【オンリー・ウニ】第7章

『オンリー・ウニ』

寿司シリーズの第二作
著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
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第7章

(そんなこと、あり得ない)

 一八二センチのゴージャスな男に誘われてる? トリッシュの耳はちゃんと聞こえているのか? 誰か他の人を誘っているのでは?

 違う、スペンサーは目の前にいた。このオフィスにいるのは二人だけだという事実はさておき、男性は普通、他の女の子の目を見ながら誰かを誘うことはしない。

 ショックの波がひいたとき、トリッシュは心臓がドキドキしてきた。一八二センチのゴージャスな男に誘われたんだ! あの香港人のインターンは食事に誘いもしなかった!(ちょっと陰険だが、本人に聞いたから知っていた)

 ちょっと待って。何故誘われたのだろう? ミス香港は彼女より十三キロ以上痩せていて、年も五歳以上若い。それにスペンサーは廊下でいつも女性と話し込むタイプの人だった。

「あの……デートってこと?」

 スペンサーの笑顔が少しギクシャクした。「もちろん、どう?」

 トリッシュは彼といちゃついていたのだろうか? ここ数日、見ないように頑張ってきた。新しいトリッシュ――生気がなく、礼儀正しく、ちょっと退屈ないい娘バージョンの自分に慣れるまでに、時間がかかった。多分、無意識のうちにフェロモンを撒き散らしていたから、こんなに理解しがたい瞬間が訪れたのだろう。

 どうしよう、一八二センチのゴージャスな男に誘われた! ルール一番を守るために頑張ってきたが、彼は先回りして、この爆弾を彼女の膝に落とした。女の子にとって、これは耐えがたい誘惑だった。

 だって、ノーと答えなくてはならない。

「マジなの?」トリッシュは唇の内側を噛んだ。自分はクレイジーに見えたのだろうか? 何をしてしまったのか? この二週間夢中になっていたまさにその男性を拒絶するなんて、無理だ。

「うん、マジだよ」彼の眉間にシワがより、イライラしているような声の調子だった。「何で? 何か問題でもある?」

「光栄だとは思うんだけど……」

「だけど……何?」スペンサーの口が引き締まった。

 トリッシュは立ち上がった。彼をあまり見上げたくなかったから。「ごめんね、悪気はないんだけど……あなた、クリスチャンじゃないから」

 何だか、ちょっと変な言い方だったかもしれない。これは本当に彼女の口から出た言葉だろうか?

 スペンサーはとても静かになった。とても、とても静かに。まばたきすらしなかった。トリッシュは彼の表情が読めず、少し怖くなった。

「あの……私ね、クリスチャンの男性としかデートしたくないの。一番優先順位が高いのは神様だから、同じ優先順位を持ってる人じゃないとダメなのよ」トリッシュは頬の内側を噛み、スペンサー以外のものに目を走らせながら、右耳についている三つのイヤリング全部をいじった。「サンフランシスコ・フォーティーナイナーズのファンと、オークランド・レイダーズのファンがデートするようなものよ。または、ジャイアンツのファンとアスレチックスのファン。要するに、私にとって神様はフットボールや野球のチームより優先順位が高いってことなんだけど、分かってもらえるでしょ?」懇願するような目をスペンサーに向けた。

 トリッシュは正気なのだろうか? この二週間、本当に最悪だった。エクボが出るスペンサーの笑顔と、髪の毛を額に下ろす時の可愛いしぐさから何百回目をそらせただろう。何か話をするために、彼女のデスクの端にちょこんと座るとき、その筋肉美を無視することがどれほど難しいことか。

「ああ、なるほどね」スペンサーは、どちらかというと、はっきりしない顔をしていた。それはいいこと? 悪いこと?「じゃあ、クリスチャンの男に誘われたらどうする?」

「ええとね……私、心の底から神様に捧げようとしてるの」

「つまり?」

「自分自身がもっといい人になって、正しい男性が与えられることを神様に委ねたいの。だって、自分で何かしようとするとね、男の子はいろんなクレイジーなことを私にさせようとする――あの、とにかく、三つのルールにたどり着いたの」

