【オンリー・ウニ】第16章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第16章
日曜学校で教えることについて、コーディネータのチョイ夫人とドアで待ち合わせ、チョイ夫人に腕をくっつけられた時、トリッシュは嫌な予感がした。七歳の時に、凍った街灯をなめた時のことを思い出したからだ。「ボランティアをしてくださるって聞いて、本当に嬉しいわ」トリッシュを教会のロビーに案内するチョイ夫人の紫色のまぶたが、素早くまばたきした。中央のテーブルに置いてある大きな花のバスケットのせいで、トリッシュは大きなくしゃみが出た。
チョイ夫人は絶えず笑顔で、トリッシュのくしゃみの飛沫をピンク色のジャケットの襟からこっそり拭こうとした。トリッシュの「ウィル・ロビンソン、危ない!」(1) 警告が鳴った。
しかしチョイ夫人の握力は強く、べべ(女性向け小売ブランド)で七五パーセント引きのセールがあったとしても、彼女を突き放して叫びながら逃げ出すことはできない。
「あの……何歳ぐらいのお子さんですか?」チョイ夫人に引っ張られながら、トリッシュは足を引きずった。
「新しい先生が教えるには最高の年齢、四歳児と五歳児よ」チョイ夫人のモカ・プラム色の唇が横に引っ張られ、コーヒーのシミと口紅がついた歯が見えた。明るい黄色のドアを開けると耳障りな子供の声がしたが、大人の女性の歯切れの良い声で静かになった。
「こちらがもう一人の先生、グリゼル・王さんよ」
「あれ?」まさか、そんなはずはない。
そうだった。王夫人を若くしたような人が目の前に立っていた。変な青い帽子――違う、頭に青い絵の具がついている。トリッシュの方を向いてとびっきりの笑顔を見せ、青い絵の具がついた手をふった。
トリッシュは胃がどさっと落ちたかと思った。
(逃げなきゃ!)
「それじゃあね。グリゼルが仕事を教えてくれるわ。バーイ!」チョイ夫人はトリッシュをそこに残し、ドアをバタンと閉めた。数人の子供が自由を求めて駆け出そうとしていた。
「王先生、スージーが糊をこぼしたよ」バットマンのポイズン・アイビー(2) を小さくしたようなのが、シワが寄ってシミのついたグリゼルのスラックスを引っ張った。
グリゼルは、この告げ口屋が幼児版ミス・アメリカであるかのように微笑んだ。「話しにくる前に助けてあげようか?」その心地いい口調は、よい魔女のグリンダ(3) のようだ。人間じゃない。「お片付けを手伝ってあげてくれる?」
トリッシュはまばたきした。このお嬢さんと比べ、自分は明らかに「子育ての基礎」をマスターしていなかった。グリゼルは本当に助けが必要なのだろうか? 何をするために? 後光を磨くため?
子供に囲まれ、グリゼルの隣に立っていると、自分がとても汚れているように感じた。この若い女性の手と頭についた青い絵の具――水彩だとよいのだが――のような色鮮やかなものによる汚れではなく。
グリゼルはトリッシュの方を向いた。本当に愛らしく軽やかな人で、トリッシュは床に沈み込んでしまいたくなった。「ようこそ! 来てくださって嬉しいわ。本当に手が必要だったの、あなただったら完璧だわ」トニー・ソプラノ(4) が家業であるマフィアを辞めるよう説得できそうな笑顔だ。
「私、実は一度も――」
「大丈夫、大丈夫」たくし込んだ長袖のシャツを整えたが――顎の下までボタンを留めて、いや、それはないか――シャンブレー生地の上には薄く青い線が残っていた。黒い目が心配そうに大きくなった。「あらやだ、マシューがまたクレヨンを食べてるわ。あなた、スージーと糊の片付けをお願いできる?」大きい虹色の部屋の後ろの方へトリッシュを急がせた。そこでは、小さい一人用のテーブルで、巨大な白いフィンガーペインティング・プロジェクトのように、黒髪の少女が糊を表面に塗りたくっていた。その一部はすでに乾き始めていて、耐熱性合成樹脂のテーブルの上で小川のように見えた。
「スージー、糊はね……あの……くっつけるためのものよ」少女がまた手を突っ込む前に、トリッシュはプラスチックのバケツを取り押さえた。
カールした濃いまつ毛に囲まれた大きく茶色い目はキラキラ輝き、顔にも糊がついて濡れている。少女にキスすれば、口がその頬に永久的にくっついてしまうだろう。
スージーは、またテーブルに糊を重ね合わせ始めた。「ママがね、新しいペットを買ってもいいって」
