【ひとり寿司】第26章
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いや、彼のことは、少しも怖いと思わなかった。だって、あと数分後に、彼女は彼を殺すつもりだから。
「エイデン! 今の、本当に痛い!」レックスは、上半身を起こしてPT治療台を押し、エイデンの指によるマッサージ——いや、太腿の外側の拷問から逃げようとした。
エイデンの穏やかな声は、レックスを叫びたい気持ちにさせた。「腸脛靱帯はヒップから太腿、そして膝関節まで走ってる。これが硬くなると、怪我が起こるんだ」彼はもみ続けたが、戦闘靴で足をゆっくりと蹴られているように感じる。
レックスは治療台の端をつかんだ。「痛いのはもう十分じゃない? 手術して、水膨れもできた。鎮痛剤も使えなかった。覚えてる? ねえ!」
隣の治療台で別の患者を診ているもう一人のセラピストは、同情しながらも面白そうに見ていた。そっちの患者は、レックスの叫び声に反応して、青くなっていた。
レックスは気にしなかった。(罵声を浴びせてやろうか)
やっとエイデンは手を止めた。「今日はこれぐらいでいいと思う」
「思う?」
「家でもやってみて。楽になってくるから」
「信じられないわ」患部をさすると、熱く敏感になっている気がした。それに、エイデンにさわられるのに慣れることが、理学療法の最も難しい部分だろうと思っていた。
「じゃあ、ジムでちょっとエクササイズしようか」
レックスは治療台から降りた。「エクササイズだったら、できるわ」
エイデンは患者エリアから公共のジムエリアに案内してくれた。「ちょっと筋萎縮があると思ってて」
「切ってから四週間なのに? 冗談じゃないわ。最高の体調だったのよ」
五分後、マラソンを走ったように息切れした。足は鉛のように重い。
「頑張れ」エイデンはレックスの前に立った。「足をもっと高く上げて」助手に頼む代わりに、彼は自分で彼女のエクササイズを指導することに決めた。レックスは、助手の方がよかったなと思った。そっちの方が親切そうに見えたから。
一方を足首に取り付け、他方に滑車がついたコードを引っ張ると、真っ直ぐ伸ばした足への抵抗が上がる。大腿四頭筋が燃えている。お尻の外側も。いい方の足も燃えている。
「もう一回」エイデンはレックスを見ていた。「もっと高く。いいよ」
足を下ろすのが少し早すぎた。コードがビュッと元に戻った
「じゃあ今度は横だ」
「横?」
他のエクササイズは終わった。心臓は胸にたたきつけられ、肺が痛い。最後のエクササイズだと思っていたアブダクター(筋トレマシーン)にもたれかかった。
(ようよう)大柄な男がジムエリアに入ってきた——実物のマイケル・ヴァルタンのようだ。ジムの会員らしい。
エイデンは膝をもっと近くで見ようとひざまずいた。楽しんでいるように見える。「じゃあ、冷やそうか」
「待って、ちょっとストレッチさせて」もうちょっと、目の保養をさせてもらいたかった。そのイケメンは、フリーウエイトの近くで止まった。
足を少し開いて、爪先に手を伸ばした。
(ビリッ)
びっくりし過ぎてバランスを崩し、前のめりになった。倒れないように、エイデンが、ウエストの辺りを押さえた。さわられていることに対しては何の反応もしなかったが——恥ずかしすぎて、お腹に穴があくほど蹴りを入れられた気がした。
ウォームアップパンツが、お尻の真ん中で裂けたのだった。
真っ直ぐに立った——エイデンの助けを借りて——裂けた部分に手を伸ばし、さわってみた。レックスの顔は、一八〇℃のオーブンで一時間焼かれたように熱かった。
エイデンは笑わなかった——落ち着いた顔は、一ミリも楽しそうには見えない。「ウォームアップパンツだけだよ。下に履いてるショートパンツは破れてない」
「そんなことじゃないの」また、かすれた声になってきた。「太ったんだわ!」
エイデンは、体型のことを話している女性に対し、男性が用いる非常に注意深い表情になってきた。「そんな風には見えないよ」
