【オンリー・ウニ】第23章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第23章
「ああ死ぬかと思った」トリッシュは、ジェニファーが魔法の中華鍋で作った手作り料理の食べ残しを、薄汚れた台所のアルバートソン(スーパーの名前)の紙袋で作ったゴミ箱に捨てた。「キスだけじゃなくて、あの宣言は何よ。おばさん達、結婚のプロポーズみたいに反応したじゃない」「和夫がそんなこと言うなんて、かなり大ごとじゃない?」ジェニファーの声は、(いつもそうだが)誰かの胸に顔を埋めて話すように、こもっている。シンクで箸を洗った。
「大したことじゃない。あんたの守りを破ろうとしただけ」ビーナスはタッパーウェアに残りをきれいに移し終わった。
トリッシュがジェニファーを夕食に誘おうと電話をかけたとき、ビーナスがたまたまジェニファーの家にいたので、文句大会は台無しになった(実際には、その夜もファストフードを食べるのに耐えることができなかったトリッシュは、ジェニファーに料理を頼み込もうと電話したのだった)。ビーナスが嫌いなわけではないが、同情してくれるジェニファーとは異なり、ビーナスはズバッと言う。トリッシュは現実に直面するムードではなかった。
「帰り際は本当に拍子抜けだったね。そう言えば、和夫ったらあのKドラマの終わりのシーンのことばっかりしゃべってた」
ジェニファーは笑い出した。
「ジェーーーン」
「だって」咳き込んだ。「もしかして、Kドラマクルーズを賄賂に使えそうね」クスクス笑った。
トリッシュはカウンターにもたれた。「レックスはあのKドラマが嫌いだった。あいつが気を取られている間に逃げようってささやくんだから」
ジェニファーがあざけるように笑った。ビーナスも笑い出した。
「勝手に笑ってて。この汚い家に住んでるのはあなたたちじゃないんだから」
「アパート探しはどうなってる?」
「見つからない。どうしてかなあ。これ以上ここにはいられない」
「少なくともにおいは消えたわね」
「職場の無菌室から業務用のカバーオールを借りて、居間の大掃除をしたのよ。それから二、三日窓を開けといたの」
「お風呂はどうした?」ビーナスが閉じられているドアをチラッと見た。
「ああ……」トリッシュは息をのみ込んだ。「トイレは使わないようにして、天井は見ないの。シャワーは会社で浴びてる」
「かわいそうに、疲れるね」ジェニファーの声からは、トリッシュを同情のハグで包み込むような温かくふわふわしたものがにじみ出ていた。
「やめてよ」ビーナスはジェニファーの腕を手の甲でたたいた。「キャンプしてるみたいなもんでしょ」
トリッシュの眉が上がった。「あなたにとっては三つ星ホテルだってキャンプと同じでしょ?」
「インターネットとプールがないところにはどこにも行けない」ビーナスは口をとがらせた。
「少なくとも、森だったらいいにおいがするよね」トリッシュは一瞬間をおいて、心に重圧をかけていることを話し始めた。「おばあちゃんから電話があったの、今晩」
いとこ達は酔いがさめた。
「またアパートをただにしてくれるって話。和夫とよりを戻したら、家賃は無料」唇をかんだ。はっきり断ったわけではないが、イエスとも言わなかった。
「ダメよ」ビーナスの言い方は、その場でトリッシュに殴りかかりそうなほど断固としていた。
「神様が家を与えてくださるわ」ジェニファーは宣言した。「おばあちゃんに誘惑されて、神様に反することをするのはダメ」
「言われたの、『和夫は素敵な男性よ。レックスが結婚した後、あなた、いとこの中で一番年上の独身女性になりたくないでしょ』ってね」
