【ひとり寿司】第4章
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「分かりました。待ちます」レックスは電話を持つ手をゆるめた。「行ったり来たりしないでくれる? 緊張するじゃない」
トリッシュは、オレンジ色と茶色のストライプのソファの上にドスッとすわった。
「じゃあさ、キンムンが乗り気じゃなかったことが、ちょっとでも気にならないの?」
トリッシュの知ったかぶりな様子にレックスはイライラし、心の中でつぶやいた。(そんなに乗り気じゃないわけではなかったと思うけど?)「そのことは後で話そうよ。今、電話中だから」レックスは古いレイジーボーイ・チェアに寄りかかり、傷のついたオーク製のサイドテーブルに肘を載せていた。
「今は誰とも話してないじゃない」
「気が散るの」
「大丈夫、気が散るようなことはしないわ」
「あなたの話を聞くと感情的になるからダメなの。トモヨシさんとは感じよく落ち着いて話さなきゃ」
トリッシュはあきれた表情をしたが、口を閉じた。
「ハロー、レックス?」
レックスは電話に注意を向けた。「こんにちは、トモヨシさん」
「しばらくレストランで会ってないねえ。元気にしてる?」その親切で陽気な声には、トモヨシさんの太い胴体と寛大な性格が表れていた。
「はい、元気です」
「まだバレーボールを?」
「ええ、実は、私がコーチをしている——」
「まだ覚えてるよ。おばあさんに連れられてレストランに来た時のこと。どうしてもバレーボールを車の中に置いてくるのを嫌がって、結局、自分の丼に当たってラーメンが飛び散ったよね」彼は笑った。
「ええ、そうでしたね」トモヨシさんが覚えているのは、それだけなのだろうか? 話をする機会があると、必ずこのことを言う。彼の日本食レストランでやった卒業パーティのことは? お父さんの厄年にはバースデーパーティだって。それ以外にも何度も食べに行ってるし、恐ろしいほど恥ずかしいハプニングがなかったことの方が多い。「あの、トモヨシさん……」
「おばあさんにはよく会うの?」
「いとこのレッドエッグアンドジンジャー・パーティで会ったばかりです」
「ああ、チェスターの姪っ子さんだね? それはいいなあ」
他の来客にとってはよかったのかもしれない。「ええ、食べ物は美味しかったです」食べてたら、そう思ったはず。
彼がクスッと笑った。「次はうちのレストランでやってください、っておばあさんに伝えといてよ」
うーん。日本食レストランで中国の伝統的なパーティ? ちょっと想像できない。「もちろんです、お宅の食べ物は最高ですからね」
「ありがとう。君はいい子だね」
レックスはその「いい子」という言い方に苦笑した。「まだ中学生のバレーボールチームのコーチをしてるんです」
「いいじゃないか。アジア人コミュニティへのいい恩返しだ」
レックスは、ほとんどの子がサンノゼのダウンタウン出身だということを言わなかった。アジア系の子もいるのは確かだ。「楽しくてやってるんです。母がコーチをしていた人たちの娘さんたちですから」
「ああ、君のお母さんが懐かしいよ」
レックスは発作的に唾を飲み込んだ。「そうですね、ところで——」
「君のお父さんは最近どうしてる?」
「元気です。よくボウリングに行きますよ」
「時々、見かけるんだ。最近ちょっと歩くのが遅くなったみたいだけど、どうなの?」
「ええっと……」実際そのようには見えなかったが、目上の人と言い合う気はない。特に将来のスポンサーとは。「そうなんです」
「君も少しバレーボールを減らして、お父さんの世話をした方がいいんじゃないか? みんな年を取るんだから」
レックスは、年老いた親の世話という、文化的かつ道徳的義務があることを十分承知している。その親が世話になりたくない、と言ったとしても。だが、なぜ周りの人はそうやって自分に釘を刺し、人生の何もかもをあきらめるべきだと言うのだろうか? 家族の世話をするために、夢をあきらめる友人や親類を見てきたが、彼らは本当に悲しみ、もどかしく思い、また体力をすり減らしていた。
レックスはそのコメントを無視することにした。「バレーボールのことなんですけど、私の女子チームが夏にプレイオフで遠征に行くんですね。旅費をサポートしてくださるお気持ちがあるか、お伺いしたかったんです」
「ああ……」
「母を追悼してとか、どうでしょう?」そうそう、彼の感傷的な部分を攻めよう。
「何か役に立てると思うよ。あとで連絡させてもらってもいいかな?」
「もちろんです! ありがとうございます、トモヨシさん」心の目で、祖母のドラゴンのような爪が乳白色のもやの中に消えていくのを見た……
「小切手はお父さん宛に書いた方がいい?」
「あの……いいえ、どうしてですか?」
「面倒なお金のことで君を煩わせたくないから」
