【オンリー・ウニ】第22章
『オンリー・ウニ』
寿司シリーズの第二作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第22章
サインがあったはず――(水曜日の午後におばあちゃんたちの相手なんて、運が悪いな)――トリッシュは駐車場で車を停めた。圧倒されるほど多くのライスロケット* ――パワーアップしたホンダ・アコード、アキュラ・インテグラ、三菱・エクリプス――や、新しく見えるSUVが駐車スペースを埋めていた。高級車ほど、横方向に駐車して二台分のスペースを取っている。なんて下品なんだろう。路上に車を停めて、中に向かった。言われていた通り早めに着いた――早く帰れるように、早めに来たのだった。もう一人のボランティアであるクリスティーナよりも早く到着した。あのKドラマがどうなったかが気になるのは認めざるを得ない。
手入れされていないチェリーレッドのマツダ・コンバーチブルの前を通り過ぎながら、歩く速度が遅くなった。小さいへこみや傷がついていて、タイヤも交換した方がよさそう。それに窓も汚い。そして、バックミラーから古い芳香剤がぶら下がっている。
まさか、違うよね。
携帯をさっと取り出した。「レックス、マジで助けて」
「何よ?」
「私、かつタワーでボランティアしてるじゃない――」
「あなたが? あの老人の家で?」
「老人ホームよ」
「分かった、分かった、どうでもいい」無関心な言い方だった。
「今着いたんだけど、和夫の車があるの」
「あんたがそこにいるって、何であいつが知ってる?」
「おばあちゃんがあそこの住人から聞いて、あいつに言ったのかも。「お願い、助けて」
レックスは一瞬黙っていた。「トリッシュ、あなたを見つけるたびに飛びかかってくる訳じゃないんだから」
「そうだけど、私が……飛びかかりたくなるといけないから」
「へーえ、あんたの方をブロックして欲しいってことね」
そういう言い方をされると、トリッシュは情けなくなった。「まあ、そういうことね」
「ラッキーね。今日は仕事暇なの」
「早く出られる? 後で困らない?」
「二〇分で着くから」
「サンキュー」
トリッシュは携帯を閉じた。予備軍を招集してしまったことを一瞬後悔したが、一人では弱すぎる。和夫の黒い目を想像しただけで呼吸が早くなるんだから、よくない。いつかは強くなれるだろう。これはコリント人への手紙の中にある誘惑からの「逃げ道」だろうか? レックスはトリッシュの逃げ道だった。
かつタワーの入り口のドアを通ってズカズカと歩いて行った。悪い男はなぜハンサムなんだろう? 神様はなんで悪い男の顔を醜く、ビール腹が揺さぶられるようにしてくれないのかな。
フロントデスクを過ぎるなり、和夫はトリッシュを見つけた。明らかに醜くなく、ビール腹でもない男性という種――見るなり心臓がどきっとする自分に嫌気がさした。口をキュッと閉じて顔をしかめた。「どうしてここに?」
「君のおばあさんの友達が――」
「別にいいわ」聞く必要もない。どうせ祖母の策略以外の何ものでもないのだから。日本町の至るところにスパイがいて、かつタワーもその一部なのだろう。「私はボランティアなの、あなたと話すことはない」
もちろん、裏切り者のようなトリッシュの体は、そう言いながら和夫の方に揺らいだ。清潔でエキゾチックな、日本の石鹸独特の白檀の香りがした。
「手伝うよ」微笑んだ。とても理性的に聞こえる。
違う、和夫は理性的じゃなかった。今のように、そう見えなくても卑劣で狡猾だった。危険でいいにおいがする――。
(やめなきゃ。集中しよう)「分かったわ」和夫から離れて階段を上った。娯楽室に入るなり、老婦人らがおしゃべりをしながらゆっくり動く鶏の群れのように近づいてきた。
