【ひとり寿司】第5章

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第5章


 痩せた女の子がトリッシュの全身にコーヒーを噴き出しているところを、エイデン・ヤングは新聞の端からチラッと見た。

「ああっ!」トリッシュは飛び上がって手を上下にバタバタさせた。「これ、新しいのよ! それで、このコーヒー! レックスどうして——」

エイデンは新聞紙の陰にまた隠れた。トリッシュはメロドラマのヒロインだ。

「トリッシュ、あなた、ちょっと大げさ過ぎない?」長身で痩せた女の子——レックス?—— はトリッシュより声が低かったが、さっきは聞こえなかった不安定で震えるような声が聞こえた。新聞の端からのぞいてみた。

レックスが中学生の女の子に手を突き出していた。「電話」

「だけど私まだ——」

「今すぐ」

レックスが叫んだので、その若い娘は飛び上がったが、携帯電話での会話が終わる頃、目をぐるっと回した。「ごめんなさい、キンムン——」

レックスは携帯電話をひったくり、パチンと閉じた。その顔は雷雲のように暗い。別の手で、トリッシュを反対側のトイレの方へと促した。

今がチャンスだ。エイデンは新聞をたたみ、コーヒーを持って、急いでドアの外に出た。

車にアラームをかけたスペンサーが、駐車場から手を振った。「遅くなってごめん」

運が悪いとは、このことだ。エイデンは、駐車スペースの真ん中でスペンサーを引き止めた。「やっぱ、ピーツ・コーヒーへ行かないか」

「嫌だよ。キャラメル・モカ・フリーズが飲みたいから、今日は特別がんばって運動したんだ」エイデンの横を通り過ぎ、ガラスのドアをぐいっと開けながら、スペンサーは少年のように溢れる笑顔を見せた。

スペンサーが注文している間、トリッシュはあの女の子とトイレに入ったままかもしれない。

お店に戻る途中、エイデンは長いポニーテールの中学生の少女とすれ違った。その目は曇り、まぶたは半分閉じているようだ。近くで見ると、思ったほど若くないようだ——大学生ぐらいかもしれない。その大人びた目線は品定めでもしているように見え、立ち止まって彼に話しかけに来るようにも感じられた。すれ違いざまに彼は顔がほてり、スペンサーの後をついてカウンターへ向かった。

「キャラメル・モカ・フリーズ、ホイップクリーム追加で」スペンサーのしゃべり方は、音節が転がって行くように流暢だ。

エイデンはトイレに背を向け、飲み物の受け取り用カウンターにもたれていた。すぐには出てこないだろう。もし出てきたら、トリッシュが自分に気がつかないことを願おう。

お札を財布に押し込みながら、スペンサーが受け取り用カウンターの方へ来た。「最近どうしてる?」

「元気だよ」あまりに動揺していて、白状することができなかった——トリッシュの肩の理学療法が終わって数ヶ月経った後、あのわがままで浮気者の彼女を見かけたこと、そして彼女と一緒にいるゴージャスな女の子に、一瞬のうちに圧倒されてしまったことを。

エイデンの心の目には、まだレックスが見えていた——トリッシュの妹? いとこ?——そのアスリートのように滑らかな身のこなし。その美しい顔。しかし、彼女もトリッシュのように善人ぶったクリスチャンなのだろうか?

スペンサーが鋭い顔つきで見た。「本当に大丈夫か?」

「もちろん。君の息子はどうしてる?」

スペンサーはため息をついた。「今週末は、母親の家さ」受け取り用カウンターをリズミカルに叩いた。「メールした記事、読んだ?」

「読んだよ」

「面白いだろ?」

「ああ、面白かった」エイデンは振り返って女性用トイレのドアを見た。まだいない。それにしても、このバリスタは何でこんなに遅いのか?

