【オンリー・ウニ】第20章

『オンリー・ウニ』

寿司シリーズの第二作
著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
→ 作品ページにもどる



第20章

(ホームレスだ。お母さんが大騒ぎする)

(そして、おばあちゃんは心臓発作を起こす)

(お父さんも死んじゃうかも……ダメ、なんてひどいことを考えるの。だって最近はお母さんの世話をしてくれて、どうやら他の女性とは会っていならしい)

(とにかく、お母さんの気が狂うことは間違いない)

 分注器を持つ手にけいれんが走り、トリッシュは細胞培養フードの滅菌面全体に細胞をばらまいてしまった。イライラしてうなり声を上げた。手袋をはめた(バイオハザードで汚染された)他方の手で額を叩こうとしたが、やめておいた。

 トリッシュはペーパータオルとエタノールの瓶に手を伸ばし、仕事に集中しようとしたが、昨日の記憶はどうしても消えない。マーニーのヒステリックな金切り声、焦げて悪臭に満ちた居間、手の中にある立ち退き通知。

 別の住まいを探さなくてはならない。マーニーとあの毛玉のような動物が、今朝さっさと叔父さんの家に引っ越していったのはフェアじゃない(それに、引っ越し先のウォールナットクリーク(1) は、トリッシュからすればまだ近すぎる)。トリッシュはそれほどラッキーではなかった。両親の住むモルガン・ヒルまでは一時間半――鳥肌が立つような通勤、それに、小さすぎる。余分の寝室すらないから、トリッシュはソファで寝ることになるだろう。両親がその家を買った時、母はその小ささが不満だったのだが、父は、トリッシュが出て行った後でまた戻ってこないように、小さい家にしたかったのではないだろうか。

 母にバレたらパニックになるだろう。心臓発作から回復したばかりで、この間電話で話した時は元気そうだった――それでも、これは良い話ではない。元気な時だって、母は嘆き、(娘がアパートから追い出されたなんてことがバレたらお寺の友達に合わせる顔がないわ。何て恥知らずな……)というようなことを、トリッシュはいやというほど聞かされる。

 母が言わなければ誰にもバレるはずはないと説得しようか。でも、一人にバレてしまったら、四八時間以内には絆の堅い日本人コミュニティー全体にバレるだろう。

 日系食料品店の三和では、(マリアン・坂井さんの娘のこと、聞いた? アパートから追い出されたそうよ)

 日本食レストランの「ごんべい」では、(聞いた? マリアン・坂井さんの娘がアパートで火事を起こしたそうよ)

 まんじゅう屋の「しゅうえいどう」では、(聞いた? マリアン・坂井さんの娘が放火で逮捕されたそうよ)

 チャーリー叔父さんが電話をかけてきて、問い詰めるだろう。「どういうことだ? マリアンの娘が刑務所を脱走したって?」

 新しい場所が見つかるまで、両親に言うのは待ったほうがいいだろうか。

(集中しなきゃ)母のことを考えるのをやめなくては。住む場所が必要なのだ。どこに行けばいい? 会社は、パロアルトにある古くからの裕福な住宅街の真ん中にあり、安いアパート探しは難しい。もっと北か南の方を探すこともできるが、注意して探さないと、片道一時間の通勤になりそうだ。

 待って、ルール三番――また忘れるところだった。

(引っ越しトラックの予約はどこに電話をすればいいだろう?)

 ルール三番――忍耐を持って、神様に頼ること。

(ああ、忘れないようにしなきゃ。搬入口で引越し用に段ボール箱を探すこと)

 分かった、忍耐を持とう。それ以外に何かあるかな……?

(引っ越しトラックを借りるより、ジェニファーの新しいトラックが借りられないかな)

 耐え忍ぶなら、神様に専心することができるだろう。純潔を取り戻すことができるだろう。もっといい人になれるだろう。神学修士を取れるだろう。神様は完璧な男性を送ってくれるだろう。

 そうだ、確かにトリッシュの恋愛生活は、ホームレスになることと比べたら大したことではないように思われる。深いため息をついた。もしかしたら、聖書を読むべきなのかもしれない。

 細胞を植え終わった。インキュベーターに滑り込ませ、ラボを出てオフィスに向かった。デスクの引き出しのどこかに聖書を一冊入れてあったはずだ。

 第二コリント第四章を偶然見つけた。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています……」使徒パウロは、試練における強さと不屈の精神、その力がパウロ自身ではなく神様から来たことについて描いている。忍耐とは、何が起こったとしても、つらい時に神様の助けに頼ることを意味していた。

