【ひとり寿司】第7章
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レックスは、駐車場にある歩道の縁石の外側にすわった。太陽の弱い光のために頭が温かくなり、ストレートヘアがヘルメットのように感じられた。もう一度、深く息を吸ったが、ありがたいことに何もにおわない。少なくとも強いにおいはしない。刈られた芝が、土と何か花のようなにおいと混じったような、かすかなにおいがするだけで、ただ新鮮で無臭の空気だ。レックスの火山のような胃を、もう一度、噴火させるようなものは何もない。
靴のかかとの周りで円を描いているアリを見つめた。このスタートアップの会社で、レックスはあまり優秀な働きアリではなかった。女王アリは、エベレットやアンナの上司のように、理性がないものなのだろうか。
辞めるべきなのか——
いや、それは良くない。満たされているべきではないのか?「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました」と聖書に書いてある……
レックスがエベレットと口論になったように、使徒パウロは、ペテロとの筋の通らない口論に耐えたのだろうか? ペテロはエベレットより理性のある男のはずだ。
忍耐が必要だった。走り出したレース、走り通さなくては。自分の敵を愛さなくてはならない。
もっと強い胃が必要だった。
辞めてしまえば——
(言ってはダメだ!)
ピピッ、ピピッ。変わった鳥のさえずり……ああ、携帯の音だ。「ハロー?」
「レックス、チェスターだけど」
このいとこは滅多に電話をかけてこない。「どうしたの?」
「今日は笑顔にさせてみせるよ。欠員が出たんだ」
「うるさいわね! どうせ嘘でしょ。で、どんな職種?」
「実は……さ」
やっぱり。「チェスター、嘘をつくんじゃないわよ」
「受付」
レックスはうめき声をあげた。「お給料はいくら?」
「最低賃金」
減給か。だけど——SPZで欠員が出るのはめずらしい! SPZはシリコンバレーで人気のドットコム企業ではないが、北米のスポーツ系ウェブサイトのメッカで働くなんて、夢のようだ。毎日、一日中スポーツづくし。高校、大学、そしてプロ。山積みのスタッツ(スコア表)。レックスの頭はぐるぐる回り始めた。
彼女に受付がつとまるのだろうか? 考えただけで、少し身がすくんだ。メークをして、小ぎれいなスーツを着、バカな人たちに礼儀正しくする? これまでだって、レックスは、バ〇な精神異常者たちに親切にしてきた。「いいきっかけになるよね、チェスター?」
「もちろん。社内で配置換えがちょっとあったけど、SPZは去年の七月から誰も採用してないんだ。それにレックス、かなり恩着せがましいんだけど——採用担当者とは個人的な知り合いなんだよね」
「履歴書をメールするわ、今晩」
**********
「ちょっと、それ、下げてよ!」レックスは椅子の背にもたれて、居間に続くキッチンのドアから叫んだ。テレビの音量は変わらない。
はっきりと言った。「お父さん! リチャード!」
「分かった、分かった」兄のリチャードはソファから滑り降り、コーヒーテーブルのリモコンをつかんだ。バスケットボールの試合の音量は、ほんのわずかだけ小さくなった。
レックスは自分の古いラップトップをにらんでいる。腕をキッチンテーブルにもたれさせようと椅子を後ろに押したら、金属製の脚が、割れ目のできたリノリウムの床の上でキーッと鳴った。
「学歴、サンノゼ州立大学……」
解説者の声で集中できない。「おおっ! コービー・ブライアントのショット。レイカーズ、三点リード……」
「専攻、電気工学……」
「熱気を感じないのか? サンズが同点……」
「職務経験……シティビーチ・バレーボールクラブ、受付……」二日で解雇されたことは書かなくてもいいだろう。
「あと四秒、あーっ! あのファウルは痛いよな……」
「ペア・テクノロジーで製造エンジニアを二年間……」
「またフリースローをミス! サンズはプレイオフのチャンスがあるぞ!」
「大変——」レックスは椅子から飛び上がり、居間へとダッシュした。これは見ないといけない。スティーブ・ナッシュの綺麗なショットが空中を飛び、カメラのフラッシュが光るのが見えた……
「入った! サンズが勝った!」
リチャードがブツブツ言いながら、たるんだソファに沈み込む一方、レックスと父親は勝利の拳を合わせた。
キッチンに戻る途中、レックスは何か柔らかいものを踏んだ。リチャードが夕方帰ってきた時に脱いだ、汚れた靴下だった。「リチャード、その隅にあと三足あるわよ」レックスは、ソファの隅に積み上がった灰色の靴下を指して首を振った。そして、自分の足元にある靴下をリチャードの方に蹴飛ばした。
「ああよかった、足りなくなってきたんだ」