日系アメリカ人のコミュニティで育つと、こういった問題がある。みんなが祖母のこと、レックスの家族のことを知っているのだ。シニアの人達は、レックスのことをまだ八歳ぐらいだと思っているようだ。「チームの経理は私の仕事です、トモヨシさん。バレーボールクラブ宛にチェックを書いてもらえますか」
「本当にそれでいいの?」
「大丈夫です」レックスがチームの経理を担当し始めてから、もう一年になる。
「分かった。じゃあ、二、三日したら連絡するから」
「本当にありがとうございます、トモヨシさん」レックスは受話器を受け台に戻した。「やったわ、おばあちゃん!」
トリッシュはあくびをした。「はいはい、それでキンムンのことはどうなの?」
レックスはトリッシュの方に手を伸ばした。「リモコンを取ってくれる?」
トリッシュはリモコンをつかみ、聖なる杯のように胸元に抱きしめた。「いやよ、あなたと会話がしたいの」
「テレビを見ながら話せるわ」レックスは手を伸ばし、トリッシュの固く閉じた指を手探りで開こうとした。
トリッシュが背中を向けた。「私の質問に答えるのが先」
「どんな質問だっけ?」
トリッシュは、(言いなさいよ、あなた、そこまでバカじゃないでしょ)という目でレックスを見て言った。「キンムン?」
「ああ」レックスは腕を組んだ。「キンムンがどうしたの?」
「いじめてデートに行くことにしたようね。あなた、他人の感情ってものを考えたことないでしょ」
「考えてるわ。他人にとって何がベストか、分かってるもん」
「じゃあ、キンムンがあなたとしぶしぶデートに行くのが、彼にとってベストだってこと? あなたにとってじゃないの?」
「お互いにとってよ。さあ、早く、リモコン」
トリッシュはレックスの手が届かないところにリモコンを動かし、その上にすわった。「ちっとも心配してないってこと?」
自分のことを弟——じゃなくて妹のように考えているというのはあまり嬉しいコメントではなかったが、そのことをトリッシュに打ち明けるつもりはない。「ただ、私のことをそういう目で見たことがないだけなの。それに、考えがあるの」
「他にも?」
レックスは冗談半分でトリッシュの頭の上をピシャッと叩くしぐさをした。「これはいい考えなの、一緒に買い物に行ってくれる?」
レックスのお気に入りのスポーツになった時に限って、トリッシュはまっすぐに座った。テレビがプツンと消えた。
「リモコンちょうだいよ。壊れるじゃない」
「自分からショッピングに行きたいなんて、どういうこと?」
「キンムンにあっ、と言わせたいの」
「イメチェンって意味?」トリッシュは、開いた口が塞がらない。
「よだれが垂れてるわ」
「垂れてない」トリッシュは口の端を拭いた。「イメチェンなんて、相当やけくそになってるわね」
「やけくそになんてなってない。現実的なだけよ。カジュアルな服しか見せてないから、セクシーで魅力的な私を見せなきゃ」(妹のように、じゃなく)
「本当にうまく行くの?」トリッシュの顔から懐疑心がにじみ出ていた。
「何よ、私ってそんなに救いようがない? 教えてくれてどうもね」
「彼があなたの性格に惹かれてないんだったら、見かけを変えてもどうにもならないんじゃないの?」
「男は外側を見るものでしょ。つまり、うちでスポーツセンター(スポーツ専門テレビ局)を見てる時、お兄ちゃんは何を見てると思う? AXLのコマーシャルに出てくる、半裸でおっぱいを揺らしてる女の子達よ」
トリッシュの口が大きく丸い形になった。「あなたが半裸になるわけじゃないでしょ——?」
「ええっ、違うわよ。私は揺らすものがないからね」レックスはトリッシュのお尻をひっぱたく素ぶりをした。アスリートではあるが、悲しいことにフラットな体でビキニを着たら、キンムンは悲鳴を上げ、精神病院行きになるかもしれない。
「それじゃあ……」トリッシュは、職場で新しい生物学実験に取り組むときに見せる「改善しよう」と言う目つきでレックスの体をジロジロ見た。そう、レックスはトリッシュをその気にさせたのだ。
「できる?」
「私がやらなきゃ無理ね」
**********
ショッピングのライセンスを手にしたトリッシュは、見るのも恐ろしい。
他人のために買い物をするライセンスを持ったトリッシュは、東京を引き裂くゴジラのようだ。
トランズ・ニュークリアコーヒーショップに入ったレックスは、挽きたてのコーヒーの香りを吸い込んだが、疲れた筋肉は癒されなかった。冷たい金属製の椅子に沈み込むようにすわり、ガラスのテーブルの上に肘を置いた。「ソイラテをお願い、ダブルショットで」
トリッシュはバッグに手を突っ込んで財布を探した。「ああ疲れた」
「回復するまでに一週間はかかりそう」
「一週間もないわ、三日だけよ。だけど大丈夫、フランケンシュタインの花嫁のようにブサイクでも、キンムンはそのドレスに参るから」