 この箇所を読むと落ち着いてきた。引っ越しトラックのレンタルという些細な不安が邪魔をしたが、ページをめくりながら読み進めるうちに消えていった。

 パウロは自分の試練を「一時の軽い苦難」と描いている。

 気持ちをきちんと整理する必要があった。トリッシュの目の前にあるのはホームレスという状態であり、ローマでライオンに食われる(2)ことではなかった。

「私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。」つまり、(ヒステリーを起こすのはやめて、神様に信頼しなさい)

分かりました、主よ。今度こそ、あなたに寄り頼みます――やった!――あの惨めだったマーニーの時みたいじゃない。この御言葉をありがとうございます。気分が良くなりました

(私がするべきことについて、知恵をください。大事じゃないことに振り回されないように、助けてください。ああ、正しい態度を持てるようにしてください)

(そして、お願い、お願い、お願いです、家探しを助けてください)

 

 彼は、最高にかっこ良く見えた。

 スペンサーは自分でも、それが分かっていた。サンフランシスコに新しくオープンしたサロンのヘアスタイリストがハイライトを入れて切りそろえたばかりのヘアスタイル――あのゲイのスタイリストに言い寄られても、あのサロンへ行く価値はある。新調したベルサーチのブレザーを着て、新しいサングラスの中からのぞくと、まるでセクシーな映画スター、チョウ・ユンファみたいだ。そう言って女性店員はべた褒めした。

 トリッシュにあっと言わせるような完璧な仕上がりだ。それともムッとさせるか。その両方かもしれない。

 スポーツカーを日陰に停め、自信にあふれた香港の映画スターのように威張りながら、駐車場から建物に入った。サングラスを着けたままにしようかと思ったが、屋内でかけていたら間抜けに見えるだろう。だから、チョウ・ユンファのサングラスはブレザーのポケットの中に滑らせた。サングラスをかけていても外していても、かっこ良く見えた。

 スペンサーはオフィスに入り、途中でぱたっと立ち止まった。

「何だい、あの箱は?」

 トリッシュは、青白く、不安そうな笑顔でスペンサーを見上げた。「あの……仮のストレージかな?」

 スペンサーがその一つを持ち上げると、中で何かがチャリンと音をたて、彼はそれを自分のデスクから下ろした。「ここは公共の保管施設じゃないんだけどな」

「新しい場所が見つかるまでだから」

「今のアパートは何が悪いんだ?」椅子に沈み込んだ。

「あそこは……あの……今はダメなの」

 スペンサーはトリッシュを長い間じっと見つめた。

 トリッシュは降参した。「前のルームメイトが昨日燃やしちゃったの」

「何を?」

「窓が爆発して、居間は全焼。寝室が大丈夫だったのはラッキーだった」

「どこに住むんだ? ここか?」

「違う!」

「じゃあ、どこ?」

「あの……どこか一時的に見つけるわ」その目は、古い寝袋が少し出ているバッグへと流れていった。

「ここでは泊まれないぞ」

「ほんの二、三日だけだから。時間投与試験で何度も泊まってるのよ」

「誰かがそこのデスクに移ってくるかもしれないんだぞ」スペンサーは部屋の反対側に向かって手を振り上げたが、その手は箱にぶつかり、箱はドスっと音を立てて、不安定に揺れた。

「勘弁してよ。誰がここに来なきゃいけない? うちの部は人数が頭打ちだから、しばらく誰も雇わないわ」

(スペンサー、落ち着け)ここ数週間、彼はトリッシュをイライラさせて楽しんだが、日曜日に会った後で気づいた。初めは和夫への当て付けで彼女を追いかけていたが、好きになっていた。気さくで楽しく、それに狂ったハムスターの攻撃に立ち向かうトリッシュを思うと、日曜学校を上手に進めていた。

 それに、マシューも大丈夫だった。もっと大事なのは、救急から帰る途中で彼が坂井先生のことを喋り続けたことだった。

 だから今は、トリッシュの笑顔が見たかった。

(忘れるな。お前はチョウ・ユンファだ)

 だるそうに半分閉じた目となだめるような笑顔で、スペンサーはキュービクルの壁の周りを歩いた――箱の海を渡るように――トリッシュのデスクにもたれ、その椅子に近づいた。「確かにそうだ。文句を言って悪かった」

 トリッシュの視線はショックを受けたようにスペンサーの顔へ飛び、そしてすぐ目を離し、モニター、キーボード、膝、カレンダー――彼以外の全てのものへと素早く動いた。スペンサーはトリッシュが息を吸うとその胸が上がるのが見えたが、彼女は時間をかけて息を吐いた。

