【オンリー・ウニ】第9章

『オンリー・ウニ』

寿司シリーズの第二作
著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
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第9章

「もう、そこまで強く引っ張る必要ある?」レックスの車に乗り込みながら、トリッシュはアザができた腕をさすった。

 レックスは車のキーを押し込んで回した。「またあいつに騙されるつもり?」

「どういう意味よ?」

「わざと謙虚な態度を取ってるのが見え見えなのよ」

「私もそう思った」何となく。和夫を目の前にすると、まともに考えるのが難しい。「彼を信じたことなんてなかった」

 レックスは鼻先で笑った。

「だって、それがあいつのやり方なんだから」

「そうなの?」レックスは、駐車場から出ようとハンドルを回す前に、興味深げにトリッシュの方を見た。

「付き合い出した頃はね、一緒に教会に来てたのよ。最初は興味があるような様子だったんだけど、彼と一緒に来ると、いつも遅れるの。それに、他の人とは絶対に話したがらない。結局私たち二人とも行かなくなっちゃった」

 レックスは横目でトリッシュを見た。

「そうなの、分かってる。あんな簡単になびくべきじゃなかった。だけど、今は彼から解放された――」

「あいつが教会まで追いかけて来なければね」レックスは方向指示器を上げて、レーンを変えた。

「ちょっと、あの車の前に割り込んだじゃない」トリッシュは窓の方を向いて微笑み、イラついている運転手に謝るつもりで手を振ったが、中指を突き立てられた気がした。

「和夫に冷たい態度を取ってるようには見えなかったわよ」

 確かにそうだ。「だけど、彼の腕に身を任せることもしなかったわ」

 レックスは呆れた顔をした。「まあ、少しは進歩したのかもね」

「もちろん進歩よ。電話でも言ったでしょ。私は生まれ変わった、いい娘になったトリッシュなのよ!」腕を大きく広げようとしたが、窓に手をぶつけ、もう少しでレックスの目を突きそうになった。

「ちょっと、気をつけてよ」レックスの表情は優しい反面、少し不信感があるようにも見えた。「トリッシュ、あなたのことはよく分かってる。あなたは人なつっこくて、新しい人に会うのが好き、特に男。あなたがいちゃついていないところは滅多に見たことがないわ。悪く取らないで欲しいんだけど、今回はあなたのことが信じられない」

 レックスがあからさまに正直なとき、トリッシュはイライラすることがある。偽りのない真実を告げる勇気を持ついとこが一人いるのはいいことだと、レックスは思っているのかもしれないが、ジェニファーみたいにただトリッシュのことを信じ、優しくて同情心が溢れているフリをしてくれたらいいのにと思うこともあった。最近読んだアクション系のロマンス小説みたいに、記憶を消す機械があればいいのに……。

 過去をまっさらにする。それだ。「私、新しい教会へ行く」

 レックスはその言葉をよく理解しようと一瞬黙り、そしてため息をついた。「またそれね」

 トリッシュはレックスを絞め殺したかった。「何? それが何で悪いの?」

「あなたって、いつも新しいことに移ってくじゃない」

「別に悪いことじゃないわ。今回はそれが必要なの。王さんとはうまく行かない。聞いてたでしょ。教会のトイレ掃除以外のことを全部やることになるのよ。自分を奴隷に売り渡すみたいなものじゃない」

 レックスの眉が上がった。「確かにね。それで、どの教会?」

「エイデンの教会はどう? 彼ってまだサニーベールのバレーバイブル教会に行ってるでしょ――ところで、あなたたちっていつになったら同じ教会へ行くの?」

 レックスは口をキュッと閉じた。「いずれはね。うるさく言わないで」

 マズい、弱点をついてしまったようだ。「とにかく、エイデンが教会の人に紹介してくれるでしょ?」

 レックスはこわばったが、棒のように真っ直ぐな肩をリラックスさせようとした。付き合い始めて六か月が過ぎたのに、まだ変な反応をしてしまう。トリッシュはため息をついた。あの頃レックスはエイデンのことを知りもしなかったとはいえ、最初から彼を引っ掛けようとしなければよかった。見ないという一番目のルールを守っていれば、一見罪のないことが、後になって彼女を困らせるという事態にならなかっただろう。