「軽く言わないで。運動不足なのよ。運動不足になったことなんて、今まで一度もなかったのに。生まれた時から」
「なんで知ってるの?」
「私が太った赤ちゃんだった、って言うの?」
エイデンの目が大きくなった。「違う、全然違うよ。それで?」
「まず、ACLを切ったとき、自分の体に裏切られたの。今は新陳代謝。こうやって新陳代謝に失望させられるのは初めてよ」目の中に溢れてきた涙を拭いた。「それに、最近泣いてばかりいる。泣いたことなんてなかったのに。私、どうしちゃったの?」
「手術すると、そういうこともあるんだよ」
「私にはない。そんなことは、私には起こらないの」鼻をすすった。
「ほら。そのウォームアップパンツ、脱げば」
レックスはショーツの上に履いていたウォームアップパンツをおろし、エイデンが靴を脱がせてくれている間、レッグ・プレスマシーンにつかまっていた。
「じゃあ、冷やそうか」
レックスは松葉杖をつかみ、患者のセラピーエリアまで足を引きずった。あのキュートな人をチラッと見ることもしなかった。彼女のことなど、気づいてもいなかっただろう。よかった。
水曜日にはセラピーがある。食事も改善し始める。エイデンは、家ですることができるエクササイズを教えてくれた。一日に五回はやる。
そして何より、このおバカな腸脛靱帯が、おばあちゃんのガードルより緩くなるまでマッサージをするんだ。
**********
レックスは水曜日のPTに行った。エイデンと腸脛靱帯の拷問に耐える心構えをして。脚のマッサージもきちんとした。
しかし、エイデンはチェンジアップを投げてきた。
仰向けに横になっている間、彼は自分の肩の上まで彼女の足首を持ち上げ、膝を押して一八〇度真っ直ぐにした。
「イタ、タ、タ、タッ」
膝頭が裂けるような痛みのために、レックスの上半身は治療台から離れた。
「また他の患者を怖がらせてるよ」エイデンは一瞬、圧迫を緩め、また押した。
「うるさーい!」レックスは楽しいことに集中しようとした。エイデンのお腹に、侍の刀を突き刺すこととか。
彼はやっと彼女の脚を下ろした。レックスは治療台の上から床にだらりと降りた。
エイデンが上から彼女を見ている。「ほら、立って。まだジムでのエクササイズが残ってるよ」
起き上がって、松葉杖をつかんだが、それをエイデンの素足の膝頭に向けて振り回す前に、別のセラピストが彼女の前を歩いた。
助かったわね、運のいい奴。
レックスは体を持ち上げた。エイデンが松葉杖を指さした。「それなしで歩いてごらん」
「え?」
「ジムエリアまでたった数メートルだよ。転びそうになったら僕が捕まえるから。大丈夫だと思うけどね」
「あなたは私のドクターじゃないわよ」
「違う」腰に拳を置き、スーパーマンのポーズを取った。「僕は君のセラピスト」
やれやれ。松葉杖を手放し、試しに一歩、歩いてみた。
わあっ、できたじゃない。思っていたほど不安定だと思わなかった。エイデンが待っている、開いた戸口の方へ向かった。
彼は彼女の足を調べた。「かかとから先に下ろして——」
彼のところにたどり着く一歩手前で、足が母指球の上に不自然に降りてしまい、前のめりになった。
(バン!)右目をドアの枠にぶつけてしまった。
そのまま床に倒れてしまわないように、エイデンはレックスのウエストをつかんだ。
すると、月曜日に見かけたイケメンが、ドアから入ってくるところだった。びっくりするほど最悪のタイミング——目の前に星がチラつき、動悸が始まった。今にも頬骨が頭蓋骨から飛び出そうだ。
「大丈夫?」マイケル・ヴァルタンもどきは、レックスの目をのぞきながら、少し顔をゆがめた。
「順調です」まだ、頭が二つあるように見える。
エイデンは、彼女の目を調べようとして、手を動かした。「大丈夫だよ。冷やそう」
「ああ、そうね」向きを変えて、患者エリアに戻り始めた。
「エクササイズの後だよ。どこに行くつもり?」