 これらは全て、いいサインだった。

「動かすの、手伝おう――」

 トリッシュの携帯が甲高いチャイムを一回鳴らし、彼女は椅子を回して反対側を向いた。

 しかし彼女が向きを変えた時、椅子の端がスペンサーの膝に当たり、刺すような痛みがお尻まで走った。(ザクッ、ズキズキ、ジリジリ燃えるような痛み……)言葉にならないうめき声をあげて、彼は床に倒れた。怪我をしていない方の膝をつき、もう一方の膝を手で受け止めた。体を半分に折り曲げながら、口からうめき声が出た。メッカに向かってお辞儀をしているように、額が床に当たった。

「まあ、スペンサー、大丈夫? どうしたの? どうして――」

 スペンサーの後ろからしっかりとした足音が聞こえた時、トリッシュの声は息が止まったかのように消えた。

「あ……やあ」高音だが男らしい声に、スペンサーはかたまった。

(まさか)

 ようやく、スペンサーは体を解きほぐすように立ち上がった。手でトリッシュの机の端をつかみ、体を引き上げた。突然血がめぐり始め、膝が燃えそうに感じた。

 戸口に立っていたのはケビン・クラークだった。そう、キアヌ・リーブズのように「肩幅がこんなにある」ケビン。ヒョロっとしてオタクっぽいケビン。トリッシュがほんの先週絶賛していた男だ。

(最高だ)

 ケビンは手に持っていた箱の位置をずらした。「今日辞令が出たんだ。こっちに移るって。君らの有名なプロジェクトに参加して欲しいんだってさ」

 トリッシュは積み上げられた箱の周りを見て、顔をしかめた。「すぐどかすわ」

「感謝するよ」ちょっと皮肉が混じった声だった。「作業台も要るからよろしく」

「どこに取り付けたらいいか見せるわ」トリッシュは彼をドアの外へ引っ張った――彼が箱を下ろす前に――廊下のずっと端まで。

 スペンサーは二人の背中をにらんだ。(「見ない」ってこういうことなのか。キアヌが姿を見せた途端、トリッシュは彼にべったりだ)

 少しがっかりした。トリッシュがスペンサーに惹かれているように見えたという事実にもかかわらず、彼の提案を無視した。確かに、最悪のタイミングだったのだが。

 スペンサーは足で箱を押しのけようとして初めて膝のことを思い出した。悲鳴を上げて、椅子に倒れ込んだ。

 

 コンピュータの時計が正午になった途端、トリッシュは携帯をさっと取り出して番号を押した。

「バレーバイブルチャーチ、キャットです」若そうな声――年配の女性ではなかった。

「こんにちは、キャットさん。トリッシュ・坂井です。新しい教会員の」

「そうなんですか、ようこそ」

「ありがとう。教会の掲示板に広告を出したいんです。住む場所を探してて」

「もちろんですよ。広告の内容は?」

「独身のクリスチャン女性が住まいを探しています……」携帯番号とメールアドレスをすらすらと告げた。

「オッケー、ご両親の家を出るのかしら?」キャットは自然な口調で言った。

「というか、実は……アパートで火事があって」

「えっ、ほんとに?」

「私のルームメイトのせいなんです!」そのことははっきりさせておかなくては。そうしないと、放火魔と住むのではと疑われてしまいそうだ。

「まあ、それは大変ね! だけど、教会のメールリストに送れば早く見つかるかもしれないわ」

「教会のメールリストがあるんですか?」

「ええ、あなたのアドレスも載せましょうか?」

「ええ、ぜひお願いします。ありがとう」電話を切った。

 トリッシュは、今朝インターネットで検索した番号を回した。「こんにちは、カリフォルニア通りの賃貸アパートのことなんですが」

「ああ、もう借り手が決まりました」

「でも、今朝出たばかりの広告ですが――」

「義理の弟に貸すことにしたのよ」

 アパートの管理人に吠えかかりたい衝動を抑え、電話を切った。

 また別の番号を押した。「こんにちは。ブロッサム通りのアパートのことで電話しました」

 男性は、広々としてとても良さそうなアパートの説明を始めた。

 トリッシュは興奮を隠そうとした。「今晩見に行ってもいいですか?」

「もちろん、ああ、だけどちょっと待って、広告に出した賃料が間違ってたんだ」

 濡れた雪のように重い何かが胸の上にとどまった。「じゃあ、いくらですか?」

「ゼロが一つ足りなかった」

(えっ?)「それは私の予算を超えてます」

「そうなんだよ、みんなそう言うんだ」彼の申し訳なさそうな口調を聞いても、同情する気にはなれなかった。

 また別の番号にかけた。「こんにちは、アパートのことですが、広告の中の住所がはっきりしてなくて」

「ああ、グリーンウェイとハミルトンの近くよ」

(何か聞き覚えのある名前……ちょっと待って)「グリーンウェイ? 先週ギャングのもめごとがあって子供が撃たれたところですか?」

「そうなの、だけど近所はすごく安全だよ」

(まさか、ギャングの「縄張り」に住むの? 最悪)「あの……ちょっと遠慮しておきます――」

「アパート見るだけでもどうかしら。そうすれば周りの様子も見られる――」

「少し考えます。ありがとう」電話を切った。

 口から泣き言がこぼれそうになった。最後の希望がギャングの縄張りにあったとは。さて、どうすれば良いか?

