【ひとり寿司】第22章
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レックスが片方の腕をビーナスの首に回して車に乗り込む間、エイデンは、前のドアを開けて押さえていた。かわいそうにビーナスは、身長の差があるために老女のようにかがまなくてはならない。
レックスは黙ったままだった。家に運び込まれ、たるんだソファに倒れ込んだ。呼吸は荒く、痛みのために顔が歪まないよう努力した。ジェニファーは、レックスの膝を楽にするためにベッドルームから枕を二つつかんで居間へと急いだ。
普段の二倍の大きさに腫れ上がった膝を見つめた。また涙が出てきた。
ジェニファーがエイデンに何か囁いている間、ビーナスはレックスを看ていた。彼が出ていく時、ビーナスは振り向いて彼に手を振った。「ありがとう、エイデン」
レックスはまだ黙っている。口を開けることができなかった。頭は何かを言うよう命令しているのだが——少なくともうちまで送ってくれたエイデンに感謝するぐらいは——アロンアルファで喉が固く閉じられたようだった。
ビーナスの顔は青白い能面のように、悲しげだが落ち着いていた。ソファーの反対側に座っているジェニファーの目は、涙でうるんでいた。ビーナスは、じょうぶなコーヒーテーブルの上に腰を下ろした。「お父さん、いつ帰ってくる?」
「コホッ」レックスは咳払いをした。「一〇時」その言葉を言うだけで疲れた。
三人は、古い鳩時計がいつものようにカチカチ音を立てるのを聞きながら、黙って座っていた。レックスの頭の中は、霧が充満していた。しかし、少しモヤがはれ始め、誰がいないのかに気がついた。
「トリッシュは?」その声は、柔らかく、悲しげな口調だったので、まるで自分の声ではないように聞こえた。
ビーナスは、唇を噛んでいるジェニファーを見て、レックスの肩に触れた。彼女は飛び上がった。
「トリッシュは……行くところがあって」
レックスはトリッシュに会ったかどうかを全く覚えていなかった——中でも外でも——あの後——唾を飲み込んだ。「いつ? どこに行かないといけなかったの?」
ビーナスは目をそらせた。ジェニファーは、ソファーのほつれた糸をいじっている。
「どっちでもいいから、言ってよ」その言葉は、すすり泣きで終わった。
ビーナスはため息をついた。苛立っているように聞こえた。「トリッシュはね——」ビーナスはその名前を噛み切るように言った。「——彼に会いに行くことにしたのよ」
その知らせを聞いて、レックスは頬をひっ叩かれたように思った。鋭く吐いた息を吸い込むことができない。唇をしっかり閉じて、震えを抑えようとした。
「あなたが悪いんじゃないの。悪いのはあの子」ビーナスの目は、黒ごまのように細くなり、無感覚で死んだような表情をしていた。その指は、トリッシュの首を締め付けるかのように丸くなっていった。
だからと言って、レックスの胸郭のすぐ下に感じる虚無感が埋められていく気がしなかった。
「あのさ……その……スポーツセンター見る?」ジェニファーはリモコンに手を伸ばした。
「見たくない!」レックスの手がパッと出て、彼女をつかんだ。ナイフで膝を切られたような痛み。顔をしかめ、用心深く膝蓋骨をさわった。
誰かがアスレチックなことをしているのは見られない。今はダメだ。こうやって自分の体に裏切られている時には。
ACL——脛骨を大腿骨につなぐ前十字靭帯が切れた人を、何人か見たことがあった。手術の前後には松葉杖を使い、回復期間も長い。中には、二度とバレーボールをすることができなくなった人もいた……
(そんな風に考えちゃダメよ!)ACL手術の後、以前と同じぐらい強くなって戻ってきた人もたくさんいるではないか。
しかし、ワサマタユのトライアウトをしとめ、タウンハウスの二階の部屋を見つけた直後にACLを切る人はまれだ。
レックスは、また泣き出さないように顔をクシャクシャにした。鼻水をすすった。ジェニファーがテーブルの端からティッシュの箱を取って渡した。
ビーナスもティッシュを取った。「一つだけ、いいことがあったわ」
「何よ、それ」レックスは鼻をかんだ。
「マリコが怒るわね」
**********
レックスは、それを一人でやるはずではなかった。トリッシュは、謝罪とともに、本当は負傷中のいとこの役に立ちたかったのだと言って抗議した直後に、また彼女を失望させたのだ。
MRIセンターの入り口で、レックスは震える息を吸い込んだ。(大丈夫、一人でも)松葉杖を使いながらガラスのドアを開けるために、横方向に飛ばなくてはならなかったが、職場でキュービクルの間を行き来するうちに、松葉杖の使い方がかなり上手くなった。レックスを降ろしたタクシーは、割り込ませてくれた二台の車に対し二回クラクションを鳴らして、走り去った。
受付のカウンターまで足を引きずった。「レックス・坂井です。二時にMRIの予約をしました」
不機嫌な顔をした女がコンピュータを確認した。「遅いですね」
「ごめんなさい。迎えを頼んだ人が来なくて……」
「あなた、運がいいわ。次の予約がないから、入れてあげられます」
「ああ、ありがとうございます」その声は、ありがたい口調とは言えなかった。受付の女性は彼女を見上げた。レックスは弱々しく微笑んだ。
「技師が呼びに来ますから、少しお座りください」
既に最悪な状況である上に、無愛想な人の相手もしなきゃならない——心臓もドキドキし始めた。待合室にテトリスのように並べられた椅子の周りをうろうろし、やっと座れる場所に沈み込んだと思ったら、一番遠いドアが開いた。
「レックス・坂井さん?」
アナキン・スカイウォーカーが戸口に立っていた。悪役に変わったしまった後の彼だ。キラキラした金髪のカールは、「世界征服」を掲げた血眼の目と狂信的な表情とは対照的——黒装束の腕で合図をするまで、その頭は空中に浮いているように見えた。その真っ黒な服装が背景に融合していたために、そのように見えたようだ。
「遅刻しましたね」深く威嚇的な声がとどろいた。
「すみません、実は——」
「こちらへどうぞ」ドアの向こう側の通路に曲がっていった。
(何だ、全然不気味じゃないわ)ルークについて洞穴へ行くという、超現実的な感覚を覚えた。
椅子の間を立ち回って進んだが、戸口まで来たと思ったら、目の前でドアが閉まった。聡明な技師は、レックスのためにドアを押さえて待つことすらしなかったのだ。
ノブを回した。ロックされている。
苛立ちの感情は、手足をピクピクさせている神経質な感情より大きくなった。ドアを強く叩いたが、松葉杖のためバランスを崩しそうになった。まっすぐ立ったと思ったら、ドアがサッと開き、ミスター・ダークサイドの不機嫌な顔が見えた。