「あの……それはいいわね。ブルドーザーごっこしない?」トリッシュは糊の容器を見せた。「あなたがブルドーザーよ。糊を全部この容器に押して入れるの――。」
「猫が欲しいな」スージーは手でテーブルを叩いた。糊が飛び跳ねるのを見て笑っている。
「猫はいいペットね。じゃあブルドーザーごっこしよう」トリッシュはブルドーザーの音をまね――ポルシェのエンジンのように聞こえたが――糊を端っこにまとめて、容器に入れた。
「それか、イグアナはどうかな」スージーはトリッシュの糊をすくう動作をまねたが、床に落ちてしまった。
素敵。
すると、テーブルの反対側に小さい男の子がいるのが見えた。かわいいアジア系の男の子――髪型はクルーカットだ。少年は糊の中に手を入れて、身体中に塗りつけていた。いや、待って、この子って――?
「おえっ! 待って! それ、食べないで!」
少年は指を舐めた。
トリッシュはテーブルの向こう側に手を伸ばし、少年がこれ以上糊を触らないように手をつかもうとした。ねばねばが顔や髪の毛についたら困る。
グリゼルが来てため息をついたが、何とか笑顔は保っていた。「マシュー、糊を食べちゃダメ。この前も言ったでしょ?」
マシューは何も知らないように明るく笑った。
「この前?」トリッシュは、糊でベタベタのもじもじ動く少年の手を離さないよう格闘した。
「この子、最近何かあるみたい」トリッシュの手から飛び出した少年の片手をグリゼルがつかまえた。「何でもかんでも口に入れるのよ」
(ゲッ、かわいそうなご両親)
「マシューとスージーの手を洗いに連れてくから、あなたは子供達を遊び場で遊ばせてくれるかしら」部屋の後ろにあるドアを身振りで示した。大きな窓の向こう側に、フェンスで囲まれたアスファルトの遊び場が見えた。
遊び時間。だったらできる。
後ろのドアを開けるのは、パブロフの犬がベルの音を聞いた時のようだ。子供達は席から飛び上がり、早く外に出ようと先を争っている。あっそうだ、まず順番に並ばせるべきだっただろうか? だけど、もう遅い。
二人の少女がプラスチックのゴーカートに乗ろうとして、お互いに向き合っている。
「私のっ!」
「私!」
「二人ともダメ!」トリッシュは二人の腰のあたりをつかむと、小さい男の子がゴーカートをひったくった。
女の子二人は、『ジェリー・スプリンガー・ショー(5) 』ですさまじい喧嘩を繰り広げるカップルのように激しく泣き出した。一人は座り込み、ピンク色のレースがついたワンピースを持って泣きじゃくっている。もう一人は足で蹴りながら腕を巻きつけてきたので、赤いシャツがヘソの上までまくれている。
トリッシュは少女たちの目の高さまでかがみ、手をしっかり握った。二人とも、目を合わせなかった――というか、赤いシャツの子に目を叩かれそうになったが、トリッシュは無視した。「二人とも、シェアすることを覚えなきゃ。シェアってどういうことか分かる?」
ピンクのワンピースの子からはしょげ返った悲嘆の声、赤いシャツの子からは怒り狂った金切り声が返ってきただけだった。
「イエス様は何でもシェアしてくれたわ。食べ物だって」
「私だって、食べ物をシェアしてあげてる!」ピンクのワンピースの子は声を上げてすすり泣いた。
「じゃあ、ゴーカートもシェアしなきゃね、スイーティ」
「私が先だったの!」
「違う、私が先だった!」
二人がまた言い合いを始めたので、トリッシュはハサミを広げるように腕を動かして、二人の間にできる限り長い距離を作った。「シェアするの。お友達が先」
「じゃあ、もう絶対あのゴーカートには乗らない!」赤いシャツの子も、蹴るのをやめて泣き始めた。
「まあ可哀想に」グリゼルは魔法のように現れて、赤いシャツの子を抱き上げた。「大丈夫よ」トリッシュは同じようにピンクのワンピースの子を抱き上げた。「喧嘩になって――」
「ゴーカート? いつものことよ」グリゼルは涙顔の赤いシャツの子にキスした。「そうそう、シェアすることで私がなんて言ったか覚えてる?」
赤いシャツの子は泣くのをやめて、うなずいた。
「なんて話したんだっけ?」
「お友達を先に行かせてあげる」
「そうした?」
「し、しなかった」少女は鼻をすすり、グリゼルの肩に顔をうずめた。叫びながら蹴飛ばすのをやめない小さな怪獣はどこへ行ってしまったのか?