 戸口でコツンと叩く音がして、男性の深い声が響いた。「トリッシュ?」

 見上げるとキアヌ――いや、ケビン・クラークの大きい笑顔と青い目。ワーオ。彼はただただゴージャスだ。戸口にそうやって立っていると……少し神経質そうに見える。ポーズを取るように、手を腰に当てていた。だめだ、また馬鹿な考えを――。「ハーイ、ケビン。作業台は取り付けたの?」

「ああ、ランチに行かない? 新しくできたカリフォルニア風地中海料理の店がサンアントニオ通りにオープンしたんだ。気に入ると思うよ。サラダが絶品なんだ。フェタチーズと3種類のオリーブがのってて」

 トリッシュは驚いてまばたきした。自分の好みはそんなだったか?「オリーブはあまり好きじゃない――」

「薪焼きピザもあるよ。僕が好きなのはゴートチーズのだけど、ローズマリーチキンが二番目かな。君、ローズマリーチキン好きだと思うよ。女の子は大抵好きだから」

 胸の前で腕を組んだ。「へえ、そうなの?」彼が周りの人のことをこうやって決めつけることに、トリッシュはなぜ今まで気がつかなかったのだろうか?

 確かに、この男と会話をしたのは正確には二回、それぞれ一分ぐらいの会話で、単に検定用試薬のことについてだったという事実が関係しているだろう。嘘ではない――二回とも、トリッシュは彼のハンサムな顔を見て夢見心地になり、ほとんど会話についていけなかった。メトロセクシャル (3) だったとは――見上げるような美は、少し色あせて見えた。何という矛盾――。

「自家製のスープも絶品だよ」

 彼が絶品という言葉を使ったのは二回目だったか? この言葉を男性が使うのを聞いたのは、「二人は友達? ウィル&グレイス(4)」の再放送だけだ。

「先週はマッシュルームクリームを試したけど、美味しかった。だけど君は嫌いかも。ちょっと土臭い味がして、女の子はあまり好きじゃない」

「マッシュルームは大好きよ――」

「君だったら、チェリージュビリーが好きじゃないかな。僕はグラン・マルニエのスフレが好みだけど、君は……」

 彼をどうやって立ち去らせようかと考えながら、トリッシュは彼がまくし立てる間黙って立っていた。少なくとも、話すのをやめた。相手の話を決して聞かない男とどうやって意思疎通できるのだろうか? ロメインレタス対アイスバーグレタスについての彼の長い説教を、頭の中でめった切りした。「ケビン、私とても忙しい――」

「それで、外側の葉っぱも使うんだよ。ふざけてる」

「もう出てって――」

「だけどレタスをしっかり洗うんだ。それだけは評価するね」

「メールチェックさせて」その間、ケビンはオーガニックのベビーキャロットの話をまくし立てていた。ナイン・ウエストのブーツを持ち上げて、彼の清潔なカーキ色のパンツに押しつけたら、どんな顔をするだろうかと考えた。

「そろそろ行く? トリッシュ?」 

「は?」ケビンの方を振り向いた。コールドプレスのアマニ油に関する論説は終わったのか?

「行こう」ドアの方を身振りで指した。

「どこへ?」

 彼は咳払いをして、大げさに言った。「ランチだよ」

(何て傲慢なの)彼の話はもううんざりするほど聞いた。後ろめたいが、ルール一番に従っていたら、こういうことにはならなかったはずだと気づいた。サイクリングの服装をした彼がかっこよく見えたらからって、それが何だというのか?『プリンセス・ブライド・ストーリー』のフンパーディンク王子のような性格だから、自分が気のある素振りを見せ続けなければ、こんなことにはならなかっただろう。「ごめんね、ケビン。興味ないわ」