彼は手術着を渡し、クローゼットのような大きさの更衣室を指した。その部屋には座る椅子もない。数日前にスポーツドクターにもらったベルクロ(面ファスナー)とメタルでできた装具を外す間、片方の足でバランスを取らなくてはならなかった。サイボーグになった気がした。装具は床に落ちた。
ウォームアップパンツを脱ぎ、アナキンからもらった、薄っぺらな紙のショートパンツに着替えた。次は木綿のトップ。胸がなくて、ああよかった。大きすぎて、前が垂れ下がっている。
装具と洋服は床に置いたままにした。更衣室から出ようとした時、オフィスを思い出した。後ろに下がり、ドアを開けてから外に出た。アナキンは廊下の椅子に座り、足をぶらぶらさせて待っていた。彼女を見て、またしかめっ面になった。
彼は、見たこともないほど大きいトイレットペーパーのロールが押し込まれている小さい無菌室に、レックスを誘導した。ああ、トイレットペーパーじゃなくて、硬いプラスチックのようだった。そのロールに診察台が取り付けられていて、彼は黒く塗った爪でそれを突っついた。「上に乗って」
冷たく複雑な装置類のために、寒気がした。病院のようだ。振り向こうと小刻みに歩き——余分の「足」が二本あるのでかなり難しい——座った。「靴はどうすればいいですか?」
背を向けて怒ったようなうめき声を放ちながら、彼は出て行った。そして、プラスチックの袋を持って戻って来た。「私物はここに放り込んで」
靴を脱いだ。「他の服は更衣室に置いて来ました」
第一子を捧げてくださいとか、とてもできそうにないことをレックスが彼に頼んでいるかのような目つきをした。「分かった、僕が取りに行くから」彼女の足を指さした。「それをホルスターに入れてくれる」
今にも発射されそうな銃のように? レックスの癇癪みたいだ。膝をゆっくり持ち上げて、大きいセロリのように見えるプラスチックのものに入れた。
アナキンが向こう側に周り、彼女の足をつかんだ。
「痛っ!何するんですか?」
「位置を調整してるんだけど」
技師は足を引っ張り、押した。レックスは歯を食いしばり、手荒に動かされるたびに顔をしかめた。関節が熱を持ち始め、また膝が温かく感じてきた。「ちょっと! もっと怪我させる気?」
最後にもう一度引っ張った。「これでいい、横になって」
部屋を出て行った——感謝なことに——しかし、診察台がトイレットペーパーのロールの中に動き始めた。
「聞・こ・え・ま・す・か?」ロックコンサートのように大きい声で、天井のスピーカーから彼の声が飛び出した。
「下げてくれる? 聴覚障害にさせるつもり?」
「これはどうかな」
それは質問ではなく発言だったが、とにかく答えた。「大丈——」
「はい、それじゃあ、絶対に動かないように。そうしないとMRIがうまくいかないよ」
(バン! バン! バン!)最初、レックスは銃声かと思った。そうしているうちに、その音が装置から出て来ているのに気がついた。
ちょっと待って、これはいつまで続くの? トイレットペーパーのロールから出てくる爆竹に、あとどれだけ耐えられるのか分からなかった……
永遠に続くような気がした。幸運なことに、その装置はひっきりなしに音を立てているわけではなかった。やっと彼の声が、震えるほど高音量のスピーカーから聞こえて来た。「はい、終わった」
(神様、感謝します)
ウォームアップパンツを引っ張り上げるのは、茹でたヌードルを鍵穴に入れるようだったが、着替え終わった。
帰り際に、技師はMRIの写真を彼女に渡した。
「あり——」何にありがとう、というつもりだろうか? 人生で二番目に最悪の日に?
彼は気がつかなかったようだ。ただ、頭を横に振った。
「何ですか?」
「ドクターに確認した方がいいけど、君、ACLを切ったみたいだ。手術をすることになるよ」
**********
父に白い封筒を渡される前から、レックスの心臓は張り裂けていた——冷たい日本海で真っ二つに分かれる氷河のように、耳をつんざくような鋭い音がする。
(あなたを、ワサマタユ・スポーツクラブの男女混合および女子バレーボールチームに受け入れます……)
その手紙にきちんと折り目をつけて、封筒の中に戻した。そして、膝を上げて横になっているソファの隣に置かれた、コーヒーテーブルに手紙を落とした。
彼女の入部を伝えるために、その日の午前中、ダレンから電話があった。
「ダレンさん……先週、ACLを切っちゃったんです」彼女の声は震えた。爪は電話に食い込み、甘皮が痛い。
「それは確かなの?」
「MRIを撮って、今日ドクターに会って来ました。二週間後に手術の予定です」
「レックス……」電話口で、ダレンの大きなため息が聞こえた。「故障者リストがあるけど、順番待ちリストと同じぐらい長いリストだ」
涙が頬をつたう。あごを引き締めて、舌を噛んだ。
「残念だよ、レックス。故障者リストに入れておく。もしかしたら二、三年後だね」
(カチャッ)
すべての希望の断絶。
封筒を見つめながら、唾を飲み込んだ。怪我のバカ。ACLのバカ。
封筒を取り上げて、きれいに二つに破った。そしてもう一度。さらにもう一度。小さい切れ端が、白い涙のように膝の上に降った。
**********
「もう出来ないわ、レックス」トリッシュの血走った目は、レックスの方に動いたが、その後、居間の窓の外へ流れた。震える手で、スウェットシャツの上の錠剤を取った。
「何がもう出来ないの? トリッシュ。ACLを切ったのは初めてなのよ」トリッシュが家まで来てくれたのは、レックスを職場まで乗せて行ってくれるためだと、レックスは期待していたのだが、トリッシュがこんな状態では、彼女の車には絶対乗りたくない。「会社には病欠だって電話したの? こんなひどい二日酔いは、大学以来見たことない」
「二日酔いじゃないわ」トリッシュの返事は早すぎ、キッパリし過ぎていた。頬をこすっても、青白く腫れた顔がピンクになるだけだった。
「そうじゃなくて、疲れてたから迎えに来てくれなかったんだよね。朝十一時のMRI」
「もう謝ったじゃない」悪いと思っているようには聞こえなかった。
「じゃあさ、この埋め合わせに手術の後二、三日、助けになってよ」
「それなのよ、レックス。もう出来ないの。前の時と同じじゃない」
「前の時って? 足首の捻挫の時?」
「分かってるでしょ……あのレイプの後」
北極の冬が、彼女の心を一瞬にして凍らせた。レックスはその言葉を口にしたことが一度もなかった。トリッシュもそうだった、この時までは。線路の上の汚れた雪のように、醜い音が部屋の中でよどんでいる。「どうして——」
「あの後、すごく鬱になってたよね」
レックスはあの襲撃後の日々を——数週間にもなるかもしれないが——はっきりと覚えていない。足と腕にかけられた重みのような感覚は覚えていた。口は開いていても、あの時のことを話すことができなかった。