「それに、ここでは洗濯しないで。洗濯機の調子が悪いの。自分のコンドミニアムでやってね」
「コインランドリーは二ドルもするんだぞ!」
「関係ない」レックスはキッチンに歩いていった。
キッチンに戻ると、流し台にお皿とコップが山積みになっているのが見えた。居間に引き返して叫んだ。「それから、今晩帰る前にお皿を洗ってね!」
「はいはい」
「絶対に!」
「親父もお皿を使ったんだけどな」
「いつもあなたのお皿を洗うのはお父さんよ! 今日こそ、自分のお皿だけは洗ってもらうわよ!」
「もしかして、月のもの?」
「日曜日にあなたのために料理するの、やめるわよ」
リチャードがうなったのは、お皿を洗います、という意味だ。一人暮らしの彼にとって、テークアウトのピザや中華料理は、すぐに古くなる。
レックスはまたテーブルに腰掛け、トラックパッドに触れた。
何も起こらない。マウスの矢印は動かなかった。
「ええっ、やだ、ちょっと待って!」
「何してんの?」リチャードがぶらぶらとキッチンに歩いてきて、隣の椅子に座った。彼の腕がレックスの腕に触れ、レックスは引きつった。
「履歴書。コンピュータがフリーズするまではね」キーを数回たたいてみた。
「とうとうペアを辞めたのか?」
「まだよ」レックスは、何も変わらない画面をにらみつけた。
「それは、なんて会社に出すんだよ?」
レックスは何度もキーをたたいた。「SPZ」
「わ、スゲーッ! どんな仕事? 俺、プログラマーなんだよね——こっちが応募したいよ」
レックスは意地悪な目つきで彼を見た。「へーえ、このポジション、あなただったら理想的ね」ラップトップを再起動した。
リチャードはレックスのことを知りすぎていた。彼の興奮した表情は、用心深く慎重な表情に変わっていった。「どんなポジション? 当ててみようか。清掃作業員」
「違う、もっとあなたが得意なことよ。だってあなた、とってもキュートだから」ちょっと頭がおかしい、彼の元カノのしぐさを真似て、レックスは存在もしないまつげをパチパチさせた。
リチャードは目を閉じ、低く息を吐いた。「もう諦めたよ。あいつは中国に帰ったんだ。で、どんなポジションなんだよ」
「受付」
リチャードは咳払いした。「は? 受付? 他人の問題に耳を貸さないお前が?」
「だって、SPZよ! それに、ペアにはもういられないの」
「ついに認めるのか? 二年も不屈の精神で、いいクリスチャンの女の子を演じてきたのに」
「一秒でも私の信仰をけなさないでくれる?」
「分かった、分かった。それで、なんで辞めたいんだよ」
「アドミ(事務員)の魔女。プリンセスのキャリー。ゴシップ・ツイン。ブタ野郎のエベレット。酔っ払いのジェリー」
「いつも文句を言ってることじゃないか。今回は、どこが違うっていうんだよ……」
レックスはホラーを再体験したくなかった。「あの人たちの知り合いには絶対に会いたくない、って分かったの」
「会うって、なんだよ、それ」リチャードの鮮やかな眉は、そのいかめしい鼻とよく合っている。
おっと、口が滑った。リチャードのことは大好きだが、祖母の最終通告のことは、絶対、彼に言えない。「あの会社の人から不動産屋を紹介してもらおうと思ったんだけど、救いようがない人たちだから、彼らに紹介してもらうべきじゃない、って気がついたの。そんでチェスターから電話をもらって、『もう辞めちゃって、本当に気に入ったところで働きたい』って思ったのよ」
「給料は減るんだろ?」
「だけど考えてみて。SPZよ。ネット上で唯一最大のスポーツ系。スポーツ業界のアイポッドみたいなものよ。それよりいいとこ、ある?」
「無給じゃなくて、受付じゃない仕事」
「何でそんなに後ろ向きなの? 毎日スポーツに囲まれていられるのよ。私にとっては涅槃(仏教で悟りの境地)にいるようなもんだわ」
「電話応対と、バカなやつらとの会話が涅槃?」リチャードはレックスのことをよく分かっていた。
「昇進や異動の可能性もある。あそこで働けるなんて、夢にも思わなかった。あそこは新人を滅多に雇わないし、私はスキルもない。これはチャンスなの」
リチャードは再起動したコンピュータを見ている。「不動産屋を紹介して欲しいんだったっけ? 最低賃金で働いてたら、出て行けないだろ。もっともこのベイエリアじゃあ無理なことだけど」
確かにそうだ……「少しは貯めたわ。あと一、二ヶ月お父さんのところにいれば、十分頭金になる。それに、ひと部屋誰かに貸そうと思ってる——そうしてる人は多いでしょ」
「不動産屋、知ってるよ」
「ほんと?」
リチャードは一瞬、いつものニヤッとした笑顔を見せた。猫がキハダマグロのステーキに飛びつくように、女の子達が彼に群がる時に見せる笑顔だ。「それに、そいつお前のタイプだよ」
「違う——」嫌悪に満ちた否定の言葉が自然に出たが、自分の忙しない生活の中で、何が変わったのかをレックスは思い出した。つまり、祖母の爪だ。「へえ……いいわね」