 断られたのが信じられなかったのか、ケビンは一瞬動かなかった。「何で? どこか具合でも悪いの?」

 トリッシュの具合が悪いのかと聞いているのだろうか? 「大丈夫よ!」

「じゃあさ、僕のこと、もっと知りたくないの?」

 肉体的危害を加えそうになった。違法でなければ。それに、彼の新しいスラックスを血に染めたくもない。

「教会秘書」からのメールがスクリーンに現れた。チラッと見て、椅子の中で背筋を伸ばし、電話を取って番号を回した。「キャットさん、メールにタイプミスがあるわ」

 ケビンは一人芝居をあからさまに無視されたことに気づいた。「トリッシュ、なんて失礼なんだ」

「どんなタイプミス?」キャットは尋ねた。

 ケビンは受話器を持っているふりをした。「僕がここに立ってる間に誰かに電話をかけるなんて――」

 トリッシュはコンピュータを見つめた。「『独身のクリスチャン女性が火事でアパートを燃やした後、住まいを探しています』って書いてあるんだけど」

 彼は胸を手で押さえた。「僕が君と先に話してたんだから――」

「ああ、ごめんなさい。修正メールを出しておきます」キャットは約束した。

 彼は空中で手を回した。「だけど、僕は君を赦すべき――」

「ありがとう、キャットさん」

 ケビンは天井をにらんだ。「だって、君は社交的な無礼だってことを知らないかもしれない――」

 キャットはクスッと笑った。「新しい教会で評判になっちゃいますねえ?」

 ケビンはトリッシュの方を向いて身振りで示した。「だって、君は外国人だし――」

「本当にそうね。それじゃ」トリッシュはケビンの方をまっすぐ向いた。「私のことを何て呼んだ?!」

 口から火が出そうな怒鳴り声に、ケビンは驚いた。愚かなことに、彼は繰り返した。「外国人?」

 トリッシュは鋭く息を吸い、ディズニーの『眠れる森の美女』に出てくるドラゴンのように胸を膨らませた。「私は日系三世のアメリカ人よ、無知ね!」

 教養があり、身だしなみの整ったケビンは、面と向かって無知と呼ばれたことは生まれてから一度もなかった。顔から血の気が引き――先週どろパックをしたかもしれない――シミのないクリーム色のオックスフォードのシャツと同じ色になった。彼は口を開けたり閉じたりしてから、ようやく口を閉じるのを思い出した。目を見開いたその顔は、明らかにチワワのようだった。

 鼻をすすり、その鼻を天井に向け、君主が小作農を見下げるようにトリッシュをのぞきこんだ。そして、オフィスから出て行った。

 もしかしたら、ケビンを遠ざけるべきではなかったのかもしれない。結局、彼と一緒に働かなくてはならないのは明らかだ。だが正直に言って、彼に無視された方が楽だ。あの男は口を閉じることができない。

 この結果、既にストレスの多い生活にさらにストレスがかかることになった。まあ、ケビンとのことでルール一番を破ったのは自分自身だった。明らかに自己の意に反して。

 これは、神様がトリッシュにもっと罰を与えているからなのだろうか?

 

 火曜日の早朝、トリッシュは職場近くの公園で、アカスギの木の下にあるベンチに座って震えていた。芝生を通り抜けるコンクリートの歩道に花びらが落ち、その芝生はまだ朝露で銀色に光っているが、早朝の日光のために、蒸気が小さな束になって蒸発していった。時々フィンチやスズメが飛んでくるが、他にいるのは、外でダブルスの試合を楽しむバレーボール選手が数人。こちら側にはゴリラのような腕をした長身の白人男性二人、向こう側には長身のアジア系男性と、同じぐらいの身長の白人女性がいた。アジア系の男性は細くさっそうとした顔で、体は筋肉で巻かれているようだったが、トリッシュは興味すら湧かなかった。

 長くゆっくりとため息をついた。ホームレスなのに、男性が気になるものなのか? ギャングの縄張りにあるアパートは、ますます良く見えてきた。

 いさぎよく高いアパート代を払って、もっといい場所を探す時間を稼ぐべきだろうか。彼女は貧乏ではないが、レックスのように、家を買うために切り詰めてお金を貯めていなかったし、銀行に余分の貯蓄があるわけでもない。月収の八割を占める賃料を払ったら、何か月生き続けることができるだろう?

 両親の小さい家に荷物を押し込んでもいいだろうが、通勤に耐えられるとは思えなかった――毎日三時間。それに、浮気な裏切り者の父と一緒に住みたくない。トリッシュは、調子よくお世辞を言い続けてすでに三〇年も無駄にしたのだ。

(ん?「調子のいいお世辞」とはロマンス小説のセリフだ。ロマンス小説を読んでも女の子は賢くならないなんて、誰かが言ってたっけ?)

 父に関する知らせを聞いて母が入院して以来、トリッシュは父のことを誰にも言わなかった。いつかは何かをしないといけないのだが、両親の結婚を引き裂くかもしれないようなことについて彼らと直面するべき時を、どうやって選べばよいのだろうか?