「じゃあ、何て言おうか?」
赤いシャツの子は、まだトリッシュの腕の中ですすり泣いているピンクのワンピースの子に目をやった。「ごめんね」
「ごめんね」ピンクのワンピースの子はパッと晴れやかな笑顔になった。
「そうそう、その調子」グリゼルは赤いシャツの子を足元に立たせた。
トリッシュは同じようにピンクのワンピースの子をおろした。二人は手をつないで、スキップをしながら行ってしまった。
トリッシュは二人の後ろ姿をじっと見た。どうしてグリゼルにはできたのだろう? ピンクのタフタドレスを着た人形を抱えた重みからではなく、トリッシュは肩を落とした。
青い塗料を落としたグリゼルの髪は、まれに見る二月の太陽の中で真っ黒な滝のように光った。トリッシュの髪はあんなに素敵ではないし、まっすぐでもない。一本も!――ヘアケア製品にいくらお金を使っても無理だ。
「おやつの準備をしたから、いつ入ってきても大丈夫よ」クリームのように白い肌に溶けるようなパールのピアスをつけた、貝のような耳の後ろに一筋の髪をかけた。
トリッシュは自分を撃ち殺してしまいたかった。ため息が出た。
グリゼルはトリッシュを励ますように肩を叩いた。「心配しないで。だんだん楽になってくるから」
「日曜学校の奉仕って毎週あるの?」聞くのを忘れていた。
「一か月続けて、次の月はお休みよ。別の先生が教えるの。そうすれば、説教や礼拝も楽しめるでしょ」
そうか。だったらトリッシュは他に何かすることを考えなくてはいけない。奉仕で自分を忙しくさせなくては。どこかに書いてなかったっけ?(ずっとずっと遠い昔に読んだ気がする――)悪魔は怠惰な手を利用するとか何とか。それに、神学修士の願書を出すためにもっと推薦状が必要だった。
「オッケーみんな、スナックの時間よ!」グリゼルが手を叩くと、教室に入るドアまで全員走ってきた。子供達の行儀がいいのは食べ物のせいなのか、グリゼルが完璧だからなのか、トリッシュには分からなかった。
「礼拝の後、独身者グループの人たちとランチ行く?」緑色のパンツを履いた金切り声を出している少年からボールを取り上げようともがきながら、トリッシュは肩越しにグリゼルに話しかけた。
「行かないわ。ナタリー、ありがとう」グリゼルはおもちゃのバットを少女から取り上げ、手で頭をなでた。「日曜日は毎週礼拝の後で祖母に会いに行くし、独身者グループが集まる日の夜はアパートで女性の聖書研究があるの。だから、あの人たちのことはよく知らない。アパートの集まりに来る人は全員がクリスチャンじゃないけど、もうすぐキリストを受け入れそうな人が何人かいるのよ」トリッシュにエクボを見せて笑った。
エクボ! この人は笑顔を台無しにするようなふぞろいの歯すらない。
二人が残った子供達をつかまえて部屋に戻ると、他の子供達はもうすっかり要領を心得ていて、前に置かれたクッキーと牛乳に手をつけずに、自分の場所に座っていた。グリゼルがお祈りをするのを待っている。
トリッシュは天国の聖歌隊が歌っているような祈りを期待した。そして、このように意地悪な考えをする自分を心の中で叩いた。この人は歩く聖人で、トリッシュはそうではなかった。短気を起こす理由もない。
