じられなかった。オリバーの言うこと全てが、彼を完璧な人にしていた。
「緑の牧場教会」
「私、サンタクララ・アジア教会に行ってるの」(釣り合うとはこういうことか)
「それはいいね」面と向かうと、自信にあふれた彼の眼差しは澄んでいた。「そうだ、今晩一緒に食事でもどう?」
「私? 今晩?」このハンサムで日に焼けた男が、彼女ともっと時間を過ごしたいと思っているのか?
「君が空いてるんだったら、是非」
「もちろん」彼の高級車で時間を過ごしたくないと思うのは、死んだ時ぐらいだろう。
ああ、それに、彼と一緒にいるのも確かに楽しかった。
**********
「楽しかったよ、レックス」オリバーは、彼女の方にゆっくり近づき、アパートのドアの枠にもたれた。
「私も」確かにそうだった。彼はエイデンのように穏やかで、落ち着いていた。エイデンのように彼女をからかうことはしなかったが、会ってからまだ数時間しか経っていないので、当たり前だ。
「また今度会えるといいな」彼の声は低くハスキーになった。
「いいわね」
オリバーのエキゾチックな目が、彼女の口に降りてきた。これは男性の無言のサインに違いない——女の子に(入るよ!)と伝えるための。
彼女はそれを受け入れてもいいと思っていたはずだ。話しやすいし、不快に感じることは何もない。歯はきれいで、臭くなく、靴じゃなくて顔を見て話してくれる。
「ユー・ガット・メール」か何か、感傷的なラブコメ映画で見たジェスチャーで、オリバーはレックスの頬をさわった。レックスはあごをピクピクさせたが、ギクリとはしなかった。やった、上出来だ。
彼は、ゆっくりと近づいてきた。レックスとしては、もっと早くしてくれた方がよかったのだが。
いや、彼女は態度を改めるべきだ。この恐れを克服しなくては。これ以上、彼女の人生を台無しにはさせない。オリバーとのキスを楽しむ!
それに、女の子達のことも考えなくてはならない。オリバーは、チームのスポンサーになってくれる可能性のある素晴らしいボーイフレンドになるだろう。
彼のキスは、最初はとても軽く、はちみつのように甘かった。(悪くない。大丈夫だ)
そして、だんだん息が激しくなり、濃厚なキスになってきた。体を押されて、ドアにもたれた。レックスは息が苦しくなり、離れた。
彼の目は曇り、真っ黒だった。そして瞬きをすると、悲しそうになった。「ごめん、君があんまりきれいだから。本当に楽しかったよ」
それはお世辞だ。「夕飯ありがとう」お金も払ってくれた。「あの……また電話するわ」やっと、本当に彼と一緒にいたいように言うことができた。
レックスは一人でアパートに入った。半分ぐらいしか出し終わっていない段ボール箱は、また詰めなくてはならない。
おもしろい。まるで彼女の人生そのもののようだ。
**********
レックスは、携帯のフリップを開けた「ヘーイ、リチャード」
「どうだった?」
「何がよ」冷蔵庫がブンブン言う音は数秒やんだ。レックスがバシッと叩くと、また始まった。
「オリバーとのディナーだよ」
「何で知ってるの?」
「あいつが言ってた」
「あなたから聞いたの? いつから私の恋愛生活に興味が出てきたのよ」
「別に……ちょっと興味があっただけ」
レックスはお尻に手を当て、リチャードの純粋ぶった顔を想像しながら、冷蔵庫をじっと見た。「今まで『ちょっと興味』があったことなんて、ないじゃない」
「気にするな。じゃあ、また」(カチャッ)
レックスは、電話をかけた。
「ハロー?」
「レックスよ。ちょっと乗せてってもらいたいんだけど」
「今?」
