【オンリー・ウニ】第12章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第12章
トリッシュが和夫の方を向いて立った時、スペンサーは無意識に頭を動かしたが、彼女の体に視界が遮られた。あの青白い顔は二度と見たくないのだから、ちょうどいい。見ていたら、きっと殴りかかっただろう。
モニターの方に戻った。
「会社に来ないでって言ったじゃない」トリッシュの声は甲高くなった。そして、開いているドアの方へ歩いているような音がした。「私の言うこと、全然聞かないのね」廊下に出てドアを閉めたので、そのセリフの最後の方はよく聞こえなかった。
先週トリッシュがおばあさんと電話で話している時に和夫の名前を言うまで、スペンサーは何年もその名前を聞いていなかった。驚いたが、別のカズオのことを話しているのに違いないと考えた。そんなに珍しい名前でもない。
しかしその声を聞き、顔をチラッと見たら――同一人物だった。椅子の肘掛をつかみ、指をそこに食い込ませると、ゴム製の部分がきしんだ。
和夫にはスペンサーが見えたのだろうか? 何も言わなかったのだから、多分見えなかったのだろう。和夫は、スペンサーの妻と不倫をしていたことを決して言わなかったが、二人は会うと必ずお互いにイライラした。古い縄張り争いのようなものだろうか。
馬鹿げているのは分かっていた。スペンサーとリンダは離婚していて、リンダはその後和夫とも破局している。彼女は今、二番目の夫と一緒にいる。では何故、和夫を見てこんなにイライラするのだろうか? スペンサーの理性は、静脈を走る怒りとの連絡が途切れていた。
つまり、トリッシュは和夫のような男とかかわっていたということか。面食いはやめるという彼女のモラルは――三つのルールと、スペンサーがクリスチャンではないからデートをしないことを含め――あの調子のいい元カレと縁を切るための無条件反射的な反応なのかもしれない。
そしてスペンサーは、会話が途切れ途切れに聞こえてくるのに気づいた。
「……しないわ」トリッシュは一キロを五分で走ったような話し方をしていた。「よりを戻す気はないの」
「君こそが、僕の筆のひと筆ひと筆に込められた美しさそのものだ」和夫の声は深く、滑らかに響いた。「君が必要なんだよ」
和夫にはトリッシュが必要? おばあさんとの話では、彼女は元に戻りたくないそうだが、その声は魅了されているように聞こえた。リンダと同じ。和夫はトリッシュの決心を弱めていた。
何かにささやかれたように、スペンサーの頭に考えが浮かんだ。柔らかく、完全な形を持たないが、心の端に。トリッシュ。和夫。そして、二人の駆け引き。
二人の間をこじらせたら、どうなるだろう。
誰かがトリッシュの気持ちを和夫からそらせたら? 少なくともここ数週間、他の男からの電話はないはずだ。和夫と比較する誰かがいれば、彼にただ出ていってくれと言うのにここまで苦労しなくてもよくなるだろう。
スペンサーだって、一度はトリッシュとデートをしたいと思った。もう一度試してもいいのではないか?