「彼、私のことはもう気にしてないでしょ?」トリッシュはレックスの顔色を注意深く調べた。「前回彼と話した時は、大丈夫みたいだったけど。過ぎたことなんだし」

「そうね、もちろんよ」レックスはまばたきをして、前方を向いていた。

 トリッシュは、左耳のイヤリングをくるくる回していた。「あなたたちが付き合い始めて本当に良かったと思ってる。私はもう彼のこと……何とも思ってないし。分かるでしょ」

 レックスの表情は完全に緩んだ。「分かってる」誠実そうな笑顔をトリッシュに向けた。「きっと喜んで周りの人に紹介してくれると思うわ」

「よかった」

 新しい教会。新しい冒険。いい方向に進んでいた。

 

 トリッシュは十分警戒して、自分のオフィスヘ向かう前にトイレに行った。スペンサーは怒鳴るだろうか? よそよそしい態度を取るだろうか? 何もなかったように振る舞うだろうか?

「ああ……ハーイ」月曜日の朝、トリッシュは二人が共有しているオフィスに入った。

「ハーイ」スペンサーはコンピュータから目を離さなかった。

 トリッシュはデスクの近くにカバンを下ろした。「週末は楽しかった?」

「ああ」

 コンピュータが起動するのを待ちながら、彼女は座ってスクリーンを見つめていた。仕切りの向こう側にいるスペンサーをのぞき見すると、彼はモニター上のスプレッドシートに没頭していた。

 トリッシュは足をブラブラさせ、ため息をついた。「スペンサー、ごめんね――」

「あのさ、僕らは――」

 トリッシュは椅子をクルッと回し、スペンサーをじっと見た。彼の表情は怒っているようでも、不機嫌でも、軽蔑しているようでもなかったが、彼女に満足しているようでもなかった。まあ満足しているとは期待していなかったが、一体――何を望んでいたのだろうか? もう少し温かみのある中立性? 彼女に歩み寄る意欲?

 何か変だ。同僚を侮辱した後で和解するというより、彼氏と喧嘩をした後で仲直りをしようとしているような気がした。

 とにかく、彼女は気弱ではない。肩を真っ直ぐにし、深く息を吸った。「ごめんね、スペンサー。あなたがクリスチャンじゃないって勝手に勘違いして怒鳴ったこと。他にも変なことをベラベラ言っちゃって悪かったわ。一緒に働かなきゃいけないんだから、きちんとしておきたいの。このプロジェクトを成功させたいし」

 スペンサーは少しイライラしているように見えた。彼女に先手を越されたからだろうか。トリッシュは心の中で花咲いた満足感を押さえ込んだ――親切にしなくては。

「こっちこそ悪かった。変に遠回しに言うべきじゃなかったよ」

 ああ、なんて甘い謝り方。彼に甘いとは言えないが――何人もの彼氏と付き合うと分かるものだ。男性はチョコレートクロワッサンと呼ばれるのと同じような言い方をされるのを好まないことが。トリッシュは満面の笑みを浮かべた。「ありがとう。そう言ってくれて嬉しいわ」

 変だ。スペンサーは少し放心状態に見えた。まるで目が眩んでいるようだった。そんなこと、あり得ない。もしかしたら混乱しているのかも。イギリスの歴史ロマンス小説のように変な言葉は使っていないと思うが。

 トリッシュは、長い沈黙を無視しようとして微笑み続けた。輪ゴムがパチンと弾ける前に、頭を傾けてさっとまばたきした。「スペンサー?」

 彼は少しビクッとした。面白い、ぼうっとするようなタイプだとは思わなかった。もちろん彼女自身はしょっちゅうぼうっとするのだが、そうなる男性に会ったことがなかった。

 トリッシュの携帯音が小さいオフィスで鳴り響き、その音に救われた。「ハロー?」

「ハロー、トリッシュ」

「ああ、おばあちゃん」叱られる前によく感じる、お腹の中で何かが沸騰し出した気分になった。何故電話をかけてきたのだろうか?

「元気にしてる?」

「ああ……ええ、元気よ」どうすれば、祖母の本心を礼儀正しく尋ねることができるだろう?

