【ひとり寿司】第8章
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カリフォルニアの服装規定はカジュアル。助かった。サンタナ・ローのクラスタシアン・レストランに入ると、レックスがはじめに抱いていた心配は、消えてなくなった。客の多くはジーンズ。だから彼女のシンプルな木綿のシャツは、場違いではない。
こんなにハンサムな男性と同席するなんて、何か特別な人になった気がした。ただ、品定めをする女性の眼差しに、ジョージは気がついているようだった。
「あの子たちのこと、知ってるんですか?」露出度の高い服を着て、まつ毛をパチパチさせ、くすくす笑っている女の子達に、レックスは会釈した。
ジョージは、注意をさっとレックスに戻した。「あ……いや」明るく、暖かい微笑みが光った。女の子達が彼の肩越しにため息をついているのが見えなければ、レックスはその微笑みに包み込まれるように感じたのかもしれない。(見たいだけ見ればいいわ、お嬢ちゃんたち。この人は私のデート相手よ)
彼はそうやって注目されるのを歓迎しているようだったが、「エペソ」のリスト五番め——「誠実さ」という問題を考えると、幸先が良くない。まあ、食事が終わるまで、このリストとジョージを比較することにしよう。
レックスはメニューをさっと見たが、食べたいものはもう決まっていた。いつもと同じものだ。
ジョージが顔を上げてレックスを見た。「カニ入りワンタンの前菜、一緒に食べない?」
「もちろん、おいしそうですね」リストに追加しよう。(私と同じぐらい美味しい食事を楽しむことができる人)
ウエイトレスが、紗のような宝石をちりばめたベトナムの民族服を着て、(映画アラジンの)ジニーのようにテーブルに現れた。「ご注文はお決まりですか?」鈴が鳴るような声だ。
ジョージの目は、メニューからウエイトレスの顔まですっと上がるのではなく——そのスレンダーな曲線の上をゆっくりと動いていった。レックスはあごが引きつった。リストにある「誠実さ」を考えると、ツー・ストライク。このデートはすぐに終わるかもしれない。
「カニ入りワンタンはシェアします。それから、僕はシーザーサラダと、ガーリックでローストしたカニ入りのガーリックヌードル」
少なくとも、食べ物の趣味はいい。「私も同じものをお願いします」レックスは大きいメニューをウエイトレスに返した。
「君、ペア・テクノロジーで働いてるの?」
レックスは嫌な顔をした。実に話したくない話題だ。「ええ、まあ」
「仕事はどう?」
「ええっと……」上司はシンデレラの邪悪な継父、同僚は七人の小人より風変わり、それにレックスは、エジプトで奴隷だったイスラエル人以上に働かされていた。一番正しい答えではないが、「まあまあ、です」
気まずい沈黙が二人の間を漂った。と言うか、食べ物がたくさん載ったお皿を誰かが床に落とした時に静まり返るレストランのように、バツの悪い静けさだった。
「ねえレックス、ミスター・ロボット、っていうペンネームのアジア人作家のベストセラー、読んだことある?」
レックスは瞬きした。冗談、だよね?「あの……ミスター・ロボットはアジア人じゃないと思います」
「何言ってるの? もちろんアジア人だよ。あの有名な歌は中国語か何かだよね」
レックスはジョージをじっと見すぎて、目が寄ってきた。こいつは完全なバカだ。「『ドモ、アリガト』は日本語で、あの歌はスティクスのです」
ジョージは、(何当たり前のことを言ってるんだ)という目を向けた。「あの、『すき焼きソング』もそのグループだよね」
「えっ?」すき焼きは、テイスト・オブ・ハニーとかいうグループじゃなかったっけ?
ジョージは深く腰掛け、その目は半ば閉じている。「知らなかった? 君、アジア系だから知ってると思ったよ」彼は笑った。見下してレックスの頭を軽く叩くようなことだけはしなかったが。
レックスの目が細くなった。こんな阿呆だったなんて、あり得ない——
ここベイエリアで、レックスがアジア系であることを話のネタにする人は滅多にいなかった——ダラスに住んでいる人が、誰かのテキサスなまりを話題にするようなものだ。ジョージがここまで失礼かつバカであることにショックを受けている自分がいる一方で、上から目線の気取った笑顔に平手打ちを食らわせたい衝動に駆られた。
(自制心よ。クラスタシアンで素敵なタダメシをいただこうとしてるの。タダっていうのを忘れないで)こわばりつつ、何とか笑顔を作った。「本当に多文化的なんですね」(ああムカつく)「ジョージさんの民族的背景は何ですか?」
「違う違う、僕はアメリカ市民で、サンノゼ育ち……」
リストに追加しよう。(無知な民族的コメントをしない)すでに「エペソ」かどこかに書かれてなかったっけ?