「三つのルール?」スペンサーの眉がウェイビーな髪の毛に当たった。

「それに従えば、神様は最後に私の心を変えてくれて、私は完全に神様に委ねることができるようになると思うの」

「その三つのルールって?」彼の口は、まるで笑いを抑えているようにモゴモゴしていた。

 トリッシュは腕を組み、スペンサーをにらんだ。「私のこと、馬鹿にしてるわね」

 スペンサーは目を大きく開けて、腕を広げた。「違う、馬鹿にしてないって約束する」

 トリッシュは、彼の目の輝きを信用しなかった。「じゃあ、ルール一番――男性をけしかけるような目で見ないこと。物欲しそうにしたり、チラチラ見ない、ボーイフレンドとしての資質を探らない」

「ふーん」スペンサーは臨床心理学者のように見えた。というか、例えば異星人に頭脳を奪われたと主張する患者と対面している臨床心理学者はこんな顔をするのだろうか。

「『ふーん』って、何?」

 肩をすくめた。「なんでもない。じゃあ、ルール二番は?」

「キリストのあかし人として熱心に御言葉を広めること」おっと、未信者の前でそんなに嬉しそうに言うべきではなかったか。いつかは自分がその人に対してキリストのあかし人になるのだから。

「じゃあ」頭を縦に振っている。「三つ目は?」

「困難なときは耐え忍んで、神様に頼ること。神様は試練を通して私に力をくれるから、何が起こってもあきらめないで神様を信じなきゃいけない」

「ああ」

 この三つのルールを彼に告げながら、自分はキリストのよいあかし人だっただろうか、それとも、ただの間抜けに見えただろうか、と考えていた。「口だけだと思ってるかもしれないけど、私は真剣なの」

「信じるよ」

 トリッシュは、車のタイヤの下でぐしゃっと潰されたぶどうのような目を彼に投げた。「信じてない。バカにしてるわ」

「バカにしてない」

「笑いたいのを堪えてるじゃない」

「笑いを堪えるだって?」そう言いながら、スペンサーは眉を動かした。「ロマンス小説の読みすぎじゃないのか」

「あら、そうかしら? あなた、自分も読んでるから分かるんじゃないの?」

「僕が読むのは真面目な本だよ。『スター』マガジンとか」少年のようにニヤリとした。

 トリッシュの呼吸が途中で止まった。コホッと咳をした。「『スター』なんて読むの?」

「購読無料だから」

「へえっ、終わったら貸してくれる?」それはいい。お金を払って購読することはできないが、読みたくて仕方がなかった。リアリティテレビ番組より面白い。

「それも君のルールにあるの?」

 皮肉がこもった、きざな笑いを浮かべた顔をぶん殴りたかった。「私のルールは上手くいくの」

 スペンサーは鼻先で笑った。「一週間ももたないだろうね」

「何言ってるのよ。聖書に基づいた、いいルールなんだから」

「律法主義的だ。ルールで人は変わらないよ」

「言ったでしょ、神様が私の心を変えてくださるって」

「君、楽観主義かつ理想主義者だね。考えてみろよ。『見ない』って? 動物は基本的に惹かれるものなんだ。それを否定するのか? 誰でも体の中にプログラミングされてることなんだよ」

 トリッシュは、はっきり、ゆっくりと言った。「下半身で物事を考える人はいるかもしれない。だけど、誰もが自分の欲求に基づいて行動するとは限らないわ」(あなたみたいにね)トリッシュはその陰湿な声にぴっしり蓋をしようとしたが、それは彼女の空虚な体内でこだました。

 スペンサーは鼻先で笑った。「見ないってことは、読まないよう努力するのと同じことだ。それに、キリストのあかし人? 大抵の人は、神様の話が出るだけで一歩引くんだぞ」

「私はそうじゃないけど」確かにそうだった。

 彼は優越感を漂わせた笑いを見せた。「嘘だね」

「嘘じゃない――」

「それから、耐え忍ぶ? 誰でも本心は怠け者だ」

「言ったじゃない、神様が助けてくれるって――」

「ルールによってイスラエルの民が忠実になれたとしたら、約束の地に入る代わりに、砂漠を四〇年間さまようなんてことはなかっただろうね」

「だけど、私のルールはいいのよ」自分に言い聞かせるために、そんなルールが必要だった。だって、それがなければ彼女は一日中神様のことを全く考えないだろう。「待って。どうしてイスラエル人のことを知ってるの?」