「あなたって、本当に励ましの泉ね」
「努力してるの」トリッシュは肩越しに生意気そうな笑いを浮かべ、二人の飲み物を注文しようとカウンターへ急いだ。
レックスは、さっきピンが刺さった脇と腰をさすった。ピンがついたままの洋服を着たことなど一度もなかった。値札にあんな高額がついた衣服なら、ピンが取り除いてあってもいいようなものだが。それに、レックスのように繊細なバランス感覚の持ち主でも、あのスティレットヒールで一ミリ秒以上バランスを取るのは難しい。足首をひねるという名誉の負傷のために数百ドルか——。
それだけの価値がないと困る。レックスはモンスターを作り上げてしまったようだ。トリッシュにとっては、他人の財布を使って自分自身のために買い物ができれば、もっと良かったのだろうが——。
「はいどうぞ、レックス——」
「キャーッ!」
その悲鳴は、どこにいても誰のだか分かる。
ダブルショットのソイラテを床中にこぼしても、紙コップでは大して音が出ない。しかし、ミミの甲高い声は、ガラスが粉々に砕ける音のようだった。
「何で私のコーヒーをこぼす?」レックスは茶色いソイラテの湖を悲しい顔で見つめた。
トリッシュが気をつけていればよかったのだが——彼女の突き刺すような眼差しのために、ミミは石のようにこわばった。「ここで何してんの?」
「コーヒーを買いに来たに決まってるじゃない」ミミは長いポニーテールを不機嫌そうに揺らした。
「わざとぶつかってきたわね」
「そう見えただけよ。あなたが振り向いたから、私にぶつかったんでしょ」
「この嘘つきのチビ」
「それだけ? 喧嘩だったら受けて立つわよ、お姉さん」ミミが頭を横に振ると、ポニーテールがメトロノームのように早く動いた。
仲裁に入る時が来た。「このコーヒーショップでマッドレスリングでもするつもり?」
トリッシュは口を開いたが、レックスはその顔に手を押し付けた。「あなたは黙って」ミミの目と目の間に指を突き出した。「ラテ、もう一杯おごりね」
ミミの目が黒い炎のように光った。
「じゃなきゃ、トリッシュのやりたいようにさせるわ。そのポニーテールじゃ、不利よ」
キューピットの弓のような形をした唇からピンクの色が消え、ミミは急に向きを変えて、カウンターの方へ足を踏み鳴らして歩いていった。レックスはついて行った。
「ソイラテ、ダブルショット」ミミが飲み物を注文している間、レックスはカウンターに寄りかかって辺りを見回した。コーヒーショップの店員が、床を片付けようと出てきた。
あの男は、何故テーブルの下でかがんでいるのだろう? いや、何か落としたに違いない。窓際でインド人のカップルがしゃべっている。テーブルの方では、トリッシュが自分の指でスチームミルクを作れるぐらい熱くなっていた。
ミミの隣に立っていると、一六一センチのレックスは、カウンターにもたれていても巨人のような気がする。
ミミは喉元にあるティファニーのハートのペンダントを指でさわり——無数のボーイフレンドの一人がプレゼントしてくれたのだろう——そのネックレスのチェーンを前後に滑らせていた。「レックス、最近、エクササイズしてる?」
その言い方は少し無神経に聞こえた。そのお世辞たらたらの言い方の反面、本心は苛立っているような質問だった。レックスのラテのために四ドル支払うことは、大学生であるミミの予算に負担がかかるからだろうか。
「だって、ちょっといつもより大きくなったみたいだから」
二人はこのゲームを続けたいようだ。「あなた、まだ子供売り場で買い物してるの?」
おきまりの皮肉には、同じようにおきまりの答えが返ってくる。ミミの丸い鼻にしわが寄り、ほっぺたがふくらんだ。「ボーイズの売り場で買い物するよりましでしょ」
「私も洗濯板みたいだけど、チビのあなたほど気にならないから」
「曲がりなりにも私は——」
「あなたと話すのは本当に楽しいわ、ミミ——」レックスは、バリスタが受け取り用の棚に滑り込ませたラテをつかんだ。「——だけど、私たちの間には相互回避条項があったよね。ちゃんと守ったほうがいいわよ」レックスは重々しく歩き去った。
いや、重々しく歩いたというより、アスリートとしての品位をもって歩いた。それに、アジア系の男女混合バレーボールチームでは、レックスの身長は概して有利だった。ミミのために、また、あの子供じみた不安を感じることはない。
トリッシュは、モカ・フリーズを待っているミミへのレーザービームのような眼差しを、まだそらしていない——そして、モカ・フリーズを飲んでも、その少し曲線のある体のサイズは少しも変わらないのだ……
(やめ、やめ、やめ)「トリッシュ、どうしてあなたとミミは、シュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランみたいなの?」
「はあ?」