トリッシュは話し続けた。「あなたが受けたトラウマみたいなものは分かるわ。だけどね、あなたと一緒にいるだけで、私は感情的に疲れ果てたの」
レックスは、その頃、トリッシュが一緒にいてくれたことを覚えていた——風が吹き荒れる夜、トリッシュだけが、彼女にとっていつも輝く星だった。あの頃、トリッシュの笑顔と、レックスの腕、肩、頭に触れる彼女の手だけは——耐えられた。父と兄は別として、トリッシュだけが彼女に何が起こったのかを知っていた。ビーナスやジェニファーには話していない。ましてや祖母は知る由もない。
レックスは唾を飲み込んだ。「手術の時、あなたが助けになってくれるのを期待してたのに」
トリッシュは頭を振り、その目は壁、天井、そして窓へと流れて行った。「和夫が言うのよ。要求が多くて、いつもくっついてるあなたのために時間を取られ過ぎてるって」
「ええっ?」
「二度はできないわ、レックス」
レックスは息を呑んで、そこに座っていた。なんと言っていいのか、分からない。(ああ、分かったわ。膝とワサマタユを同時に失った今、無能者にはならない、って約束する)
トリッシュは黙ってため息をつき、振り返って玄関まで歩いていった。ドアを出て、それをしっかりと閉めた。
レックスはそのドアを見つめた。もう一度ドアがあくのではないかと期待している自分に気づき、顔をそむけた。
その眼差しは、ベルクロとメタルの黒い装具に固定された、ゴワゴワした足まで降りていった。足の痛みより、それを見るたびに感じる心の痛みの方が格段に大きかった。初めて受ける大きな手術だ。
自分がこうなるなど、思いもしなかった。捻挫や肉離れは何度かあったが、深刻なものは何もなかった。
今回は……魂から命を吸い取られた。空虚ではかない気持ちになった。
空虚ではかない気持ちになったことなど、今まで一度もなかった。いつも強くて健康的だったのに……。
もしかしたら、もう二度と強くて健康的になれないかもしれない。
目を固く閉じると、涙がポロリと落ちた。舌を強く噛んだ。その痛みのために、集中することができ、一〇億の涙の粒が溢れ出るのが抑えられた。
誰が看病してくれるだろうか? 父は金曜日に引っ越してしまい、自分も今週末には出て行かなくてはならない。見つけたコンドミニアムの部屋は階段があるから無理。だから電話をかけて、南サンノゼにあるワンルームコンドミニアムの一階を押さえた。予算に合うコンドミニアムはここだけで、トリッシュに見に行ってもらおうと思っていたが、彼女と連絡が取れないので、実際に見に行ってもいない。確かに最近のレックスは、トリッシュに頼り過ぎていたのかもしれない。レックスは彼女を窒息させていたのだろうか?
本当に、そうだったのだろうか? トリッシュに会うのは週に一回か二回、教会かバイブルスタディだけなのに? しかし、ことあるごとにトリッシュに電話をしていたのは確かだ。もしかしたら、それが彼女を苦しめていたのかもしれない。
レックスのため息は、すすり泣きに変わった。まるで、人を窒息させる濡れた毛布だ。
誰が看病してくれるだろうか? 父親? だめだ——レックスの身の回りのことを手伝うのは、絶対に苦手だ。いつもそういうことからは逃げていて、子供の頃も、レックスの叔母に任せていた。
ジェニファーは? 思いやりがあり、母親らしいことはできるだろうが、彼女は仕事がある。ビーナス? トリッシュと違い、とげのあるビーナスと親しくなったことはなかった。
誰もいない……
電話が鳴った。レックスはソファーとコードレス電話との間の距離を測り、体を引きずって、四回鳴ったときに電話を取った。「ハロー?」
「レックス、ビーナスよ。変に思うかもしれないけど、突然、あなたに電話をかけなきゃいけない気がしたの。もしかしたら神様がそう言ってるのかなと思って」
レックスは泣き出した。
ビーナスはため息をついた。「やっぱり、神様は正しかったみたいね」
**********
(「さようなら」を言う時が来た)
レックスは、古いオーク製のドアに付けられた変なドアノッカーの形、歪んだ窓、たるんだ屋根の輪郭を目に焼き付けた。大学生の時に三人のいとこと一緒に住んだ貸家と、ほんの少しの間、一人だけで住んだコンドミニアム——そこでの暗い記憶——を除けば、この家だけだった。母はここで亡くなった。もう一度、母をそこに置き去りにするような気がした。
ビーナスがトランクをバタンと閉めた。「これで全部?」
「うん、お父さんが収納ユニットを買って、残りの段ボール箱は昨日、そこに持って行ってくれたの」レックスの持ち物を全て別にしてくれたのだ。
レックスが自分の古いホンダの助手席に乗り込む間に、ビーナスは運転席に座り、シートベルトを付けた。「本当に私の車でいいの?」
「私のはトランクが小さいから、二回往復しないといけないでしょ」
「ちょっと重すぎて心配」
「大丈夫じゃなきゃ困るわ」ビーナスがエンジンをかけた。エンジンはかかったが、止まってしまった。
「だから言ったじゃない」古い車の女神にマントラを唱えるように、レックスは手を突き出した。
ビーナスは意地悪そうに横目でレックスを見た。「ちょっと、大人になってよ」ダッシュボードを叩いて、キーを回した。
ホンダは生き返った。
「何したの?」
「車はね、祈りよりいじめに反応するのよ」
フリーウェイに乗っている間、車が駄々をこねた。特にビーナスの速度では。普通の道に降りてからも反抗し、煙を吐き出し、赤信号を出る時は、必ずガクンと動いた。ノロノロと新しいコンドミニアムの敷地の私道に入った頃には、ホンダはうめき、パチパチ音を立てていた。
ビーナスはドアをバタンと閉め、さびたボンネットの上でレックスに指を突き出した。「こんな車、よく乗ってるわね」
レックスは腕を広げた。「新車を買うお金があると思う?」松葉杖をつきながら、管理人の部屋に向かった。
陽気なヒスパニック系の女性がグレーの巻毛を軽く叩いて直しながら、ニンニクのにおいをさせて、ドアに出て来た。
「こんにちは、レックス・坂井です。一階のコンドミニアムを借りることになってます」
「ああ、そうそう。待ってたのよ。あら、膝の怪我? どうりで一階がいいわけね。気にいると思うわ。以前の所有者は犬を飼ってたんだけど、七年前に出てったから、もう、におわないでしょ。はい、これが鍵——でも松葉杖じゃ持てないわね。一緒に行くわ。吊り鉢に気をつけてね——ああ、あれが引っ掛かったかしら? あそこにあるミセス・デラローザのパンジーには気をつけてね。あそこで息を吸っただけで死ぬんじゃないか、って思うこともあるんだけど、ミセスが怒るの。ああ、パークスさんの犬は心配しなくてもいいわよ。セキュリティドアの外には出てこられないから、噛むより吠えるの。パークスさんは、必ず一日に二回散歩させてるわ。はい、ここよ。ドアを開けるわね。はい、どうぞ。ようこそ!」管理人の女性はドアを勢いよく開け、ヴァンナ・ホワイトの指輪のようなのをつけた指を揺らした。