リチャードの眉は、整った四〇〇ドルのヘアスタイルの下に隠れた。「まじ?」急いで付け加えた。「そうだなあ、他に勧められる業者はいないな」彼の目が細くなり、作り笑いのためにエクボが光った。「不動産屋っていう意味だよ。もしかして、デート相手のオススメを期待してた?」
「うるさい」
リチャードは笑った。
**********
ジョージは、アジア版バックストリートボーイズのような顔をしていた——すっきりとした美形、言い表せないようなキラキラした魅力。ちょっとセクシー。
「こんにちは」レックスは熱いお茶が入ったコップから手を離すように、指を開いたり閉じたりしている。ビジネスの場ですら、初めての男性との接触にはまだ慣れることができない。
彼はそれに気がついていない。別の手をレックスの肩に置いた——安心させようとするジェスチャーなのだが、レックスは競走馬のように飛び跳ねたくなる。(手をどけて)
「いいコンドミニアムがいくつかある。気にいると思うよ」レックスが大きく一歩下がったので、ジョージはとうとう手をどかした。
「見に行きましょう」
「僕が運転するよ」自慢そうに、キラリと光るレクサスSUVを指さした。
「自分の車でついて行きます」
コンドミニアムを見ながら、レックスはゴルディロックスになった気がした。椅子を貸してくれる子熊はいないし、お粥もベッドもなかったが。
一つめの家は遠すぎる。今の職場からではなく、SPZで働くことになったら、軽く一時間以上のドライブだ。
二つめの家は、値段が桁外れに大きかった——今の給料だったら悪くないが、最低賃金の場合、さらに三割増しの支払いになる。それに、少なくともローン申請が通るまで転職の予定を隠しておくのは難しかった。
三つめの家は、「要修理」というラベルが貼られたボロ家だった——受付嬢の給料でも手の届く値段だが、二年間は毎日ラーメン暮らしになるだろう。それに、正式な所有者となって一息ついたとたんに崩れ落ちそうな、薄汚い空気が漂っていた。
「今日のところは、こんなもんだね」ジョージは、レックスのさびたバケツのような車まで一緒に歩いた。彼の巨大なレクサスの隣にあると、哀れに見える。
「ジョージさん、時間を取ってくださって、ありがとうございました」(辞めたらこういう家を買うお金はなくなるけど、辞めるつもりだと言えば、融資担当者は煙を吐きながら走るダットサンより早く、私を見捨てるわ)
「この後、家に帰る予定?」ジョージはレックスの車にもたれかかっている。彼女のホンダは、ため息をつくようにきしんだ。
業者にしては変な質問だ。「ええ……そうですけど」
「今晩、一緒に食事でもどうかな、と思って」
(ええっ!)ジョージは今、本当のデートに誘ったのだろうか? シリコンバレーのエンジニアがするような安全策を取って、「メルアド教えて」とは言わなかった。スタバでコーヒー、でもない。ちゃんとしたディナーだ。(お嬢さん、勝ち組ね)
彼の腕の中に飛び込むべきだったかな? レックスはためらった。暗い思い出が、心の隅々で巣を張っていた。お腹の中が一瞬、締め付けられ、緩んだ。
(大丈夫、できるわ)バレーボールの女の子達がレックスを必要としていた。祖母は勝てない。
「ディナーいいですね、ジョージさん。どこに行きましょうか?」
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第7章
レックスは、駐車場にある歩道の縁石の外側にすわった。太陽の弱い光のために頭が温かくなり、ストレートヘアがヘルメットのように感じられた。もう一度、深く息を吸ったが、ありがたいことに何もにおわない。少なくとも強いにおいはしない。刈られた芝が、土と何か花のようなにおいと混じったような、かすかなにおいがするだけで、ただ新鮮で無臭の空気だ。レックスの火山のような胃を、もう一度、噴火させるようなものは何もない。
靴のかかとの周りで円を描いているアリを見つめた。このスタートアップの会社で、レックスはあまり優秀な働きアリではなかった。女王アリは、エベレットやアンナの上司のように、理性がないものなのだろうか。
辞めるべきなのか——
いや、それは良くない。満たされているべきではないのか?「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました」と聖書に書いてある……
レックスがエベレットと口論になったように、使徒パウロは、ペテロとの筋の通らない口論に耐えたのだろうか? ペテロはエベレットより理性のある男のはずだ。
忍耐が必要だった。走り出したレース、走り通さなくては。自分の敵を愛さなくてはならない。
もっと強い胃が必要だった。
辞めてしまえば——
(言ってはダメだ!)