「ひま?」
ビーナスはため息をついた。「まあね。三〇分待ってて」
**********
「あれ、来客みたいね」レックスは、兄に割り当てられた二つの駐車スペースの一つに停められた、りんご飴のように赤い三菱の方を見ながら車の窓ガラスを叩いた。
「窓ガラスに指紋をつけないでよ」ビーナスは、来客用のスペースに車を停めた。
車から出て、レックスは一歩ずつゆっくり、リチャードのアパートまでの階段を昇った。階段の昇降が多く、いい方の膝も痛み始めた。(最高)
ビーナスはドアベルを鳴らした。「今日は割と暇なんだけど、仕事を抜け出す価値のあることなんでしょうね」
「土曜日なのに仕事なの?」
「あのさ——スタートアップ(新会社)なの。毎週土曜日は出勤日よ」
「だけど、今日は暇だったの?」
「忙しくない日は、事務所のドアを閉めて、デスクで寝るの」
ドアがサッと開くと、モデルのような、身長一七〇センチぐらいの痩せたアジア系の女の子がいた。「何か用?」
「メイリン?」レックスは信じられなかった。「ここで何してるの?」リチャードがこの頭のおかしい小娘と別れてから数ヶ月、ここにその本人がいる。
「あんたの兄貴に頼まれてさ」濃いアイメークをした目が、その肩越しに居間の方を指した。「私の方が大事。あんたは後でまた来な」
レックスは閉まりかけたドアを手で叩いた。「私は妹なの。やれるもんなら、止めてみれば」ビーナスと二人だったら、精神異常者でもやっつけられる。
「レックスだったら、いないって言ってくれ」リチャードの声は隣人が聞こえるぐらい大きく響いた。
ビーナスは目を閉じ、頭を振った。「あんたたち、本当に兄妹?」
「ほらごらん、あんたとは話したくないそうよ!」メイリンの声は、タカの甲高い鳴き声みたいに大きくなった。マニキュアをつけた爪で、香港直送のファッションブラウスの深く切れ込んだネックラインをいじっている。「帰って!」
メイリンの金切り声を聞いて、リチャードの隣人が、頭を出してのぞいた。
レックスは近くに寄りかかかった。「開けないんだったら、あんたの赤いコンバーチブルをキーでひっかくわよ」
メイリンはその赤い唇をおにぎりのように大きく開けて、ハッと息を呑んだ。「マイ・ベイビー!」
ビーナスが車のキーを取り出し、ゆらゆらさせた。
メイリンはドアをバンと開けた。
「ごきげんよう」レックスは大股でリチャードの居間に入り、コーヒーテーブルに足を放り上げた。
「和平条約を結びに来たんじゃないから」
「何だって——? 最悪だな」
レックスはビーナスの方を向いた。「ほら、窮地に立たされてるのが分かってるみたいよ」
「まさか」リチャードはソファのクッションに沈み込んだ。
「じゃあ、この質問は簡単だわ。あの男の行列は一体、何? 本当にあなたの友達?」
メイリンの目が大きくなった。「リチャー! 何か秘密ある?」
「レックス、お前バカか。そうだ、あいつらは僕の友達だ」
「じゃあ、『こどもの日』の夕食にいたあの人は、何て名前?」
リチャードは三回まばたきした。「ええと……マーシャル?」
レックスも覚えていない。「叔父さんのバースデーパーティの時のは?」
今度は、七回まばたきした。「カール?」
「ブーッ。やっぱりね」
「いちいち誰を連れてったかなんて、覚えてないよ」
「じゃあ、何で、私がオリバーとデートしたことに興味があるの?」
「別にないよ。いい気になるな」リチャードはリモコンをつかみ、テレビの音量を上げた。
レックスはそれを引ったくって、テレビを消した。「ねえ、メイリン。リチャードが六歳で私が五歳だった時のこと、聞いた?」