カビくさい——長い間空き部屋だった。バスルームに続く廊下はちょっと狭いかもしれないけれど、ベッドと段ボール箱を置くには十分な床スペースがある。毛足が短いカーペットはシミがついているが、清潔だ。壁にも同じことが言えた。小さい簡易キッチンが壁全体を占めていた。
「ええ……大丈夫です」レックスは礼儀正しく微笑もうとした。
「ああ、お友達があなたの荷物を持って来てくれたのね。それじゃ、お邪魔しないように失礼するわ。これが鍵ね。カウンターに置くわ。何か必要なものがあったら、いつでも聞いてちょうだいね」逃げていった。
すごく、よくしゃべる人だ。親切だが、詮索好きかもしれない。
ビーナスは敷居をまたいで、立ち止まり、じっと見た。顔をしかめないよう努力した。「レックス、本当にこれでいいの?」
「私に選択肢があるっていうの? 他のところは予算に合わなかったのよ」
「ゴミ捨て場みたいじゃない」
「ビーナス、『愛をもって真理を語り』はどうなったの?」
「これは愛よ。私がこの段ボール箱をここに放り込んだ後、あなたをここに置き去りにしないで手伝ってあげるんだから、あなたはラッキーよ」
冗談だとは分かっていたが、レックスは、この薄汚い環境に押し潰されそうになった。
ビーナスは、持っていた箱を隅においた。「ベッドのパーツを持ってくるわね」軽いから彼女一人でも大丈夫、よかった。
ビーナスが出ていった後、開いたドアに頭が見えた。「ハーロウ?」
「ハイ」レックスは笑って挨拶した。シワクチャの丸顔、丸い体型、巻き髪にしたグレーの髪の毛すら中国系ベーカリーのパンのように丸い。
彼女が笑うと目がなくなり、口は膨らんだ餃子のような形だ。「私、ミセス・チャング。となり」
ビーナスとジェニファーの父親が中国人なので、少しだけ言葉が分かった。「ニーハオ、マ?」
ミセス・チャングはケラケラと笑った。「あなた、アクセントひどい」
レックスは笑った。
「ジャパニー?」
レックスはうなずいた。
「あなた、シュウドウフ食べる?」
何だろう? レックスは肩をすくめ、頭を横に振った。
「少しあげる」ミセス・チャングはいなくなった。
アルミニウムのベッドの枠を一つ持って、ビーナスが現れた。「お隣さん?」
「そう思う。中国人よ」
「広東語かマンダリンかどっち?」
「知らないわ。どっちがどっちか分からないもん」
ビーナスはお尻に手をおいた。「どうして分からないの? トリッシュは分かるわよ。一〇〇パーセント日本人なのに」
「これはね、五○パーセントの日本人の血から来てるの」
「お父さんがマンダリンだけでも教えてくれてよかった」
「トリッシュは、歌を歌うから分かるのよ——音楽的な耳を持ってる。私が分かる音は、バレーボールが跳ね返ったかと、グシャッとつぶれたかだけ」
ビーナスは不本意ながら、面白がって鼻先で笑った。
「あなたのお父さん、いつボックススプリング(ベッドのばね)とマットレスを持ってくるの?」
「三時まで用事がある、って言ってたから、うちに帰って荷物を取って、四時ごろかな」
「用事って、どんなこと?」
レックスは肩をすくめた。「聞かなかった。話したくないみたいだったし」
ビーナスは腰に手をおいた。
「あなたたち親子って、コミュニケーション不足よね。今までどうやって物事をやり終えてきたんだか」
「ちょっと、ちょっと。兄一人とシングルファーザーの家で育ったのよ。朝起きた時におはよう、って言ってもらえるだけでもラッキーでしょ」
「ハーロウ?」またミセス・チャングの頭が見えた。「持ってきた——」
ビーナスは日本の弓矢のようにビシッと言った。「レックス——」
「ありがとう、ミセス・チャング」レックスは薄茶色の四角い物が入ったプラスチックの容器を受け取った。揚げ豆腐のように見える。
うっ、何のにおいだろう? もしかして、ビーナスが——
ビーナスの口は作り笑いで固まり、レックスにつぶやいた。「開けちゃダメ。ミセス・チャングにはありがとう、とだけ言って」
「何の話?」レックスは容器を引っ張った。彼女は中国の食べ物が大好きだった。ジェニファーのお父さんが作ってくれるものは、英語の名前が分からないものでも何でも食べた。
「ベッドの残りのパーツを取ってくるから」ビーナスは忍者のように消えてしまった。
ミセス・チャングが食べ物を指して、顔を輝かせた。「好き? よかった」
蓋が少し開いた。(プワアアアン)
ここまで腐ったにおいがするものを嗅いだのは、生まれて初めてだった。さっと蓋を元に戻した。目から涙が出てきたが、顔をピシャリと打って、こぼれるような笑顔を浮かべた。「あ、ありがとうございます、ミセス・チャング」
「もっと欲しい、私に言う」彼女は向きを変えて、消えた。
ビーナスがベッドの残りのパーツを持って現れ、部屋に入りながら息を詰まらせている。「バカね、開けちゃダメだって言ったでしょ」
レックスは、何かに突き刺されたような目から溢れる涙を拭いた。「一体、何? あれ」
「臭豆腐。だんだん好きになる味らしいわよ」
「本当に食べられるの?」
「うちの親の猫でも食べないわ」
「ゲゲッ」レックスはその容器をカウンターに投げた。「あなたの言うことを無視して、心から謝るわ」
「謝ってるの? 珍しいこともあるのね」ビーナスが目を大きく開けた。
「ほっといてよ」
ビーナスはクスクス笑いながら、ベッドの枠を組み立て始めた。「ここから会社まで、ちょっと遠いんじゃない?」
「一時的なことだから、いいの」
「休みを取るのは大丈夫なの?」
「うん、ラッセルは大丈夫だって」レックスは、装具についているベルクロのストラップを引っ張った。
「それに、手術の後、六週間ぐらいで復職できるって、ドクターが言ってた。でも、リハビリもあるから、毎週PTのために仕事を抜けなきゃいけないんだ」
「自分で運転できるようになるまで、私がPTに連れて行くことになるのね」
レックスは顔をしかめた。「そうなの? ビーナス、ほんとにありがとう」空中のホコリのために咳が出た。「手術が終わって、階段を昇れるようになったら、タウンハウスの部屋を探すわ」
ビーナスは、アルミニウムの枠をパチっとはめた。何かが目に留まった。何か向こう側の隅にあるものを見て、目を細めている。レックスもチラッと見た。カーペットの上に小さい点がある。
その点が動いた。
「キャアアアッ!」ビーナスは段ボール箱の上にのって膝をついた。レックスは別の箱に座り、足を上げた。
ネズミが走っていった。
