【ひとり寿司】第28章

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第28章


「ねえビーナス、お願い」装具をもっとしっかり脚に巻きつけようともがきながら、レックスは肩で携帯を持とうとした。

「ごめん、すごく仕事が忙しいの。トリッシュに行ってもらうように電話したから」

「トリッシュ? いつから彼女が私のお気に入りになったの?」立ち上がり、段ボール箱の間を通って、トイレにたどり着いた。

「ジェン、今週末は出かけてるの——ほんと、都合がいいわよね。だから、トリッシュかマリコのどっちかなのよ」

(うわっ)「分かった。何時に来てくれるの?」

「あの子が家を出るときにつかまえたから、もうすぐ来るはずよ」背景でボソボソ言う声が聞こえ、ビーナスの注意がそれた。

「……違うわ、アクション・アイテムを書くの……だから違う——」レックス、行かなきゃ、じゃあね。(カチャッ)

ドアベルが鳴った。

トリッシュは痩せたようだ。ぼんやりした目の下には黒いくまができ、口の周りには、苛立っているようにシワが寄っている。「行きましょ」

車に乗るとすぐ、トリッシュは沈黙を破った。「話したくないのよ、分かる? 私たちさ、叔父さんのバースデーパーティに着くまで一緒にいなきゃならないの。だから、今は考えないようにしましょ」

「いいわよ」レックスの歯はかたく食いしばっていたが、腕を組むのはやめた。

「それで……さあ……PTはうまく行ってる?」

(誘導尋問か)マッサージをしてもらっていること、恐怖を克服したこと、その後の勝ち誇ったような気持ちを……アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップの王者のように……数週間前にはトリッシュに話していたことだろう。「うまく行ってるわ」我慢しきれなくて、もう少し掘り下げた。「エイデンが私のセラピストだって知ってた?」

トリッシュの目は風船のように膨らんだ。「エイデンがあなたのPTなの? 彼、元気にしてる?」

「元気よ。バレーボール友達が、みんな、彼を勧めたもんだから」

トリッシュは鼻をすすった。「あなたがクリスチャンだってことで、噛みつかれてない?」

「あなたは噛みつかれたの?」

「ずっとそうだったわ。だから、とうとう言っちゃったの。クリスチャンじゃないからもう付き合えないって。くどくど言われたくなかったし」

くどくど言うのはエイデンらしくない。それに、最近のトリッシュを見ていると、彼女のエイデンに対する見解を信じるムードではなかった。

好きといえば、レックスは彼が好きだった。リストに合う人ではなかったのだが、そのリストに付け加えることを考えてもいなかった一つの条件:(触られたときに、怖いと思わない人)を、彼は満たしていた。

彼と、どうにかなる可能性はあるのだろうか。どうにかならないのであれば、少なくとも祖母の前でボーイフレンドのふりをしてくれる気はあるだろうか? だけど、それだとやっぱりウソをつくことになる。

叔父の家に着くと、すでに子供の金切り声が響き渡り、男性がそろってうめき声を上げている——ジャイアンツの試合かな? 多分。

(食べて帰る。またこれか)

早く着いた人たちの車が既に家の前のスペースを占領していたので、トリッシュは、数ブロック離れたところに停めなくてはならず、不平を漏らした。「歩きたくないわ。こんな靴だし」