**********
よし、今度こそ大丈夫だ。金曜日、レックスはPTに向かった——いや、ヨタヨタと歩いた。腸脛靱帯のマッサージもした。脚を伸ばす訓練も。
しかし、エイデンはサディスティックな性格だった。
治療台の上で強化訓練をした後、エイデンは手術の痕、医者による切開部分をチラッと見た。「きれいになってきたね」
「うん、水膨れもなくなったし」
彼は傷痕にさわった。「表面の下に瘢痕組織が、たくさんあるみたいだ」
(それは大変)
エイデンは、何か白くてヌルヌルしたものが入ったプラスチックの瓶を取り出した。そして、それを少し指に取り、傷痕に塗り込み始めた。
「いっ、いっ、いっ!」レックスは叫び声を上げるたびに、手で治療台をたたいた。「傷痕ぐらいどうでもいい! ほっといて!」
「伸びが悪くなるんだよ」エイデンは、(何て幼いんだ)という目で見た。
涙が溢れ出した。「ほら、あんたのせいで泣けてきた」
「手術のせいでホルモンバランスが崩れてるだけだよ」
「全てのことに答えがあると思ってる?」
「君の不満には全部、答えられる」
レックスは後ろに寄りかかって泣き言を言った。
「女々しいね」
「そんなことない」
「メアリーっていう人がいてさ——僕の母と同じぐらいの歳かな。股関節置換術を受けたんだけど、君の半分も文句を言わなかったよ」
「きっとその人には優しくしたんでしょ」
「いや、もっと厳しくした」
「不可能だわ」
「それでも僕のことを気に入ってくれてた。ジムの会員になって、週三回は真面目にリハビリに来てるよ」
「あなたって人をひきつける性格なのね」彼は塗り終わり、レックスは顔をしかめた。
「エクササイズの時間だ」
エイデンはジムエリアでのエクササイズに付き合い、患者エリアに戻って冷やしてくれた。「ほら、悪くなかっただろ?」
レックスは彼をにらんだ。
「だんだん強くなってるのが分かる? 今日はプーリー(滑車)のウエイトを増やしたんだ」
装具を巻く手が止まった。「そうなの?」
「分からなかった?」
「うん」
「ほらね?」
レックスはベルクロのストラップを留めた。やった、前進してる。これはいいぞ。彼女が中学生の女子を駆り立てるように、エイデンが彼女を駆り立てたことは認めざるをえない。そんなに文句を言うべきではないのだ。よく分からないが、彼が、彼女の要求に応じないことに感謝していた。
「ちょっと待ってて」エイデンは手に持っているクリップボードでレックスに手を振った。「これが終わったら、うちまで送るよ」
レックスは受付のカウンターのそばで立っていた。フィリピン系の小柄な受付嬢は、怒っているような顔をしていたが、レックスを見てうなずいた。「調子はどうですか?」
「良くなってきてます」
「よかったですね」受付嬢は、目をコンピュータに戻した。
入り口のドアが開き、あのマイケル・ヴァルタンが入ってきた。最高、チャンスだ。レックスは彼に微笑んだ。(可愛いくよ、怖くじゃなくて)
彼は微笑み返した。いいサインだ。
一歩前に進んだ。「こんにちは、私レ——!」
脚がメタルの装具にまっすぐ固定されていて、横方向にぐらつく。彼女はバランスをなくし、傾き始めた。
「ああっ!」レックスは受付のカウンターをつかんだが、腕を激しく動かしたため、後ろにひっくり返った。
「ウップ!」強く尻もちをついた。痛みが尾骨から上がってきた。
あのキュートな人を見上げた。少なくとも笑ってはいなかった。肩から頭の上まで、熱が発散している。そうだ、決まり悪さが頭上をチクチク刺すのを感じた。彼女は、それをかきむしった。
「君、大丈夫? 怪我は?」彼女を助けようとして、彼はひざまずいた。
「まあ、レックス!」受付嬢の頭がカウンターの端から見えた。
その時、アジア系の女性——叔母さんぐらいの歳だろうか——がジムに入ってきて、たくましい男が、ひざまずいてレックスを助けようとしているのを見た。「まあ大変、あなた、大丈夫?」
「レックス!」エイデンが患者エリアから走ってきた。