彼女がスペンサーのことをクリスチャンではないと思い込んだことで、彼の興味は冷めた。しかしそれでも、トリッシュは話していて楽しく、冷やかしたりイライラさせたりするのも楽しかった。今はスペンサーがクリスチャンであることを知っているのだから、あのくだらないルールにも合っている。これも彼女のルールだっただろうか? 思い出せなかった。
いずれにしろ、もしスペンサーがトリッシュを和夫から遠ざけることができれば、和夫は激怒するに違いない。やれる。
トリッシュにアタックをかける。
トリッシュはアパートの部屋中を片付け、ほこりを払い、拭き、掃除機をかけた。頭がクラクラしたが、午後に戻ってくるマーニーのために全てを整えた。天井の隅にあった蜘蛛の巣もはらった。
最後にカウンターの上を拭きながら、自分に言い聞かせた。電話で話した時のマーニーは少し不安定だったが、いつものおとなしい彼女だった。(マーニーを心配させちゃダメ。くだらないことや関係ないことを言っちゃダメ。帰ってきてくれて嬉しいけれど、圧倒しちゃダメ。それから――)
鍵を回す音が聞こえた。
ふきんを冷蔵庫の取っ手に押し込み、走って行ってドアを大きく開けた――熱狂的になりすぎずに。「ハーイ」
マーニーはドアの前で戸惑っていたが、何も反応しなかった。その時になってトリッシュは入り口を塞いでいることに気づき、脇によけた。
マーニーはまだ何も言わず、足を引きずって居間に行き、蓋のついたバスケットをダッフルバッグの隣に下ろした。異常にきれいな居間を見回しながら、ジャケットを脱いだ。
マーニーは、大きな窓から入ってくる光で金色に輝く髪を後ろになでつけた。ため息が出るほど妬ましい。トリッシュの人生の中で最大の悩みの原因であるいとこのミミほどは長くない――それに、滑らかさでも負けている。マーニーがトリッシュの方を向くと、光がそのぽっちゃりした体型を映した。曲がった眉の下で、その大きく柔らかな目は、変な勝利を帯びて光っていた。
「おかえり」
マーニーの唇は、わざとらしい笑顔とともに曲がった。「やっと自由になったわ」
ハスキーな声は蜜のように流れたが、その変な言い方のためにトリッシュはまばたきし、背筋を伸ばした。「はあ?」
「彼から」
元カレのことだろうと想像した。「ああ、よかったね」他にどんな反応をしたらいいのか分からなかった。鼻がかゆい。変だな、ほこりを払ったばかりなのに。
マーニーは、バスケットとスーツケースを自分の部屋に運んだ。
トリッシュは入り口で戸惑い、沈黙を埋めるプレッシャーを感じながら、手を伸ばしてイヤリングをもてあそんだ。「それで、どこに行ってたの? っていうか、別に言わなくてもいい。あの……元気そうね」マーニーがポケットから取り出した銀色のものは何だろう?「分かる? 居間の掃除をしたの。台所までは無理だったけどね――ねえ、それってタバコ?」
マーニーは軽蔑しているように横目で見た。「だから?」挑戦的なゆっくりとした話し方は、西部劇のガンマンのようだ。
わお、マーニーがこんなことを言うなんて。「アパートは禁煙よ。分かってるでしょ」マーニーの表情を見たら、トリッシュは堅苦しい日曜学校の先生になった気がした。「タバコを吸っていいのは自分のバルコニーだけよ」苦笑いし、その後くしゃみが響いた。掃除機のかけ方が足りなかっただろうか?
マーニーは、小さくて壊れそうなバルコニーを悪意に満ちた目でにらんだ。深く息を吸ってから、長いため息をついた。「ああ、分かったわ」怒った目つきでトリッシュを見た。「あなたはもっと理解があると思ってたけどね」
怒りに満ちた不満に直面したトリッシュはひるんだ。「あの……」さっきのは、マーニーが話した言葉の中で一番長い文章だった。
マーニーは向きを変えて、バスケットの蓋を開けた。咳き込んで息が苦しくなってきたトリッシュは、何が悪いのかが分かってきた。完璧にほこりを払い、掃除機をかけたのに――
マーニーが猫を連れてきたのだった。
「マーニー!(ハックシュッ!)このビルの中では――(ハックシュッ!)――ペットを飼えないのよ――(ハックシュッ!)」トリッシュは部屋を飛び出し、コーヒーテーブルの箱からティッシュをつかんだ。鼻をかむ音が響き渡った。
「ダメなの?……ペット」マーニーは幼稚園の先生のようにゆっくり、はっきりと話した。黒とグレーが混じった猫をバスケットに戻さず、マーニーが銅像のようにただじっと立っている間、その猫はしっかりつかまれた手の中で身をくねらせ、空中に毛を飛び散らせていた。
トリッシュの目から涙が流れた。「猫を入れておいてくれる、マーニー(ハックシュッ!)」
ミャーミャー鳴く猫をバスケットに戻しながら、マーニーは突き刺すような目でトリッシュをにらみ、ピンク色の唇を不機嫌そうにキュッと閉じた。「じゃあ、どうしろって言うの? 溺れさせる? 」有刺鉄線で突き刺すような皮肉。仁王立ちになり、横柄な目でにらんでいる。
「規則なのよ。見つかったら追い出されるわ。手放すか、引っ越すかしかないの」小さいくしゃみが出たので、トリッシュの冷酷なコメントの効果は失われた。
マーニーは口をすぼめた。向きを変え、肩越しにトリッシュに返事をした。「分かった。手放す」
トリッシュはまばたきした。お腹がピンと引っ張られ、そして空気が抜けたような気がした。「あの……じゃあ頼んだわよ」マーニーの部屋から出て、ドアを閉めた。
よし、上出来だ。うまく対応できたと思う。
だけど、トリッシュが責められるのは間違っている。絶対に。だってあれは、先週出て行ったマーニーとは完全に違う女だった。あの時のマーニーは、少し陰気だが静かで思慮深い人だった。今の彼女は口答えをし、タバコを吸い、うちに猫を連れてきた。
寝室へ逃げ込み、ベッドに仰向けに転がった。マーニーがスーツケースから荷物を出し、猫にささやく声を聞きながら、トリッシュは天井の薄いシミを目で追った。あの猫を本当に追い出すことができるだろうか?