ビーナスは声をたてて笑った。「その言葉、レックスにも言ったほうがいいわよ」
「冗談でしょ?」レックスがその場にいたら、祖母とけんかになっているだろう。
ビーナスは鼻先で笑った。「レックスがクリスチャンじゃなかったら、エイデンと同棲だけして、おばあちゃんを怒らせるために結婚しなかったでしょうね」
「なんでそうやっておばあちゃんに意地悪する?」ジェニファーは昔からの議論をむしかえす時のように断固とした態度で言った。「おばあちゃんは大家族が好きなだけよ」
「大家族をコントロールしたいだけ」ビーナスの表情は冷淡だった。
その点について、トリッシュは言い返せない。祖母を怒らせたくないが、日々の非常に細かいことまで管理したがる祖母のやり方も理解していた。「本当に悪いと思ってるの。今回みたいに私に怒ったこと、今までなかったから」
「あの人はおばあちゃんだけど、神様じゃないの」ビーナスは言い返した。
確かに、それはいい見方かもしれない。祖母に電話をして断ろう、明日。ビーナスからそう言われなくても、トリッシュは同じことをしていただろうか? なんで自分はここまで弱っているのだろう……。
「住む場所、もっと頑張って探す」
ジェニファーは残りのお皿を洗い終わった。「インターネットに毎日新しい物件が載ってるし」
トリッシュはうなずき、元気が出てきた。「会社の近くで、私の予算に合う物件があるはずよね」手を腰に置いて、甲高い声で言った。「神様だって私にアパートを見つけて欲しいって思ってるはずでしょ」
トイレに行きたい。ここは職場――だから、何の問題もないはずだった。会社のトイレは怖くない。
二〇分前、橙褐色の細胞培養用殺菌液が腕にベッタリついていたために、トイレを後回しにしていた。だって、この強力な液を皮膚から落とすための洗浄手順は面倒だったから。膀胱が爆発しそうな今、女子トイレに駆け込もうと、半分洗い終わったステンレス鋼板を下ろした。
洗剤と水が届かないところにある乾いたカウンターの上に置いた携帯を見た。お腹が痛いほどグルグル鳴っていた時に祖母に電話をかけたのだが、留守電に入った頃には吐き気もひどくなり、祖母に電話を返して欲しいという伝言を震える声で残したのだった。今この瞬間に電話が鳴ることはないはず。トイレに行くのはほんの一瞬だ。
手袋を外した。前腕は保護されていないが、オレンジ色のベタジンで汚れるのを心配せずドアノブを触ることができるように、さっと手を洗うことはできた。ペーパータオルをつかんで手を拭き、振り向いた。
スペンサーが真後ろに立っていた。
「あああああっ!」その叫び声で、バイオハザードキャビネットのガラス部分が振動した。
後ろにつまずいたが、激しく振った腕がオレンジ色になった石鹸水があふれるほど入ったプラスチックの受け皿にぶつかった。(ピューッ!)水が滝のように床に流れた。
「インキュベーター!」トリッシュはペーパータオルの束をつかみ、遠い方の壁側にある細胞培養ユニットの方へ打ち寄せる水たまりへと走った。水が入ったりしたら、インキュベーターは壊れるか、中に入っている試験用の培養プレートが損なわれるかもしれない。
トイレに向かわないトリッシュに抵抗するように、骨盤がさらにズキズキした。トリッシュは歯ぎしりをしながら、もっとペーパータオルを敷いた。「何してたんだよ? 僕に心臓マヒを起こして欲しいのか?」数千ドルのインキュベーターへの流れをせき止めようと、小さい海の端にペーパータオルを重ねて広げながら、トリッシュはスペンサーを見上げもしなかった。「ドアが開くのさえ聞こえなかった」
答えがない。振り向くと、細胞培養室には誰もいなかった。夢でも見ていたのだろうか?