ジョージが自分の幼少時代のことをベラベラしゃべっている間、レックスは心ここにあらず、だった。彼に譲歩するのではなく、礼儀正しく否定するべきだったのかもしれない。このデートは、すでに下り坂に入っている。なぜ一晩中、時間を無駄にしないといけないのだろうか?
緊急課題は、(ガーリック味のカニがそこまで重要か?)という問いに答えることだった。確かに三ヶ月食べてない。正確には九七日間。そして、これはジョージのおごり。(決めなきゃ、決めなきゃ……)
「君って、誰かに似てるんだよね」ジョージはレックスを見て目を細めた。彼女のあごのかなり下の方を見ながら。
またとんでもなく間抜けなコメントを聞かされる気がしてきた。
ジョージは指を鳴らした。「分かった、君って、僕の元カノに似てるんだ」
デートの最中に元カノの話をするのは、自分の車を鍵でキーッと傷つけてくれと頼み込むようなものだということを、知らないのだろうか?
「そうだそうだ、君って本当に彼女にそっくり……といっても彼女の方が可愛かったかな。シワも少ないし」
シワ? シワなんてあっただろうか? レックスはまだ三○なのに!
「それにあの子の方が、体が曲線的だったな」ジョージは、砂時計のように、あり得ないほどくびれた体型を空中に描いた——「ケツもでかかったし」
部屋の中が暗くなった。血のように赤いモヤが顔にかかり、視界がぼやけた。「それ、ちょっと個人的すぎませんか」
ジョージは手を振った。「ああ、僕はあまり気にしてないから」
「私が気にしてるんです」(どアホ)食いしばった歯の間から出てくる言葉はほとんどなかった。
レックスは長い間、黙っていた。不思議な感情のない感情に襲われた。どんな反応をするべきだろうかと思いながら、瞬きした。
(あーあ、昨日は八キロ走ったし、その前の日は、ビーチバレーのコートで横移動のドリルもやった。それでも鍛え方が足りないのかな?)
(スパーリングスポーツにはあんまり興味はなかったけど、ちょっと考えさせられるわ)
(私の体重と自尊心に対するその繊細な洞察力、おかげで私の人生は完全に変わったわ)
ウエイトレスがジョージを救いに来た。多分、彼の死が迫っているのを予感し、急いで助けに来たのだろう。サラダのお皿を下げ、飾りのついた、ガーリックでローストしたカニを差し出した。
熱く、鼻にツンとくる香り——レックスがお皿の方に身を乗り出すと、その蒸気が顔に当たった。エキゾチックなミックススパイスが、茶色く焦げた温かく濃厚なバターと混ざっている。塩気はほんの少し。カニの殻は、温かく健康的な夕日の色だ。生唾が出てきた。
上にのっている殻を取り、甘い海の味を吸い込んだ。そして、柔らかい肉をフォークで取り、一口食べた。
心が穏やかになったレックスは、ジョージのことを全て赦すことにした。だって、彼のおかげでこの上ない幸せを感じながら、ここに座っているのだから。
ジョージは脂肪細胞のことについてベラベラしゃべっていた。隣のテーブルに座っている女性のミニスカートをチラチラ見て、それにレックスのことを一度、アリシアと呼んだ。ビッグバードと呼ばれたって、もうどうでもいい。レックスはシャングリラ(理想郷)に達していた。
「ハロー、レックス!」
真っ逆さまに地獄へ落とされた。
ミミが彼らのテーブルの隣でポーズを取っている。曲線的なお尻がよく分かる滑らかな黒いドレス。そして元気なCカップの胸が、くりの深い、タイトなネックラインの下に押し込められている。「赤線地区」と叫んでいるような口紅で縁取られた白い歯を光らせた。
「ここで会えるなんて嬉しいわ、レックス」ミミは、かすかに光る膝丈のポニーテールを振り回した。そしてレックスを無視し、ジョージの方へと斜めに進んだ。「こんにちは。いとこのミミです」