「お母さんの調子は?」

「最近電話で話した時は、よくなってきてるみたいだったわ」父親とはまだ話していなかった。まだ父と礼儀正しく話せる気分ではなかったから。

「あなた、アパートを探してるんですって?」

 なるほど、祖母が電話をかけてきた理由はこれか。「違うの、ルームメイトが最近ちょっと……変なの。誰から聞いたの?」

「あなたがジェニファーに電話をかけてきた時、ちょうどいたのよ」

「ルームメイトが本当に変わってる人なのね。それでジェンに文句を言ってただけよ」

「だから電話してるのよ。貸してるアパートが一部屋空いたから、改装したの。マウンテンビューよ。あなたが今住んでるキャストロ通りほどは近くないんだけどね」

「おばあちゃん、一人でアパートを借りるお金はないの」

 祖母が含み笑いをしたので、トリッシュの頭の中ではトワイライトゾーンの音楽が鳴り始めた。祖母は滅多に笑わないし、このように上から目線で笑うこともない。「あなたさえよければ、家賃は要らないわ」

「あの……それは助かるけど、おばあちゃん、家賃収入が必要なんじゃ?」

「孫娘のためなら何だってするわよ」

 ちょっと不気味すぎる。祖母がトリッシュに厳しくしたり、何かを要求したりすることは滅多になかった――少なくとも、レックスやビーナスに対する厳しさはない。祖母が橋の上を歩けと言えば、橋の下を歩くのがレックスとビーナスだ。だが、祖母は抜け目のないビジネスウーマン――祖父の死後、銀行を引き継いだことからも分かる――それに、損になることなどするわけがない。何か見返りがなければ絶対に。

 祖母を怒らせないように、どういう言い方をすればいいだろう?「そんなふうにしてくれるのは嬉しいけど……何かお返しをさせてくれなきゃ受け取れないわ」

「まあ、そんな。何もしてくれなくていいの」祖母は、本心ではなくても義務的にまず拒否するのが上手だ。本当に何も期待していないように聞こえる。

「ダメよ、何かさせて」トリッシュはお腹に手を置いた。グラグラ煮立ち、溢れ出した。

「お金を払ってもらう必要はないけど、とても嬉しくなることだったらあるわよ」

「私はいつもおばあちゃんを喜ばせたいの」少なくとも、ほとんどのことについては。

「今は誰とも付き合ってないんでしょ?」

「うん」

「和夫とよりを戻してくれたら、すごく嬉しいわ」

「ええっ⁈」

「あの子は本当にいい子ね。あなたと口論になって、別れたことを後悔してるそうよ」

「私はね、和夫が私をアートスタジオに閉じ込めようとしたから別れたの」

 スペンサーは急に計算機をつかみ損ね、ガチャッと音を立てて落とした。トリッシュは彼の方をのぞいた。「大丈夫? 私のを使う?」

「いや、大丈夫だ」彼は彼女の方を見上げなかった。

 トリッシュの携帯から声が聞こえた。「どうしたの? トリッシュ、誰かと話してる?」

「同僚よ。おばあちゃん、和夫とまた付き合うつもりはないわ」

「まるでメロドラマね、閉じ込めるなんて。オカルト小説の読みすぎなんじゃないの」

「違う、それはジェンよ。私はロマンスが好きなの」

「ああ、セックスばっかりのね」

「違う! おばあちゃん――」

「和夫はあなたがいないと生きていけないそうよ。ロマンチックだと思わない?」

 ロマンチックだ。だが、和夫の強力な存在感によって頭脳が曇っていない時には、彼の熱烈な怒りや、トリッシュを操り所有しようとするやり方を思い出すことができた。彼女と寝ることを望む彼だけを責めることはできなかった。トリッシュにもその気があったのだから。でも、和夫の怒りっぽさ、自分の芸術を崇拝する時の無神論者的態度、孤独を愛する彼の資質を彼女の自由な精神に押しつけようとする性癖のために、自分のベッドに知らない人と寝ているような気分になった。「おばあちゃん、和夫と私は本当にうまくいかないの」(これは控えめな言い方だ)しかし、祖母には理解してもらえないだろうから、真実を打ち明けるつもりはなかった。

「あなたたち、とてもお似合いだと思うわ」祖母の口調が厳しくなった。「私はいつも孫の最善を願ってるのよ」

 何故、物事を元に戻すことができないのだろうか? トリッシュはいつも祖母を喜ばせることができた。主にボーイフレンドという点で――ああ、へそピアスの人だけは例外だった。トリッシュは、祖母にノーと言ったことが一度もなかった。何故祖母は、トリッシュができないことを望むのだろう? 何故、トリッシュが生まれて初めて真剣に正しいことをしようとしているときに、こんなことを要求するのだろうか?