 ベイエリアの家は今、借り手市場のようだが、昨日は何も物件がなかった。突然の干ばつか? 神様は助けに来てくれるんじゃないの? 携帯の音が静けさを破り、アジア系の男性はスパイクしそこなった。「ハロー?」

「トリッシュ? チョイです。教会の」

 日曜学校をクビになるのか。グリゼルをノイローゼにさせてしまったから。親の一人が教会を訴えたとか。「日曜学校の方は大丈夫ですか?」

「ええ、それはもちろん。今日はそういうことじゃないの。あなた、まだ住むところを探してるの?」

 トリッシュはベンチから飛び上がった。「はいっ!」

「実は、甥のジョージがね――うちの教会にはもう来てないからあなたは知らないと思うけど、サンノゼに家を買ったの。だけど、一年間海外宣教に出ることを決めたのね。トレーニングのためにミズーリ州に行っちゃって、その家を借りてくれる人を探すように頼まれたの。家のローンを払わないといけないからね。分かるでしょ」

 彼女は祈った。「サンノゼのどこで、家賃はいくらですか?」

「ロスガトスとの境でね、カムデン通りと85号線の近くよ。だけど賃料が少し高くて……」チョイ夫人は金額を言った。

 トリッシュは公園の真ん中で狂ったようにハッピーなダンスを踊り始めた。しっぽを振るテリアに吠えられ、飼い主は、彼女を見ながら神経質そうに犬をグイッと引っ張った。

「チョイさん、とてもお手頃な価格ですね。本当ですか?」(ゼロを一つつけ忘れたなんてこと、ないですよね?)

「もちろん、間違ってないわ。ジョージは株を売って頭金を多めに払ったの。賃料は彼の毎月のローン返済額なのよ」

 ジョージにキスしたいぐらいだ。金銭的な責任感のある若い男性、素晴らしい。見ずに承諾してもいいだろうか? だって、選択肢はジョージの家か、あの縄張りの中かのどちらかなのだ。サンノゼはよく分からないが、高級住宅地のロスガトスからは豊かさが溢れ出していた。それに、職場からも三〇分。家が気に入らなくても、他の住まいを探すあいだの場所になる。「チョイさん、引っ越しさせてください。できるだけ早くお願いします」

「それじゃあ、明日はどうかしら? 住所は……」ハイウェイ85号線を出てすぐだ。ますますいい。「明日、その家で会いましょう。正午ごろでいいかしら?」

「はい、ありがとうございます」

 アドレナリンでまだ心臓がドキドキしたまま、トリッシュは電話を切った。することがたくさんあった。あの勢いよく走る新車のSUVを貸してくれると約束していたジェニファーに電話をして――少しだけ、トリッシュは彼女を脅したのだが――引っ越しを手伝ってもらおう。母にはまだ何も言っていなかった――マーニーのこと、火事のこと、立ち退きのこと――だから、今日電話でいろいろ知らせよう。(ああ、なんという喜び)

 とにかく、少なくとも住む場所ができた。(神様、ありがとうございます。そして少しでも疑って、ごめんなさい)



 



「ビーナス、大好きよ。だけどあなた、貴重な車内スペースを占領してる」会社の駐車場に入り、トリッシュは、ジェニファーのSUVの開いている助手席側の窓にもたれた。ビーナスは頭で後ろの方を指した。「レックスも車を持ってきたわ」

 ああ、良かった。レックスが去年購入した中古のトヨタ・カムリでこちらに向かってくるのを見ようと頭を回した。新車ではないが、その前のポンコツ車より十年は新しかった。レックスが運転するんだったら、ビーナスの小さいコンバーチブル型のスポーツカーに荷物を入れるより、ビーナスに車内スペースを占領された方がいいと、トリッシュは考えていたのだった。

 土曜日の朝だから誰も会社に来ない。本当によかった、バレー製薬の裏口から四人のいとこがダンボール箱を運び出すのを目撃されないで済む。布団はビーナスの居間に置かせてもらっていたし、箱の数は思っていたより少なかった。ジェニファーのトラック、トリッシュの小さいRAV4、レックスのトヨタにも余分のスペースがあった。