レックスはため息をついた。もう、粋がるのはやめよう。「尊厳ってものは全部なくしちゃったわ」レックスは立ち上がった。「ありがとう」
「大丈夫?」
「大丈夫よ、膝は大丈夫、何も問題ないわ」尾骨は別だ。ああ、痛かった。だけど、その痛みを周りの人たちにこすりつけることはしなかった。
「よかったよ、大丈夫で」マイケル・ヴァルタンは、メガワットの笑みを光らせた。「僕はアイク」
「レックスです。お会いできて嬉しいわ。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。じゃあまた」魅力的な彼は、ジムエリアに戻っていった。
入ってきたアジア系の女性が、彼女の肘にさわった。「本当に大丈夫? 手術したみたいだけど」
「大丈夫です」
「あなた、レックスっていうの? 私はメアリ——」
「ああ! あなたがメアリーさんですか。やっとお会いできて嬉しいです」
女性の目には、嬉しそうにシワがよった。「私のこと聞いた? 彼から」
「はい、いつも聞いてます」お尻に鈍い痛みがあったので、レックスは脚を曲げた。
メアリーは彼女の膝を見下ろした。「無事でよかったわ。心配しないで、こういうことは時間がかかるから」
時間——いつも大急ぎで走ってきた人生だった。回復のためにこれほど時間がかかることなど、考えていなかった。
「レックス、メアリー、急がせて悪いんだけど、レックスをうちまで送ってかなきゃ」エイデンは、いつもの笑顔をメアリーに見せた。
「ああ、そうよね、送っていてあげて。お会いできてよかったわ、レックス」メアリーは自分のエクササイズに向かった。
レックスは、装具をつけた脚でふらついた。「いい人ね」
「そうだろ? また誰かと付き合い出したばかりなんだ」
「素敵ね」
「長い間、未亡人だったらしい」エイデンは、レックスのためにエレベータのドアを押さえた。「新しいボーイフレンドが、彼女に優しくしてくれてることを願うよ」
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第26章
いや、彼のことは、少しも怖いと思わなかった。だって、あと数分後に、彼女は彼を殺すつもりだから。
「エイデン! 今の、本当に痛い!」レックスは、上半身を起こしてPT治療台を押し、エイデンの指によるマッサージ——いや、太腿の外側の拷問から逃げようとした。
エイデンの穏やかな声は、レックスを叫びたい気持ちにさせた。「腸脛靱帯はヒップから太腿、そして膝関節まで走ってる。これが硬くなると、怪我が起こるんだ」彼はもみ続けたが、戦闘靴で足をゆっくりと蹴られているように感じる。
レックスは治療台の端をつかんだ。「痛いのはもう十分じゃない? 手術して、水膨れもできた。鎮痛剤も使えなかった。覚えてる? ねえ!」
隣の治療台で別の患者を診ているもう一人のセラピストは、同情しながらも面白そうに見ていた。そっちの患者は、レックスの叫び声に反応して、青くなっていた。
レックスは気にしなかった。(罵声を浴びせてやろうか)
やっとエイデンは手を止めた。「今日はこれぐらいでいいと思う」
「思う?」
「家でもやってみて。楽になってくるから」
「信じられないわ」患部をさすると、熱く敏感になっている気がした。それに、エイデンにさわられるのに慣れることが、理学療法の最も難しい部分だろうと思っていた。
「じゃあ、ジムでちょっとエクササイズしようか」
レックスは治療台から降りた。「エクササイズだったら、できるわ」
エイデンは患者エリアから公共のジムエリアに案内してくれた。「ちょっと筋萎縮があると思ってて」
「切ってから四週間なのに? 冗談じゃないわ。最高の体調だったのよ」
五分後、マラソンを走ったように息切れした。足は鉛のように重い。
「頑張れ」エイデンはレックスの前に立った。「足をもっと高く上げて」助手に頼む代わりに、彼は自分で彼女のエクササイズを指導することに決めた。レックスは、助手の方がよかったなと思った。そっちの方が親切そうに見えたから。
