【オンリー・ウニ】第15章

『オンリー・ウニ』

寿司シリーズの第二作
著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
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第15章

 金曜日の夜、トリッシュは戦う覚悟でうちに帰った。ヘビースモーカーのだらしない女、そしてノミがついていてアレルギー性の高い毛玉のようなネコと対決しようとしている時、聖書に書かれている「救いのかぶと」は不適切に思えた。

 張り詰めた電話での会話は別にして、マーニーを目の前にすると、冷静な表情で肩をすくめることしかできなかった。彼女の猫が自分の金魚を食べたとしても。この猫は、どれだけ毛を落とせば済むのだろう。居間のソファには、猫が三匹いてじゅうたんが織れそうなほどの毛が落ちていた。

 決定的なのは、アパートの部屋全体がタバコのにおいがすることだった。今度大家が家賃の小切手を引き取りに来るか、荷物を届けに来るか、生ごみ処理機を直しに来たら(すでに動かないのだが)、二人の秘密がばれて路頭に迷うことになる。保証金も返ってこないだろう。

 あの大人しくて、ちょっとだらしないルームメイトはどこに行ってしまったのだろう? このよそ者はどこから来たのだろう? マーニーは何ヶ月もの間いいルームメイトだったから、最終通告なんて出すのは気が引けるが、最近の彼女といったら……。

 これが原因で、今週は胃が痛む思いだった。もう我慢することはできない。正直に言えば、ストレスのために食欲がなくなり、食べる量が減ったという事実には感謝している。

 トリッシュはドアの鍵を開けながら取っ手をガタガタ鳴らし、ドアを開けた。ソファの上で、丸い灰色の綿毛のようなものが驚いて急に動き、ピザの箱に飛び降りて、汚れた皿を飛び越えた。そして、積んである雑誌の間を滑るように進んで洗濯物の山を飛び越え、マーニーの寝室へピューッと走っていった。

「マーニー、話があるの!」声がかすれた。せっかくドラマチックに女戦士ジーナ* のポーズを取ったのに、台無しだ。

 マーニーが寝室からブラブラと歩いてきた。下唇にタバコがくっついていて、灰が雨のようにカーペットに落ちている。「何のこと?」

 堂々とタバコを見せびらかしているのを見て、トリッシュは素早く手を伸ばし、自分の部屋のドアを閉めた。「それ、消してくれる?」

 トリッシュの説教に対し、マーニーは呆れたように目を回し、口をキュッと閉じ、鼻の穴からタバコの煙を出した。そして自分の寝室にタバコを置きに行った。

 トリッシュは深呼吸したが、鼻を突く煙と猫の毛が混じり合った空気を吸ったので、咳き込み始めた。台所のシンクで、勢いよくコップに水を注いだ。「マーニー、もう終わりよ」

 ゴクっと水を飲んで元気づけてから、トリッシュは居間でけんか腰になった。「この部屋に入ったら誰でもタバコのにおいに気づくわ。やめられないんだったら他に住むところを探してくれる?」

 マーニーは長いため息をついた。「分かった、外で吸う」

「この前もそう言った」

(これ以上何をして欲しいの?)と言いたげに、マーニーは目を細めた。「今度は約束するから」

「猫も何とかして」トリッシュが自分で猫の里親を探すと言って脅すつもりだったのだが、マーニーの目が小さな黒いビーズのようになったので、トリッシュはためらった。

 その丸いほっぺたも不機嫌に見えた。「私の部屋にいるのよ」

「いないじゃない。ソファに毛がついてるわ」

「もうアレルギー出てないじゃない」

 トリッシュは歯を食いしばり、十まで数えた。(それに引っかかっちゃダメ。ルールを言えばいいだけ)ガラスをかみ砕くように、一語ずつはっきり話した。「その――猫は――明日――処分して」

 すると、物静かで横柄なマーニーは、せきを切ったようにスペイン語でしゃべり始めた。激しい言葉が鳥の群れのようにトリッシュの顔に向かって飛んできた。ヒスパニック系の友達と、高校で受けたスペイン語の授業のおかげで、少しは理解できた。くだらないルール、何かに縛られていて、独立した大人なのにやりたいことができないのはどういうことなのかを説明しろと要求しているように聞こえた。

 それからマーニーは英語に戻った。「それにあんた。私の猫のことを何で黙っていられない? 何で私の赤ちゃんを捨てないといけない? 捨てなくていいように助けてよ。クリスチャンとして、そうするべきじゃないの?」