ピピッ、ピピッ。変わった鳥のさえずり……ああ、携帯の音だ。「ハロー?」
「レックス、チェスターだけど」
このいとこは滅多に電話をかけてこない。「どうしたの?」
「今日は笑顔にさせてみせるよ。欠員が出たんだ」
「うるさいわね! どうせ嘘でしょ。で、どんな職種?」
「実は……さ」
やっぱり。「チェスター、嘘をつくんじゃないわよ」
「受付」
レックスはうめき声をあげた。「お給料はいくら?」
「最低賃金」
減給か。だけど——SPZで欠員が出るのはめずらしい! SPZはシリコンバレーで人気のドットコム企業ではないが、北米のスポーツ系ウェブサイトのメッカで働くなんて、夢のようだ。毎日、一日中スポーツづくし。高校、大学、そしてプロ。山積みのスタッツ(スコア表)。レックスの頭はぐるぐる回り始めた。
彼女に受付がつとまるのだろうか? 考えただけで、少し身がすくんだ。メークをして、小ぎれいなスーツを着、バカな人たちに礼儀正しくする? これまでだって、レックスは、バ〇な精神異常者たちに親切にしてきた。「いいきっかけになるよね、チェスター?」
「もちろん。社内で配置換えがちょっとあったけど、SPZは去年の七月から誰も採用してないんだ。それにレックス、かなり恩着せがましいんだけど——採用担当者とは個人的な知り合いなんだよね」
「履歴書をメールするわ、今晩」
「ちょっと、それ、下げてよ!」レックスは椅子の背にもたれて、居間に続くキッチンのドアから叫んだ。テレビの音量は変わらない。
はっきりと言った。「お父さん! リチャード!」
「分かった、分かった」兄のリチャードはソファから滑り降り、コーヒーテーブルのリモコンをつかんだ。バスケットボールの試合の音量は、ほんのわずかだけ小さくなった。
レックスは自分の古いラップトップをにらんでいる。腕をキッチンテーブルにもたれさせようと椅子を後ろに押したら、金属製の脚が、割れ目のできたリノリウムの床の上でキーッと鳴った。
「学歴、サンノゼ州立大学……」
解説者の声で集中できない。「おおっ! コービー・ブライアントのショット。レイカーズ、三点リード……」
「専攻、電気工学……」
「熱気を感じないのか? サンズが同点……」
「職務経験……シティビーチ・バレーボールクラブ、受付……」二日で解雇されたことは書かなくてもいいだろう。
「あと四秒、あーっ! あのファウルは痛いよな……」
「ペア・テクノロジーで製造エンジニアを二年間……」
「またフリースローをミス! サンズはプレイオフのチャンスがあるぞ!」
「大変——」レックスは椅子から飛び上がり、居間へとダッシュした。これは見ないといけない。スティーブ・ナッシュの綺麗なショットが空中を飛び、カメラのフラッシュが光るのが見えた……
「入った! サンズが勝った!」
リチャードがブツブツ言いながら、たるんだソファに沈み込む一方、レックスと父親は勝利の拳を合わせた。
キッチンに戻る途中、レックスは何か柔らかいものを踏んだ。リチャードが夕方帰ってきた時に脱いだ、汚れた靴下だった。「リチャード、その隅にあと三足あるわよ」レックスは、ソファの隅に積み上がった灰色の靴下を指して首を振った。そして、自分の足元にある靴下をリチャードの方に蹴飛ばした。
「ああよかった、足りなくなってきたんだ」
「それに、ここでは洗濯しないで。洗濯機の調子が悪いの。自分のコンドミニアムでやってね」
「コインランドリーは二ドルもするんだぞ!」
「関係ない」レックスはキッチンに歩いていった。
キッチンに戻ると、流し台にお皿とコップが山積みになっているのが見えた。居間に引き返して叫んだ。「それから、今晩帰る前にお皿を洗ってね!」
「はいはい」
「絶対に!」
「親父もお皿を使ったんだけどな」
「いつもあなたのお皿を洗うのはお父さんよ! 今日こそ、自分のお皿だけは洗ってもらうわよ!」