「トリッシュ、私の甥に会ってくれないかしら……」
「この子が孫の……」
「息子はどこかしら? ああ、いたわ。こっちにきてトリッシュと……」
侍が帯にさした刀のように、和夫はトリッシュの脇にくっついていて、老婦人らがトリッシュに投げつける親戚の男性一人一人をにらみつけた。彼らの方もトリッシュと同じように、結婚を仲介しようとする女家長にイラだっているようで、自分の義務を果たしたらすぐ帰って行く人もいた。
狂犬に(ポチ、座れ!)とでも言うように冷めた目で和夫を見て、その独占欲に嫌悪感を隠さない人もいた。
ハンサムな男性もいたが、たいてい若過ぎるか、日焼けした薬指に薄く白い線が入った「お荷物」を持っていた。それにトリッシュは、祖母、叔母、母に誘われてのこのこやって来るような男を好きになるつもりはない。
彼らに礼儀正しく笑いかけながら、この人たちに伝道するべきなのだろうかと考え始めた。結局ルール二番がある。アメリカンイーグルのTシャツを着ている、出て行こうとしていた四〇歳ぐらいのしつこそうな人をつかまえた。「神様を信じますか?」
「ええっと……」ジャケットのボタンをいじりながら神経質そうに、トリッシュの肩越しにウロウロしている和夫をチラッと見た。「もちろん」熱狂的な肯定ではなかった。この人は教会に一度でも行ったことがあるのだろうか。
「あなたはイエス・キリストと個人的な関係を持ってますか?」これはすらすら言える。先週「四つの法則** 」のポイントを全て、やっと暗記した。
なんと、その男は背筋を伸ばし、ゆっくりと後退りした。まるでトリッシュは核兵器であるかのように。そしてキラキラ輝く笑顔を見せた。「会えてよかったよ、トリッシュ」逃げ出した。
(は。まあいい、一人片づいた)結局彼らはみな礼儀正しくさようならを言って、トリッシュは一人残された。
もしかしたら、和夫がいてよかったのかもしれない。
たまたま見上げると、デボラ――耳の遠い女性――がいた。先週とは反対側の隅に座っている。その怒りに満ちた目つきは、狂犬の群れのようにトリッシュにかみついた。あるいは、狂ったトイ・プードルの群れ? どちらでもいい。デボラの心が読めるようだった――(ここは売春宿じゃないのよ、あばずれ女!)
トリッシュはあばずれ女ではなかった。唾を飲み込んで横を向いた。その老婦人の耳が遠く、何が起こっているのかを理解できないのは、トリッシュのせいではない。
「急いで、Kドラマが始まるわよ!」
魔法の言葉で老婦人らがテレビの周りに集まった。和夫は眉にシワを寄せて見ていた。「Kドラマ?」
トリッシュは車椅子、歩行器、杖の後に続いた。デボラをチラッと振り返ると、口をキュッと閉じて、集団が向かう方向とは反対側を向いた。無人島――部屋の反対側に一人で座っている。立ち上がってみんなとテレビの方へ歩いて行こうともしない。字幕は読めるんじゃないのか?
極めてハンサムな韓国人の男の子――もしかしたらクララのキーホルダーについている俳優?――は、信じられないほど美しい韓国人の女に永遠の愛を誓っていた。次の場面では、ナイフを振り回すいかがわしい男が主人公の車を乗っ取った。その泥棒は、ナイフを取り上げようとする男性に強盗を働き、その男性は刺された!
コマーシャルになった。
わあ。これは病みつきになりそうだ。
明らかに、和夫もそう思っていた。放射能を放つ脳波でコマーシャルを終わらせようとするかのように、テレビをにらんでいた。「このKドラマ、すごくいいね」彼にとって「すごくいい」とは、完全に心を奪われ、意外で、非常に素晴らしいことを意味していた。
和夫とKドラマ? 意外だ!