 一瞬スペンサーは固まった。答えを考えているように。「君、僕のことをよく知らないから、思い込みが多いんだよ」

「何て思い込んだ? 私」

「僕がクリスチャンじゃないって」

「何であなたが――」あの新しい吸血鬼の映画で朝日にやっつけられるゾンビのように、気が付き始めた。「クリスチャンなの?」

 スペンサーは、またはっきりしない顔になった。トリッシュが最初にデートを断ったときのように。それがどうしてなのか、やっと分かった。トリッシュは、完全に失敗したのだった。頭の中で吟味する機会を持つ前に、「何であなたがクリスチャンなの?」という言葉が口から飛び出してしまった。

 スペンサーはカエルをのみ込んだような顔をしている。「どういう意味だよ」

 否定しようとしたのだろうか?「いつも女の子とチャラチャラしてるじゃない。どこにいても。廊下、駐車場、電話。もちろんメールでもそうでしょうけど」

 新年の花火のように赤い色が、彼の首から上に這い上がってきた。「チャラチャラしてないけど」

「あ、ごめんなさい。チャラチャラしなくても――話すとき、やたらニコニコしてるじゃない」

「フレンドリーなのがそんなに悪いか?」

「冗談抜きで、あなた、女好きでしょ」誰とでもいつも仲良くできるトリッシュの父のように――特に祖母の銀行に来る女性たちと――。父は新しい人と仕事をするのが好きなだけだと、トリッシュはいつも思っていたが、その貞操のなさといったら。「あなたって、誰とでもデートするか、思わせぶりな態度を取るかのどっちかよね」

 いくら頭が熱くなっているとしても、トリッシュが言ったことは完全に意味が通っていなかったが、もうどうでもよかった。父やスペンサーのように、多くの女性とうまくやっていける男性はこりごりだった。女性の前でまともに喋れないほどシャイな、ちょっと社会的適合性に欠ける変人と付き合いたかった。一〇〇パーセント信頼できない人とは、かかわりたくなかった。

 スペンサーの顔は、叔母が作ってくれる赤っぽいネオン色のチャーシューよりピンク色になった。「僕は、女性に思わせぶりな態度は取らない」

「誠実な男性は、誰彼なしにチャラチャラしない。生涯一人の妻と一緒にいて、妻の大学時代のルームメイトと不倫して、何もなかったようなフリをして、子供にストレスと頭痛の種を与えるようなことをしないの」ああっ、明らかに金切り声になってしまった。

 スペンサーは、精神障害者を見るようにトリッシュを見た。「何だ、それ?」

「あなたのような男性は絶対に信用できない。『今週のおすすめ』みたいに扱われるのはごめんだわ」

 スペンサーは固まった。ただ、地震の始まりのように、微かに震えている。そして青ざめ、顎の筋肉がカチカチ音を出し始めた。

 トリッシュが言ったことは、あまり賢明ではなかったようだ。

 スペンサーはゆっくりと背を向けた。一センチ動くのに、極度の労力を要するかのように。(どうしよう)トリッシュは凍りついて彼を見た。噛んだ唇の内側は血の味がした。何か言わなくては。しかし、変なことを言えば、彼は身構えるだろう。何を言えばいいのか? 何かあるはずだ。

 自分の男性遍歴を思うと、スペンサーを責める権利はなかった(だけど、彼女の場合は過去のことだが、彼の場合は現在のこと、少なくとも先週のことだ)。何か言うべきなのだが、偽善者ぶったことを言ってしまうか、間違ったことを言うのが落ちだろう。だけど、何と言えば? トリッシュの頭脳は動いていなかった。

 ドアに向かう途中で、スペンサーは肩越しに振り返った。「まあ、君が僕を信頼するようになることを願うよ。これから数か月は一緒に働くんだから」

 スペンサーがオフィスのドアを開けたとき、「終わるのが待ち遠しいよ」と言うようなことを囁いた気がした。彼はドアを強く引っ張って、出て行った。

 膝がガクッとしたが、椅子は遠すぎて、結局デスクの端にぶつかった。鋭いドタンという音を立てて、薄いカーペットの床に尻もちをついた。

 何が起こったのだろうか? トリッシュは本当にスペンサーを拒絶したのか? 何をまくしたてたのか、思い出すことすらできなかった。スポーツのチームに関するくだらないことだっただろうか。ぶつぶつ言いながら、後ろにあるデスクの引き出しに頭をぶつけた。