スペンサーは横を向いた。「話したくないんだったら、話さなくていいよ」

「いや、話すよ」でも今、この瞬間は、神様のことについて話し合う気分ではなかった。クリスチャンと不可知論者——興味がないからではない——だが、気が散っていた。

トイレのドアが開いた。エイデンは全身が固まったが、振り向かなかった。

インド人の男性が通り過ぎ、窓際に座っているガールフレンドの方に戻っていった。

「ちょっとピリピリしてない?」スペンサーが横目で見た。

間抜けだと思われずに、どうすれば窮地にいることを説明することができるのか? 直感的反応は、トリッシュを避けることだった。結局、トリッシュがあからさまに色目を使ってエイデンを口説こうとした時に、彼がきっぱりと断り、別の理学療法士に転院させたことを彼女はよく思っていなかった。

しかしトリッシュのいとこを見たとたん、お店を出たいという最初の願望は忘れてしまい、そこに座ったままレックスを眺めていたのだ。そして何と愚かなことに、トリッシュが飲み物を持ってテーブルに戻ってきてしまったというわけだった。

白状するべきだろうか。スペンサーほど人を裁かない人はいない——少しからかうことはあっても。「実はさ——」

「ごめん、って言ったじゃない」レックスの声が、トイレのドアがシュッと開く音と同時に聞こえた。

スペンサーのモカ・フリーズはまだか?

「あ、ここもまだ汚れてるわ」ドアがまた閉まったので、トリッシュの不機嫌な声が消された。足音はしない。またトイレに戻ったのに違いない。

「キャラメル・モカ・フリーズ、ホイップクリーム追加のお客様——」バリスタはカウンター越しにドリンクを滑らせたので、スペンサーがそれを手に取る前に、床に落ちそうになった。

エイデンは深く息を吸った。「他のところへ行こう」

「いいよ」スペンサーは出口に向かいながら、ストローで飲み物をすすった。



 痩せた女の子がトリッシュの全身にコーヒーを噴き出しているところを、エイデン・ヤングは新聞の端からチラッと見た。

「ああっ!」トリッシュは飛び上がって手を上下にバタバタさせた。「これ、新しいのよ! それで、このコーヒー! レックスどうして——」

エイデンは新聞紙の陰にまた隠れた。トリッシュはメロドラマのヒロインだ。

「トリッシュ、あなた、ちょっと大げさ過ぎない?」長身で痩せた女の子——レックス?—— はトリッシュより声が低かったが、さっきは聞こえなかった不安定で震えるような声が聞こえた。新聞の端からのぞいてみた。

レックスが中学生の女の子に手を突き出していた。「電話」

「だけど私まだ——」

「今すぐ」

レックスが叫んだので、その若い娘は飛び上がったが、携帯電話での会話が終わる頃、目をぐるっと回した。「ごめんなさい、キンムン——」

レックスは携帯電話をひったくり、パチンと閉じた。その顔は雷雲のように暗い。別の手で、トリッシュを反対側のトイレの方へと促した。

今がチャンスだ。エイデンは新聞をたたみ、コーヒーを持って、急いでドアの外に出た。

車にアラームをかけたスペンサーが、駐車場から手を振った。「遅くなってごめん」

運が悪いとは、このことだ。エイデンは、駐車スペースの真ん中でスペンサーを引き止めた。「やっぱ、ピーツ・コーヒーへ行かないか」

「嫌だよ。キャラメル・モカ・フリーズが飲みたいから、今日は特別がんばって運動したんだ」エイデンの横を通り過ぎ、ガラスのドアをぐいっと開けながら、スペンサーは少年のように溢れる笑顔を見せた。

スペンサーが注文している間、トリッシュはあの女の子とトイレに入ったままかもしれない。

お店に戻る途中、エイデンは長いポニーテールの中学生の少女とすれ違った。その目は曇り、まぶたは半分閉じているようだ。近くで見ると、思ったほど若くないようだ——大学生ぐらいかもしれない。その大人びた目線は品定めでもしているように見え、立ち止まって彼に話しかけに来るようにも感じられた。すれ違いざまに彼は顔がほてり、スペンサーの後をついてカウンターへ向かった。