「おい、おい、おい!」リチャードは、魔法のつえでメイリンの耳をふさぎ、レックスの口を閉じさせようと、腕を振り回した。
(は! できるもんなら、やってみろ)
レックスをにらむリチャードの目は、恐怖のしぶきの中で萎えていった。「やめろ」
「賭ける?」
「分かった、外で話そう」
「いやよ! ドアの外に締め出すつもりでしょ」
爪をじっと見ていたビーナスが顔を上げた。「そうなったら、近所の人が聞こえるように大声で叫べばいいわ」
ゴルフで日焼けしたリチャードは、青白くなった。
レックスはソファの肘掛けに座り、足をぶらぶらさせている。「言って」
「お前のボーイフレンドを見つけたら、車を買ってくれるって、ばあさんに言われたんだ」
「えーっ?」女三人は同時に悲鳴を上げた。
「おばあちゃんから賄賂をもらったってわけね?」レックスはソファから飛び降りた。「驚くことじゃないわ」
「リチャード、あなたの自己防衛本能には、相変わらずびっくりさせられるわ」ビーナスは彼をあざ笑った。
「あんたのアキュラ、まだ三年」メイリンは唇をつねり、腕を組んだ。「それに、私とよりを戻さない」彼女にプライムホイール(プライム社製高性能ロードバイク車輪)を与えないのは国家犯罪であるかのような言い方だ。
リチャードの目は横にそれたが、誰の顔もまっすぐ見ていなかった
レックスは動いて彼の前に立った。「オリバーのこと、どれぐらい知ってるの?」
「よくは……知らない」
「じゃあ、斧を持った殺人鬼と私を引き合わせる可能性もあったわけね。お兄ちゃん、大好き」
「おい、叔父さんの家で会わせた、ダサ男と比べたらマシだっただろ」リチャードはむっつりした。
「リチャード、何て脳みそがないの」ビーナスはドアの方へ動いた。「レックス、行こう。こんな奴はメイリンに任せとけばいい」
メイリンは笑って、指を鳴らした。
「勘弁しろよ、レックス。助けになりたかっただけなんだ」メイリンの荒れた顔を慎重に見ながら、リチャードの絶望的な目はレックスに懇願していた。
「最悪のデート相手を見つける、っていう助け? 私って本当に愛されてるのね」
「男を探してるようなことを、遠回しに言ってたじゃないか。それに、ばあさんもお前にデート相手が必要だと思ってる。誰かに引き合わせようとして、どこが悪いんだよ」絶望的な笑顔を見せた。
レックスがにらむと、その顔から笑顔が消えていった。「リチャード、いい人を選ぶこともできたんじゃない?」
「選んだよ。エイデンは? オリバーは? 楽しかったんだろ?」
レックスはビーナスを追ってドアの外に出た。確かに、一つ彼に借りができた。
「そうよ、リチャード」ドアノブをつかんだ。「あなたはその気がなかったのかもしれないけど、オリバーはいい人だったわ」ドアをバタンと閉めた。
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第35章
レックスは永遠に続くような階段を見上げた。「四階?」
「そう」
「で、エレベータないの?」
「ない」
「オリバー」レックスは彼の方を向いた。「膝は良くなってきてるけど、階段を昇る時は、まだすごく痛いの」
浅黒い皮膚と対照的な明るく白い歯を輝かせて、オリバーは顔をゆがめた。「引っ越すまでにはもっとよくなってるんじゃない?」
「さあ。理学療法は頑張ってるんだけど」(嘘つき。ここ数回のセッションはキャンセルしたくせに。臆病者)
「そっちの方は上手くいってる?」コンバーチブルのメルセデスまで戻った。