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第22章
レックスが片方の腕をビーナスの首に回して車に乗り込む間、エイデンは、前のドアを開けて押さえていた。かわいそうにビーナスは、身長の差があるために老女のようにかがまなくてはならない。
レックスは黙ったままだった。家に運び込まれ、たるんだソファに倒れ込んだ。呼吸は荒く、痛みのために顔が歪まないよう努力した。ジェニファーは、レックスの膝を楽にするためにベッドルームから枕を二つつかんで居間へと急いだ。
普段の二倍の大きさに腫れ上がった膝を見つめた。また涙が出てきた。
ジェニファーがエイデンに何か囁いている間、ビーナスはレックスを看ていた。彼が出ていく時、ビーナスは振り向いて彼に手を振った。「ありがとう、エイデン」
レックスはまだ黙っている。口を開けることができなかった。頭は何かを言うよう命令しているのだが——少なくともうちまで送ってくれたエイデンに感謝するぐらいは——アロンアルファで喉が固く閉じられたようだった。
ビーナスの顔は青白い能面のように、悲しげだが落ち着いていた。ソファーの反対側に座っているジェニファーの目は、涙でうるんでいた。ビーナスは、じょうぶなコーヒーテーブルの上に腰を下ろした。「お父さん、いつ帰ってくる?」
「コホッ」レックスは咳払いをした。「一〇時」その言葉を言うだけで疲れた。
三人は、古い鳩時計がいつものようにカチカチ音を立てるのを聞きながら、黙って座っていた。レックスの頭の中は、霧が充満していた。しかし、少しモヤがはれ始め、誰がいないのかに気がついた。
「トリッシュは?」その声は、柔らかく、悲しげな口調だったので、まるで自分の声ではないように聞こえた。
ビーナスは、唇を噛んでいるジェニファーを見て、レックスの肩に触れた。彼女は飛び上がった。
「トリッシュは……行くところがあって」
レックスはトリッシュに会ったかどうかを全く覚えていなかった——中でも外でも——あの後——唾を飲み込んだ。「いつ? どこに行かないといけなかったの?」
ビーナスは目をそらせた。ジェニファーは、ソファーのほつれた糸をいじっている。
「どっちでもいいから、言ってよ」その言葉は、すすり泣きで終わった。
ビーナスはため息をついた。苛立っているように聞こえた。「トリッシュはね——」ビーナスはその名前を噛み切るように言った。「——彼に会いに行くことにしたのよ」
その知らせを聞いて、レックスは頬をひっ叩かれたように思った。鋭く吐いた息を吸い込むことができない。唇をしっかり閉じて、震えを抑えようとした。
「あなたが悪いんじゃないの。悪いのはあの子」ビーナスの目は、黒ごまのように細くなり、無感覚で死んだような表情をしていた。その指は、トリッシュの首を締め付けるかのように丸くなっていった。
だからと言って、レックスの胸郭のすぐ下に感じる虚無感が埋められていく気がしなかった。
「あのさ……その……スポーツセンター見る?」ジェニファーはリモコンに手を伸ばした。
「見たくない!」レックスの手がパッと出て、彼女をつかんだ。ナイフで膝を切られたような痛み。顔をしかめ、用心深く膝蓋骨をさわった。
誰かがアスレチックなことをしているのは見られない。今はダメだ。こうやって自分の体に裏切られている時には。
ACL——脛骨を大腿骨につなぐ前十字靭帯が切れた人を、何人か見たことがあった。手術の前後には松葉杖を使い、回復期間も長い。中には、二度とバレーボールをすることができなくなった人もいた……
(そんな風に考えちゃダメよ!)ACL手術の後、以前と同じぐらい強くなって戻ってきた人もたくさんいるではないか。
しかし、ワサマタユのトライアウトをしとめ、タウンハウスの二階の部屋を見つけた直後にACLを切る人はまれだ。
レックスは、また泣き出さないように顔をクシャクシャにした。鼻水をすすった。ジェニファーがテーブルの端からティッシュの箱を取って渡した。
ビーナスもティッシュを取った。「一つだけ、いいことがあったわ」
「何よ、それ」レックスは鼻をかんだ。
「マリコが怒るわね」
レックスは、それを一人でやるはずではなかった。トリッシュは、謝罪とともに、本当は負傷中のいとこの役に立ちたかったのだと言って抗議した直後に、また彼女を失望させたのだ。
MRIセンターの入り口で、レックスは震える息を吸い込んだ。(大丈夫、一人でも)松葉杖を使いながらガラスのドアを開けるために、横方向に飛ばなくてはならなかったが、職場でキュービクルの間を行き来するうちに、松葉杖の使い方がかなり上手くなった。レックスを降ろしたタクシーは、割り込ませてくれた二台の車に対し二回クラクションを鳴らして、走り去った。
受付のカウンターまで足を引きずった。「レックス・坂井です。二時にMRIの予約をしました」
不機嫌な顔をした女がコンピュータを確認した。「遅いですね」
「ごめんなさい。迎えを頼んだ人が来なくて……」
「あなた、運がいいわ。次の予約がないから、入れてあげられます」
「ああ、ありがとうございます」その声は、ありがたい口調とは言えなかった。受付の女性は彼女を見上げた。レックスは弱々しく微笑んだ。
「技師が呼びに来ますから、少しお座りください」
既に最悪な状況である上に、無愛想な人の相手もしなきゃならない——心臓もドキドキし始めた。待合室にテトリスのように並べられた椅子の周りをうろうろし、やっと座れる場所に沈み込んだと思ったら、一番遠いドアが開いた。
「レックス・坂井さん?」
アナキン・スカイウォーカーが戸口に立っていた。悪役に変わったしまった後の彼だ。キラキラした金髪のカールは、「世界征服」を掲げた血眼の目と狂信的な表情とは対照的——黒装束の腕で合図をするまで、その頭は空中に浮いているように見えた。その真っ黒な服装が背景に融合していたために、そのように見えたようだ。
「遅刻しましたね」深く威嚇的な声がとどろいた。
「すみません、実は——」
「こちらへどうぞ」ドアの向こう側の通路に曲がっていった。
(何だ、全然不気味じゃないわ)ルークについて洞穴へ行くという、超現実的な感覚を覚えた。
椅子の間を立ち回って進んだが、戸口まで来たと思ったら、目の前でドアが閉まった。聡明な技師は、レックスのためにドアを押さえて待つことすらしなかったのだ。
ノブを回した。ロックされている。
苛立ちの感情は、手足をピクピクさせている神経質な感情より大きくなった。ドアを強く叩いたが、松葉杖のためバランスを崩しそうになった。まっすぐ立ったと思ったら、ドアがサッと開き、ミスター・ダークサイドの不機嫌な顔が見えた。
