【ひとり寿司】第1章
『ひとり寿司』
寿司シリーズの第一作著者:キャミー・タング
日本語訳:西島美幸
第1章
食べて帰る。することはこれだけだった。遅れたことを理由に祖母に殺されなければ、の話だが。
レックス・坂井は中華料理店の戸口をさっと通過し、人々の会話、赤ちゃんの泣き声、香水と古いごま油が混じったにおいの中にとけ込んだ。敷居でつまずいて、足首をひねりそうになった。この忌々しいパンプス。ハイヒールは苦手だ。
いとこのチェスターは、開いた戸口に隣接する壁に押しつけられた小さいテーブルの後ろでくつろいでいた。
「ああ、チェスター」
「遅いじゃないか。ばあさんが機嫌を損ねるぞ。ここにサインしてくれ」チェスターは、周囲にのり付けされた、ピンク色のレースがやけに目立つゲストブックを指さした。
「これはどうすればいい?」レックスは、ベビー用品店の箱をテーブルに置いた。
チェスターはその箱をつかんでラベルをつけ、慣れた手つきで後ろにポンと投げた。フリルの付いた受付のテーブルの上から見えなくなって欲しいかのように。
レックスには彼の気持ちがよく分かった。いとこ達の多くが子供を持つようになり、中には日本人と中国人のハーフもいる。だから少々退屈でも、いとこ達の多くは中国の伝統的なレッドエッグアンドジンジャーのように盛大なパーティを開いて、生まれた子を「お披露目」していた。家族の大多数は日系アメリカ人なのだが。
レックスはかがんで、ゲストブックに自分の名前を書いた。新しいタイトなドレスは腹筋の辺りまで切れ込みが入っていて、布地は背筋を横切るようにピンと張っていた。トリッシュに説得されて買ったこの流行りのドレスは、レックスのスポーティなシルエットをいくらか曲線的に見せたが、コルセットを付けているようで動くのがむずかしい。前から持っているルースフィットのドレスを着ればよかった。「料理はどう?」こんなに騒々しい集まりの中で唯一価値のあること。ビーチの方がよかったな、とレックスは思った。
「まだ出てこないんだ」
「なーんだ。おばあちゃんの機嫌がまた悪くなるわね」
チェスターは顔をしかめ、真っ赤なカーテンがかかった壁と、巨大な金色のドラゴンの壁掛けがある広間の隅を指さした。「あそこにいるよ」
「サンキュー」そう、チェスターはよく分かっていた。レックスと同じだ。パーティに着いたらすぐ、祖母が自分に気づく前に挨拶に行くこと——そうしなければ祖母は機嫌を損ね、レックスの名前はクリスマスが終わるまで「無視リスト」に貼られるだろう。
レックスは振り向き、そして立ち止まった。かわいそうなチェスター。あのつまらないテーブルの後ろで、体だけ大きい彼は、ポツリと取り残されていた。いとこ達の中では、レックスに対していつも笑顔を向け、冗談を言うのが彼だった。
「座りたいんじゃない? 少しの間、私がここでテーブルの番をしてもいいわよ。何か食べ物を持ってくるのを忘れないでね」彼にウィンクした。
チェスターは歯を見せて一瞬ニヤッと笑い、顔の周りの疲れジワが普通の笑いジワまで広がった。「嬉しいけど、俺のことは心配するな」
「本当に大丈夫?」
「ああ、妹が何か持ってきてくれるよ——子供達はみんな、あいつのテーブルにいるから、俺の分も十分にある。だけどレックス、その気配りが嬉しいね」
「私にも同じようにしてくれるじゃない」
丸テーブルの間を小刻みに進んでいくうちに、レックスは椅子から突き出た金属製の脚につま先をぶつけてしまった。大人数の親戚一同を収容するため、レストランの中はテトリスのゲームのように椅子とテーブルで一杯になっていた。一旦みんなが腰かければ、箸のように細い人でもその隙間を通れない。それに、レックスは体脂肪十八%のアスリートで、箸のように細くはなかった。
中国人のウェイターは、まさにこの時を選んで食事を運び始めた。
黒いパンツと白いボタンダウンのシャツを身につけ、大きな丸皿を頭の上まで持ち上げて、キッチンに入る戸口を隠す派手な間仕切りの後ろから列を成している。レックスが叔父と叔母の間の一〇センチの隙間を押し分けようともがいているというのに、どうやったらそんなことができるのか、彼らは混雑した中をするすると通り抜けていく。レックスが逃げられないことが分かっているかのように、ウェイター達はワシのように襲いかかってきた。
レックスは、豚トロと親指サイズのタコの蒸し煮をのせたお皿を持った痩せたウェイターをかわした。別のウェイターは、大皿で彼女の目をえぐるところだった。レックスは、かがんで椅子を突き出し、叔父と叔母らの冷たい視線を浴びた。