まあいい、様子を見よう。
スペンサーは椅子の背にもたれ、二人の間を仕切るキュービクルの向こう側をのぞこうとした。「トリッシュ――」
彼女の電話が鳴った。また。
トリッシュが電話で話している間、スペンサーはモニターをにらんだ。今朝ずっと、カジュアルな会話を始めようと努力しているのに、トリッシュの電話は鳴り続けた。注文した細胞のことで代表者が連絡してきたのでなければ、治験報告を書いているダイアナが何か質問があって電話をかけてきたのだろう。
「ハロー? ああ、こんにちは、ナバールさん」トリッシュが椅子を前後に動かすたびに、キーキー音がした。そして急に止まった椅子はキーッと鳴った。「え……何のにおいですか? いいえ、私たちの部屋は何もにおいませんけど」
息が詰まったような小さい音が聞こえた。数秒後、スペンサーは心配になり始めた。トリッシュは息をしていないのではないだろうか……だけど待て、息をのむ音がする。何だろう。声がかすれている。
「タバコの煙ですか?」トリッシュの声は一オクターブ高くなり、終わりの方はかすれていた。「甥っ子さんが風呂場でタバコのにおいを嗅いだんですか? ひどいですね。それはダメです! マネージャーには言わない方がいいですよ。すぐ臭わなくなると思います……多分、上の階の人でしょうから……」
そして、パニックしたような口調は和らいだ。「そうですね。何か違法なことをやってるのかも。ええ、確かにギャングみたいです……でも、電話をありがとうございました……はい、私の部屋も臭ってきたら連絡しますね。じゃあ」
受話器が受け台に戻る前に、スペンサーはさっと割り込んだ。「あのさあトリッシュ、考えてたんだけど――」
しかし彼女は受話器を取り、番号を押し始めた。「マーニー、トリッシュよ。あなた、アパートの中でタバコ吸ってる?」
トリッシュは彼を無視した。
うぬぼれているわけではないが、女の子に無視されたことは一度もなかった。
「嘘つかないで。隣の人から電話があって、文句を言われたわ。風呂場がタバコくさいって。壁の向こう側はあなたの部屋、おまけに通気口は向こうと共有なの……そんなこと知らない。ビルを設計したのは私じゃないし……タバコは外で吸わなきゃ……昨日も話したでしょ。アパートの決まりよ……悪いけど、その決まりを作ったのは私じゃないの。やめないと、ナバールさんはマネージャーに電話をして、マネージャーが見にくる。タバコのにおいに気がついて、私たちの部屋からだって突き止める……それが理由で追い出される……だからよ!……いいわ、じゃあね」
「だからトリッシュ、考えてたんだけど――」
また電話が鳴った。「ハロー?……違うわ、マーニー、もうスプーンはないの……違う、なくなったんじゃない。八つしかなくて、あなた、昨日から今朝までに七つ使ったでしょ。洗わなきゃ……それだったら、スプーンを使わないでよ。じゃあね」
「スペンサー、何?」トリッシュの頭がキュービクルの向こう側から飛び出た。
スペンサーは彼女をにらんだ。
「何なの?」眉間にシワがよった。
(スペンサー、彼女を苛立たせるな。誘いたいんだから、怒らせたらダメだ)無理やり顔をリラックスさせて微笑み、自制心があるのを強調した。「『ベオウルフ』って新しい映画の予告見た?」
「ああ、ええ」苛立っているようにキラッと光った目が和らいで、無表情になった。「だけど英雄ファンタジーは興味ない」自分のキュービクルに戻った。
一秒前にトリッシュの頭が見えていた、何もない空間を二度見した。(何だ? 早いな)
分かった、やり方が下手だった。魅力のスイッチを入れもしないで、自分の好きな映画の話をして彼女を遠ざけてしまった。そう、トリッシュは自分が知っている他の女の子とは違う。会話の内容に興味がなければ、わざわざスペンサーのために時間を割くはずはない。
(よし、彼女の興味が何なのか探らなくては)トリッシュが電話口で大笑いしている声が聞こえた。(とりあえず、明日考えよう……)
翌日、スペンサーはラボに早く来ているトリッシュを見つけた。彼女は作業台の椅子にちょこんと座り、半分コーティングしたELISAプレートの横に汚れたニトリル手袋を投げた。手袋をはめた手でエッペンドルフの分注器を持ち、はめていない手で携帯電話を持って耳に当てている。この娘は携帯を手放すことがないのだろうか?