彼は手術着を渡し、クローゼットのような大きさの更衣室を指した。その部屋には座る椅子もない。数日前にスポーツドクターにもらったベルクロ(面ファスナー)とメタルでできた装具を外す間、片方の足でバランスを取らなくてはならなかった。サイボーグになった気がした。装具は床に落ちた。
ウォームアップパンツを脱ぎ、アナキンからもらった、薄っぺらな紙のショートパンツに着替えた。次は木綿のトップ。胸がなくて、ああよかった。大きすぎて、前が垂れ下がっている。
装具と洋服は床に置いたままにした。更衣室から出ようとした時、オフィスを思い出した。後ろに下がり、ドアを開けてから外に出た。アナキンは廊下の椅子に座り、足をぶらぶらさせて待っていた。彼女を見て、またしかめっ面になった。
彼は、見たこともないほど大きいトイレットペーパーのロールが押し込まれている小さい無菌室に、レックスを誘導した。ああ、トイレットペーパーじゃなくて、硬いプラスチックのようだった。そのロールに診察台が取り付けられていて、彼は黒く塗った爪でそれを突っついた。「上に乗って」
冷たく複雑な装置類のために、寒気がした。病院のようだ。振り向こうと小刻みに歩き——余分の「足」が二本あるのでかなり難しい——座った。「靴はどうすればいいですか?」
背を向けて怒ったようなうめき声を放ちながら、彼は出て行った。そして、プラスチックの袋を持って戻って来た。「私物はここに放り込んで」
靴を脱いだ。「他の服は更衣室に置いて来ました」
第一子を捧げてくださいとか、とてもできそうにないことをレックスが彼に頼んでいるかのような目つきをした。「分かった、僕が取りに行くから」彼女の足を指さした。「それをホルスターに入れてくれる」
今にも発射されそうな銃のように? レックスの癇癪みたいだ。膝をゆっくり持ち上げて、大きいセロリのように見えるプラスチックのものに入れた。
アナキンが向こう側に周り、彼女の足をつかんだ。
「痛っ!何するんですか?」
「位置を調整してるんだけど」
技師は足を引っ張り、押した。レックスは歯を食いしばり、手荒に動かされるたびに顔をしかめた。関節が熱を持ち始め、また膝が温かく感じてきた。「ちょっと! もっと怪我させる気?」
最後にもう一度引っ張った。「これでいい、横になって」
部屋を出て行った——感謝なことに——しかし、診察台がトイレットペーパーのロールの中に動き始めた。
「聞・こ・え・ま・す・か?」ロックコンサートのように大きい声で、天井のスピーカーから彼の声が飛び出した。
「下げてくれる? 聴覚障害にさせるつもり?」
「これはどうかな」
それは質問ではなく発言だったが、とにかく答えた。「大丈——」
「はい、それじゃあ、絶対に動かないように。そうしないとMRIがうまくいかないよ」
(バン! バン! バン!)最初、レックスは銃声かと思った。そうしているうちに、その音が装置から出て来ているのに気がついた。
ちょっと待って、これはいつまで続くの? トイレットペーパーのロールから出てくる爆竹に、あとどれだけ耐えられるのか分からなかった……
永遠に続くような気がした。幸運なことに、その装置はひっきりなしに音を立てているわけではなかった。やっと彼の声が、震えるほど高音量のスピーカーから聞こえて来た。「はい、終わった」
(神様、感謝します)
ウォームアップパンツを引っ張り上げるのは、茹でたヌードルを鍵穴に入れるようだったが、着替え終わった。
帰り際に、技師はMRIの写真を彼女に渡した。
「あり——」何にありがとう、というつもりだろうか? 人生で二番目に最悪の日に?
彼は気がつかなかったようだ。ただ、頭を横に振った。
「何ですか?」
「ドクターに確認した方がいいけど、君、ACLを切ったみたいだ。手術をすることになるよ」
父に白い封筒を渡される前から、レックスの心臓は張り裂けていた——冷たい日本海で真っ二つに分かれる氷河のように、耳をつんざくような鋭い音がする。
(あなたを、ワサマタユ・スポーツクラブの男女混合および女子バレーボールチームに受け入れます……)
その手紙にきちんと折り目をつけて、封筒の中に戻した。そして、膝を上げて横になっているソファの隣に置かれた、コーヒーテーブルに手紙を落とした。
彼女の入部を伝えるために、その日の午前中、ダレンから電話があった。
「ダレンさん……先週、ACLを切っちゃったんです」彼女の声は震えた。爪は電話に食い込み、甘皮が痛い。
「それは確かなの?」
「MRIを撮って、今日ドクターに会って来ました。二週間後に手術の予定です」
「レックス……」電話口で、ダレンの大きなため息が聞こえた。「故障者リストがあるけど、順番待ちリストと同じぐらい長いリストだ」
涙が頬をつたう。あごを引き締めて、舌を噛んだ。
「残念だよ、レックス。故障者リストに入れておく。もしかしたら二、三年後だね」
(カチャッ)
すべての希望の断絶。
封筒を見つめながら、唾を飲み込んだ。怪我のバカ。ACLのバカ。
封筒を取り上げて、きれいに二つに破った。そしてもう一度。さらにもう一度。小さい切れ端が、白い涙のように膝の上に降った。
「もう出来ないわ、レックス」トリッシュの血走った目は、レックスの方に動いたが、その後、居間の窓の外へ流れた。震える手で、スウェットシャツの上の錠剤を取った。
「何がもう出来ないの? トリッシュ。ACLを切ったのは初めてなのよ」トリッシュが家まで来てくれたのは、レックスを職場まで乗せて行ってくれるためだと、レックスは期待していたのだが、トリッシュがこんな状態では、彼女の車には絶対乗りたくない。「会社には病欠だって電話したの? こんなひどい二日酔いは、大学以来見たことない」
「二日酔いじゃないわ」トリッシュの返事は早すぎ、キッパリし過ぎていた。頬をこすっても、青白く腫れた顔がピンクになるだけだった。
「そうじゃなくて、疲れてたから迎えに来てくれなかったんだよね。朝十一時のMRI」
「もう謝ったじゃない」悪いと思っているようには聞こえなかった。
「じゃあさ、この埋め合わせに手術の後二、三日、助けになってよ」
「それなのよ、レックス。もう出来ないの。前の時と同じじゃない」
「前の時って? 足首の捻挫の時?」
「分かってるでしょ……あのレイプの後」
北極の冬が、彼女の心を一瞬にして凍らせた。レックスはその言葉を口にしたことが一度もなかった。トリッシュもそうだった、この時までは。線路の上の汚れた雪のように、醜い音が部屋の中でよどんでいる。「どうして——」
「あの後、すごく鬱になってたよね」
レックスはあの襲撃後の日々を——数週間にもなるかもしれないが——はっきりと覚えていない。足と腕にかけられた重みのような感覚は覚えていた。口は開いていても、あの時のことを話すことができなかった。