一方を足首に取り付け、他方に滑車がついたコードを引っ張ると、真っ直ぐ伸ばした足への抵抗が上がる。大腿四頭筋が燃えている。お尻の外側も。いい方の足も燃えている。
「もう一回」エイデンはレックスを見ていた。「もっと高く。いいよ」
足を下ろすのが少し早すぎた。コードがビュッと元に戻った
「じゃあ今度は横だ」
「横?」
他のエクササイズは終わった。心臓は胸にたたきつけられ、肺が痛い。最後のエクササイズだと思っていたアブダクター(筋トレマシーン)にもたれかかった。
(ようよう)大柄な男がジムエリアに入ってきた——実物のマイケル・ヴァルタンのようだ。ジムの会員らしい。
エイデンは膝をもっと近くで見ようとひざまずいた。楽しんでいるように見える。「じゃあ、冷やそうか」
「待って、ちょっとストレッチさせて」もうちょっと、目の保養をさせてもらいたかった。そのイケメンは、フリーウエイトの近くで止まった。
足を少し開いて、爪先に手を伸ばした。
(ビリッ)
びっくりし過ぎてバランスを崩し、前のめりになった。倒れないように、エイデンが、ウエストの辺りを押さえた。さわられていることに対しては何の反応もしなかったが——恥ずかしすぎて、お腹に穴があくほど蹴りを入れられた気がした。
ウォームアップパンツが、お尻の真ん中で裂けたのだった。
真っ直ぐに立った——エイデンの助けを借りて——裂けた部分に手を伸ばし、さわってみた。レックスの顔は、一八〇℃のオーブンで一時間焼かれたように熱かった。
エイデンは笑わなかった——落ち着いた顔は、一ミリも楽しそうには見えない。「ウォームアップパンツだけだよ。下に履いてるショートパンツは破れてない」
「そんなことじゃないの」また、かすれた声になってきた。「太ったんだわ!」
エイデンは、体型のことを話している女性に対し、男性が用いる非常に注意深い表情になってきた。「そんな風には見えないよ」
「軽く言わないで。運動不足なのよ。運動不足になったことなんて、今まで一度もなかったのに。生まれた時から」
「なんで知ってるの?」
「私が太った赤ちゃんだった、って言うの?」
エイデンの目が大きくなった。「違う、全然違うよ。それで?」
「まず、ACLを切ったとき、自分の体に裏切られたの。今は新陳代謝。こうやって新陳代謝に失望させられるのは初めてよ」目の中に溢れてきた涙を拭いた。「それに、最近泣いてばかりいる。泣いたことなんてなかったのに。私、どうしちゃったの?」
「手術すると、そういうこともあるんだよ」
「私にはない。そんなことは、私には起こらないの」鼻をすすった。
「ほら。そのウォームアップパンツ、脱げば」
レックスはショーツの上に履いていたウォームアップパンツをおろし、エイデンが靴を脱がせてくれている間、レッグ・プレスマシーンにつかまっていた。
「じゃあ、冷やそうか」
レックスは松葉杖をつかみ、患者のセラピーエリアまで足を引きずった。あのキュートな人をチラッと見ることもしなかった。彼女のことなど、気づいてもいなかっただろう。よかった。
水曜日にはセラピーがある。食事も改善し始める。エイデンは、家ですることができるエクササイズを教えてくれた。一日に五回はやる。
そして何より、このおバカな腸脛靱帯が、おばあちゃんのガードルより緩くなるまでマッサージをするんだ。
レックスは水曜日のPTに行った。エイデンと腸脛靱帯の拷問に耐える心構えをして。脚のマッサージもきちんとした。
しかし、エイデンはチェンジアップを投げてきた。
仰向けに横になっている間、彼は自分の肩の上まで彼女の足首を持ち上げ、膝を押して一八〇度真っ直ぐにした。
「イタ、タ、タ、タッ」
膝頭が裂けるような痛みのために、レックスの上半身は治療台から離れた。
「また他の患者を怖がらせてるよ」エイデンは一瞬、圧迫を緩め、また押した。