またスポーツセンターの業界用語にはまっている。「気にしないで。水と油よ。あなたとミミは、水と油みたいだってこと」レックスの方がミミとウマが合うというわけではないが、レックスは、ミミが視界に入っただけでつかみかかりたい衝動に駆られることはない。
「あの子は性悪女なのよ」トリッシュは猫のようにシューッと音を立てた。
「あの子はあなたより年下なの。あなたが未熟なのよ」
「私はただ根に持ってるだけ。そこが違うの」
「だって、無数にいるあなたのボーイフレンドの一人とデートした、ってだけでしょ。そんなこと忘れなさいよ」
「ボーイフレンドの一人だけじゃないわ。私のボーイフレンドを盗むのは、あの子の使命なの。家族の集まりに男の子を連れて行くと、必ずあの子が攻撃を仕掛けてくるのよ」
「やめて、必ずってことはないでしょ」
「あの子に会った途端に私を捨てて、別れてから二週間以内にあの子とデートした男を数えたら、最低六人はいるわ」トリッシュは挑戦的な目でレックスを釘付けにした。
数字を持ち出されると、レックスは反論できない。「もう一つ忘れてるんじゃない? その子達は、結局ミミも捨てたのよ。それでも気になるのはどうして?」
「それが道理ってものなのよ」
「あなたの膨れ上がったエゴでしょ。また別の男の子を誘惑して楽しんだ後は、次に進めばいいだけ、でしょ?」
「その感情移入のスキルには感動するわ」
「おっと、あのわがまま娘がまた来るわ」ミミは何故こちらに戻ってきたのだろうか? バカな子。今度は、レックスは猫のケンカに割って入るわけがない。彼女はトリッシュの味方なのだから。
ミミはガラスのテーブルの近くまでのんびり歩いてきて、二人の間にもたれかかった。「ねえレックス、あいつはどうしてあなたのことをじっと見てるの?」
「ええっ、何それ?」
ミミは、店の反対側を指して頭を振った。
「あの新聞を持ってる人のこと?」トリッシュはわざわざ小さい声で話そうともしない。「バカげてるわ」
「新聞が逆さまよ」キラキラ光るシャツを着たミミは、お尻の片側に重心を移し、グリッターのついたエクステを整えている。
レックスは目を細めた。「本当?」
トリッシュも目を細めた。「あなたの方がよく見えるじゃない」
ミミはイライラしてため息をついた。「信じて、上下逆よ」
「だけど、顔が見えないわ」レックスは左右に傾いてみたが、よく見えなかった。
「じっと見続けたら、新聞を落とすかもしれないわ」
三人は、新聞に穴があくほど、丸一分間じっと見た。さぞ間抜けに見えたに違いない。それか、新しいX-Menのブロードウェイショーでサイプロスの役に応募している役者のようだ。
「バカげてるわ」レックスが燃えるような目をパチパチさせた。
「本当にそう」トリッシュがくるりと回った。「ミミ、他に行くところがあったんじゃないの? ティンブクトゥとか?」
ミミの笑い声は鈴の音のようだ。「あなたって本当に独創的ね、トリッシュ。ところで、昨日、あなたのお母さんがおじいちゃんのお墓に花を供えてたわ。たった一人で、叔母さんもかわいそうに」子供としての義務を怠っていることに対するトリッシュへの非難とは裏腹に、シワがよって下に引っ張られたミミの口元は少し甘ったるく、かつ悲しそうに見えた。
トリッシュはイライラした。「仕事だったのよ。あんたみたいに学生じゃない人もいるの。それに、私たちは四年で卒業してるしね」
ミミはそのうっとうしいポニーテールを揺らした。「あ~あ、それは良かったわ。つまり、結局あなたたちと違って、私は時間に余裕があるから」
トリッシュの顔色が柿のようになった。
震える電子音が緊張を打ち破った。レックスは命綱のような携帯に飛びつき、発信者番号をチラッと見た。「ハロー、キンムン!」これを聞いていたトリッシュの顔が少し落ち着いてきたことに、レックスは気がついた。バカなミミは、一歩も動かなかったが。
「レックス、土曜日の夜のことだけど、キャンセルしてくれる? 別の用事ができたんだ」
一日経った後の寿司のにおいのように、何かくさい。「別の用事って?」
「仕事だよ」
「ああ」興奮から落胆へと、鼓動が落ち着いてきた。「じゃあ来週は——?」
「分かった、じゃあ」
「オッケー、じゃあ、またね」
「ちょっと待って、キンムンと話させてくれる?」ゆるく握っていた携帯をミミが取り上げた。
「ちょっと!」レックスは携帯を引っ張った。
ミミは飛び跳ねて、離れた。「ちょっと待って」
「キンムンのこと知りもしないくせに」
「もちろん知ってるわ。二週間前に会ったもの」ミミはレックスの携帯で話し始めた。「ハロー、キンムン?」
レックスは怒りの中でラテをすすった。手が塞がっていなければ、いとこの顔を引っ叩いていたかもしれない。
「ええ、ミミよ。土曜日の夜、まだ大丈夫?」