「ああ、来た来た」クララは座ったまま手を伸ばして、トリッシュの腕をつかんだ。「甥を紹介するわ」
クララは、娯楽室に続く戸口に立っていたアジア系の男性に合図した。その男性は大股で歩き、その一歩一歩に傲慢さが現れていて、トリッシュは見た途端に嫌いになった。和夫と付き合っていた頃、「大作」に取り掛かっているときの彼のわがままな態度を思い出した。彼にとって自分の作品は全て「大作」で、トリッシュは、自分が彼の所有物の中心にいることにうんざりしたものだった。
和夫をチラッと見ると、まだテレビを見ていた。いつもだったら脳みその中から追い出すことができないのに、Kドラマがついている間は和夫のことが少しも頭に浮かばなかった。ドラマによって男性から目をそらすことができるのは、便利かもしれない。
クララの甥が近づいてきたので、テレビの群衆から少し離れた。図々しくトリッシュをのぞき込む彼を前にして、トリッシュは盾のように胸の前で腕を組んだ。目の前に来た彼は、トリッシュより数センチ背が高いだけだった。脂っぽい額がよく見えた。
自分の顔を触ってみた。うわっ、古い車からオイルが漏れているみたいだ。メアリー・ケイ(ダイレクトセリング形式の化粧品・スキンケアブランド)をやってるいとこに何か商品を勧めてもらおう。
「ローレンスだ」微笑もうともしない。
「トリッシュ」
「叔母の施設でボランティアしてるんだって?」見下したように部屋を見回した。
「始めたばかりよ」
彼は時計を見た。
「じゃあ」トリッシュは背を向けてテレビの方へ歩き出した。ああ、コマーシャルが終わったところだ。よかった。
「ちょっと待てよ。そういえば」彼は指を上下させてトリッシュを指さした。「クララ叔母さんに聞いたけど、君、製薬会社で働いてるんだって?」
「バレー製薬よ」彼の肩越しに見えるテレビのために気が散っている。ドラマの悪女ユンキーは怒っているように見えた。ああ、密かに好きだった男が部屋に入ってきたが、その男は別の女を一方的に愛しているのだった。大変だ。
「あのさ」ローレンスは急に百万ドルの笑顔を見せた。「あれはどうなってる?」
ローレンスに対するトリッシュの信頼レベルは、あのガールフレンドに対するあの韓国人の男の信頼レベルと同じようなものだった。「ああ別に……大丈夫だけど」ユンキーはなんと言っただろうか? 遠すぎて字幕が見えなかった。男に罵声を浴びせているように見えた。
「部署はどこ?」
「骨粗しょう症……」かっこいい韓国人の男は、ユンキーから離れた。
「じゃあ……」ローレンスは近くに体を傾けてきた。「どんなことしてる?」
トリッシュの「スカンクに注意」メーターが働き、さっと我に返った。「言えないわ、機密情報だから」鋭い声だった。このようにきつく言えば、彼はこの手の質問をやめるだろうか。
ローレンスはワニ肌だった。「いいじゃないか。ヒントだけでも。誰にも言わないから」
そんなはずはないだろう。こいつは株のブローカーか。「辞書が要るんじゃない?」
「は?」
「機密情報の意味がわかってないわね」
ローレンスのにやけ顔と半分閉じた目から、愚かにも口を開ける前から人を見下しているのは明らかだった。「あのさ、ティナ――」
「トリッシュ」
「――会社っていうものが本当はどんな仕組みなのか教えよう……」
これ以上この人との会話を続けても意味はない――トリッシュはテレビの方を向いた。ユンキーとその男は争っていた。いつからそうなったのだろう? 悪女はその男を抱きしめたそうだった。大変、彼はどうするのだろう?