「うるさーい!」レックスは楽しいことに集中しようとした。エイデンのお腹に、侍の刀を突き刺すこととか。
彼はやっと彼女の脚を下ろした。レックスは治療台の上から床にだらりと降りた。
エイデンが上から彼女を見ている。「ほら、立って。まだジムでのエクササイズが残ってるよ」
起き上がって、松葉杖をつかんだが、それをエイデンの素足の膝頭に向けて振り回す前に、別のセラピストが彼女の前を歩いた。
助かったわね、運のいい奴。
レックスは体を持ち上げた。エイデンが松葉杖を指さした。「それなしで歩いてごらん」
「え?」
「ジムエリアまでたった数メートルだよ。転びそうになったら僕が捕まえるから。大丈夫だと思うけどね」
「あなたは私のドクターじゃないわよ」
「違う」腰に拳を置き、スーパーマンのポーズを取った。「僕は君のセラピスト」
やれやれ。松葉杖を手放し、試しに一歩、歩いてみた。
わあっ、できたじゃない。思っていたほど不安定だと思わなかった。エイデンが待っている、開いた戸口の方へ向かった。
彼は彼女の足を調べた。「かかとから先に下ろして——」
彼のところにたどり着く一歩手前で、足が母指球の上に不自然に降りてしまい、前のめりになった。
(バン!)右目をドアの枠にぶつけてしまった。
そのまま床に倒れてしまわないように、エイデンはレックスのウエストをつかんだ。
すると、月曜日に見かけたイケメンが、ドアから入ってくるところだった。びっくりするほど最悪のタイミング——目の前に星がチラつき、動悸が始まった。今にも頬骨が頭蓋骨から飛び出そうだ。
「大丈夫?」マイケル・ヴァルタンもどきは、レックスの目をのぞきながら、少し顔をゆがめた。
「順調です」まだ、頭が二つあるように見える。
エイデンは、彼女の目を調べようとして、手を動かした。「大丈夫だよ。冷やそう」
「ああ、そうね」向きを変えて、患者エリアに戻り始めた。
「エクササイズの後だよ。どこに行くつもり?」
よし、今度こそ大丈夫だ。金曜日、レックスはPTに向かった——いや、ヨタヨタと歩いた。腸脛靱帯のマッサージもした。脚を伸ばす訓練も。
しかし、エイデンはサディスティックな性格だった。
治療台の上で強化訓練をした後、エイデンは手術の痕、医者による切開部分をチラッと見た。「きれいになってきたね」
「うん、水膨れもなくなったし」
彼は傷痕にさわった。「表面の下に瘢痕組織が、たくさんあるみたいだ」
(それは大変)
エイデンは、何か白くてヌルヌルしたものが入ったプラスチックの瓶を取り出した。そして、それを少し指に取り、傷痕に塗り込み始めた。
「いっ、いっ、いっ!」レックスは叫び声を上げるたびに、手で治療台をたたいた。「傷痕ぐらいどうでもいい! ほっといて!」
「伸びが悪くなるんだよ」エイデンは、(何て幼いんだ)という目で見た。
涙が溢れ出した。「ほら、あんたのせいで泣けてきた」
「手術のせいでホルモンバランスが崩れてるだけだよ」
「全てのことに答えがあると思ってる?」
「君の不満には全部、答えられる」
レックスは後ろに寄りかかって泣き言を言った。
「女々しいね」
「そんなことない」
「メアリーっていう人がいてさ——僕の母と同じぐらいの歳かな。股関節置換術を受けたんだけど、君の半分も文句を言わなかったよ」
「きっとその人には優しくしたんでしょ」
「いや、もっと厳しくした」
「不可能だわ」
「それでも僕のことを気に入ってくれてた。ジムの会員になって、週三回は真面目にリハビリに来てるよ」
「あなたって人をひきつける性格なのね」彼は塗り終わり、レックスは顔をしかめた。
「エクササイズの時間だ」
エイデンはジムエリアでのエクササイズに付き合い、患者エリアに戻って冷やしてくれた。「ほら、悪くなかっただろ?」
レックスは彼をにらんだ。
「だんだん強くなってるのが分かる? 今日はプーリー(滑車)のウエイトを増やしたんだ」
装具を巻く手が止まった。「そうなの?」
「分からなかった?」
「うん」