彼は、上下に揺れるマウンドを目の前にして、めまいがしたようだった。「ジョージです」
ミミの魅惑的で半分閉じた目が、ジョージに近づいていった。「見覚えがあるわ。どこかで会ったことないですか?」
ちょっと待って。ミミは何をしているのだろうか? 既にキンムンをゲットし、レストランの向こう側では、九○キロのキン肉マンが下心丸出しでジロジロ見ている。ミミは、何十人もの男を手中に収めているのだ。何故、レックスの貧弱な羊を追いかけるのだろうか?確かにジョージはハンサムなゲス野郎だが、それにしても、だ。レックスは、テーブルの反対側で忘れ去られたように座っていた。ソファに座ってつまらないドラマを見ている愚かな女のように。
ジョージは、ミミの底知れない期待に沿うよう、嬉しそうに答えた。「一度会ったら絶対に覚えているよ、必ず」
「本当? あのヌード男女混合アルティメット・フリスビーの試合で絶対、会ったと思うんだけど」
これに答える表情の中に、不快な歓声がくすぶっているように見えた。「ダーリン、この体を見せびらかすのは、プライベートな観衆だけなんだけどな」
レックスは吐き気を必死で我慢した。いくら頭が悪いジョージでも、レックスがある程度の至近距離にいるうちは、少し慎んでもらいたかった。例えばテーブルをはさんで一メートルの距離にいるときぐらいは。
ミミが、ずる賢く横目で見た。(レックス、デート相手の注意を引くことも出来ないの?)
頭がオーブンに突っ込まれたように、レックスの顔は熱くなった。胸は苦しく、肺に穴があいているような気がした。息を吸うと喉が焼けるようで、苦しくなった。洋服の中に縮こまり、もっと小さく、もっとデリケートに、もっと女らしくなろうと、肩を丸くした。
「あっ!」ミミのしなやかな手が、貝殻の形をした耳をさわった。「イヤリングがないわ」床の上を探そうとかがめば、否応なくドレスの中までよく見える。
ジョージは一瞬止まり、肉食の狼のようにミミを見下ろした。そして自分の椅子を後ろにずらし、かがみこんで、模様のついたカーペットの上を探そうと目を凝らした。
ジョージの頭がミミの頭と同じ高さまで降りてきたとき、ミミは彼の方にあごを上げた。ジョージもミミの方に傾いた。あと数センチ動いて、その唇を彼女の唇に押し付けてみろと彼に挑むかのように、ミミはゆっくりと官能的な、ベッドルームでの微笑を向けた。
ジョージは、うつろな笑みを浮かべた。
レックスはけいれんを起こしたように胸が痛くなった。無視されているのと同時に、スポットライトの中に立たされている。熱く見つめ合うカップルからは締め出され、レストランの客は、平凡な女がかわいそうに、目の前でハンサムな同伴者を失うのを目撃して、嘲笑っている。
ミミが物憂げに立ち上がった。二本の指の間に名刺が見える。一体どこから出てきたのだろう? 胸の中から? それをジョージの方に傾けると、彼は視線を合わせたままそれを引っ張った。
ミミは無意識に、指を首の上から下に引っ張るしぐさをした。「お会いできてよかったわ、ジョージさん」
「こちらこそ」
ミミの目がレックスの方に動いた。「二人は、どんなお知り合い?」
「僕とレックス? ああ、彼女のお兄さんが引き合わせたんだ」
ちょっと待って。リチャードはそんなことしていない。ただレックスにコンドミニアムを見せてやって欲しいと、ジョージに頼んだだけだ。なぜジョージはそんなことを言うのだろう? ジョージが口にしていないことを理解するのに、数秒かかった。
リチャードは、レックスをディナーに誘うよう彼に頼んだのだろうか!?
