【オンリー・ウニ】第13章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第13章
次の日、スペンサーはトリッシュにアタックをかけた――いや、ビルの前で彼女に近づいた。風が吹いてきたので、髪の毛の細い束がポニーテールからはみ出し、それを片手で抑えながら、もう一方の手で携帯を持っている。「そう、大怪我よ! マグの破片で足を切ったの……割った時にすぐ片付けてたら、注意する必要なんてないじゃない……深い傷じゃなかったから、あなたラッキーね……だめよ、生ごみ処理機は自分で直さなきゃ……だって、管理人に電話したらタバコのにおいに気がついて、猫を見つけて、私たち、追い出されるわ……だから言ったじゃない。もしもし?」携帯を見つめ、口を大きく開けている。「信じられない! 切られた」トリッシュは身体をひねってバッグのストラップをつかみ、携帯を中に入れた。スペンサーが手を貸そうと近づくと、トリッシュはエボラウイルスの感染者に近づかれたように飛びのいた。
「手伝おうとしただけなんだけど」傷ついたような表情を見せた。
トリッシュには効果がない。「大丈夫だから」その口調は辛辣だった。
ルームメイトとうまく行っていないので機嫌が悪いだけだ。スペンサーは全速力で突進した。「昨日の夜、ラブコメ見たよ」
トリッシュが口をあんぐり開け、その目が一ドルコインのように大きくなったのを見て、スペンサーは満足した。しかし、燃えるように怒る彼女は確かにあまり魅力的ではない。少し金魚みたいに見える。
「『テオドラの日記』っていうんだ」トリッシュの言葉にならない質問に答えた。
「あっちへ行って」
「本当に見たんだぞ」
彼女の目が不信感で細くなった。「へえ、何分間?」
「最初から最後まで。本当だって約束する」
トリッシュは腕を組んだが、気乗りがしなくても楽しんでいるのか、口を開いた。「感心したわ。感想は?」
ジレンマはここだ。他の女の子だったら、見えすいた嘘で逃げ切れる。しかしトリッシュは嘘を見抜くだろうか?
多分見抜くだろう。
他の女の子だったら、真実を言えば腹を立てるだろう。トリッシュはそのバッグで彼の頭を殴るだろうか?
殴らないかも。
「よかったよ」肩をすくめた。もしかしたら、曖昧な答えで逃げ切れるかもしれない。
そんなに幸運ではなかった。「『よかった』の定義は?」
「ええと……」スペンサーは少し黙り、そして警戒するのをやめた。「正直に言えば、面白くなかった」
トリッシュは口を尖らせた。「いいえ、面白かったわ」
「何ていうか、訳のわからないことが多すぎる」
「たとえば?」怒鳴った。
「『野郎のための聖書』って何だよ」
するとトリッシュは、キラキラ輝く笑顔になった。斑点状に見えていた灰色の雲は消え、太陽が輝いた。スペンサーは笑顔を返していた――思わず。
「バカね、初心者のための聖書っていう意味よ」
自分もそんな初心者の一人であるような気にさせられたが、トリッシュの低い声――何か変だ。機嫌のよい猫が喉をゴロゴロ鳴らすように、スペンサーの胸の中は温かくなった。
背後で足音が聞こえた。スペンサーは、ビルの方へ向かって歩いていく同僚のケビン・クラークに会釈した。トリッシュの方を振り向くと、空腹の女がフィレミニヨンを目で追うように、ケビンを追っていた。
(待てよ、ケビン?)
「ケビンがクリスチャンだって、知ってた?」トリッシュの声は、普段の声から夢見るような声へとさらに低くなった。
「何だって?」何故そんなことを聞くのだろう?