「キャラメル・モカ・フリーズ、ホイップクリーム追加で」スペンサーのしゃべり方は、音節が転がって行くように流暢だ。

エイデンはトイレに背を向け、飲み物の受け取り用カウンターにもたれていた。すぐには出てこないだろう。もし出てきたら、トリッシュが自分に気がつかないことを願おう。

お札を財布に押し込みながら、スペンサーが受け取り用カウンターの方へ来た。「最近どうしてる?」

「元気だよ」あまりに動揺していて、白状することができなかった——トリッシュの肩の理学療法が終わって数ヶ月経った後、あのわがままで浮気者の彼女を見かけたこと、そして彼女と一緒にいるゴージャスな女の子に、一瞬のうちに圧倒されてしまったことを。

エイデンの心の目には、まだレックスが見えていた——トリッシュの妹? いとこ?——そのアスリートのように滑らかな身のこなし。その美しい顔。しかし、彼女もトリッシュのように善人ぶったクリスチャンなのだろうか?

スペンサーが鋭い顔つきで見た。「本当に大丈夫か?」

「もちろん。君の息子はどうしてる?」

スペンサーはため息をついた。「今週末は、母親の家さ」受け取り用カウンターをリズミカルに叩いた。「メールした記事、読んだ?」

「読んだよ」

「面白いだろ?」

「ああ、面白かった」エイデンは振り返って女性用トイレのドアを見た。まだいない。それにしても、このバリスタは何でこんなに遅いのか?

スペンサーは横を向いた。「話したくないんだったら、話さなくていいよ」

「いや、話すよ」でも今、この瞬間は、神様のことについて話し合う気分ではなかった。クリスチャンと不可知論者——興味がないからではない——だが、気が散っていた。

トイレのドアが開いた。エイデンは全身が固まったが、振り向かなかった。

インド人の男性が通り過ぎ、窓際に座っているガールフレンドの方に戻っていった。

「ちょっとピリピリしてない?」スペンサーが横目で見た。

間抜けだと思われずに、どうすれば窮地にいることを説明することができるのか? 直感的反応は、トリッシュを避けることだった。結局、トリッシュがあからさまに色目を使ってエイデンを口説こうとした時に、彼がきっぱりと断り、別の理学療法士に転院させたことを彼女はよく思っていなかった。

しかしトリッシュのいとこを見たとたん、お店を出たいという最初の願望は忘れてしまい、そこに座ったままレックスを眺めていたのだ。そして何と愚かなことに、トリッシュが飲み物を持ってテーブルに戻ってきてしまったというわけだった。

白状するべきだろうか。スペンサーほど人を裁かない人はいない——少しからかうことはあっても。「実はさ——」

「ごめん、って言ったじゃない」レックスの声が、トイレのドアがシュッと開く音と同時に聞こえた。

スペンサーのモカ・フリーズはまだか?

「あ、ここもまだ汚れてるわ」ドアがまた閉まったので、トリッシュの不機嫌な声が消された。足音はしない。またトイレに戻ったのに違いない。

「キャラメル・モカ・フリーズ、ホイップクリーム追加のお客様——」バリスタはカウンター越しにドリンクを滑らせたので、スペンサーがそれを手に取る前に、床に落ちそうになった。

エイデンは深く息を吸った。「他のところへ行こう」

「いいよ」スペンサーは出口に向かいながら、ストローで飲み物をすすった。

何とかトリッシュとレックスを避けることができた。不思議なことだが、トリッシュよりレックスの方にギクリとしたのは、何故だろう。まあどうでもいい。もう二度と会わないのだから。