まさか。リチャードはそこまでバカじゃないだろう。それとも、そこまで自虐的ではないとでも言おうか——だって妹が事実を知ったら、確実に追い詰められることが分かっているはずだ。
しかし怒りに溺れながら、ヘドロに満ちた悔しさの海が、引き波のようにゆっくりとレックスを引っ張った。兄にデート相手を紹介してもらわなくちゃならないなんて。
そしてミミは、このことをみんなに言う。
レックスは、これを決して忘れないだろう。ミミのキラキラした眼差しと驚いたような、嘲るような表情を頭の中からシャットアウトしようと目を閉じた。レックスの温かく暗い世界は、ミミの甲高く、玉を転がすような声で切り裂かれるようだった。
「ええっ、本当?」くすくす笑い。「私もリチャードのお見合いサービス、利用しちゃおうかな」
レックスの目がパッと開いた。白熱した怒りの裏側にあるプライドを救い出さなくては。「黙んなさい、小娘」
ミミの笑顔が固まった。トリッシュのバービー人形の頭をもぎ取った時の表情と同じだ。押し上げるブラや、ピチピチの洋服では、ミミの背丈を小学生より高く見せることはできないことを思い、温かい復讐のほとばしりがレックスの心の中に湧いてきた。
レックスは、テーブルの向こう側に頭を傾けた。「いい子になってパパのところへ帰る時間よ」
ミミはジョージの方を向き、顔を寄せた。「今度会える?」
彼は映画スターのように自信満々の表情をしている。「かもね」
ミミはさっそうと歩いていった。
レックスは、無表情な顔と燃えるような目でジョージを見た。彼の笑顔は消えていった。
彼の肩越しに、ウエイトレスが近づいてくるのが見えた。レックスはさっと手を挙げた。「テイクアウト用の入れ物をもらえますか?」レックスは、手をつけていないジョージのカニをチラッと見た。フェロモンを撒き散らすのに忙しかったらしい。「彼の分もお願いします」
ウエイトレスはうなずいて、急いで離れていった。
ジョージは驚いて瞬きした。「カニ、美味しくなかった?」
「お腹が空いてないので」
彼女のぶっきらぼうな口調を理解していないようだ。「それはよかった。君の場合、カロリー摂取は低い方が確実に——」
信じられなかった。「ちょっと黙ってもらえますか」
ジョージは口を開けたまま、話の途中で止まったが、すぐに気を取り直した。「ああ……レックス、君のお兄さんと僕はいい友達なんだ」
陰鬱な疑念のために、また緊張が放たれ、背骨を伝って降りてきた。「それで?」
「お兄さんとは、よく会うんだろ?」
レックスは口を閉じ、目を細めて彼を見た。
「僕の分の食事代、お兄さんから返してもらってくれる? 実は……現金、持ち合わせてないんだ」
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第8章
カリフォルニアの服装規定はカジュアル。助かった。サンタナ・ローのクラスタシアン・レストランに入ると、レックスがはじめに抱いていた心配は、消えてなくなった。客の多くはジーンズ。だから彼女のシンプルな木綿のシャツは、場違いではない。
こんなにハンサムな男性と同席するなんて、何か特別な人になった気がした。ただ、品定めをする女性の眼差しに、ジョージは気がついているようだった。
「あの子たちのこと、知ってるんですか?」露出度の高い服を着て、まつ毛をパチパチさせ、くすくす笑っている女の子達に、レックスは会釈した。
ジョージは、注意をさっとレックスに戻した。「あ……いや」明るく、暖かい微笑みが光った。女の子達が彼の肩越しにため息をついているのが見えなければ、レックスはその微笑みに包み込まれるように感じたのかもしれない。(見たいだけ見ればいいわ、お嬢ちゃんたち。この人は私のデート相手よ)
彼はそうやって注目されるのを歓迎しているようだったが、「エペソ」のリスト五番め——「誠実さ」という問題を考えると、幸先が良くない。まあ、食事が終わるまで、このリストとジョージを比較することにしよう。
レックスはメニューをさっと見たが、食べたいものはもう決まっていた。いつもと同じものだ。
ジョージが顔を上げてレックスを見た。「カニ入りワンタンの前菜、一緒に食べない?」
「もちろん、おいしそうですね」リストに追加しよう。(私と同じぐらい美味しい食事を楽しむことができる人)
ウエイトレスが、紗のような宝石をちりばめたベトナムの民族服を着て、(映画アラジンの)ジニーのようにテーブルに現れた。「ご注文はお決まりですか?」鈴が鳴るような声だ。
ジョージの目は、メニューからウエイトレスの顔まですっと上がるのではなく——そのスレンダーな曲線の上をゆっくりと動いていった。レックスはあごが引きつった。リストにある「誠実さ」を考えると、ツー・ストライク。このデートはすぐに終わるかもしれない。