 マーニーは大股で寝室の方に歩いていった。ドアをバタンと閉めたので、壁が振動し、絵がカーペットに落ちた。トリッシュは誰もいなくなった居間に立ち、閉じられたドアを見つめた。まるでこの会話は決してなかったかのようだ。口が開いたり閉じたりしたが、言葉は何も出てこなかった。出てきたとしても、聞いている人は誰もいない。

 トリッシュは自分の寝室までよろよろと歩き、マットレスの端に倒れ込んだ。今週は毎日のようにマーニーから文句の電話がかかってきて、うちに帰った時にはさらに多くの問題があることを知り、ずっとイライラしていた。感情の高まりにエネルギーを吸い取られ、毎晩疲れ切ってベッドに倒れ込んだ。激しく怒っていない時は、心配が憂鬱に変わった。

 鼻がムズムズして、目は腫れ出した。くしゃみをした。その音のために胸の中が締め付けられ、それがひどくなるのを抑えられるかのように、拳で胸骨の上を圧迫した。

 もうこれ以上我慢することはできなかった。

「私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。」

 声をあげて泣いていた。ルール三番の忍耐を持って、神様に頼ることを忘れていた。自分の神様を忘れていた。だけど、神様はトリッシュのことを忘れていなかった。

(ああ主よ、ルール三番を全然守っていませんでした。まずあなたに知恵と導きを求めるべきでした。マーニーをルームメイトにすることに合意した時だって、その前に祈るべきでした。同居し始めた後でも、あなたの助けを最初に求めるべきでした)

 ああするべきだった。ああすればよかった。ああすることができた。トリッシュの人生はそれの繰り返しのように思えた。

(ちょっと遅すぎることは分かってます。だけど、どうすれば良いでしょう。知恵をください)

 言いたいことはきちんと伝えなくてはならない。猫のことで嘘をつくことはできない。クリスチャンとしてするべきことについてマーニーがどう考えているのかに関係なく、正しいことをしなくては。世界中の全ての猫の中で、この猫がゴジラのような猫であるという事実は全く関係なかった。

 マーニーが頭を冷やすまで待とう――明日? トリッシュは臆病ではない。本当に――だからマーニーに最後の通告をする。一週間以内に猫の引き取り先を探すか、引っ越してもらおう。そして、ここに残ると言うのなら、タバコの問題はその時に解決すればいい。

 ティッシュを引き出して鼻をかんだ。祈ったら、頭の中の蜘蛛の巣がきれいになり、胃のけいれんも治まった。心臓の上に手が置かれていて、感情が抑えられているような気持ちになった。

 全てうまくいくだろう。安堵のため息をついた。

 くしゃみが出た。

 

 翌朝、トリッシュが寝室からよろよろ台所へ向かうと、マーニーは土曜日の朝のアニメを見ていた。コーヒーメーカーにたどり着き、もうろうとしながらソファにいるマーニーをちらっと見た。

 コーヒーを淹れ始め、カウンターにもたれて目を閉じ、コポコポとコーヒーが器具から出てくる音を聞いていた。ポットに落ちてくるコーヒーのいい香りを吸い込んだ。

 今日は何をするんだっけ? 何かマーニーに関係することだったと思う。だけどマーニーはもう起きている。トリッシュはため息をついた。あと三〇秒経ったら、意味の通る人間らしい考えができるだろう。

 コーヒーをカップに注ぎ、すすった。(ほら、働きなさい、私の脳みそ)何か猫のことで……。

(あっ)トリッシュは息を吸い、精力のない男のように倒れ込む直前に、ピンと背すじを伸ばした。そうだ、マーニーと話すんだった。先送りしても無意味だ。「話があるの――」

 電話が鳴った。トリッシュは二回目の着信音が鳴る前に受話器を取った。「ハロー?」

「マーニー、(スペイン語)……」

 トリッシュはソファまで歩き、コードレス電話をマーニーに渡した。「あなたよ」

 マーニーは電話口で怒鳴った。「(スペイン語)……」

 マーニーが電話を切るまでに、トリッシュは二杯コーヒーを飲み込んだ。ああ、やっと元気が出た。「話があるの――」

 カミソリの刃のように鋭いドアベルの音が部屋を突き刺した。トリッシュは固まった。

 マーニーは一瞬トリッシュにまばたきした。それからやっと理解したように、澄んだ目を大きく開け、コーントルティーヤのように大きく口を開けた。

 マーニーは開いていた寝室のドアにダッシュし、中に入ってドアをバタンと閉めた。

 トリッシュは息をのんだ。なんて図々しい! 問題を引き起こした張本人が逃げるなんて。

 頭の中で雑音が響いた。コーヒーの湯気から頭を上げて、部屋のにおいをクンクン嗅いだ。トイレに走って消臭スプレーをつかみ、ピザの箱やお椀の上を飛び越えて部屋中に振りまいた。