「プレートリーダーのことで聞かなきゃいけないことがあるんだけど、ランチタイムだってこと忘れててさ――」
「忘れてた? それって三五回目のトイレ休憩だろ?」トリッシュの気をそらせなくては。
その結果、敵意むき出しの表情を向けられることになった。「とにかく、聖書勉強会の宿題をしてる彼の邪魔をしちゃったの」
「それで? ルール一番は――」
「分かってる、分かってる。見ない。見たんじゃないの……正確には……」
「何を見たんだよ」
「からかってる?」眉を上げて彼の方を向いた。「ケビンって、キアヌ・リーブスに似てるの」
何だって? スペンサーは信じられないという表情で反論した。「僕たち、同じ地球で生きてるんだよな?」
トリッシュは目を細め、その口は爪楊枝のように細くなった。「キアヌほど筋肉質じゃないし、表情もセクシーじゃない」
「私立高校を卒業したばかりに見える」
トリッシュは無視した。「だけど、肩幅が広くてジーンズ姿がすごく似合ってる――」
「おいおい」スペンサーはトリッシュに指を突き立てた。「見てるじゃないか」
顔が赤くなった。「だって……顎の線がたくましくて、あのチョコレート色の目。ちょっとシャイで大人しいけど、イケメンの資格ありだと思うわ」
ケビンが? ダサいギスギスのケビン? トリッシュは酔っ払っているのだろうか? 不満に喉を締め付けられ、早口でしゃべり出した。「君――あいつ――僕――」
トリッシュの眉間にシワがより、頭を傾けた。「あなた、カエルみたいよ。大丈夫?」
(カエル?)舌に怒りの炎が燃え上がった。
トリッシュは頭を反対側に傾けた。「そんな途切れ途切れなしゃべり方じゃ、何言ってるのか分からないわ」
やっと声が出た。「僕よりケビンの方が好みってこと?」
トリッシュの困惑は、つんとすました目の中に溶けていった。「自分より他の人が好みだって言われるの、初めてなの?」
スペンサーはまた早口でまくしたて始めそうになった。
トリッシュはニヤリと口をゆがめた。「あなたの初体験の相手になれて、光栄だわ」
言葉にならない声はうなり声に変わり、スペンサーはスタスタと歩いていった。
(あなたの初体験の相手になれて、光栄だわ)彼女はそう言ったのだったか? トリッシュは彼を驚かせた。昨夜の会話を頭の中で二〇〇回はおさらいした後、スペンサーは、何度もコケにされてまでトリッシュを追いかける価値はないと結論した。
今朝は、ただ彼女をイライラさせたかった。
スペンサーは、女性用トイレの外でトリッシュを待ち伏せした――そこ以外に、彼女が行く場所はあるだろうか? 携帯で話している――それ以外に、彼女がすることはあるだろうか?
「今週毎日言ってるけど、ドアを開けっぱなしにするから猫が逃げる……それはね、私が救急病院を受診して、アレルギーの薬をもらったからなの。最近私がくしゃみをしてないからって、ねこのフケにアレルギーがなくなったって意味じゃない……とにかく、薬が効いてないの……ダメ、強い薬をもらいに行くのは嫌よ。これだけでもう頭痛がひどいの……あなた、猫をあきらめるって約束したじゃない。ルール違反なのよ……前にも言ったけど、私が決めたルールじゃないの」携帯をパチっと閉じた。
そして、その肩は垂れ下がり、目には絶望が浮かんだ。髪の毛すらぐったりしているように見えた。口は、あの面白い薔薇のつぼみの形になった。「あの猫が私の金魚のゴンゾーを食べちゃったのよ」
嫌味な言葉は舌の上で死に絶えた。ダジャレでも言おうものなら、トリッシュは彼を殴り倒すだろうか。
トリッシュの目はスペンサーを通り過ぎ、上着を投げるように一瞬にして苦悩を発散させた。イラだって喉の奥から低い音が聞こえ、こわばった肩からハリモグラの針が出てくるのが見えるようだ。
ウィルス部の生物学者がニヤニヤしながらトリッシュの方にぶらぶらと歩いてきた。立ち止まろうとしたようだが、彼女が短刀を突き刺すような目で見たら、慌てて走っていった。
スペンサーは物言いたげに片眉を上げた。
「今朝会社に着いた時さ、一緒にドアを通ったんだけど、あいつに触られたのよ」
あのゲス野郎。スペンサーは顎をかたく引き締めた。頬の筋肉はピンと張り、ひきつった。鋭く息を吸った。今度あいつを見かけたら――。
「だから、足を踏みつけてやったの。そしたら引き下がったわ。肘鉄を食らわす機会を逃したのが残念」
スペンサーの義憤は萎えていった。なんて残忍な娘。明らかにトリッシュは白馬の王子を必要としていない。今度、個人的な空間に入るチャンスがあった時には、気をつけよう。
「全部あんたのせいよ」スペンサーを指さして非難した。
目を突き刺される前に、ぐいっと頭を引っ込めた。その無礼な指をつかみ、より安全な位置まで降ろした。「何のことだよ」
「あのゲス野郎たちはね、最近私があなたと一緒にいるのを見るから、私に注目してるの」
「ヘーイ、君のグループに転属するのを希望したわけじゃないぞ」
「そんなこと誰が気にする? あなたって、本当に悩みの種だわ!」手を振り上げて、メロドラマのように甲高い声を上げた。