いや、違う。スペンサーは賢かった。彼の頭とモップの取っ手がドアのガラス窓に現れた。部屋に戻ったスペンサーは、それを見せびらかしながらドアをバタンと閉めた。
「もう、何なの」トリッシュは、こぼれたものが広がらないようもっとペーパータオルを取りに走った。「私が今なんて言ったか聞いてた?」
「いや、だけど何を言いたかったのかは分かる。僕が入ってきたのが聞こえなかったとか何とか」スペンサーはモップに手を伸ばし、遠くのインキュベーターの方へ流れ出したオレンジ色の流れを取り押さえた。
顔をしかめたトリッシュは、反論することができなかった。どうしてそんな気遣いができるのか? 女の子に対してだったら誰でもそうするのに違いない。だけど、最近はプレイボーイのような彼を見ていない気がする。
(バカ、何考えてるの)彼との可能性は既にぶち壊したではないか。
ベタジン水は、反対側の壁にあるバイオハザードキャビネットの方にも――ゆっくりとだが――向かっていた。スペンサーはインキュベーターを救ってくれたが、トリッシュはそちらもせき止める必要があった。ただ、掃除しようと思っていたところだったので、床がとても汚かった。
本当にトイレに行きたかった。新しい手袋をさっとはめて、つま先で踊るように歩いた。皮膚が湿っているために、手袋が引っかかって指先まで入らない。指先で手袋をブラブラさせながら、ペーパータオルの束をつかんで引きちぎったが、きちんとはめていない手袋では若干難しかった。機器に忍び寄る水を一番近い指で止めた。
二人は黙って作業をした。偶然後ろを見ると、スペンサーの筋肉質な背中が目に入った。(わあっ)
そして、こんな格好の自分を彼に見せることになってしまった。
ベタジンのせいだ。バイ菌やカビのようなものはきれいに消えたが、泡が立ちすぎて、ウェットワイプでいくら拭いても取れない。全身がベタジン、泡、水でぐしょぬれだ。
色あせたTシャツ――この報われない雑用を予期して選んだようだ――の上には、すでに大きな水のしみができ、ジーンズには少量の泡がついていた。髪の毛はポニーテールから飛び出し、細い束が頬にくっつき、多分変な角度で頭から飛び出ていた。普段なら、顔にオレンジ色の線がつくことはあったのだが、保護メガネの底にオレンジ色のシミがついていた。
トリッシュは、シュレックと同じぐらい魅力的になった気がした。
それに、膀胱が金切り声で叫んでいた。
スペンサーが水をモップで拭き取る素敵な後ろ姿を観察するべきではないのは分かっていた……。
トリッシュがジロジロ見ている時に、彼が振り返った。
顔がかあっと熱くなった。ベタベタする皮膚のオレンジ色と混じり合って、おもしろい紫色になっているに違いない。
もっとモップで水を拭き取ろうと背を向ける前に、スペンサーはウィンクした。
(あーっ!)
せまってくる水にタオルを投げた。「ついでに言っとく。礼拝の奉仕、することに決めた。オリビアにも電話して、来週から始める」
スペンサーがうなるように言った。「やっぱりね」
素敵な形の背中を蹴飛ばす衝動に駆られないように、素早く動く水たまりをせき止めなくてはならない。
「どうして気が変わった?」
「水曜日の独身者グループ」(おえっ、この床、こぼれた細胞培養用試薬で汚れてる)「礼拝の途中で自分を抑えられないの」それに、可哀想な青年の魂を地獄に送ってしまったかもしれないが、それは彼と神様の間の問題だ。「それって、神様は喜んでくださると思うの。だって、それが私自身だから」
「君が礼拝にのめり込んでる時って、ちょっとかっこいいよ」
トリッシュはさっと顔を上げたが、細胞培養フードのテーブルの下で頭をぶつけた。「そう?」髪の毛に洗剤がつかないように、腕で頭上をさすった。
「ああ……何て言ったらいいか……感動するよ」
感動するって――気に入った。「ありがとう」
携帯が突然大きい音を出した。スペンサーが数センチ飛び上がったのを見て、少し満足した。それに、実際数秒でも雑談することができた。
その電話が祖母であることに気づいた瞬間、トリッシュは息が止まりそうになった。手袋を脱ごうとしたら袖口が破れ、その瞬間また電話が鳴った。(深呼吸、大丈夫よ。呼吸しなきゃ電話に出られないわ)
手を水で濡らし、オレンジ色に染まった腕をペーパータオルで拭いた。けいれんしているように、腕全体が震え始めた。部屋がぐるぐる回り始めた。息を吸い込みたいのに横隔膜が動かない……。