「二台に全部入れて、一緒に行こうよ」ビーナスはジェニファーのトラックにお尻を押しつけた。

 ジェニファーはトランクに箱を入れた。「レックスの車を置いていこうか」

「ダメ」トリッシュはトラックに箱を突っ込んだ。「警備に牽引されちゃう」

「じゃあ、あなたの車を置いていこう。それだったら牽引しないでしょ」ビーナスはトリッシュの後部座席から箱を出し始めた。

 SUVとレックスの車に荷物を押し込むと、トリッシュがジェニファー、ビーナスと一緒に乗って行くのにちょうどいい余裕があった。

「出発進行!」会社の駐車場の出口に向かいながら、後部座席の窓から腕を出して振り回した。レックスの車が後ろからついてくる。

 助手席からビーナスの声が、中央のコンソールに引っかかったランプをまわって聞こえて来た。「その手、車の中に入れてよ。ちぎれるわよ」

 トリッシュはそれを無視して、肌に触れる風を楽しんだ。「こっちは狭いのよ。窓の外にはみ出るしかないじゃない」

「文句ばっかり言わないの、ビーナス。いいお天気なんだから」ジェニファーは調子はずれの鼻歌を歌いながら、フットヒル高速道でスピードを上げた。

「ねえ、みんな!」

「何よ?」トリッシュは前にもたれかかったが、ランプに目をくり抜かれそうになった。「レックスみたいな声じゃない?」

 何とかランプをどかして、ビーナスが口にトランシーバーを持ち上げるのを見た。「いるわよ、レックス」ビーナスは後部座席の方へ頭を回した。「あなたの新しい貸間までみんなでキャラバンを組むって言ったら、エイデンがトランシーバーを貸してくれたの」

「それは賢い」実用的なことを考えられる男は信頼できる。

「ヘーイ!」レックスの声がトランシーバーの向こう側でパチパチ音を立てた。「トリッシュに叔母さんのこと聞いてよ」

 ビーナスがランプと家電の入った箱との間から手を伸ばし、トランシーバーをトリッシュに渡した。

「あ……ハロー?」

 ビーナスがじっと見た。「ボタンを押すのよ、バカね」

「押してるわ」

「あのさ、終わったら放すの」

「ああ」指を鳴らした。

「それで、叔母さんの調子は?」

 トリッシュはトランシーバーを口に近づけた。「大丈夫。ほとんど普通に戻ったみたい。ちょっと疲れやすいみたいだけど」

「叔父さんは?」前の席からジェニファーが尋ねた。

 トリッシュはすぐに返事をしなかった。父のことを考えただけで、お腹の中がゴロゴロ音を立て始めた。もしかしたら、今朝の朝食用ブリトーのせいかもしれない。

「で、叔父さんは?」レックスがトランシーバーを通して尋ねた。

「元気だと思う」そう言ってから、ボタンを押し忘れたことに気づき、レックスが聞こえるように繰り返さなくてはならなかった。何て変な会話。

「あのあとさ、叔父さんとアリスのことで何か聞いたの?」レックスが尋ねた。

「聞いてない」

「叔父さんとはその話、した?」ビーナスが振り向いてトリッシュを見た。

「冗談でしょ? お父さんよ、アジア人の。そんな深い、真剣な話なんて、一度もしたことないわ」

「何?」レックスが尋ねた。ああ、ボタンは押していたのだが、レックスはビーナスの質問が聞こえていなかった。ジェニファーはため息をついた。「アジア系の男性全てが無口なわけじゃないわよ」

「だけど、お父さんはそう。私の性教育を母にさせたの――母は恥ずかしすぎて文章を最後まで終わらせないもんだから、何を言いたいのかさっぱり分からなかった――それに、私のボーイフレンドが気に入らない時は、いつも母から私に話をさせる」

「だけどね、叔父さんはあなたのことを思ってるの」ジェニファーはまたため息をついた。ジェニファーの両親が数年前に離婚した後、たまに訪ねてくる父を見て心を痛めていた彼女を思い出し、トリッシュの苛立ちは薄れた。それに、ビーナスの父は冷たくてよそよそしく、滅多に同意しない人だった――少なくともトリッシュの父は、いつも温かく、彼女とその友達を迎え入れてくれた。

「どうしたらいいか分からない」トリッシュは手を見つめ、ボタンを押さないとレックスが会話に参加できないことを思い出した。「お母さんがまだ不安定な時に話せない。それに、お父さんの前でどんな態度を取るべきなのかも分からない」

 トランシーバーがパチパチ音を立てた。「あの後、会ったの?」

「会ってない、電話で話しただけ。いつもお母さんのことを短く話すだけよ」

「もしかしたら、二人の間で解決しようとしてるのかもね」ジェニファーはレーンを変えるために後方確認しようと体をひねった。

 ビーナスは鼻先で笑った。「そんな話、本当に信じられる?」

「トリッシュのお母さんにとても気を遣ってるわよ。罪悪感だけじゃなく。それって大事じゃないかしら」

 ビーナスはマニキュアを塗った指で顎を叩いた。「確かにそうね」

 そうなのだろうか? そう信じたかったが、希望を持つのが怖かった。

 トリッシュが時々方向を指示する以外、車の中に沈黙が漂った。とうとうジェニファーが尋ねた。「神学修士はどうなってる?」

「最近奉仕活動ばっかりしてる」幼児にハムスターをのみ込ませたり、Kドラマを見たり。「もう少ししたら、推薦状を書いてくれるかどうかを聞いてみるつもり。そうしたら願書が完成して、提出できるの」