「カニ入りワンタンはシェアします。それから、僕はシーザーサラダと、ガーリックでローストしたカニ入りのガーリックヌードル」
少なくとも、食べ物の趣味はいい。「私も同じものをお願いします」レックスは大きいメニューをウエイトレスに返した。
「君、ペア・テクノロジーで働いてるの?」
レックスは嫌な顔をした。実に話したくない話題だ。「ええ、まあ」
「仕事はどう?」
「ええっと……」上司はシンデレラの邪悪な継父、同僚は七人の小人より風変わり、それにレックスは、エジプトで奴隷だったイスラエル人以上に働かされていた。一番正しい答えではないが、「まあまあ、です」
気まずい沈黙が二人の間を漂った。と言うか、食べ物がたくさん載ったお皿を誰かが床に落とした時に静まり返るレストランのように、バツの悪い静けさだった。
「ねえレックス、ミスター・ロボット、っていうペンネームのアジア人作家のベストセラー、読んだことある?」
レックスは瞬きした。冗談、だよね?「あの……ミスター・ロボットはアジア人じゃないと思います」
「何言ってるの? もちろんアジア人だよ。あの有名な歌は中国語か何かだよね」
レックスはジョージをじっと見すぎて、目が寄ってきた。こいつは完全なバカだ。「『ドモ、アリガト』は日本語で、あの歌はスティクスのです」
ジョージは、(何当たり前のことを言ってるんだ)という目を向けた。「あの、『すき焼きソング』もそのグループだよね」
「えっ?」すき焼きは、テイスト・オブ・ハニーとかいうグループじゃなかったっけ?
ジョージは深く腰掛け、その目は半ば閉じている。「知らなかった? 君、アジア系だから知ってると思ったよ」彼は笑った。見下してレックスの頭を軽く叩くようなことだけはしなかったが。
レックスの目が細くなった。こんな阿呆だったなんて、あり得ない——
ここベイエリアで、レックスがアジア系であることを話のネタにする人は滅多にいなかった——ダラスに住んでいる人が、誰かのテキサスなまりを話題にするようなものだ。ジョージがここまで失礼かつバカであることにショックを受けている自分がいる一方で、上から目線の気取った笑顔に平手打ちを食らわせたい衝動に駆られた。
(自制心よ。クラスタシアンで素敵なタダメシをいただこうとしてるの。タダっていうのを忘れないで)こわばりつつ、何とか笑顔を作った。「本当に多文化的なんですね」(ああムカつく)「ジョージさんの民族的背景は何ですか?」
「違う違う、僕はアメリカ市民で、サンノゼ育ち……」
リストに追加しよう。(無知な民族的コメントをしない)すでに「エペソ」かどこかに書かれてなかったっけ?
ジョージが自分の幼少時代のことをベラベラしゃべっている間、レックスは心ここにあらず、だった。彼に譲歩するのではなく、礼儀正しく否定するべきだったのかもしれない。このデートは、すでに下り坂に入っている。なぜ一晩中、時間を無駄にしないといけないのだろうか?
緊急課題は、(ガーリック味のカニがそこまで重要か?)という問いに答えることだった。確かに三ヶ月食べてない。正確には九七日間。そして、これはジョージのおごり。(決めなきゃ、決めなきゃ……)
「君って、誰かに似てるんだよね」ジョージはレックスを見て目を細めた。彼女のあごのかなり下の方を見ながら。
またとんでもなく間抜けなコメントを聞かされる気がしてきた。
ジョージは指を鳴らした。「分かった、君って、僕の元カノに似てるんだ」
デートの最中に元カノの話をするのは、自分の車を鍵でキーッと傷つけてくれと頼み込むようなものだということを、知らないのだろうか?
「そうだそうだ、君って本当に彼女にそっくり……といっても彼女の方が可愛かったかな。シワも少ないし」
シワ? シワなんてあっただろうか? レックスはまだ三○なのに!
「それにあの子の方が、体が曲線的だったな」ジョージは、砂時計のように、あり得ないほどくびれた体型を空中に描いた——「ケツもでかかったし」
部屋の中が暗くなった。血のように赤いモヤが顔にかかり、視界がぼやけた。「それ、ちょっと個人的すぎませんか」
ジョージは手を振った。「ああ、僕はあまり気にしてないから」
「私が気にしてるんです」(どアホ)食いしばった歯の間から出てくる言葉はほとんどなかった。
レックスは長い間、黙っていた。不思議な感情のない感情に襲われた。どんな反応をするべきだろうかと思いながら、瞬きした。
(あーあ、昨日は八キロ走ったし、その前の日は、ビーチバレーのコートで横移動のドリルもやった。それでも鍛え方が足りないのかな?)