**********


「だけど、ミミの言うことも、もっともだわ」

 レックスは、トリッシュのシャツをゴシゴシこすった。「あの子が一回ぐらい知的な考え方をしたからって、どうでもいいんだけどね」

「ちょっと、お願いだからもっと優しくしてくれない? これ、いくらだったと思うのよ」

「そんなこと私が気にすると思う?」

「私じゃなくて、ミミを狙えばよかったじゃない」

「ごめんね、今度、三秒以内に嘘をつかれたり、捨てられたり、ショックを受けることがあったら、もっと都合のいい方向にコーヒーを噴き出すわ」

「でも、あの子の言うことは正しかったわ」

レックスは、トリッシュが怒りを爆発させていないことを確認しようと目を上げた。「何それ。ミミを褒めるなんて、信じられない」

「ミミへのお世辞じゃなくて、あなたを侮辱してるだけよ」

「ああ、それの方がずっといいわね」

「考えてみてよ。あなたとキンムンはずっと友達だったの。ミミがさっき言った通りよ——あなたたち二人の間に何かあったとしたら、もっと早くそうなってるはずだと思わない?」

「言ったでしょ、キンムンは私のことをそんな風に見たことがなかっただけで——」

「何寝ぼけたこと言ってるの? ミミはキンムンをデートに誘う権利があるのよ。あなたが突然、彼にアタックし始めたことを、あの子が知る訳ないわ」

「そんな意味深な言葉があなたの口から出るとはね。ミミにボーイフレンドを取られた、って文句を言ってたばかりじゃない」

「違う、それとこれとは違うわ。あの子達は私が鎖でつないでた——っていうか私のものだったの……ミミはそれを知ってたのよ」

「キンムンが私のものだ、ってことも知ってたわ。おばあちゃんの最終通告のこともね。私が誰か相手を探してることを、あの子は知ってたの」

「あなたと違って、ミミは男の子とただの友達にはなれないのね。大好きになるか、捨てるかのどっちかなのよ。あなたとキンムンは恋人じゃなかったから、これからも恋人にはならない、って思ったのね」

レックスは、しわくちゃにしたペーパータオルをゴミ箱に投げた。「何であの子の味方をする? 傷ついてるのはこっちなのよ」

「あなたがバカなだけ。キンムンのことになると、私の言うことを聞かないじゃない」

「彼が私とのデートに興味がないって、どうして分かるの? 私には何も悪いところはないわ」

タイル張りのトイレの中で、沈黙が大きくこだました。

「ねえ、あなた」トリッシュは優しく甘い声で言った。「あなたに悪いところは何もない。キンムンがあなたに合わないだけ」

「私に悪いところはないわ、トリッシュ。今の自分に満足してる。誰かのために変わる必要なんて、もちろんないわ」

「違ったように見せる必要もない」

「そう、全然ない」

「今の私で十分」

「だけど、もっと合った人を目標にするべきね」

レックスは、トリッシュのひまわり柄のシルク製シャツについたモカのしみを見た。「ドライクリーニング代は私が払うわ」

「無理よ、取れないわ。あなたが今日、買ったピンクのシャツが欲しいな。もう要らないでしょ?」

「そんなに私の心臓を切り裂きたいの? 大包丁で」

「お願い! あなたのことは分かり過ぎるほど分かってる。一時間もすれば、そのかわいそうな私、っていうセリフから立ち直れるわ。そうしたら、どうなると思う?」

「言ってよ」

「キンムンに死ぬほど腹を立てるわ」

「死ぬほど腹を立てる? 何それ——彼の家に車をぶつけるってこと?」

「違う、カンカンになり過ぎて、あのピンクのブラウスを着てキンムンとデートすることは絶対しないってこと。彼に土下座で頼み込まれたとしてもね」トリッシュは、芸者のように世間をよく知った風な言い方をして笑った。「あの汚らわしいピンクの服が、あなたの手を離れて見えなくなるようにしてあげる」

「考えとく」

「考え過ぎないでね。デートは明日の夜だから」


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