スペンサーは気分を害することもなく、この状況を面白がった。それに、トリッシュを怒らせるのは楽しい。
別の男性が近づいてきた。スペンサーはトリッシュの方に体を傾け、彼女の頭上の壁に腕を伸ばした。あまりに近いのでトリッシュが壁の方に後ずさると、彼はゆっくり近づいた。目の置き場がなく、彼の顔を見ると、呼吸が早くなった。
ウィルス部の男性に対して感じたような苛立ちを、スペンサーに対しては感じていないようだ。見上げると、トリッシュは心を奪われ、催眠術をかけられたように見えた。
その男性が離れていくと、スペンサーは壁から離れた。困惑して放心状態のトリッシュは、その場から動かなかった。
その後、目の焦点が合ってきて、口火を切った。「あなた、私を怒らせようとしてる?」
「とも言える」スペンサーは自信過剰な態度でニヤリとした。
トリッシュはうなり声を上げた。軽く一メートルは離れたところに立っていても、彼女の言い方は威嚇しているように聞こえた。冷や汗をかいた拳をかたく握り、急に向きを変えて行ってしまった。
スペンサーは、クスッと笑いたいという軽率な衝動をこらえた。
この日の十一時、スペンサーはグループ会議に遅れたトリッシュをかばうため、ダイアナを引き止めた。会議の途中、トリッシュは彼に最高の笑顔を見せ、「ありがとう。ランチはおごりよ」と走り書きをしたメモを渡した。
スペンサーはトリッシュに気に入られた。最高のタイミングだ。
二人はカフェで買ったランチを持って戻ってきた――スペンサーは金曜日のバーガースペシャル、トリッシュはフライドチキンサラダだった。カードキーで入るドアの前で、スペンサーはトリッシュの背中の小さい部分を手で優しく触った。トリッシュはそれを突き放しそうになったが、されるままにした。
状況は良くなってきているようだ。
「トリッシュ……キャストロ通りに新しいイタリア料理のレストランができたそうだけど、今日行ってみないか?」
トリッシュのバッグから耳をつんざく叫び声のような音が聞こえてきた。(携帯だ、また)
「何でそんな高音量なんだよ」麻痺した耳を指でさすった。
「だって聞こえないんだもん。ハーイ、マーニー」
プラスチック製のサラダの容器がトリッシュの手から落ちた。スペンサーの反射神経はスーパーマンなみだ――そのサラダをとらえた。
トリッシュは気づきもしなかった。「何? 彼、そこで何してたの?……どうやって鍵を手に入れたのよ……祖母は鍵を持ってないから、和夫に渡せるはずないの……え? 彼が何したって?……あなたに合わせて吸ったの? そんなことはどうでもいい。二人ともアパートは禁煙なのよ……何した?……大したことないって、どういう意味? 焦げた跡は焦げた跡なの。言っとくけど、うちのカーペットは白よ……どうするかなんて、知らないわ……。じゃあね」トリッシュは携帯を閉じ、動かずに空中をじっと見つめた。
もう片方の手で二つの容器のバランスをとりながら、スペンサーは彼女の目の前で指を鳴らした。「トリッシュ?」
トリッシュは彼の方を向いた。その目は焦点が合っていなかったが、とにかく彼女の注意を引くことができた……とスペンサーは思った。
「それでさ、あの……今日のディナーだけど」
トリッシュはまばたきした。「は?」
「ディナーだよ、今晩、僕と」スペンサーは最高に温かく、最高にチャーミングな笑顔を見せた。トリッシュの目が明るくなった……。
いいや、違う。猛火を吐く炎だ。
「ディナー?」
しまった。生理前の女性より早くムードが変わった。
「頭がおかしくなってる時に、デートに誘うってどういうこと?」突然、声を上げてすすり泣きだした。
スペンサーは慌てて逃げ出した。(やっぱり来週にしよう……)
トリッシュは気の済むまで泣いた後、鼻をすすり、ありがたいことに誰もいないオフィスに戻った。
スペンサーは何をしていたのだろう。彼のせいで今週はとても落ち着かなかった。女の子だったら、あそこまで感情のこもった表情にだまされるはず……。
やめなくては。彼は下心がある。それに、うっとうしい。だが、一緒にいて楽しい。時々静かで、とても魅力的だ。トリッシュはふっと息を吐き、手で顔をあおぎ始めた。彼の誘いに反応しないためには、強い自制心が必要だった。この力は神様がくださったのに違いない。だって、スペンサーがいる時に自制心を保つのは不可能だから。
確かに、トリッシュはスペンサーを見ないようにした。彼が彼女の周りで変な行動を見せるときは尚更そうだ。もちろん一緒に仕事をする必要もある。そして、彼を拒否したことを赦してくれているようにも思えた。
本当に自分に興味を持ってくれているのかもしれない。
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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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