グリゼルの弧を描く上品な眉にシワがよった。「サラは?」
「誰?」
グリゼルはテーブルの向こう側の空いた席を指さした。「あの子はどこかしら?」落ち着いた口調が初めてパニック気味になった。
手と膝をついてテーブルの下を探した。サラが中に入り込んでしまったのではないかと思い、グリゼルはキャビネットの中をのぞいた。
「教室の外に出ちゃったのかな?」トリッシュはドアを開けようとしたが何かがひっかかった。「あれ、閉じ込められちゃった――」
「違う、子供には開けられないようになってるだけ」グリゼルは上の方の金属スイッチを指さした。「ひねったらノブが回るの」
「ああ」じゃあ、サラが教室から出られることはない。外の遊び場に向かうと、グリゼルがついてきた。外にいる間に中で混乱が起きないように、ドアを開けたままにしておいた。
グリゼルが大きな収納庫の金属ドアを引いて、その中を見ている間、トリッシュは収納庫の裏に回った。
「ああ、そこにいたの――ウガッ!」グリゼルはウナギを生きたまま飲み込んだような音を出した。それか蜘蛛。または、それと同じぐらい気持ちの悪いものを。
(ちょっと、どうしてもっと親切になれない? 意地悪)「大丈夫?」収納庫の角を曲がるとグリゼルが見えた。軽く三メートルは離れているのに手を鼻に当て、とても不健康そうな顔色をしている。
トリッシュが覗くと涙目の少女が壊れたおもちゃと空気の抜けたボールの中で床にペタッと座っていた。「そこにいたの、サラ――」
顔にドッジボールを当てられたように、そのにおいに攻撃された。「わっ! 何か死んでる?」
サラは、また泣きじゃくり始めた。
グリゼルは膝が明らかにふらつき、フェンス側の椅子に座り込んだ。息を吸い込もうとして肩が上がった。
「大丈夫? 過呼吸になってない?」トリッシュはその顔色の悪さに驚いた。
グリゼルはゆっくり呼吸しようとした。
ひゃー、誰かを殺せそうなほど強力なにおいだが、生物学者のトリッシュは、ラボでもっとひどいにおいを嗅いだことがある。泣いている少女にそっと近づいた。「どうしたの、スイーティ?」
「トイレに間に合わなかったの」実際には、「トイ――」鼻すすり「――合わなか」ぐらいしか聞こえなかったのだが、要点は分かった。
「いいのよ、心配しないで、ハニー」そんなことはないが、他に何と言えばいいのか?(下着でトイレに行っても大丈夫)とか? 可哀想に。
「恥ずかしい」むせび泣きが静かになっていった。
「だから収納庫に隠れたの?」においが外の空気と混じって消えていくのを待つ間、話し続けた。
「私、汚いっ!」涙は底のない湖から湧いてくるようだ。
「私が……」グリゼルが唾を飲み込む音が聞こえた。「すぐ連れてくわ」その面長の顔を見ると、トリッシュは新年の白い鏡餅を思い出した。いや違う、うぐいすあんが入った緑色のもちのようだ――。
(ダメ、食べ物のことを考えちゃ)間違って鼻から息を吸わないように、口を大きく開けた。
グリゼルは椅子の肘掛けを握り、数回深呼吸した――口から――そして突然、膝と膝の間に頭を押し込んだ。
(まずい)トリッシュは何をすれば――?