「……だからさ、特許権の日付なんてものは大して意味はない……」
ユンキーは手に何か持っていた。どこから出ていたのだろうか? それに、その透け透けのワンピース、まるで丸裸みたいに――
(バン!)娯楽室にその音が鳴り響いた。テレビの前にいた老婦人らは椅子から飛び上がった。何が起こったのか? トリッシュは目を細めてスクリーンを見たが、遠すぎてよく見えない……ちょっと待って。
「……本当にさ、よく考えたら――」
「大変、あの男を撃ったわ!」
思っていたことを大声で言ってしまったこと、ローレンスの話を中断させてしまったこと、彼の話を聞いていないのは明らかなこと、顕微鏡の下で汚い真菌を見ているような目で彼がトリッシュを見ていたことに気づくまでに、数秒かかった。
ローレンスはその高い鼻から息を吸い――本当に高い鼻! パンチを浴びせたいくらいだが、普段、乱暴なのはトリッシュではなくレックスだ――胸を膨らませたので、ポロシャツの下に筋肉がないのが分かった。
トリッシュは微笑んだ。「お会いできてよかったわ、ローレンス」テレビの方へ急いで戻った。
クソッ。コマーシャルだ。「何が起こったんですか?」
ご婦人らは喜んで教えてくれた。「あの人の肩を撃ったのよ」
「心臓かと思いました」
「違うわ、それだったら死んじゃうでしょ。この人が死ぬわけにはいかないから、肩じゃないとだめなのよ」
「あと数週間は死なないと思うわ」
クララが手を触った。「私の甥のこと、どう思った?」
トリッシュは首を振り、メロドラマ風にため息をついた。「Kドラマは好きじゃないみたいですね」その口調の中に、できる限り大きい落胆を吹き込んだ。
老婦人らは、トリッシュがローレンスのことを、斧を持った殺人鬼だと言ったかのように、はっと息をのんだ。
クララが肩に手を置いた。「分かってたら、あなたに会わせるなんて言わなかったのに」
「あなたの友達は本当にKドラマが好きなのね」すみよは、ドラマのことを別の婦人と楽しそうに話す和夫の方を指さした。意味ありげな微笑み。「彼はいい夫になるでしょうね。リモコンの取り合いになることもないわ」
なんてこった。もしや、祖母は和夫を擁護するようこの人たちに頼んだのだろうか? その可能性はゼロではない。「私たち、合わないんです」そう言いながら、嬉しそうなふりをした。
呼ばれたかのように和夫が現れた。「聞かなきゃいけないことがある」
おしゃべりをしていた老婦人らは一斉に静かになり、テレビを見ているグループのすぐ隣に立っていた二人に対し、明るく期待を持った目を向けた。
(これはまずい)
「僕のところに戻ってきてくれないか。君は僕のミューズで、創造の源なんだ。君がいなければ僕は無に等しいって、どうすれば分かってくれる?」
傲慢なローレンスを振り払った後のトリッシュにとって、和夫に抵抗するのは容易だった。「きっと他の人が見つかる――」
「また住むところを探してるって聞いたけど」
母には話した。もちろん祖母はそれを聞き出して、和夫に話したんだろう。「大丈夫、短期的に住む場所はあるし、どこか見つかるから――」
「僕がアパートを出るよ」
「だけど、ご両親がアパート代を払ってくれてるんでしょ」それに、かなり高い。
「僕が出るから、君が住めばいい。君が必要なんだ。戻ってこいよ」トリッシュをつかんでキスした。
和夫のキスは完璧だった。その唇はしつこいが野蛮ではなく、その手は「君が必要」と言っているような強さで腰をつかんでいるが強すぎず、天国のような香りがトリッシュを包んだ……。
「トリッシュ!」
その金切り声で、トリッシュは夢見心地から地に落とされた。何とか彼の手をほどいて振り返った。
レックスが腰に手を当てて戸口に立ち、その鼻の穴からは火が出ている。まあ実際に火は出ていないとしても、確かに十分怒っていた。
「約束する、そういう意味じゃ――」
「そういう意味でしょ」和夫はまたトリッシュを引き寄せようとした。トリッシュは彼を振り払った。
「トリッシュ、あなた、こいつにキスし返してたみたいね」レックスの眼差しはトリッシュを非難していた。
「違う、こいつが私に飛びかかってきたの、本当よ――」
「ああ、本当にロマンチックだったわ」クララがキラキラした目で見ていた。
「ロマンチックじゃないわ!」頭に血がのぼり、脈が速くなり、髪の毛が逆立つのを感じた。「最悪だった!」
「こっちからはそんなにひどく見えなかったわよ」レックスは片足に重心をかけ、腕を組んだ。
「そんな誘惑はいらない。あなたが誘惑から私を救ってくれたの。来てくれて、本当によかった」トリッシュはワラにもすがろうとし、レックスの表情は(あなたって、なんてバカなの)と叫んでいるように見えたにもかかわらず、その肩はゆるんだ。
「とにかく、行こう」レックスは出て行こうとした。
「あの……」
「何よ」鍵をチャリンと鳴らした。「まさか、本当はここにいたいって言ってる?」
「僕と一緒にいて」和夫が手を伸ばしたが、トリッシュはその手を払った。
「あのさ……このKドラマ、最後まで見てもいい?」
* 小型で高性能の日本車
** 福音伝道のためのキリスト教トラクト
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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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