「どなたですか?」居間にある大きな絵の側面に位置する小さい窓をぐいっと開けながら、自分の興奮した声の調子に内心たじろいだ。(お願い、大家さんじゃありませんように……)

「ナバールよ、トリッシュ。昨日あなたの荷物にサインしといたわ」

 トリッシュは安心して崩れ落ち、ソファの肘掛けに掴まった。「神様、ありがとうございます……」

「トリッシュ? そこにいるの?」

 マーニーの寝室のドアがカチっと開くなり、マーニーが用心しながら頭を出した。「出ないの?」

 開いた口が塞がらない。声が出ず、喉の奥から出てきたのは「アック」という音だけだった。トリッシュは信じられないという目でマーニーをにらみながらドアまでゆっくり歩き、グイッと引っ張った。

 ナバール夫人はその乱暴な動きに飛び上がったが、マーニー宛の茶色い小包を渡しながら微笑んだ。

「ありがとうございます」八〇歳のナバール夫人は嗅覚が悪くなってきているから本当に助かった。老婦人はうなずいて行ってしまった。

 トリッシュはドアを蹴って閉めた。小包をカウンターの上に投げ、ソファのそばに立っているマーニーの方へ進んだ。「ねえ、ちょっと話が――」

(ニャオオーン!)

 トリッシュはバランスをくずして床に手と膝をつき、コーヒーテーブルの角で頭を打ちそうになった。マーニーは押し殺したような叫び声をあげ、床に膝をついた。

「私の猫を殺そうとしたわね!」(このバカな人間! 復讐してやる)とでも言いたげにシューッと音を立てている雑種の猫を拾い上げた。

 トリッシュはこの負傷した動物を見て飛び上がるべきだった……しかし、そうしなかった。ゆっくり立ち上がって、ため息をついた。「ちょっと見せて」

 マーニーは猫を抱きしめて体をねじらせ、呼吸が速くなった。「この子をいじめるんでしょ」

「つまずいたのよ。あなたの寝室にいるはずの猫にね。早く、見せなさいよ」

 その辛辣な口調でマーニーのヒステリーは収まった。猫を差し出した。トリッシュは猫の毛皮を触り、体を調べた。「何も折れてない。大丈夫だと思うわ」

「しっぽを踏んだでしょ。包帯で巻くべきなんじゃない?」

「あなたの猫よ――」

「あなたが怪我をさせたのよ」

 バトルを再開したいようだ。いずれにしろマーニーと話さなきゃならないということか。

 呆れた顔をマーニーに見られないよう背を向けた。クローゼットの中から古いTシャツを取り出し、もがく猫の手足を巻こうと戻ってきた。猫は大きく白い帯のようなものを見て後ずさり、逃げようとした。

 はあ? 大した怪我じゃなかったのか。

 トリッシュは猫をつかみ、なんとか服従させて前足に包帯を巻こうと格闘した。マーニーは砂糖のように甘い――スペイン語? メキシコ語ってのはあったっけ?――歌を口ずさみ、しっぽをなでて余計に猫をイラつかせた。

 チャンスだ。「マーニー――」

「ああ、そう言えば私、引っ越すことにした。二週間後には出て行く」そしてマーニーは、猫をなだめようとさらにスペイン語を浴びせた。

 トリッシュは顎が猫の頭の上に落ちるかと思うほど口をポカンと開けた。そしてすぐ、大きなTシャツを揺れる前足に巻かれて身もだえする猫を腕に抱え、口を大きく開けた自分の馬鹿さ加減に気づいた。「ああ……分かった」

 マーニーは猫をつかまえ、寝室のドアをバタンと閉めて、その中に消えた。

 トリッシュはソファに倒れ込んだ。マーニーの発表には驚いたが、硬いヘチマのスポンジを水で柔らかくするように、安堵が溢れ出した。手をソファの肘かけからだらりと垂らし、足を伸ばして、一塊になった筋肉がほどかれていくのを感じた。(神様、ありがとうございます。全てうまく行きました)だけど……コーヒーテーブルの下にある茶色いねばねばした毛で覆われたシミは何だろう?

 ああ、最高。

 猫が毛玉を吐いたのだった。



* アメリカのテレビドラマで、古代ギリシャを舞台とした歴史ファンタジー

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