彼女はものすごい速さで歩き出し、じれったそうにレックスの方を振り向いた。「今年中には着く?」

レックスは彼女の後ろでグラついた。医者は松葉杖を使わなくてもよいと言ってくれたが、持ってくればよかった。トリッシュの頭をバシッと叩けるように。

ドアに入るなり、ビールくさい叔父が彼女に手を伸ばした。「ヘーイ、レクシー、トリッシュ」

レックスはアイロン台より硬くなり、彼を押し返した。この無邪気な叔父は、ミラー・ジェニュイン・ドラフトを飲むと、過度に愛情深くなる。

「食べ物は?」トリッシュは狭い通路を通ってキッチンに向かった。居間からまた歓声が聞こえた——もしかしたらA’sの試合をみているのかな。

「捕まえた! 捕まえた!」

いとこの子供二人が廊下の角に突進してきたのに気がついたのは、二分の一秒前。トリッシュのスカートの周りをシュッと過ぎ、レックスの装具に真っ直ぐ激突してきた。

(ボン!)少女がメタルの枠に跳ね飛ばされ、木の床に跳ね返った。その衝撃が、レックスの膝関節に鋭く振動した。

「ああっ!」

「わああっ!」

子供の声の方が大きかった

このガキ——いや、子供の母親が廊下を走ってきた。「レックス、何したの?」

「私が何かしたって?」

「防弾服を着てるのは、あなたの方でしょ」いとこは、攻城兵器のような娘を抱き上げた。「かわいそうに、ロボ・レックスにいじめられたの?」

「わああっ!」

その少女を追いかけていた少年は、スチールで覆われたレックスの脚を不思議そうに見ていた。

レックスはその少年を驚かせるような動きをした。

彼は後ろに下がった。

いとこは息を呑んだ。「何て大きいいじめっ子なの」

レックスは目をぐるっと回し、見えなくなっていくトリッシュのスカートを、びっこをひきながら追いかけた。

キッチンテーブルの上にごちゃごちゃと置かれている食べ物を見つけた。フルーツが入ったお皿は、すでに子供たちがめちゃくちゃにしていたが、新鮮なマグロの刺身は、巻き寿司の隣にきれいに並んでいた。天ぷら鍋から取り出したばかりのもち粉チキンは、まだ湯気が立っていて、祖母の自家製たくあんが、その隣の小皿に置かれている。

「わあ、叔母さんか誰かが、エビの天ぷら作ったんだわ」トリッシュはエビの天ぷらを紙皿に取った。

レックスはお皿をつかんだ。ここに来た唯一の理由。祖母ですら、美味しい日本食を食べているときは文句を言わない。

「ヘーイ、レックス」リチャードの陽気な声が聞こえると、レックスの肩は硬くなり、あごはこわばった。

そうだ、用心深くなって正解——後ろにいる痩せた背の低いアジア系の男は、食べ物をじろじろ見ていた。

「レックス、紹介するよ。僕の友達の……」

食いしん坊は返事をしなかった。リチャードは肘で彼をつついた。

「はいはい」食いしん坊は、目を上げて彼女を見ようともしない。「食べてもいい?」

「エペソ」のリストに加えること:(礼儀正しいこと)

食いしん坊は、ブルドーザーで進んでいくように、白いご飯で作ったおにぎりとスパム入りのおにぎり、いなり寿司を片付けていく。邪魔をしないよう、レックスは横にどいた。もちろん、将来のボーイフレンドには食事を楽しんで欲しいが、適切なマナーがないのは問題外だ。

「リチャード、どこでこんな人たちと知り合いになるの?」レックスはわざと大きい声で言った。あの食いしん坊は気づきもしない。

リチャードは早口で言った。「そいつらは僕の友達——」

「ヘーえ、友達って、何回会えば友達になるの? アパートの中で一番よく使う場所はキッチンだ、って言うのと同じね」

「おい、僕だって時々は料理するぞ」

「三回のうるう年に一回だけでしょ。何? このデートゲームで拒否された人たちのパレードは」

リチャードの「無邪気な」顔を見ると、いつも疑いがあおりたてられる。彼は肩をすくめた。「言ってる意味が分からないな」

「もうやめて。一体おばあちゃんに何て言われたのよ」

リチャードは偉そうに、ムースで固めた髪の毛をなでた。「お前と違って、僕は祖父母といい関係を保ってるからね」

レックスは鼻先で笑った。

「おしとやかね」

「レックス、イナワラさんの甥っ子さんに会いにいらっしゃい」背が高く青白い日本人の男の子を後ろに従えて、祖母がキッチンに入ってきた。

トリッシュは、ステーキを口にくわえた犬より早く、キッチンから出て行った。食いしん坊も、差し迫った紛争を察知したのか、彼女についてその危険区域から出て行った。

「レックス、こちらはデレック」祖母は、感じが良く、虫も殺さぬ顔つきで、彼の腕を引っ張り、前に突き出した。

レックスは歯ぎしりした。彼の叔母さんがちょっと気に入らないのだが、会うだけだったら害はない。もしかしたらいい人かも——

彼が近づいて来ると、その臭いに襲われ、吐きそうになった。リチャードですら、咳払いをして一歩下がった。祖母は嗅覚をなくしてしまったに違いない。この男はすごく臭い。

「くっさー! あなた、最後にシャワーに入ったのはいつなの?」レックスは、ミスター悪臭をさえぎろうと腕を伸ばした。

「何のこと?」脇の下の臭いをそっと嗅いだ。

彼が突然動いたので、また臭気の波に押しつぶされた。「ウガッ、朝ごはんが食べられなくなっちゃう。おばあちゃん、今度は最低でも、清潔な人にしてくれる?」

怒りに満ちたうなり声が、戸口からキッチンの方へ響いている。祖母の友人で、ミスター悪臭の叔母が——そこに立っていた。青くなり、震えている。ミスター悪臭の叔母は、レックスのスポーツに対する興味は女性らしくないとか、いつも意地の悪いことを言うので、レックスは別に動揺もしなかった。