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第4章
「分かりました。待ちます」レックスは電話を持つ手をゆるめた。「行ったり来たりしないでくれる? 緊張するじゃない」
トリッシュは、オレンジ色と茶色のストライプのソファの上にドスッとすわった。
「じゃあさ、キンムンが乗り気じゃなかったことが、ちょっとでも気にならないの?」
トリッシュの知ったかぶりな様子にレックスはイライラし、心の中でつぶやいた。(そんなに乗り気じゃないわけではなかったと思うけど?)「そのことは後で話そうよ。今、電話中だから」レックスは古いレイジーボーイ・チェアに寄りかかり、傷のついたオーク製のサイドテーブルに肘を載せていた。
「今は誰とも話してないじゃない」
「気が散るの」
「大丈夫、気が散るようなことはしないわ」
「あなたの話を聞くと感情的になるからダメなの。トモヨシさんとは感じよく落ち着いて話さなきゃ」
トリッシュはあきれた表情をしたが、口を閉じた。
「ハロー、レックス?」
レックスは電話に注意を向けた。「こんにちは、トモヨシさん」
「しばらくレストランで会ってないねえ。元気にしてる?」その親切で陽気な声には、トモヨシさんの太い胴体と寛大な性格が表れていた。
「はい、元気です」
「まだバレーボールを?」
「ええ、実は、私がコーチをしている——」
「まだ覚えてるよ。おばあさんに連れられてレストランに来た時のこと。どうしてもバレーボールを車の中に置いてくるのを嫌がって、結局、自分の丼に当たってラーメンが飛び散ったよね」彼は笑った。
「ええ、そうでしたね」トモヨシさんが覚えているのは、それだけなのだろうか? 話をする機会があると、必ずこのことを言う。彼の日本食レストランでやった卒業パーティのことは? お父さんの厄年にはバースデーパーティだって。それ以外にも何度も食べに行ってるし、恐ろしいほど恥ずかしいハプニングがなかったことの方が多い。「あの、トモヨシさん……」
「おばあさんにはよく会うの?」
「いとこのレッドエッグアンドジンジャー・パーティで会ったばかりです」
「ああ、チェスターの姪っ子さんだね? それはいいなあ」
他の来客にとってはよかったのかもしれない。「ええ、食べ物は美味しかったです」食べてたら、そう思ったはず。
彼がクスッと笑った。「次はうちのレストランでやってください、っておばあさんに伝えといてよ」
うーん。日本食レストランで中国の伝統的なパーティ? ちょっと想像できない。「もちろんです、お宅の食べ物は最高ですからね」
「ありがとう。君はいい子だね」
レックスはその「いい子」という言い方に苦笑した。「まだ中学生のバレーボールチームのコーチをしてるんです」
「いいじゃないか。アジア人コミュニティへのいい恩返しだ」
レックスは、ほとんどの子がサンノゼのダウンタウン出身だということを言わなかった。アジア系の子もいるのは確かだ。「楽しくてやってるんです。母がコーチをしていた人たちの娘さんたちですから」
「ああ、君のお母さんが懐かしいよ」
レックスは発作的に唾を飲み込んだ。「そうですね、ところで——」
「君のお父さんは最近どうしてる?」
「元気です。よくボウリングに行きますよ」
「時々、見かけるんだ。最近ちょっと歩くのが遅くなったみたいだけど、どうなの?」
「ええっと……」実際そのようには見えなかったが、目上の人と言い合う気はない。特に将来のスポンサーとは。「そうなんです」
「君も少しバレーボールを減らして、お父さんの世話をした方がいいんじゃないか? みんな年を取るんだから」
レックスは、年老いた親の世話という、文化的かつ道徳的義務があることを十分承知している。その親が世話になりたくない、と言ったとしても。だが、なぜ周りの人はそうやって自分に釘を刺し、人生の何もかもをあきらめるべきだと言うのだろうか? 家族の世話をするために、夢をあきらめる友人や親類を見てきたが、彼らは本当に悲しみ、もどかしく思い、また体力をすり減らしていた。
レックスはそのコメントを無視することにした。「バレーボールのことなんですけど、私の女子チームが夏にプレイオフで遠征に行くんですね。旅費をサポートしてくださるお気持ちがあるか、お伺いしたかったんです」
「ああ……」
「母を追悼してとか、どうでしょう?」そうそう、彼の感傷的な部分を攻めよう。
「何か役に立てると思うよ。あとで連絡させてもらってもいいかな?」
「もちろんです! ありがとうございます、トモヨシさん」心の目で、祖母のドラゴンのような爪が乳白色のもやの中に消えていくのを見た……
「小切手はお父さん宛に書いた方がいい?」
「あの……いいえ、どうしてですか?」
「面倒なお金のことで君を煩わせたくないから」