トリッシュは話し続けた。「あなたが受けたトラウマみたいなものは分かるわ。だけどね、あなたと一緒にいるだけで、私は感情的に疲れ果てたの」
レックスは、その頃、トリッシュが一緒にいてくれたことを覚えていた——風が吹き荒れる夜、トリッシュだけが、彼女にとっていつも輝く星だった。あの頃、トリッシュの笑顔と、レックスの腕、肩、頭に触れる彼女の手だけは——耐えられた。父と兄は別として、トリッシュだけが彼女に何が起こったのかを知っていた。ビーナスやジェニファーには話していない。ましてや祖母は知る由もない。
レックスは唾を飲み込んだ。「手術の時、あなたが助けになってくれるのを期待してたのに」
トリッシュは頭を振り、その目は壁、天井、そして窓へと流れて行った。「和夫が言うのよ。要求が多くて、いつもくっついてるあなたのために時間を取られ過ぎてるって」
「ええっ?」
「二度はできないわ、レックス」
レックスは息を呑んで、そこに座っていた。なんと言っていいのか、分からない。(ああ、分かったわ。膝とワサマタユを同時に失った今、無能者にはならない、って約束する)
トリッシュは黙ってため息をつき、振り返って玄関まで歩いていった。ドアを出て、それをしっかりと閉めた。
レックスはそのドアを見つめた。もう一度ドアがあくのではないかと期待している自分に気づき、顔をそむけた。
その眼差しは、ベルクロとメタルの黒い装具に固定された、ゴワゴワした足まで降りていった。足の痛みより、それを見るたびに感じる心の痛みの方が格段に大きかった。初めて受ける大きな手術だ。
自分がこうなるなど、思いもしなかった。捻挫や肉離れは何度かあったが、深刻なものは何もなかった。
今回は……魂から命を吸い取られた。空虚ではかない気持ちになった。
空虚ではかない気持ちになったことなど、今まで一度もなかった。いつも強くて健康的だったのに……。
もしかしたら、もう二度と強くて健康的になれないかもしれない。
目を固く閉じると、涙がポロリと落ちた。舌を強く噛んだ。その痛みのために、集中することができ、一〇億の涙の粒が溢れ出るのが抑えられた。
誰が看病してくれるだろうか? 父は金曜日に引っ越してしまい、自分も今週末には出て行かなくてはならない。見つけたコンドミニアムの部屋は階段があるから無理。だから電話をかけて、南サンノゼにあるワンルームコンドミニアムの一階を押さえた。予算に合うコンドミニアムはここだけで、トリッシュに見に行ってもらおうと思っていたが、彼女と連絡が取れないので、実際に見に行ってもいない。確かに最近のレックスは、トリッシュに頼り過ぎていたのかもしれない。レックスは彼女を窒息させていたのだろうか?
本当に、そうだったのだろうか? トリッシュに会うのは週に一回か二回、教会かバイブルスタディだけなのに? しかし、ことあるごとにトリッシュに電話をしていたのは確かだ。もしかしたら、それが彼女を苦しめていたのかもしれない。
レックスのため息は、すすり泣きに変わった。まるで、人を窒息させる濡れた毛布だ。
誰が看病してくれるだろうか? 父親? だめだ——レックスの身の回りのことを手伝うのは、絶対に苦手だ。いつもそういうことからは逃げていて、子供の頃も、レックスの叔母に任せていた。
ジェニファーは? 思いやりがあり、母親らしいことはできるだろうが、彼女は仕事がある。ビーナス? トリッシュと違い、とげのあるビーナスと親しくなったことはなかった。
誰もいない……
電話が鳴った。レックスはソファーとコードレス電話との間の距離を測り、体を引きずって、四回鳴ったときに電話を取った。「ハロー?」
「レックス、ビーナスよ。変に思うかもしれないけど、突然、あなたに電話をかけなきゃいけない気がしたの。もしかしたら神様がそう言ってるのかなと思って」
レックスは泣き出した。
ビーナスはため息をついた。「やっぱり、神様は正しかったみたいね」
(「さようなら」を言う時が来た)
レックスは、古いオーク製のドアに付けられた変なドアノッカーの形、歪んだ窓、たるんだ屋根の輪郭を目に焼き付けた。大学生の時に三人のいとこと一緒に住んだ貸家と、ほんの少しの間、一人だけで住んだコンドミニアム——そこでの暗い記憶——を除けば、この家だけだった。母はここで亡くなった。もう一度、母をそこに置き去りにするような気がした。
ビーナスがトランクをバタンと閉めた。「これで全部?」
「うん、お父さんが収納ユニットを買って、残りの段ボール箱は昨日、そこに持って行ってくれたの」レックスの持ち物を全て別にしてくれたのだ。
レックスが自分の古いホンダの助手席に乗り込む間に、ビーナスは運転席に座り、シートベルトを付けた。「本当に私の車でいいの?」
「私のはトランクが小さいから、二回往復しないといけないでしょ」
「ちょっと重すぎて心配」
「大丈夫じゃなきゃ困るわ」ビーナスがエンジンをかけた。エンジンはかかったが、止まってしまった。
「だから言ったじゃない」古い車の女神にマントラを唱えるように、レックスは手を突き出した。
ビーナスは意地悪そうに横目でレックスを見た。「ちょっと、大人になってよ」ダッシュボードを叩いて、キーを回した。
ホンダは生き返った。
「何したの?」
「車はね、祈りよりいじめに反応するのよ」
フリーウェイに乗っている間、車が駄々をこねた。特にビーナスの速度では。普通の道に降りてからも反抗し、煙を吐き出し、赤信号を出る時は、必ずガクンと動いた。ノロノロと新しいコンドミニアムの敷地の私道に入った頃には、ホンダはうめき、パチパチ音を立てていた。
ビーナスはドアをバタンと閉め、さびたボンネットの上でレックスに指を突き出した。「こんな車、よく乗ってるわね」
レックスは腕を広げた。「新車を買うお金があると思う?」松葉杖をつきながら、管理人の部屋に向かった。
陽気なヒスパニック系の女性がグレーの巻毛を軽く叩いて直しながら、ニンニクのにおいをさせて、ドアに出て来た。
「こんにちは、レックス・坂井です。一階のコンドミニアムを借りることになってます」
「ああ、そうそう。待ってたのよ。あら、膝の怪我? どうりで一階がいいわけね。気にいると思うわ。以前の所有者は犬を飼ってたんだけど、七年前に出てったから、もう、におわないでしょ。はい、これが鍵——でも松葉杖じゃ持てないわね。一緒に行くわ。吊り鉢に気をつけてね——ああ、あれが引っ掛かったかしら? あそこにあるミセス・デラローザのパンジーには気をつけてね。あそこで息を吸っただけで死ぬんじゃないか、って思うこともあるんだけど、ミセスが怒るの。ああ、パークスさんの犬は心配しなくてもいいわよ。セキュリティドアの外には出てこられないから、噛むより吠えるの。パークスさんは、必ず一日に二回散歩させてるわ。はい、ここよ。ドアを開けるわね。はい、どうぞ。ようこそ!」管理人の女性はドアを勢いよく開け、ヴァンナ・ホワイトの指輪のようなのをつけた指を揺らした。