「いらっしゃい、デレック。帰るわよ」ミスター悪臭の叔母は、方向転換して出ていった。

ミスター悪臭は、くるりと回ってついていったが、その動きのために、体臭が染み込んだ微風がレックスの方に流れてきた。彼女はお腹を押さえ、リチャードは咳き込んだ。

「どこが悪いって言うのかしら?」祖母のうめき声は、怒鳴るより大きく響き渡った。

「あの……」リチャードの目は、火花が散りそうににらむ祖母から、犠牲者のレックスへとそれていった。大股で一歩後退し、部屋から逃げた。臆病者。

「おばあちゃん、お友達の息子をけしかけないでくれる? 一体何人いるの?」

「あの子たちのどこが悪いの? あなたは先のことを考えていない。それが問題なのよ」

「あの子たちは、大学の試合のチケットが欲しいから、私を追いかけてるだけなのよ。それって、先を考えてることになる?」

「それはね、彼らがあなたと同じぐらいスポーツが好きだって意味なの。付き合ってみれば、もっとよく分かるわ」

「私のダサ男メーターにひっかからない人には、まだ会ってないわ」

「その偏見をなくさなきゃ」祖母の頬は、化粧の下で赤くなってきた。

「どんだけ偏見をなくせばいいの?」レックスは誰もいない戸口と、出て行ったばかりのミスター悪臭を指で差した。

「何でそこまで選り好みをするのか」祖母はレックスの胸に指を突き出した。

「アメリカ人じゃなきゃいけない、クリスチャンじゃなきゃいけない——」

「やめて、また同じことを言わせないで。信仰は私にとって大事なの」

「どうしてクリスチャンじゃないといけないのかしら? あなたと子供を養っていけるなら、問題ないんじゃないの?」

祖母の話は後継ぎにまで飛んでしまった。「そうよ、それが問題なの。これはね、完全に個人的な問題よ」

祖母は手ぶりを添えて話し始めた。「私が知ってるクリスチャンの男の子は、つまらない子ばかりよ。あなたは絶対そういう子たちと付き合いたいと思わないわ」

レックスは、これに対して何と言えばいいのだろうか? 確かに、脈が腕からロケットのように急上昇するようなクリスチャンの男の子に会ったことはない。しかし、それを祖母に知らせるつもりはない。「このことについては意見を変えないわ。クリスチャンじゃなきゃダメなの」

「理不尽ね」パーマをかけ、染めた祖母の髪の毛から湯気が上がってくるのが見えそうだった。

「私が理不尽?」レックスは両手を放り出した。

祖母は唇を閉じ、目は黒い炎で光っていた。「私はね、あなたの助けになりたいの」

「おばあちゃん、私の恋愛生活は、私の問題よ」

「いいわ」祖母は上品に曲がり、戸口へ歩いていった。「素晴らしいクリスチャンの男の子が見つかるといいわね」ドラキュラのような暗い表情をレックスに向けて、敷居に立った。「私が言ったことは変わりません。マリコの結婚式までにクリスチャンのボーイフレンドがいなかったら、翌日からあなたの女子チームへの資金は切ります」

「あの子たちは、ただの女の子——」

「それから、私を騙そうとしないでね。ボーイフレンドかどうかは、見たら分かります」祖母は出ていった。なかったものと言えば、黒いマントのようなものがドラマチックにヒラヒラしなかったことだ。

レックスは、キッチンのカウンターにもたれかかった。腕を固く組み、手の震えをしずめた。何故、祖母にやり込められなくてはならないのだろう? 今となっては、ボーイフレンドのふりをして欲しい、とエイデンに頼むこともできない——クリスチャンではないことを公言しているから。

いずれにしても、彼のことを考えるべきではない。彼を好きになれば、状況はもっと複雑になるだろう。宗教の違いは——彼女の信仰と、彼の無信仰——親密な関係を揺るがすのがおちだ。彼の石けん、モミ、ジャコウのにおいと魔法の手が、彼女の判断力を曇らせていた。

また振り出しに戻ってしまった。


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