(スパーリングスポーツにはあんまり興味はなかったけど、ちょっと考えさせられるわ)
(私の体重と自尊心に対するその繊細な洞察力、おかげで私の人生は完全に変わったわ)
ウエイトレスがジョージを救いに来た。多分、彼の死が迫っているのを予感し、急いで助けに来たのだろう。サラダのお皿を下げ、飾りのついた、ガーリックでローストしたカニを差し出した。
熱く、鼻にツンとくる香り——レックスがお皿の方に身を乗り出すと、その蒸気が顔に当たった。エキゾチックなミックススパイスが、茶色く焦げた温かく濃厚なバターと混ざっている。塩気はほんの少し。カニの殻は、温かく健康的な夕日の色だ。生唾が出てきた。
上にのっている殻を取り、甘い海の味を吸い込んだ。そして、柔らかい肉をフォークで取り、一口食べた。
心が穏やかになったレックスは、ジョージのことを全て赦すことにした。だって、彼のおかげでこの上ない幸せを感じながら、ここに座っているのだから。
ジョージは脂肪細胞のことについてベラベラしゃべっていた。隣のテーブルに座っている女性のミニスカートをチラチラ見て、それにレックスのことを一度、アリシアと呼んだ。ビッグバードと呼ばれたって、もうどうでもいい。レックスはシャングリラ(理想郷)に達していた。
「ハロー、レックス!」
真っ逆さまに地獄へ落とされた。
ミミが彼らのテーブルの隣でポーズを取っている。曲線的なお尻がよく分かる滑らかな黒いドレス。そして元気なCカップの胸が、くりの深い、タイトなネックラインの下に押し込められている。「赤線地区」と叫んでいるような口紅で縁取られた白い歯を光らせた。
「ここで会えるなんて嬉しいわ、レックス」ミミは、かすかに光る膝丈のポニーテールを振り回した。そしてレックスを無視し、ジョージの方へと斜めに進んだ。「こんにちは。いとこのミミです」
彼は、上下に揺れるマウンドを目の前にして、めまいがしたようだった。「ジョージです」
ミミの魅惑的で半分閉じた目が、ジョージに近づいていった。「見覚えがあるわ。どこかで会ったことないですか?」
ちょっと待って。ミミは何をしているのだろうか? 既にキンムンをゲットし、レストランの向こう側では、九○キロのキン肉マンが下心丸出しでジロジロ見ている。ミミは、何十人もの男を手中に収めているのだ。何故、レックスの貧弱な羊を追いかけるのだろうか?確かにジョージはハンサムなゲス野郎だが、それにしても、だ。レックスは、テーブルの反対側で忘れ去られたように座っていた。ソファに座ってつまらないドラマを見ている愚かな女のように。
ジョージは、ミミの底知れない期待に沿うよう、嬉しそうに答えた。「一度会ったら絶対に覚えているよ、必ず」
「本当? あのヌード男女混合アルティメット・フリスビーの試合で絶対、会ったと思うんだけど」
これに答える表情の中に、不快な歓声がくすぶっているように見えた。「ダーリン、この体を見せびらかすのは、プライベートな観衆だけなんだけどな」
レックスは吐き気を必死で我慢した。いくら頭が悪いジョージでも、レックスがある程度の至近距離にいるうちは、少し慎んでもらいたかった。例えばテーブルをはさんで一メートルの距離にいるときぐらいは。
ミミが、ずる賢く横目で見た。(レックス、デート相手の注意を引くことも出来ないの?)