「順調よ。回復はゆっくりだけどね」
「うん、そんなもんだよね。大学の時、半月板が裂けたことがあってさ、六ヶ月かかったよ、ビーチバレーボールができるようになるまでに」
「ビーチバレーするの?」確かにオリバーは体格が良かった。
「もうしてない」悲しそうに笑った。「膝がついていかないから、やめたんだ」
「それは大変だったわね」レックスだったら、車椅子を余儀なくされるまでやめないだろう。車椅子になったとしても、まだやめずにみんなを追いかけ回すかもしれない。
オリバーは肩をすくめた。「思ってたほど悪くないよ。君もやるんだろ?」
「月曜と金曜が男女混合、水曜日がSCVAの女子チームよ。中学生女子チームのコーチもやってる」
「そうなの? 楽しそうだね。どんな調子?」
「ああ……順調だけど、六月から資金が切られるかもしれなくて」事実、水曜日の夜以降、祖母が資金を切っても驚くことではない。
「本当?」彼女のために助手席側のドアを開けながら、オリバーは立ち止まった。「いくら?」
レックスの全身は、その場でブンブンと音を立てるハチの巣に変わった。九月までに必要な金額を彼に告げた「この夏、プレイオフのために遠征するから、高いの」
エジプト人のような形の目が、思慮深そうに細くなった。「もしかしたら、何とかできるかも」
「マジで?」
「約束はできない。ちょっと考えさせて。計算してみるけど、しばらく考えてたんだ。こんなことができないかなって。悪気はないんだけど、僕のビジネスにとっても有利かもしれないから」
「もちろんよ、分かるわ」
「それに僕の牧師がいつも言うんだ。イエス様がしたように、コミュニティーに貢献するようにって」
「どこの教会に行ってるの?」レックスは信じられなかった。オリバーの言うこと全てが、彼を完璧な人にしていた。
「緑の牧場教会」
「私、サンタクララ・アジア教会に行ってるの」(釣り合うとはこういうことか)
「それはいいね」面と向かうと、自信にあふれた彼の眼差しは澄んでいた。「そうだ、今晩一緒に食事でもどう?」
「私? 今晩?」このハンサムで日に焼けた男が、彼女ともっと時間を過ごしたいと思っているのか?
「君が空いてるんだったら、是非」
「もちろん」彼の高級車で時間を過ごしたくないと思うのは、死んだ時ぐらいだろう。
ああ、それに、彼と一緒にいるのも確かに楽しかった。
「楽しかったよ、レックス」オリバーは、彼女の方にゆっくり近づき、アパートのドアの枠にもたれた。
「私も」確かにそうだった。彼はエイデンのように穏やかで、落ち着いていた。エイデンのように彼女をからかうことはしなかったが、会ってからまだ数時間しか経っていないので、当たり前だ。
「また今度会えるといいな」彼の声は低くハスキーになった。
「いいわね」
オリバーのエキゾチックな目が、彼女の口に降りてきた。これは男性の無言のサインに違いない——女の子に(入るよ!)と伝えるための。
彼女はそれを受け入れてもいいと思っていたはずだ。話しやすいし、不快に感じることは何もない。歯はきれいで、臭くなく、靴じゃなくて顔を見て話してくれる。
「ユー・ガット・メール」か何か、感傷的なラブコメ映画で見たジェスチャーで、オリバーはレックスの頬をさわった。レックスはあごをピクピクさせたが、ギクリとはしなかった。やった、上出来だ。
彼は、ゆっくりと近づいてきた。レックスとしては、もっと早くしてくれた方がよかったのだが。
いや、彼女は態度を改めるべきだ。この恐れを克服しなくては。これ以上、彼女の人生を台無しにはさせない。オリバーとのキスを楽しむ!