(ウエーッ)
だけど、可哀想なグリゼル。本当に具合が悪そうだ。
ロープの結び目がほどけるように、トリッシュの中で何かがほどけた。グリゼルの頭のてっぺんをじっと見るとまだ膝の間でうずくまっていた。
「私が連れてくわ」
変だ、確かにトリッシュの声だ。
グリゼルはうめくような声を出したが、頭は動かさなかった。「ありがとう、トリッシュ」
何? ああ、この臭い少女をトイレに連れて行き、ウンチのおもらしの片付けを申し出たのは……確かにトリッシュだった。
(ああ神様、助けてください)
そして、神に助けを求めて祈ることを忘れなかったのは初めてだと気づいた。もしかして、本当に神様に捧げる自分になってきているのだろうか。
サラの手を取った。震えていたので、慰めるようにぎゅっと握った。
教室に連れ戻そうとしたのだが、考え直して遊び場のフェンスに取り付けられたゲートの方へ向かった。他の子にからかわれたら可哀想だ。
建物の外を回り、脇のドアから教会の建物に入った。女子トイレの中で、サラの下着を下ろしながら胆汁を飲み込んだ。トイレットペーパーのロールを使い切って汚れをこすり、トイレに流した。
それからどうする? もう一度はかせる? それはよくない。
「ちょっと待ってて」サラが下着をはかずに教会の中をウロウロすることはないはずだと考えて、飛び出した。
台所のシンクの下に飛び込み、漂白剤を取り出した。生物学者の常備品。バイ菌の敵だ。
トイレに戻る途中、オリビアが廊下に出てきた。「トリッシュ、誰かが探してるわよ」
くねくね動く蛇がお腹の中でのたうち回り、そして静かになった。(まさか、彼じゃないよね?)「ちょっと緊急事態なの――後でその人に話しに行く」レックスかビーナス、それかジェニファーだといいのだが。祖母であっても歓迎だ。
シンクに漂白剤を数滴垂らし、サラの下着を浸した。
サラは爪先立ちでシンクの中を見ようとしている。「私のパンティが濡れてるわ」
「だけどね、大腸菌はいないわよ」トリッシュは下着をゆすいで絞った。
「大腸――何?」
「細菌よ。バイ菌って分かる?」トリッシュは水気を絞った下着をペーパータオルの上で転がした。下着は、少し湿っている程度まで乾いた。「はい、これでいいわ」
きれいにしてもらったサラは感謝すらせず、下着を履きながらしかめっ面をした。
教室に戻るサラの後を追った。手に染み込んだ漂白剤のにおいが漂っている。任務達成。災難は免れた。
教室のドアを開けると、泣き声や叫び声が聞こえた。
グリゼルの髪は、『パイレーツ・オブ・カリビアン』に登場する魔女のように、絡んだかたまりが頭の上で揺れているように見えた。顔色は少しよくなったが、まだもちのように白かった。
水中で血のにおいを嗅いだサメが獲物に感づいたように、子供達は教師の弱さを察知し、さらにひどくなっていく混乱を止めようとする教師の決意を試そうとした。グリゼルは、拳を振り回す少年二人の間に入った。部屋の隅では、スージーがまた糊のバケツに手を出し、テーブルの上を芸術作品にしていた。マシューはおもちゃの車を口に押し込んでいた。
トリッシュは口に指を入れ、耳が割れるような口笛を吹いた。
沈黙、「恵みの沈黙」だ。
子供が一人泣き出した。そしてもう一人。突然全員が泣き始めた。とにかく、言うことを聞かない子はもういない。でもどうすれば静かにさせられる? テーブルの上で糊を無駄にしているスージーを見て、考えが浮かんだ。
「こういうのはどうかしら!」トリッシュは何とか頑張って楽しそうに言った。数人の子供が泣きやんだ。「来週、うちからペットを連れてくるのはどう?」
グリゼルの目が顔から飛び出しそうになった。しかし子供達は喜んで、歓声を上げた。恐怖に襲われる教師……幸せな子供……恐怖に襲われる教師……幸せな子供……何か別の方法はあったのだろうか?