日系アメリカ人のコミュニティで育つと、こういった問題がある。みんなが祖母のこと、レックスの家族のことを知っているのだ。シニアの人達は、レックスのことをまだ八歳ぐらいだと思っているようだ。「チームの経理は私の仕事です、トモヨシさん。バレーボールクラブ宛にチェックを書いてもらえますか」
「本当にそれでいいの?」
「大丈夫です」レックスがチームの経理を担当し始めてから、もう一年になる。
「分かった。じゃあ、二、三日したら連絡するから」
「本当にありがとうございます、トモヨシさん」レックスは受話器を受け台に戻した。「やったわ、おばあちゃん!」
トリッシュはあくびをした。「はいはい、それでキンムンのことはどうなの?」
レックスはトリッシュの方に手を伸ばした。「リモコンを取ってくれる?」
トリッシュはリモコンをつかみ、聖なる杯のように胸元に抱きしめた。「いやよ、あなたと会話がしたいの」
「テレビを見ながら話せるわ」レックスは手を伸ばし、トリッシュの固く閉じた指を手探りで開こうとした。
トリッシュが背中を向けた。「私の質問に答えるのが先」
「どんな質問だっけ?」
トリッシュは、(言いなさいよ、あなた、そこまでバカじゃないでしょ)という目でレックスを見て言った。「キンムン?」
「ああ」レックスは腕を組んだ。「キンムンがどうしたの?」
「いじめてデートに行くことにしたようね。あなた、他人の感情ってものを考えたことないでしょ」
「考えてるわ。他人にとって何がベストか、分かってるもん」
「じゃあ、キンムンがあなたとしぶしぶデートに行くのが、彼にとってベストだってこと? あなたにとってじゃないの?」
「お互いにとってよ。さあ、早く、リモコン」
トリッシュはレックスの手が届かないところにリモコンを動かし、その上にすわった。「ちっとも心配してないってこと?」
自分のことを弟——じゃなくて妹のように考えているというのはあまり嬉しいコメントではなかったが、そのことをトリッシュに打ち明けるつもりはない。「ただ、私のことをそういう目で見たことがないだけなの。それに、考えがあるの」
「他にも?」
レックスは冗談半分でトリッシュの頭の上をピシャッと叩くしぐさをした。「これはいい考えなの、一緒に買い物に行ってくれる?」
レックスのお気に入りのスポーツになった時に限って、トリッシュはまっすぐに座った。テレビがプツンと消えた。
「リモコンちょうだいよ。壊れるじゃない」
「自分からショッピングに行きたいなんて、どういうこと?」
「キンムンにあっ、と言わせたいの」
「イメチェンって意味?」トリッシュは、開いた口が塞がらない。
「よだれが垂れてるわ」
「垂れてない」トリッシュは口の端を拭いた。「イメチェンなんて、相当やけくそになってるわね」
「やけくそになんてなってない。現実的なだけよ。カジュアルな服しか見せてないから、セクシーで魅力的な私を見せなきゃ」(妹のように、じゃなく)
「本当にうまく行くの?」トリッシュの顔から懐疑心がにじみ出ていた。
「何よ、私ってそんなに救いようがない? 教えてくれてどうもね」
「彼があなたの性格に惹かれてないんだったら、見かけを変えてもどうにもならないんじゃないの?」
「男は外側を見るものでしょ。つまり、うちでスポーツセンター(スポーツ専門テレビ局)を見てる時、お兄ちゃんは何を見てると思う? AXLのコマーシャルに出てくる、半裸でおっぱいを揺らしてる女の子達よ」
トリッシュの口が大きく丸い形になった。「あなたが半裸になるわけじゃないでしょ——?」
「ええっ、違うわよ。私は揺らすものがないからね」レックスはトリッシュのお尻をひっぱたく素ぶりをした。アスリートではあるが、悲しいことにフラットな体でビキニを着たら、キンムンは悲鳴を上げ、精神病院行きになるかもしれない。
「それじゃあ……」トリッシュは、職場で新しい生物学実験に取り組むときに見せる「改善しよう」と言う目つきでレックスの体をジロジロ見た。そう、レックスはトリッシュをその気にさせたのだ。
「できる?」
「私がやらなきゃ無理ね」
ショッピングのライセンスを手にしたトリッシュは、見るのも恐ろしい。
他人のために買い物をするライセンスを持ったトリッシュは、東京を引き裂くゴジラのようだ。
トランズ・ニュークリアコーヒーショップに入ったレックスは、挽きたてのコーヒーの香りを吸い込んだが、疲れた筋肉は癒されなかった。冷たい金属製の椅子に沈み込むようにすわり、ガラスのテーブルの上に肘を置いた。「ソイラテをお願い、ダブルショットで」
トリッシュはバッグに手を突っ込んで財布を探した。「ああ疲れた」
「回復するまでに一週間はかかりそう」
「一週間もないわ、三日だけよ。だけど大丈夫、フランケンシュタインの花嫁のようにブサイクでも、キンムンはそのドレスに参るから」
「あなたって、本当に励ましの泉ね」