「もしかして、月のもの?」
「日曜日にあなたのために料理するの、やめるわよ」
リチャードがうなったのは、お皿を洗います、という意味だ。一人暮らしの彼にとって、テークアウトのピザや中華料理は、すぐに古くなる。
レックスはまたテーブルに腰掛け、トラックパッドに触れた。
何も起こらない。マウスの矢印は動かなかった。
「ええっ、やだ、ちょっと待って!」
「何してんの?」リチャードがぶらぶらとキッチンに歩いてきて、隣の椅子に座った。彼の腕がレックスの腕に触れ、レックスは引きつった。
「履歴書。コンピュータがフリーズするまではね」キーを数回たたいてみた。
「とうとうペアを辞めたのか?」
「まだよ」レックスは、何も変わらない画面をにらみつけた。
「それは、なんて会社に出すんだよ?」
レックスは何度もキーをたたいた。「SPZ」
「わ、スゲーッ! どんな仕事? 俺、プログラマーなんだよね——こっちが応募したいよ」
レックスは意地悪な目つきで彼を見た。「へーえ、このポジション、あなただったら理想的ね」ラップトップを再起動した。
リチャードはレックスのことを知りすぎていた。彼の興奮した表情は、用心深く慎重な表情に変わっていった。「どんなポジション? 当ててみようか。清掃作業員」
「違う、もっとあなたが得意なことよ。だってあなた、とってもキュートだから」ちょっと頭がおかしい、彼の元カノのしぐさを真似て、レックスは存在もしないまつげをパチパチさせた。
リチャードは目を閉じ、低く息を吐いた。「もう諦めたよ。あいつは中国に帰ったんだ。で、どんなポジションなんだよ」
「受付」
リチャードは咳払いした。「は? 受付? 他人の問題に耳を貸さないお前が?」
「だって、SPZよ! それに、ペアにはもういられないの」
「ついに認めるのか? 二年も不屈の精神で、いいクリスチャンの女の子を演じてきたのに」
「一秒でも私の信仰をけなさないでくれる?」
「分かった、分かった。それで、なんで辞めたいんだよ」
「アドミ(事務員)の魔女。プリンセスのキャリー。ゴシップ・ツイン。ブタ野郎のエベレット。酔っ払いのジェリー」
「いつも文句を言ってることじゃないか。今回は、どこが違うっていうんだよ……」
レックスはホラーを再体験したくなかった。「あの人たちの知り合いには絶対に会いたくない、って分かったの」
「会うって、なんだよ、それ」リチャードの鮮やかな眉は、そのいかめしい鼻とよく合っている。
おっと、口が滑った。リチャードのことは大好きだが、祖母の最終通告のことは、絶対、彼に言えない。「あの会社の人から不動産屋を紹介してもらおうと思ったんだけど、救いようがない人たちだから、彼らに紹介してもらうべきじゃない、って気がついたの。そんでチェスターから電話をもらって、『もう辞めちゃって、本当に気に入ったところで働きたい』って思ったのよ」
「給料は減るんだろ?」
「だけど考えてみて。SPZよ。ネット上で唯一最大のスポーツ系。スポーツ業界のアイポッドみたいなものよ。それよりいいとこ、ある?」
「無給じゃなくて、受付じゃない仕事」
「何でそんなに後ろ向きなの? 毎日スポーツに囲まれていられるのよ。私にとっては涅槃(仏教で悟りの境地)にいるようなもんだわ」
「電話応対と、バカなやつらとの会話が涅槃?」リチャードはレックスのことをよく分かっていた。
「昇進や異動の可能性もある。あそこで働けるなんて、夢にも思わなかった。あそこは新人を滅多に雇わないし、私はスキルもない。これはチャンスなの」
リチャードは再起動したコンピュータを見ている。「不動産屋を紹介して欲しいんだったっけ? 最低賃金で働いてたら、出て行けないだろ。もっともこのベイエリアじゃあ無理なことだけど」
確かにそうだ……「少しは貯めたわ。あと一、二ヶ月お父さんのところにいれば、十分頭金になる。それに、ひと部屋誰かに貸そうと思ってる——そうしてる人は多いでしょ」