教室のドアが開き、数人の女性が割り込んで入ってきた。トリッシュは外でブザーが鳴ったのに気がついた。礼拝が終わったらしい。子供達を引き取るために並んでいる親は、元気にしている様子を見ながらも、どこか警戒したような笑みを浮かべた。
「日曜学校はどうだった?」薄いラベンダー色のワンピースを着た年配のアジア系の女性がマシューを引き取りに来た。多分、孫なのだろう。
「いい子たちでしたよ」グリゼルの口調からは、平穏無事な一時間どころではなかったことなど全く分からなかった。目の周りが少し青くなっていることだけが、何か悪いことが起こったかもしれないことを暗示していたが、青い絵の具がまだ手とシャツについていたからかもしれない。
一人の女性がピンクの唇に柔らかい笑みを浮かべて二人の方を向いた。「あなたたちのように純粋な若い女性が子供達にイエス様のことを教えてくれてるから、本当に安心だわ」
トリッシュの笑顔が固まった。重くて動かない氷の塊になった気がした。
純粋? 自分は純粋じゃない。グリゼルみたいに。自分ではない人になって周りをだまし、日曜学校の先生を続けるべきだろうか? その女性の輝くような微笑みを見て、トリッシュの胃はグルグルとかき混ぜられる気がした。いったい誰をだまそうとしていたのだろう? 過去を消して、本当に神様に全てを捧げる人になれるのだろうか? 人生は白板ではないし、クレジットカードみたいに磁気が消せるものではない。
そして、見つけた。行き来する女性らの上に頭が一つ。情熱的な和夫の目はトリッシュを見つけ、そのまま離さなかった。トリッシュの中にある暗い空間を見つけ、自分は周りの人とは違うんだという気持ちをトリッシュの中に呼び起こさせた。だって、ここにいる人たちが純真すぎて経験したことがないことを、彼女は味わったのだから……。
(ダメ)目を閉じて和夫を締め出した。このような考えは、ワイングラスにこっそり毒をしたたらせるようなものだ。
和夫は彼女を特別な気分にさせてくれた。キラキラしている。求められている。実在する。
(違う)実在するのは彼女だ。そして、トリッシュを実在させてくれているのは神様だ。
だけど、神様は彼女を純粋にすることができるだろうか?
本当に純粋になりたいのだろうか?
「トリッシュ」和夫の静かな声、一時間幼児語をまくし立てた後に聞く大人の男性の理性的な声は、冷たい水を飲むように彼女を落ち着かせた。
目を開けてはじめて、白檀の香水より刺激臭の方が強いことに気づいた。
「マリファナやってたわね」近づかないと聞こえないぐらい小さい声で言った。
和夫は肩をすくめた。「ちょっとだけだよ」
「教会にいるのよ、バカ」
また肩をすくめた。「誰も気づいてないよ」
トリッシュは頭を後ろに傾けて、目を閉じた。多分誰も気がついていないだろう。だって、ここにいる人の九九パーセントは隠遁生活を送っているから、一生マリファナのにおいなんて嗅がないのだろう。
和夫はトリッシュの手を取った。トリッシュの目がパッと大きくなって、すぐに手を引っ込めた。心地よい震えが腕を伝うのを払い落とすように、こっそり触られるのを避けようとした。
「私を追い回さないで」しかめっ面をしようとしたのに、口をとがらせただけ。残っている子供達が教室から走って出ていく中で、平常心を保っているように見える和夫に対し、怒り続けるのは困難だった。
「君は僕のものだよ」どういう訳か、和夫の言い方は気持ち悪いストーカーっぽくなく、ロマンチックだった。「ここは君がいるべき場所じゃないよ」偽善者という言葉は使わなかったが、彼がそう思っていることは分かった。「僕は今の君が好きなんだ。君がなろうと努力してる人じゃなくて」
なぜ知ってるの? トリッシュの心が読めるのか。
エイデンを見つけなきゃ。それかオリビア。スペンサーだって構わない。助けが必要だ。一人で和夫に立ち向かうことはできない。通りすがりにグリゼルに手を振り、振り返ってドアの外に歩き出した。
グリゼルは苦しそうに笑った。「来週のペットデー、忘れないでね」ここまで優しい口調で言わなければ、脅しているように聞こえただろう。(あなたがペットデーに決めたんだから、私を一人にするなんて絶対に考えない方がいいわよ)