「努力してるの」トリッシュは肩越しに生意気そうな笑いを浮かべ、二人の飲み物を注文しようとカウンターへ急いだ。
レックスは、さっきピンが刺さった脇と腰をさすった。ピンがついたままの洋服を着たことなど一度もなかった。値札にあんな高額がついた衣服なら、ピンが取り除いてあってもいいようなものだが。それに、レックスのように繊細なバランス感覚の持ち主でも、あのスティレットヒールで一ミリ秒以上バランスを取るのは難しい。足首をひねるという名誉の負傷のために数百ドルか——。
それだけの価値がないと困る。レックスはモンスターを作り上げてしまったようだ。トリッシュにとっては、他人の財布を使って自分自身のために買い物ができれば、もっと良かったのだろうが——。
「はいどうぞ、レックス——」
「キャーッ!」
その悲鳴は、どこにいても誰のだか分かる。
ダブルショットのソイラテを床中にこぼしても、紙コップでは大して音が出ない。しかし、ミミの甲高い声は、ガラスが粉々に砕ける音のようだった。
「何で私のコーヒーをこぼす?」レックスは茶色いソイラテの湖を悲しい顔で見つめた。
トリッシュが気をつけていればよかったのだが——彼女の突き刺すような眼差しのために、ミミは石のようにこわばった。「ここで何してんの?」
「コーヒーを買いに来たに決まってるじゃない」ミミは長いポニーテールを不機嫌そうに揺らした。
「わざとぶつかってきたわね」
「そう見えただけよ。あなたが振り向いたから、私にぶつかったんでしょ」
「この嘘つきのチビ」
「それだけ? 喧嘩だったら受けて立つわよ、お姉さん」ミミが頭を横に振ると、ポニーテールがメトロノームのように早く動いた。
仲裁に入る時が来た。「このコーヒーショップでマッドレスリングでもするつもり?」
トリッシュは口を開いたが、レックスはその顔に手を押し付けた。「あなたは黙って」ミミの目と目の間に指を突き出した。「ラテ、もう一杯おごりね」
ミミの目が黒い炎のように光った。
「じゃなきゃ、トリッシュのやりたいようにさせるわ。そのポニーテールじゃ、不利よ」
キューピットの弓のような形をした唇からピンクの色が消え、ミミは急に向きを変えて、カウンターの方へ足を踏み鳴らして歩いていった。レックスはついて行った。
「ソイラテ、ダブルショット」ミミが飲み物を注文している間、レックスはカウンターに寄りかかって辺りを見回した。コーヒーショップの店員が、床を片付けようと出てきた。
あの男は、何故テーブルの下でかがんでいるのだろう? いや、何か落としたに違いない。窓際でインド人のカップルがしゃべっている。テーブルの方では、トリッシュが自分の指でスチームミルクを作れるぐらい熱くなっていた。
ミミの隣に立っていると、一六一センチのレックスは、カウンターにもたれていても巨人のような気がする。
ミミは喉元にあるティファニーのハートのペンダントを指でさわり——無数のボーイフレンドの一人がプレゼントしてくれたのだろう——そのネックレスのチェーンを前後に滑らせていた。「レックス、最近、エクササイズしてる?」
その言い方は少し無神経に聞こえた。そのお世辞たらたらの言い方の反面、本心は苛立っているような質問だった。レックスのラテのために四ドル支払うことは、大学生であるミミの予算に負担がかかるからだろうか。
「だって、ちょっといつもより大きくなったみたいだから」
二人はこのゲームを続けたいようだ。「あなた、まだ子供売り場で買い物してるの?」
おきまりの皮肉には、同じようにおきまりの答えが返ってくる。ミミの丸い鼻にしわが寄り、ほっぺたがふくらんだ。「ボーイズの売り場で買い物するよりましでしょ」
「私も洗濯板みたいだけど、チビのあなたほど気にならないから」
「曲がりなりにも私は——」
「あなたと話すのは本当に楽しいわ、ミミ——」レックスは、バリスタが受け取り用の棚に滑り込ませたラテをつかんだ。「——だけど、私たちの間には相互回避条項があったよね。ちゃんと守ったほうがいいわよ」レックスは重々しく歩き去った。
いや、重々しく歩いたというより、アスリートとしての品位をもって歩いた。それに、アジア系の男女混合バレーボールチームでは、レックスの身長は概して有利だった。ミミのために、また、あの子供じみた不安を感じることはない。
トリッシュは、モカ・フリーズを待っているミミへのレーザービームのような眼差しを、まだそらしていない——そして、モカ・フリーズを飲んでも、その少し曲線のある体のサイズは少しも変わらないのだ……
(やめ、やめ、やめ)「トリッシュ、どうしてあなたとミミは、シュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランみたいなの?」
「はあ?」