「砂糖をこぼしたの、あなたよね。昨日の夜はカウンターきれいだったから。だけど私が片付けたのよ、今朝」その高い椅子は床から三〇センチ以上離れていたのだが、トリッシュは足をぶらぶらさせ、ベンチの下のキャビネットを蹴った。「違う、一回だけじゃない。カーペットにぶどうジュースをこぼした時も片付けなかったじゃない……大したことないって? やっと私が見つけてきれいにしようと思った時は、もう時間が経ちすぎてカーペットにしみが残っちゃったんだから、大したことなの。保証金から差し引かれるのよ、分かるでしょ……だからこれからは、こぼしたらすぐ片付けてね。バーイ」
今だ。スペンサーは、作業台の端にもたれているトリッシュの隣に入り込み、彼女の個人的な空間に侵入した。トリッシュは背筋を伸ばして彼から離れようとしたが、瞳孔が拡大していた。
彼女の香水のにおいがするほど近くにいた――何か軽く、花というより上品なフルーツの香りがする。アクアディジオ? 彼女の香水のにおいがするということは、彼女にも彼の香水のにおいがしているはず――スペンサーが週末に選んだ新しい高価なコロン、アラミスだった。
トリッシュの手から携帯電話を取り上げようとして、不注意にも彼女の指をなでてしまった。トリッシュは呼吸が一瞬止まり、そして早くなった。瞼をゆっくり閉じ、そしてぼんやりした目を開いた。
そして、目をパチパチさせ、次の瞬間には、作業台に戻って新しい手袋に手を伸ばした。
逃げられた?「それじゃあ、どんな映画が好きなんだよ?」
トリッシュは疑い深そうに眉をひそめた。
スペンサーは、雪より白い純粋な目で彼女を見た。
「ラブ・コメディ」その声の調子は少し反抗的な態度を帯びていた。
(ゲッ)「好きな映画は?」
「イルマーレ」
(ゲゲッ)「ジェニファー・ガーナーのファンなの?」
スペンサーの頭に矢を突き刺すように、トリッシュはにらみつけた。「サンドラ・ブロックが出てるの」
「ジェニファー・ガーナーが出てる映画をよく見るのかって聞きたかったんだけど」
トリッシュは椅子から飛び降り、その乱暴な動きのために、椅子の車輪が横方向に進み始めた。椅子に轢かれないように、スペンサーは慌てて飛びのいた。トリッシュはブーツの太いかかとをさっと出し、椅子の脚を引っ掛けて止めた。
トリッシュの個人的な空間にいるという利点をなくしてしまった。だが、ちょっと危険な気がする――片方のお尻に重心をかけて立ち、目を細めて彼を脅している。その口は、ムッとしたピンク色の薔薇のつぼみのように閉じられていた。
薔薇のつぼみが開き、ピシャリと言った。「馬鹿にしてる?」
スペンサーの頭の中は空っぽになった。「あ……」
「出てってくれる」
トリッシュは椅子を元に戻すために足置きを踏みながら背を向けたので、スペンサーの顔は見えなかったのだが、きっと雷に打たれたような表情をしていただろう。スペンサーはよだれが垂れてくる前に口を閉じ、ラボを出た。急いで。
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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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