予想通り、和夫はついてきた。数人の教会員がジロジロ見ながら通り過ぎた。無理もない――真っ黒の服装。真夏のアスファルトのテニスコートみたいに熱く、明らかにマリファナのにおい――目立たない訳がない。
ロビーまであと少し。助けてくれたのは、レックスだった。「神様、ありがとう」
レックスの眉間にしわがよった。「何で?」後ろに和夫がいるのを見つけた。「あなた、ここで何してるの?」
そうそう、目には見えないが、レックスの触覚計はいつでも頼りにすることができる。
和夫の目は大蛇のように鈍く、黒く光った。「君のおばあさんがここに来いって言ったんだ。トリッシュはどこかって女の人に聞いたら、『四歳児と五歳児』だって」和夫の陰気な表情は、トリッシュの方を向くなり、親切と好奇心に変わった。「その『四歳児と五歳児』って何。ここにいる子供達のこと?」
「この子たちの年齢よ」
和夫はレックスに対していつも失礼な言い方をする。磁気のように引っ張る力が少し緩んだ。レックスが和夫に対して失礼なのは、トリッシュに対する愛情のためだが、和夫がレックスに対して失礼なのは、トリッシュに対する独占欲のためだった。そんなふうに必要とされるのは、トリッシュにとって確かにありがたいことだが、血縁関係以上にありがたいものはない。
それに、レックスがいるから正気を保っていられるのが本当に嬉しかった。和夫が近くにいても、まともな考え方ができるようにならなくては。
「おばあちゃんがどうして私の居場所を知ってるの?」トリッシュは和夫ではなくレックスに向かって質問したので、レックスの目の中に罪の意識が光るのが明らかに見えた。「ウソ。言ったの?」
「うっかりしてただけ、本当よ。ジェンのうちで話してて、隣の部屋に叔母さんとおばあちゃんがいるのを忘れてたの」レックスは和夫をチラッと見た。「おばあちゃんが一緒に来なかっただけいいじゃない」
確かにそうだが、あとで祖母が現れないとは限らない。もうすぐ来るかもしれない。「行こう」トリッシュは神経質そうに見回して、教室で彼女とグリゼルを褒めたラベンダー色の服を着た年配の女性を見つけた。その女性は何食わぬ顔で和夫の方を見たが、突然、トリッシュは和夫がここにいるという事実に嫌悪感を感じた。この人たち、それにトリッシュがいる場所にいて欲しくない。彼は、彼女の皮膚についたシミのようだった。あるいは、ほくろかかさぶた、それとも背中の真ん中にできた巨大なコブだ。トリッシュが心に抱えた癌など知る由もない、こんなに素晴らしい教会の人たちがたくさんいる場所に、いたくなかった。
「エイデンは? 行こう」トリッシュはレックスをつかみ、近づこうとする和夫の足を(誤って)踏んでしまった。
残念なことに、和夫のブーツのつま先は鋼鉄のように硬く、トリッシュのかかとに鋭い痛みが走った。「イタ、タタタ」
和夫は心配そうに近づこうとしたが、トリッシュは飛び跳ねて離れた。「和夫、じゃあね」
キッパリとした声を出そうとしたが、これが最後になるはずがないのは分かっていた。トリッシュの心は落ち込み、締めつけられた。
(1) アメリカの「ロスト・イン・スペース」という連続テレビドラマで、ウィル・ロビンソンが危機に陥りそうな時にロボットが発する警告
(2) アメリカンコミック『バットマン』に登場する架空のスーパーヴィランで、バットマンの永続的な敵
(3) 児童文学作品『オズの魔法使い』に登場する北のよい魔女
(4) アメリカのテレビドラマ『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』の主人公で、マフィア一家の長男
(5) 元市長のマルチタレント、ジェリー・スプリンガーが司会を務める「視聴者参加型トークショー」番組。様々な問題を抱えた「素人さん」がスタジオに登場し、トークバトルを繰り広げる。
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