「おばあちゃんのためだったら何でもする――」

「じゃあ、どうして今回はおばあちゃんのためにできないの?」そのたしなめるような口調を聞いていると、トリッシュは自分が理由なく嫌がる子供のような気がしてくる。「和夫がどれだけあなたのことを愛していて、あなたに戻ってきて欲しいのか分かる?」

「分かるわ、私に戻ってきて欲しいと思ってること、だけど、できないの」

「できないって、どういうこと?」祖母の声の調子は、カミソリの刃のようだった。

「ただできないの」(絶対にしない)でも、祖母には言わなかった。三番目のルールを祖母に対して実行するチャンスだ。「私ね、神様に全てを委ねようとしてるの――」

「神様? 神様とボーイフレンドはどんな関係があるのかしら?」

「神様は、私のために素敵なクリスチャンの男の子を見つけてくださるの」その言葉は、自分の耳にもかなり愚かなことに聞こえた。スペンサーが鼻先で笑った気がした。彼は聞いているのだろうか。

「結局宗教の問題になるのね。あなたは家族より神様を大事にしてる。恥を知りなさい」祖母の口調は、ギザギザの刃でトリッシュを切り刻むようだった。祖母がここまであからさまにトリッシュの信仰に反対したことは、一度もなかった。

「家族は好きよ。神様は、私を正しい男性に導いてくださるし、それに家族全員がいつか神様を好きになって欲しい」神様が叫びながら逃げ出すようなことを、気が狂った親戚がしなければの話だが。

「和夫が本当にあなたに相応しい男性だったらどうするの? その人を遠ざける?」

「和夫は私にとって正しい男性じゃないの――」

「あなたの神様の声を聞き間違えてないって確信はあるのかしら?」

 トリッシュは硬くなった顎を緩めて返事をした。「そうよ、神様の声を聞くようにしてる――」

「そして、あなたのおばあちゃんをガッカリさせてる」

 大変、祖母は自分のことを三人称で呼んでいる。悪い兆しだ。「ガッカリさせたいんじゃないの、ただ――」

「おばあちゃんはね、和夫とよりを戻してくれたら本当に嬉しいの。おばあちゃんは、あなたが言うことを聞かないと、本当に腹が立つの」

 呼吸の二倍の速さで心臓の鼓動が鳴った。祖母に逆らったことは一度もなかった。一度も。しかし祖母は、こんなに不可能なことを要求したこともなかった。

「出来ないわ」自分の声なのに、ほとんど聞こえなかった。祖母は聞こえているのだろうか、もう一度言わなくてはいけないのだろうか。ツバを飲み込もうとしたが、何か大きくてベタベタするものが喉に詰まっていた。

 祖母は耳がいい。「トリッシュ、おばあちゃんはね……本当に傷ついたわ」(カチャッ)

 祖母に電話を切られた。トリッシュは、手の中の携帯を見つめた。

 手が震え、それを膝に押し付けた。(そう、やったのだ)祖母に逆らった。雷に打たれて死にはしなかったが、神様を喜ばせるために祖母に逆らったのだ。これほど悪いことはない。神様は、トリッシュの決心をきっと喜んでいるはず。大家族の中で最も権力のある人を遠ざけることになったとしても。

「大丈夫?」スペンサーの静かな声は、トリッシュのむき出しの感情を慰めた。

 彼の方をチラッと見た。その目は、心配しているようで柔らかだった。

「ええ、大丈夫よ」トリッシュは唇を噛み、携帯をチラチラ見た。微笑もうとした。「祖母っていうのは押し付けがましいものよね」

 スペンサーは続いて言った。「よく分かるよ。中国人の祖母も同じぐらいひどいからね」

「私の信仰を攻撃することなんて、なかったの」何故かささやくような声になった。何故だろう? スペンサーは気さくで、意地悪なことは言わないだろう。トリッシュは自分が愚か者になった気がした。

「家族っていうのが一番きついよね」

「そうなの?」

 スペンサーは振り向いてトリッシュの目を見た。「クリスチャンになると、友達は普通合わせてくれるけど、家族の場合だと、どんな風に扱うべきかわからない人もいる。裏切られたと思うかもしれないし」

「だけど私、クリスチャンになってもう長いの。大学の時からだから」

「一時的じゃないってことが分かるのに時間がかかるんだ。自分たちも洗脳されるんじゃないかっていう恐れもあるだろうし」

「今頃? もう十年になるのに?」

 スペンサーは肩をすくめ、コンピュータに注意を戻したが、苦痛を帯びた表情になった。「君に洗脳されたらどう感じるかを考えるのが怖いんだよ」

 祖母は何を恐れているのだろうか?

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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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