 なぜスペンサーはトリッシュを誘ったのだろう? 彼女は仕事に専念していたのだから、彼のことで楽しい空想にふけるのは止めていたのに。もっとも、自分のデスクのすぐ隣にいる彼のことで空想にふける必要はなかった。

 もう一度、頭をぶつけた。もっといい言い方はなかったのだろうか?「悪気はないんだけど、あなた、クリスチャンじゃないから」そして、結局スペンサーはクリスチャンだった。それなのに、スカートを履いている人なら誰とでもチャラチャラする――彼のことは決して信頼することができないだろう。彼が何と言ったとしても。どっちにしても、彼とデートをしたいとは思わなかった。絶対に。デスクの引き出しに、また何度も頭をぶつけた。

 幸いなことに、今は金曜日の午後遅い時間だった。古いカーペットの嫌なカビ臭を吸い込んで、ため息をついた。

 まあ、困った問題をさっさと解決できたのは、いいことだったのかもしれない。万が一デートすることになって、結局うまく行かなかったら、それでも一緒に仕事をしないといけないのだから、究極的に居心地が悪いだろう。

 トリッシュの問題解決方法は、あまりいいやり方ではなかったかもしれない。だけど、やるべきことはやった。スペンサーはクリスチャンではないと思ったとき、クリスチャンではない男の子とはデートするべきではないという確信をしっかりと持ち続けることができた。それに、悪い交際は良い習慣を損なう。トリッシュは誘惑に耐えた――スペンサーは誘惑そのものだった。和夫のことを忘れさせるほど。

 一八二センチのゴージャスな男がトリッシュを誘った。そして彼女はクンクンにおいを嗅いで、喉の奥で低いうめき声をあげた。

 ここ数週間、トリッシュはルール一番についてあまり熱心ではなかった――しっかり自分自身に目を向けていたとは言えない――だけど、だんだん容易になるだろうか。初めての真のテストに合格した自分を、誇らしく思った。

 本当にそうだろうか?

 

 トリッシュは遅れていた――いつものことだ――しかし、迎えに来るのはレックスだから、最低でも十分ぐらいは時間に余裕があると思っていた。

 七センチより低いサンダルを探してベッドの下にすべり込みながら、頭の中で、(歯ブラシを口に入れたまま走っちゃダメ)と叫んでいた。もっと控えめなサンダルをどこかにしまってあったはず。そう、前回――三週間前だっただろうか? いや、三か月前? に教会へ行ったときに、そのサンダルを履いたんだった。

 二日前、トリッシュはスペンサーのことを、クリスチャンではないと言って侮辱した。本当は彼がクリスチャンだったと言う事実をその時は知らなかったのだから、仕方がないとも言える――とにかく自分の行動と、日曜日に教会に行っていないという事実の中にある偽善を見過ごすことができなかった。それにしても、彼に恐ろしく非難めいたことを言ってしまったのが信じられなかった。人生がティーボ(家庭用デジタルビデオレコーダ)のように巻き戻し可能だったらよかったのに。

 まあ今日は教会へ行くんだから、大事なのはそっちだ。キラキラ光っていなくてヒールが細すぎない靴を見つけることができれば。

 あった、ベッドの下に。黒くてダサい、三年前に買った靴。ほこりを払い、歯磨き粉をそこら中に飛ばしたくなかったので、ちょっと苦しいが鼻からくしゃみをした。

 寝室で支度を終え、クローゼットのアコーディオンドアをサッと開けた。おっと、ちょっとうるさすぎた。昨夜、マーニーは遅くまで帰ってこなかったから、多分まだ寝ているだろう。

 いい娘用の洋服はないかと、クローゼットの中を探した。持っている服が全てふしだらなわけではない――スレスレの服もいくつか持っていた――が、バリーフェア・モールだったら完全に普通でも、保守的な教会員は、礼拝堂で彼女を横目で見るだろう。どうしてなのかは理解できないが、とにかくそういうものだった。

 短すぎる。低すぎる。ピンク色すぎる。ぴったりしすぎる。背中が開きすぎている。足が出すぎている。肩が出すぎている。

 教会に着ていける洋服を持っていただろうか?

 もしかしたら、クローゼットの後ろかもしれない。しゃがみ込んだ。洗濯物用のバスケットの後ろに落ちていた、洗濯前の汚れた服を拾った。これは一体いつから――。

 マーニーの寝室から、甲高い叫び声が伝わってきた。

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