それに、女の子達のことも考えなくてはならない。オリバーは、チームのスポンサーになってくれる可能性のある素晴らしいボーイフレンドになるだろう。
彼のキスは、最初はとても軽く、はちみつのように甘かった。(悪くない。大丈夫だ)
そして、だんだん息が激しくなり、濃厚なキスになってきた。体を押されて、ドアにもたれた。レックスは息が苦しくなり、離れた。
彼の目は曇り、真っ黒だった。そして瞬きをすると、悲しそうになった。「ごめん、君があんまりきれいだから。本当に楽しかったよ」
それはお世辞だ。「夕飯ありがとう」お金も払ってくれた。「あの……また電話するわ」やっと、本当に彼と一緒にいたいように言うことができた。
レックスは一人でアパートに入った。半分ぐらいしか出し終わっていない段ボール箱は、また詰めなくてはならない。
おもしろい。まるで彼女の人生そのもののようだ。
レックスは、携帯のフリップを開けた「ヘーイ、リチャード」
「どうだった?」
「何がよ」冷蔵庫がブンブン言う音は数秒やんだ。レックスがバシッと叩くと、また始まった。
「オリバーとのディナーだよ」
「何で知ってるの?」
「あいつが言ってた」
「あなたから聞いたの? いつから私の恋愛生活に興味が出てきたのよ」
「別に……ちょっと興味があっただけ」
レックスはお尻に手を当て、リチャードの純粋ぶった顔を想像しながら、冷蔵庫をじっと見た。「今まで『ちょっと興味』があったことなんて、ないじゃない」
「気にするな。じゃあ、また」(カチャッ)
レックスは、電話をかけた。
「ハロー?」
「レックスよ。ちょっと乗せてってもらいたいんだけど」
「今?」
「ひま?」
ビーナスはため息をついた。「まあね。三〇分待ってて」
「あれ、来客みたいね」レックスは、兄に割り当てられた二つの駐車スペースの一つに停められた、りんご飴のように赤い三菱の方を見ながら車の窓ガラスを叩いた。
「窓ガラスに指紋をつけないでよ」ビーナスは、来客用のスペースに車を停めた。
車から出て、レックスは一歩ずつゆっくり、リチャードのアパートまでの階段を昇った。階段の昇降が多く、いい方の膝も痛み始めた。(最高)
ビーナスはドアベルを鳴らした。「今日は割と暇なんだけど、仕事を抜け出す価値のあることなんでしょうね」
「土曜日なのに仕事なの?」
「あのさ——スタートアップ(新会社)なの。毎週土曜日は出勤日よ」
「だけど、今日は暇だったの?」
「忙しくない日は、事務所のドアを閉めて、デスクで寝るの」
ドアがサッと開くと、モデルのような、身長一七〇センチぐらいの痩せたアジア系の女の子がいた。「何か用?」
「メイリン?」レックスは信じられなかった。「ここで何してるの?」リチャードがこの頭のおかしい小娘と別れてから数ヶ月、ここにその本人がいる。
「あんたの兄貴に頼まれてさ」濃いアイメークをした目が、その肩越しに居間の方を指した。「私の方が大事。あんたは後でまた来な」
レックスは閉まりかけたドアを手で叩いた。「私は妹なの。やれるもんなら、止めてみれば」ビーナスと二人だったら、精神異常者でもやっつけられる。
「レックスだったら、いないって言ってくれ」リチャードの声は隣人が聞こえるぐらい大きく響いた。
ビーナスは目を閉じ、頭を振った。「あんたたち、本当に兄妹?」
「ほらごらん、あんたとは話したくないそうよ!」メイリンの声は、タカの甲高い鳴き声みたいに大きくなった。マニキュアをつけた爪で、香港直送のファッションブラウスの深く切れ込んだネックラインをいじっている。「帰って!」
メイリンの金切り声を聞いて、リチャードの隣人が、頭を出してのぞいた。
レックスは近くに寄りかかかった。「開けないんだったら、あんたの赤いコンバーチブルをキーでひっかくわよ」
メイリンはその赤い唇をおにぎりのように大きく開けて、ハッと息を呑んだ。「マイ・ベイビー!」
ビーナスが車のキーを取り出し、ゆらゆらさせた。
メイリンはドアをバンと開けた。
「ごきげんよう」レックスは大股でリチャードの居間に入り、コーヒーテーブルに足を放り上げた。