頭がオーブンに突っ込まれたように、レックスの顔は熱くなった。胸は苦しく、肺に穴があいているような気がした。息を吸うと喉が焼けるようで、苦しくなった。洋服の中に縮こまり、もっと小さく、もっとデリケートに、もっと女らしくなろうと、肩を丸くした。
「あっ!」ミミのしなやかな手が、貝殻の形をした耳をさわった。「イヤリングがないわ」床の上を探そうとかがめば、否応なくドレスの中までよく見える。
ジョージは一瞬止まり、肉食の狼のようにミミを見下ろした。そして自分の椅子を後ろにずらし、かがみこんで、模様のついたカーペットの上を探そうと目を凝らした。
ジョージの頭がミミの頭と同じ高さまで降りてきたとき、ミミは彼の方にあごを上げた。ジョージもミミの方に傾いた。あと数センチ動いて、その唇を彼女の唇に押し付けてみろと彼に挑むかのように、ミミはゆっくりと官能的な、ベッドルームでの微笑を向けた。
ジョージは、うつろな笑みを浮かべた。
レックスはけいれんを起こしたように胸が痛くなった。無視されているのと同時に、スポットライトの中に立たされている。熱く見つめ合うカップルからは締め出され、レストランの客は、平凡な女がかわいそうに、目の前でハンサムな同伴者を失うのを目撃して、嘲笑っている。
ミミが物憂げに立ち上がった。二本の指の間に名刺が見える。一体どこから出てきたのだろう? 胸の中から? それをジョージの方に傾けると、彼は視線を合わせたままそれを引っ張った。
ミミは無意識に、指を首の上から下に引っ張るしぐさをした。「お会いできてよかったわ、ジョージさん」
「こちらこそ」
ミミの目がレックスの方に動いた。「二人は、どんなお知り合い?」
「僕とレックス? ああ、彼女のお兄さんが引き合わせたんだ」
ちょっと待って。リチャードはそんなことしていない。ただレックスにコンドミニアムを見せてやって欲しいと、ジョージに頼んだだけだ。なぜジョージはそんなことを言うのだろう? ジョージが口にしていないことを理解するのに、数秒かかった。
リチャードは、レックスをディナーに誘うよう彼に頼んだのだろうか!?
まさか。リチャードはそこまでバカじゃないだろう。それとも、そこまで自虐的ではないとでも言おうか——だって妹が事実を知ったら、確実に追い詰められることが分かっているはずだ。
しかし怒りに溺れながら、ヘドロに満ちた悔しさの海が、引き波のようにゆっくりとレックスを引っ張った。兄にデート相手を紹介してもらわなくちゃならないなんて。
そしてミミは、このことをみんなに言う。
レックスは、これを決して忘れないだろう。ミミのキラキラした眼差しと驚いたような、嘲るような表情を頭の中からシャットアウトしようと目を閉じた。レックスの温かく暗い世界は、ミミの甲高く、玉を転がすような声で切り裂かれるようだった。
「ええっ、本当?」くすくす笑い。「私もリチャードのお見合いサービス、利用しちゃおうかな」
レックスの目がパッと開いた。白熱した怒りの裏側にあるプライドを救い出さなくては。「黙んなさい、小娘」
ミミの笑顔が固まった。トリッシュのバービー人形の頭をもぎ取った時の表情と同じだ。押し上げるブラや、ピチピチの洋服では、ミミの背丈を小学生より高く見せることはできないことを思い、温かい復讐のほとばしりがレックスの心の中に湧いてきた。
レックスは、テーブルの向こう側に頭を傾けた。「いい子になってパパのところへ帰る時間よ」
ミミはジョージの方を向き、顔を寄せた。「今度会える?」
彼は映画スターのように自信満々の表情をしている。「かもね」
ミミはさっそうと歩いていった。
レックスは、無表情な顔と燃えるような目でジョージを見た。彼の笑顔は消えていった。
彼の肩越しに、ウエイトレスが近づいてくるのが見えた。レックスはさっと手を挙げた。「テイクアウト用の入れ物をもらえますか?」レックスは、手をつけていないジョージのカニをチラッと見た。フェロモンを撒き散らすのに忙しかったらしい。「彼の分もお願いします」
ウエイトレスはうなずいて、急いで離れていった。
ジョージは驚いて瞬きした。「カニ、美味しくなかった?」
「お腹が空いてないので」
彼女のぶっきらぼうな口調を理解していないようだ。「それはよかった。君の場合、カロリー摂取は低い方が確実に——」
信じられなかった。「ちょっと黙ってもらえますか」
ジョージは口を開けたまま、話の途中で止まったが、すぐに気を取り直した。「ああ……レックス、君のお兄さんと僕はいい友達なんだ」
陰鬱な疑念のために、また緊張が放たれ、背骨を伝って降りてきた。「それで?」
「お兄さんとは、よく会うんだろ?」
レックスは口を閉じ、目を細めて彼を見た。
「僕の分の食事代、お兄さんから返してもらってくれる? 実は……現金、持ち合わせてないんだ」
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