「呼吸してる?」心配そうなスペンサーの声が後ろから聞こえた。彼は、トリッシュの肩甲骨の間を強く叩いた。
咳き込み、コホコホ音をたて、苦しそうに息を吸い込んで、電話に出た。「ハロー?」
「トリッシュ、おばあちゃんよ。何か用だった?」
(私が言おうとしていることを知ったら、私の命は……)「おばあちゃん、あのね……」足を交差させ、空中でブラブラさせた。(本当に、トイレに行かなくては)「おばあちゃんのアパートの件、やめとくわ」そのちっちゃい膀胱に気を取られすぎて、簡単に言えてしまった。
電話口は静かだった。
「おばあちゃん?」
(カチャ)ダイヤルトーンが聞こえる。
その音に胸を締めつけられた。祖母は完全にキレたに違いない。
トリッシュは、このように祖母を怒らせたことがほとんどなかった。祖母の怒りがトリッシュを飛び越えてレックスやビーナスに向けられた時は、密かに安堵したものだった。だが今……硫酸を飲みこんだような気分がして、吐きそうだった。
スペンサーは手を伸ばし、トリッシュの携帯を取り上げた。彼の手は温かく、指が燃えるようだった。それから、オレンジ色の線が入ったラボ用白衣を着た彼の腕が、彼女を巻くように引き寄せた。
新鮮な石鹸と一筋のジャコウの香りに隠された高価なコロン。強いベタジンのにおいも消されるほどだ。一瞬、トリッシュは完全な平和を感じた。
突然、心臓が強く打っているのに気づいた――おかしい、止まったと思ったのに。胸の痛みはなくならず、まだ吐きたかったが、スペンサーがコンロの火を消したかのように、感情は薄らいでいった。
そして、その温かい香りの抱擁から抜け出さなくてはならなかった。ドアに向かいながらお腹を押さえた。
「大丈夫?」スペンサーの指は、びしょぬれになったトリッシュのTシャツの袖を引っ張った。
トリッシュは一秒も待てなかった。「トイレ!」
彼女を抱きしめるのはいい気分だろうな。それと同時に、詐欺師になった気がするかも。
水の流れを止めようとペーパータオルをまき散らし、トリッシュが戻ってくるまでの間、スペンサーはバイオハザードキャビネットに少しずつ近づいてくる水と格闘した。なんという散らかり方。この状況もそうだが――存在するのかしないのか分からないトリッシュとの変な関係も、面倒な状況になっている。
最初は少し気に入っただけで――食事に誘うぐらいで十分だった。そうしたら、彼女は彼がクリスチャンではないと思い込み、彼は思い切り殴られた気がして、早々に引き下がったのだった。
だが、彼女のことをもっとよく理解するようになった。同僚になり、お互いに心地よく感じている。そうして、彼女が和夫と付き合っていたことを知り、スペンサーの脳みそは和夫を懲らしめることを考え始めた。和夫への嫌がらせとしてトリッシュを追いかけようとも思った。トリッシュに噛みつかれたことはないが、女の子とイチャイチャするのをやめた途端、トリッシュはさらに自分に理解を持つようになった気がする。特に最近。
変なものだ。女性の興味を惹くために、魅力的であることをあきらめる必要があることなど決してなかった。
トリッシュが他の女の子たちとは違うことに気づいた今――他の誰に対しても感じたことがない感情に気づいた――スペンサーは墓穴を掘ってしまったことを悟った。前妻と和夫のことについて、トリッシュに話さなくてはならない。その事実を話さなかったのは、彼女を悩ませたくなかったからではなく、彼女に対する彼の興味が真実であることを彼女が信じなくなってしまうのではないかという恐れだった。
トリッシュは、彼の強引なやり方が下心だと考えるだろう。決して自分を信頼しなくなるだろう。彼が以前とは違うことを彼女は決して信じないだろう。
最近のスペンサーの行為は、もともと和夫との過去が動機になっていたのだが、その結果、神様のもとへ戻るべきだと促す小さい声が聞こえる場所に立つことになった。トリッシュに和夫とリンダのことを言うべきだ。彼女が知らないままというのは良くない。たとえその結果、トリッシュが彼の行為を赦さなかったとしても。
まず、トリッシュから信頼される必要があった。
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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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