カビくさい——長い間空き部屋だった。バスルームに続く廊下はちょっと狭いかもしれないけれど、ベッドと段ボール箱を置くには十分な床スペースがある。毛足が短いカーペットはシミがついているが、清潔だ。壁にも同じことが言えた。小さい簡易キッチンが壁全体を占めていた。
「ええ……大丈夫です」レックスは礼儀正しく微笑もうとした。
「ああ、お友達があなたの荷物を持って来てくれたのね。それじゃ、お邪魔しないように失礼するわ。これが鍵ね。カウンターに置くわ。何か必要なものがあったら、いつでも聞いてちょうだいね」逃げていった。
すごく、よくしゃべる人だ。親切だが、詮索好きかもしれない。
ビーナスは敷居をまたいで、立ち止まり、じっと見た。顔をしかめないよう努力した。「レックス、本当にこれでいいの?」
「私に選択肢があるっていうの? 他のところは予算に合わなかったのよ」
「ゴミ捨て場みたいじゃない」
「ビーナス、『愛をもって真理を語り』はどうなったの?」
「これは愛よ。私がこの段ボール箱をここに放り込んだ後、あなたをここに置き去りにしないで手伝ってあげるんだから、あなたはラッキーよ」
冗談だとは分かっていたが、レックスは、この薄汚い環境に押し潰されそうになった。
ビーナスは、持っていた箱を隅においた。「ベッドのパーツを持ってくるわね」軽いから彼女一人でも大丈夫、よかった。
ビーナスが出ていった後、開いたドアに頭が見えた。「ハーロウ?」
「ハイ」レックスは笑って挨拶した。シワクチャの丸顔、丸い体型、巻き髪にしたグレーの髪の毛すら中国系ベーカリーのパンのように丸い。
彼女が笑うと目がなくなり、口は膨らんだ餃子のような形だ。「私、ミセス・チャング。となり」
ビーナスとジェニファーの父親が中国人なので、少しだけ言葉が分かった。「ニーハオ、マ?」
ミセス・チャングはケラケラと笑った。「あなた、アクセントひどい」
レックスは笑った。
「ジャパニー?」
レックスはうなずいた。
「あなた、シュウドウフ食べる?」
何だろう? レックスは肩をすくめ、頭を横に振った。
「少しあげる」ミセス・チャングはいなくなった。
アルミニウムのベッドの枠を一つ持って、ビーナスが現れた。「お隣さん?」
「そう思う。中国人よ」
「広東語かマンダリンかどっち?」
「知らないわ。どっちがどっちか分からないもん」
ビーナスはお尻に手をおいた。「どうして分からないの? トリッシュは分かるわよ。一〇〇パーセント日本人なのに」
「これはね、五○パーセントの日本人の血から来てるの」
「お父さんがマンダリンだけでも教えてくれてよかった」
「トリッシュは、歌を歌うから分かるのよ——音楽的な耳を持ってる。私が分かる音は、バレーボールが跳ね返ったかと、グシャッとつぶれたかだけ」
ビーナスは不本意ながら、面白がって鼻先で笑った。
「あなたのお父さん、いつボックススプリング(ベッドのばね)とマットレスを持ってくるの?」
「三時まで用事がある、って言ってたから、うちに帰って荷物を取って、四時ごろかな」
「用事って、どんなこと?」
レックスは肩をすくめた。「聞かなかった。話したくないみたいだったし」
ビーナスは腰に手をおいた。
「あなたたち親子って、コミュニケーション不足よね。今までどうやって物事をやり終えてきたんだか」
「ちょっと、ちょっと。兄一人とシングルファーザーの家で育ったのよ。朝起きた時におはよう、って言ってもらえるだけでもラッキーでしょ」
「ハーロウ?」またミセス・チャングの頭が見えた。「持ってきた——」
ビーナスは日本の弓矢のようにビシッと言った。「レックス——」
「ありがとう、ミセス・チャング」レックスは薄茶色の四角い物が入ったプラスチックの容器を受け取った。揚げ豆腐のように見える。
うっ、何のにおいだろう? もしかして、ビーナスが——
ビーナスの口は作り笑いで固まり、レックスにつぶやいた。「開けちゃダメ。ミセス・チャングにはありがとう、とだけ言って」
「何の話?」レックスは容器を引っ張った。彼女は中国の食べ物が大好きだった。ジェニファーのお父さんが作ってくれるものは、英語の名前が分からないものでも何でも食べた。
「ベッドの残りのパーツを取ってくるから」ビーナスは忍者のように消えてしまった。
ミセス・チャングが食べ物を指して、顔を輝かせた。「好き? よかった」
蓋が少し開いた。(プワアアアン)
ここまで腐ったにおいがするものを嗅いだのは、生まれて初めてだった。さっと蓋を元に戻した。目から涙が出てきたが、顔をピシャリと打って、こぼれるような笑顔を浮かべた。「あ、ありがとうございます、ミセス・チャング」
「もっと欲しい、私に言う」彼女は向きを変えて、消えた。
ビーナスがベッドの残りのパーツを持って現れ、部屋に入りながら息を詰まらせている。「バカね、開けちゃダメだって言ったでしょ」
レックスは、何かに突き刺されたような目から溢れる涙を拭いた。「一体、何? あれ」
「臭豆腐。だんだん好きになる味らしいわよ」
「本当に食べられるの?」
「うちの親の猫でも食べないわ」
「ゲゲッ」レックスはその容器をカウンターに投げた。「あなたの言うことを無視して、心から謝るわ」
「謝ってるの? 珍しいこともあるのね」ビーナスが目を大きく開けた。
「ほっといてよ」
ビーナスはクスクス笑いながら、ベッドの枠を組み立て始めた。「ここから会社まで、ちょっと遠いんじゃない?」
「一時的なことだから、いいの」
「休みを取るのは大丈夫なの?」
「うん、ラッセルは大丈夫だって」レックスは、装具についているベルクロのストラップを引っ張った。
「それに、手術の後、六週間ぐらいで復職できるって、ドクターが言ってた。でも、リハビリもあるから、毎週PTのために仕事を抜けなきゃいけないんだ」
「自分で運転できるようになるまで、私がPTに連れて行くことになるのね」
レックスは顔をしかめた。「そうなの? ビーナス、ほんとにありがとう」空中のホコリのために咳が出た。「手術が終わって、階段を昇れるようになったら、タウンハウスの部屋を探すわ」
ビーナスは、アルミニウムの枠をパチっとはめた。何かが目に留まった。何か向こう側の隅にあるものを見て、目を細めている。レックスもチラッと見た。カーペットの上に小さい点がある。
その点が動いた。
「キャアアアッ!」ビーナスは段ボール箱の上にのって膝をついた。レックスは別の箱に座り、足を上げた。
ネズミが走っていった。
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