「和平条約を結びに来たんじゃないから」
「何だって——? 最悪だな」
レックスはビーナスの方を向いた。「ほら、窮地に立たされてるのが分かってるみたいよ」
「まさか」リチャードはソファのクッションに沈み込んだ。
「じゃあ、この質問は簡単だわ。あの男の行列は一体、何? 本当にあなたの友達?」
メイリンの目が大きくなった。「リチャー! 何か秘密ある?」
「レックス、お前バカか。そうだ、あいつらは僕の友達だ」
「じゃあ、『こどもの日』の夕食にいたあの人は、何て名前?」
リチャードは三回まばたきした。「ええと……マーシャル?」
レックスも覚えていない。「叔父さんのバースデーパーティの時のは?」
今度は、七回まばたきした。「カール?」
「ブーッ。やっぱりね」
「いちいち誰を連れてったかなんて、覚えてないよ」
「じゃあ、何で、私がオリバーとデートしたことに興味があるの?」
「別にないよ。いい気になるな」リチャードはリモコンをつかみ、テレビの音量を上げた。
レックスはそれを引ったくって、テレビを消した。「ねえ、メイリン。リチャードが六歳で私が五歳だった時のこと、聞いた?」
「おい、おい、おい!」リチャードは、魔法のつえでメイリンの耳をふさぎ、レックスの口を閉じさせようと、腕を振り回した。
(は! できるもんなら、やってみろ)
レックスをにらむリチャードの目は、恐怖のしぶきの中で萎えていった。「やめろ」
「賭ける?」
「分かった、外で話そう」
「いやよ! ドアの外に締め出すつもりでしょ」
爪をじっと見ていたビーナスが顔を上げた。「そうなったら、近所の人が聞こえるように大声で叫べばいいわ」
ゴルフで日焼けしたリチャードは、青白くなった。
レックスはソファの肘掛けに座り、足をぶらぶらさせている。「言って」
「お前のボーイフレンドを見つけたら、車を買ってくれるって、ばあさんに言われたんだ」
「えーっ?」女三人は同時に悲鳴を上げた。
「おばあちゃんから賄賂をもらったってわけね?」レックスはソファから飛び降りた。「驚くことじゃないわ」
「リチャード、あなたの自己防衛本能には、相変わらずびっくりさせられるわ」ビーナスは彼をあざ笑った。
「あんたのアキュラ、まだ三年」メイリンは唇をつねり、腕を組んだ。「それに、私とよりを戻さない」彼女にプライムホイール(プライム社製高性能ロードバイク車輪)を与えないのは国家犯罪であるかのような言い方だ。
リチャードの目は横にそれたが、誰の顔もまっすぐ見ていなかった
レックスは動いて彼の前に立った。「オリバーのこと、どれぐらい知ってるの?」
「よくは……知らない」
「じゃあ、斧を持った殺人鬼と私を引き合わせる可能性もあったわけね。お兄ちゃん、大好き」
「おい、叔父さんの家で会わせた、ダサ男と比べたらマシだっただろ」リチャードはむっつりした。
「リチャード、何て脳みそがないの」ビーナスはドアの方へ動いた。「レックス、行こう。こんな奴はメイリンに任せとけばいい」
メイリンは笑って、指を鳴らした。
「勘弁しろよ、レックス。助けになりたかっただけなんだ」メイリンの荒れた顔を慎重に見ながら、リチャードの絶望的な目はレックスに懇願していた。
「最悪のデート相手を見つける、っていう助け? 私って本当に愛されてるのね」
「男を探してるようなことを、遠回しに言ってたじゃないか。それに、ばあさんもお前にデート相手が必要だと思ってる。誰かに引き合わせようとして、どこが悪いんだよ」絶望的な笑顔を見せた。
レックスがにらむと、その顔から笑顔が消えていった。「リチャード、いい人を選ぶこともできたんじゃない?」
「選んだよ。エイデンは? オリバーは? 楽しかったんだろ?」
レックスはビーナスを追ってドアの外に出た。確かに、一つ彼に借りができた。
「そうよ、リチャード」ドアノブをつかんだ。「あなたはその気がなかったのかもしれないけど、オリバーはいい人だったわ」ドアをバタンと閉めた。
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