またスポーツセンターの業界用語にはまっている。「気にしないで。水と油よ。あなたとミミは、水と油みたいだってこと」レックスの方がミミとウマが合うというわけではないが、レックスは、ミミが視界に入っただけでつかみかかりたい衝動に駆られることはない。
「あの子は性悪女なのよ」トリッシュは猫のようにシューッと音を立てた。
「あの子はあなたより年下なの。あなたが未熟なのよ」
「私はただ根に持ってるだけ。そこが違うの」
「だって、無数にいるあなたのボーイフレンドの一人とデートした、ってだけでしょ。そんなこと忘れなさいよ」
「ボーイフレンドの一人だけじゃないわ。私のボーイフレンドを盗むのは、あの子の使命なの。家族の集まりに男の子を連れて行くと、必ずあの子が攻撃を仕掛けてくるのよ」
「やめて、必ずってことはないでしょ」
「あの子に会った途端に私を捨てて、別れてから二週間以内にあの子とデートした男を数えたら、最低六人はいるわ」トリッシュは挑戦的な目でレックスを釘付けにした。
数字を持ち出されると、レックスは反論できない。「もう一つ忘れてるんじゃない? その子達は、結局ミミも捨てたのよ。それでも気になるのはどうして?」
「それが道理ってものなのよ」
「あなたの膨れ上がったエゴでしょ。また別の男の子を誘惑して楽しんだ後は、次に進めばいいだけ、でしょ?」
「その感情移入のスキルには感動するわ」
「おっと、あのわがまま娘がまた来るわ」ミミは何故こちらに戻ってきたのだろうか? バカな子。今度は、レックスは猫のケンカに割って入るわけがない。彼女はトリッシュの味方なのだから。
ミミはガラスのテーブルの近くまでのんびり歩いてきて、二人の間にもたれかかった。「ねえレックス、あいつはどうしてあなたのことをじっと見てるの?」
「ええっ、何それ?」
ミミは、店の反対側を指して頭を振った。
「あの新聞を持ってる人のこと?」トリッシュはわざわざ小さい声で話そうともしない。「バカげてるわ」
「新聞が逆さまよ」キラキラ光るシャツを着たミミは、お尻の片側に重心を移し、グリッターのついたエクステを整えている。
レックスは目を細めた。「本当?」
トリッシュも目を細めた。「あなたの方がよく見えるじゃない」
ミミはイライラしてため息をついた。「信じて、上下逆よ」
「だけど、顔が見えないわ」レックスは左右に傾いてみたが、よく見えなかった。
「じっと見続けたら、新聞を落とすかもしれないわ」
三人は、新聞に穴があくほど、丸一分間じっと見た。さぞ間抜けに見えたに違いない。それか、新しいX-Menのブロードウェイショーでサイプロスの役に応募している役者のようだ。
「バカげてるわ」レックスが燃えるような目をパチパチさせた。
「本当にそう」トリッシュがくるりと回った。「ミミ、他に行くところがあったんじゃないの? ティンブクトゥとか?」
ミミの笑い声は鈴の音のようだ。「あなたって本当に独創的ね、トリッシュ。ところで、昨日、あなたのお母さんがおじいちゃんのお墓に花を供えてたわ。たった一人で、叔母さんもかわいそうに」子供としての義務を怠っていることに対するトリッシュへの非難とは裏腹に、シワがよって下に引っ張られたミミの口元は少し甘ったるく、かつ悲しそうに見えた。
トリッシュはイライラした。「仕事だったのよ。あんたみたいに学生じゃない人もいるの。それに、私たちは四年で卒業してるしね」
ミミはそのうっとうしいポニーテールを揺らした。「あ~あ、それは良かったわ。つまり、結局あなたたちと違って、私は時間に余裕があるから」
トリッシュの顔色が柿のようになった。
震える電子音が緊張を打ち破った。レックスは命綱のような携帯に飛びつき、発信者番号をチラッと見た。「ハロー、キンムン!」これを聞いていたトリッシュの顔が少し落ち着いてきたことに、レックスは気がついた。バカなミミは、一歩も動かなかったが。
「レックス、土曜日の夜のことだけど、キャンセルしてくれる? 別の用事ができたんだ」
一日経った後の寿司のにおいのように、何かくさい。「別の用事って?」
「仕事だよ」
「ああ」興奮から落胆へと、鼓動が落ち着いてきた。「じゃあ来週は——?」
「分かった、じゃあ」
「オッケー、じゃあ、またね」
「ちょっと待って、キンムンと話させてくれる?」ゆるく握っていた携帯をミミが取り上げた。
「ちょっと!」レックスは携帯を引っ張った。
ミミは飛び跳ねて、離れた。「ちょっと待って」
「キンムンのこと知りもしないくせに」
「もちろん知ってるわ。二週間前に会ったもの」ミミはレックスの携帯で話し始めた。「ハロー、キンムン?」
レックスは怒りの中でラテをすすった。手が塞がっていなければ、いとこの顔を引っ叩いていたかもしれない。
「ええ、ミミよ。土曜日の夜、まだ大丈夫?」
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