「ほらね?」
レックスはベルクロのストラップを留めた。やった、前進してる。これはいいぞ。彼女が中学生の女子を駆り立てるように、エイデンが彼女を駆り立てたことは認めざるをえない。そんなに文句を言うべきではないのだ。よく分からないが、彼が、彼女の要求に応じないことに感謝していた。
「ちょっと待ってて」エイデンは手に持っているクリップボードでレックスに手を振った。「これが終わったら、うちまで送るよ」
レックスは受付のカウンターのそばで立っていた。フィリピン系の小柄な受付嬢は、怒っているような顔をしていたが、レックスを見てうなずいた。「調子はどうですか?」
「良くなってきてます」
「よかったですね」受付嬢は、目をコンピュータに戻した。
入り口のドアが開き、あのマイケル・ヴァルタンが入ってきた。最高、チャンスだ。レックスは彼に微笑んだ。(可愛いくよ、怖くじゃなくて)
彼は微笑み返した。いいサインだ。
一歩前に進んだ。「こんにちは、私レ——!」
脚がメタルの装具にまっすぐ固定されていて、横方向にぐらつく。彼女はバランスをなくし、傾き始めた。
「ああっ!」レックスは受付のカウンターをつかんだが、腕を激しく動かしたため、後ろにひっくり返った。
「ウップ!」強く尻もちをついた。痛みが尾骨から上がってきた。
あのキュートな人を見上げた。少なくとも笑ってはいなかった。肩から頭の上まで、熱が発散している。そうだ、決まり悪さが頭上をチクチク刺すのを感じた。彼女は、それをかきむしった。
「君、大丈夫? 怪我は?」彼女を助けようとして、彼はひざまずいた。
「まあ、レックス!」受付嬢の頭がカウンターの端から見えた。
その時、アジア系の女性——叔母さんぐらいの歳だろうか——がジムに入ってきて、たくましい男が、ひざまずいてレックスを助けようとしているのを見た。「まあ大変、あなた、大丈夫?」
「レックス!」エイデンが患者エリアから走ってきた。
レックスはため息をついた。もう、粋がるのはやめよう。「尊厳ってものは全部なくしちゃったわ」レックスは立ち上がった。「ありがとう」
「大丈夫?」
「大丈夫よ、膝は大丈夫、何も問題ないわ」尾骨は別だ。ああ、痛かった。だけど、その痛みを周りの人たちにこすりつけることはしなかった。
「よかったよ、大丈夫で」マイケル・ヴァルタンは、メガワットの笑みを光らせた。「僕はアイク」
「レックスです。お会いできて嬉しいわ。助けてくれてありがとう」
「どういたしまして。じゃあまた」魅力的な彼は、ジムエリアに戻っていった。
入ってきたアジア系の女性が、彼女の肘にさわった。「本当に大丈夫? 手術したみたいだけど」
「大丈夫です」
「あなた、レックスっていうの? 私はメアリ——」
「ああ! あなたがメアリーさんですか。やっとお会いできて嬉しいです」
女性の目には、嬉しそうにシワがよった。「私のこと聞いた? 彼から」
「はい、いつも聞いてます」お尻に鈍い痛みがあったので、レックスは脚を曲げた。
メアリーは彼女の膝を見下ろした。「無事でよかったわ。心配しないで、こういうことは時間がかかるから」
時間——いつも大急ぎで走ってきた人生だった。回復のためにこれほど時間がかかることなど、考えていなかった。
「レックス、メアリー、急がせて悪いんだけど、レックスをうちまで送ってかなきゃ」エイデンは、いつもの笑顔をメアリーに見せた。
「ああ、そうよね、送っていてあげて。お会いできてよかったわ、レックス」メアリーは自分のエクササイズに向かった。
レックスは、装具をつけた脚でふらついた。「いい人ね」
「そうだろ? また誰かと付き合い出したばかりなんだ」
「素敵ね」
「長い間、未亡人だったらしい」エイデンは、レックスのためにエレベータのドアを押さえた。「新しいボーイフレンドが、彼女に優しくしてくれてることを願うよ」
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