「ね、ビーナス。この子、真剣だったのよ」ジェニファーは満足げだった。

「だけどまだやってないんだから、あなたの勝ちじゃないわ」

「ねえ、どういうこと? 私のことで何か賭けてる?」トリッシュはランプをさらにどかした。ビーナスの頬の輪郭が赤くなっているのが見えた。

「賭けっていうか……」

「絶対そうよ」ジェニファーはフリーウェイを出た。「あなた、今回は動機が違う――何か新しく始めることを探してるだけじゃないんでしょ」

「左折して、カムデンをまっすぐ。信号を二つ過ぎるまで」トリッシュは、チョイ夫人が道順をくれた時に走り書きしたメモを読み直した。神学修士を目指し始めた時は、あまりよく考えていなかった。そう、自分が真剣だということをいとこたちの前で証明したい。だけど本当は、それを自分自身に対しても証明したかったのではないだろうか?

「オッケー、ここで右に曲がって」静かな、木が立ち並ぶ道路を走りながら、胸が高鳴った。ジェニファーはうらやむように「わあ、素敵な近隣ね」とつぶやいた。

 その区画にはきれいな家が並んでいた。小さめで少し古いが、芝生はきれいに刈り込まれ、世話が行き届いていることを自慢しているようだった。

「ここで左」

 脇道に入ると、手入れはあまり行き届いていないが、それでも上品な家が並んでいた。ああ、その区画の最後に立つ気味の悪い家は別だが……。

 不吉な予感にぐいっと引っ張られた。お腹の中が震え、喉が締めつけられた。(お願い、それだけは……)

 四人は荒れ果てた難破船のような家の前で立ち止まった。「5271番よ」トリッシュは遠吠えを上げたかった。

 外壁の塗料は長くギザギザした切れ端のようになって、羽目板からはがれていた。前庭では腰の高さまで伸びた雑草が茂り、古い木の枯れた枝が道路まで垂れ下がって、虫が流れるように割れ目のできた歩道に入っていく。雑草は雨樋からも垂れ下がり、空気の抜けたバスケットボールが屋根の上に落ちていた。ドライブウェイの油のしみは爆撃演習の標的のように見え、ガレージのドアは底が少し開いて見えていた。このガレージドアは本当に開くのだろうか?

 路上に車を停め、車の外に出て、草木の海に埋もれた踏み石の上の雑草の中を通って玄関のドアまでたどり着いた。

 レックスは片手で雑草をつかんで抜き、窓から蜘蛛の巣を払った。カーテンの大きな穴から中をのぞき見たが、何も見えなかった。ドアの取っ手を回し、施錠されているのを確認した。

 トリッシュはよろよろとトラックに戻り、グッタリもたれかかった。まるでシンデレラの魔法が解けてしまったよう……舞踏会の夜、新しいドレスを着てまばゆいばかりに美しい彼女は宮殿に入る……しかし、人々はもううちに帰ってしまっていたのだ。

 みんなは車に戻った。トラックの脇で悲しみに浸りたかったが、ジェニファーが彼女の肩をさすった。「元気出して、トリッシュ。別の場所が見つかるまでよ」

「ここに住めるとは思えない」

 古い巨大なタウンカーが家の前で停まり、呆然として狼狽を隠せないように見えるチョイ夫人が現れた。「まあ、なんてこと。トリッシュ、ごめんなさいね。こんなにひどいなんて知らなかった……」

 トリッシュはむせぶような泣き声になった。どうすればいいのだろう? どこに行けばいい? 最悪の状況だった。

 すると、白いトヨタ・アバロンがドライブウェイに入ってきた。(まさか)

 トリッシュの母だった。



(1) トリッシュの住むマウンテン・ビューから車で約一時間の距離にある市
(2) 古代ローマにおいて、キリスト者がコロッセオでライオンの前に投げ出されて迫害を受けたことがあった。
(3) 外見や生活様式への強い美意識を持ち、そこに多大なる時間と金を注ぎ込む男性のこと
(4) アメリカのシチュエーションコメディ

→ 第21章へすすむ
→ 作品ページにもどる
→ 他の作品を見る

※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。

Comments