「不動産屋、知ってるよ」
「ほんと?」
リチャードは一瞬、いつものニヤッとした笑顔を見せた。猫がキハダマグロのステーキに飛びつくように、女の子達が彼に群がる時に見せる笑顔だ。「それに、そいつお前のタイプだよ」
「違う——」嫌悪に満ちた否定の言葉が自然に出たが、自分の忙しない生活の中で、何が変わったのかをレックスは思い出した。つまり、祖母の爪だ。「へえ……いいわね」
リチャードの眉は、整った四〇〇ドルのヘアスタイルの下に隠れた。「まじ?」急いで付け加えた。「そうだなあ、他に勧められる業者はいないな」彼の目が細くなり、作り笑いのためにエクボが光った。「不動産屋っていう意味だよ。もしかして、デート相手のオススメを期待してた?」
「うるさい」
リチャードは笑った。
ジョージは、アジア版バックストリートボーイズのような顔をしていた——すっきりとした美形、言い表せないようなキラキラした魅力。ちょっとセクシー。
「こんにちは」レックスは熱いお茶が入ったコップから手を離すように、指を開いたり閉じたりしている。ビジネスの場ですら、初めての男性との接触にはまだ慣れることができない。
彼はそれに気がついていない。別の手をレックスの肩に置いた——安心させようとするジェスチャーなのだが、レックスは競走馬のように飛び跳ねたくなる。(手をどけて)
「いいコンドミニアムがいくつかある。気にいると思うよ」レックスが大きく一歩下がったので、ジョージはとうとう手をどかした。
「見に行きましょう」
「僕が運転するよ」自慢そうに、キラリと光るレクサスSUVを指さした。
「自分の車でついて行きます」
コンドミニアムを見ながら、レックスはゴルディロックスになった気がした。椅子を貸してくれる子熊はいないし、お粥もベッドもなかったが。
一つめの家は遠すぎる。今の職場からではなく、SPZで働くことになったら、軽く一時間以上のドライブだ。
二つめの家は、値段が桁外れに大きかった——今の給料だったら悪くないが、最低賃金の場合、さらに三割増しの支払いになる。それに、少なくともローン申請が通るまで転職の予定を隠しておくのは難しかった。
三つめの家は、「要修理」というラベルが貼られたボロ家だった——受付嬢の給料でも手の届く値段だが、二年間は毎日ラーメン暮らしになるだろう。それに、正式な所有者となって一息ついたとたんに崩れ落ちそうな、薄汚い空気が漂っていた。
「今日のところは、こんなもんだね」ジョージは、レックスのさびたバケツのような車まで一緒に歩いた。彼の巨大なレクサスの隣にあると、哀れに見える。
「ジョージさん、時間を取ってくださって、ありがとうございました」(辞めたらこういう家を買うお金はなくなるけど、辞めるつもりだと言えば、融資担当者は煙を吐きながら走るダットサンより早く、私を見捨てるわ)
「この後、家に帰る予定?」ジョージはレックスの車にもたれかかっている。彼女のホンダは、ため息をつくようにきしんだ。
業者にしては変な質問だ。「ええ……そうですけど」
「今晩、一緒に食事でもどうかな、と思って」
(ええっ!)ジョージは今、本当のデートに誘ったのだろうか? シリコンバレーのエンジニアがするような安全策を取って、「メルアド教えて」とは言わなかった。スタバでコーヒー、でもない。ちゃんとしたディナーだ。(お嬢さん、勝ち組ね)
彼の腕の中に飛び込むべきだったかな? レックスはためらった。暗い思い出が、心の隅々で巣を張っていた。お腹の中が一瞬、締め付けられ、緩んだ。
(大丈夫、できるわ)バレーボールの女の子達がレックスを必要としていた。祖母は勝てない。
「ディナーいいですね、ジョージさん。どこに行きましょうか?」
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