そうして、テーブルの海からドラゴンの壁掛け近くの広い空間へと追い立てられた。流砂から脱出したような気分だった。祖母は恐ろしい金色のドラゴンの前に立って、パーティの主役である新しい孫娘を抱き揺らしていた——変だ、お尻の右側をかばっているように見える。赤ん坊の顔は、壁にかかった布地のように赤くほてっていた。三○センチ先に見えるドラゴンの狂ったような緑の目が怖かったのだろうか。
「こんにちは、おばあちゃん」
「まあレックス。ちょっと遅かったわね」
本心——もちろん正当な言い訳があるんでしょうね。
レックスは嘘をつこうかとも思ったが……。身を守るために嘘をつくべきなのだろうか。それはさておき、祖母の目は狙撃者よりも鋭かった。「ごめんなさい。グラスバレーボールをやってたら、時間を忘れちゃって」
注意深くラインを入れた赤い唇がへの字になった。「あなた、スポーツのしすぎじゃない? そんなにいつも汗をかいてたら、男が寄りつかないわ」
今も汗をかいているのだろうか? 車から出る前に、フルーティなボディースプレーを振っておいて助かった。
「かわいいドレスだわ、レックス」
どうしたらそんな風にできるのだろう? たくさん孫がいるのに、祖母は必ず服装に目を留めた。レックスはと言えば、自分は裸じゃないことだけは分かっている。「ありがとう、トリッシュが選んでくれたのよ」
「いとこの結婚式で着てた、ダラダラしたみっともないのよりずっといいわ」
レックスは歯を食いしばった。(祖母を敬いなさい。水玉模様のビキニで祖母の前に出るような話題に口をはさんじゃダメ)
「ところでレックス、今日はとてもお嬢様っぽくていいわね。友達の息子さんなんだけど、会ってもらえないかしら」
(ああ、まただ)「英語は話せる?」
祖母はすっくと立ったが、それでもレックスの方が祖母を見下ろしているのが少し滑稽だった。「もちろんよ」
「ちゃんと仕事をしてる人?」
「してるわよ。レックス、その態度は——」
「クリスチャン?」
「それが何だっていうの?」
レックスは素直に目を大きく開けた。「宗教の違いから離婚することは多いのよ」
「結婚しろ、とは言ってない。会って欲しいだけよ」
(嘘だ)「心配してくれるのはありがたいけど、自分の相手は自分で見つけます」レックスは歯にナイフの刃が入っているように笑った。祖母がこのように押しつけがましく言う時、レックスは他のいとこ達より肝がすわっている。
「心配してるんじゃないの。だけどデートにも行かないから——」
(その話はやめて)「この子がチェスターの姪?」ピルズベリー・ドゥボーイのような赤ちゃんのお腹をくすぐりながら、レックスの声は一オクターブ上がった。赤ん坊が声を上げた。
「あらぁ、何て可愛いの。それに大きいわ、楽しそうね。おばあちゃんがあなたを見せびらかしてるのね。写真と同じぐらい可愛いわ。レッドエッグアンドジンジャー・パーティは楽しい? じゃ、おばあちゃん、席に戻るわ。またね」
祖母に一言も返す隙を与えず、レックスは大勢の親類の中へと去っていった。第一段階完了。祖母は交戦状態に入っていたが、「デート」や「結婚」のようなしつこい言葉のために空気がよどむ前に、退陣が始まった。
次は親友であるいとこ達を探す時間だ——トリッシュ、ビーナス、ジェニファーが、彼女の席を確保してくれていた。レックスは、物理的に祖母から最も離れた、独身のいとこ達みんなが座っている後ろの方に向かった。
彼女らのテーブルは、使われていない椅子を積んである隅に押し込まれていた——このレストランにもっと椅子が入るとでも言うのか。「レックス、こっち、こっち!」トリッシュが挙げた手を激しく振ったので、レックスはその手が飛んでくるような気がした。ビーナスはトリッシュの隣で、いつものように華やかにくつろぎ、だるそうにしている一方、ジェニファーは反対側に静かに腰かけ、まっすぐな長髪をいじっていた。彼女らのどちらの側にも……
「ねえ、私の席はどこ?」
ビーナスの大きいアーモンド色の目は心から詫びているように見えた。「ごめんね。ジェンの隣の席を確保してたんだけど……」太った叔母の椅子の背の方を指さした。「その椅子をどかさなくちゃいけなくて、そうこうしているうちに、なくなっちゃったの」
「裏切り者。テーブルの下に一人押し込んだら?」
ビーナスがずる賢くニヤッとした。「あなたなら、ちょうどそこにぴったり入れるわよ、レックス」
トリッシュはビーナスの腕を叩いた。「もうちょっと親切にできない?」
他のいとこ達が怪訝そうにこちらを見ているが、それはよくあることだ。この四人は学生時代に同じコンドミニアムに住んでいた時から仲良くなったのだが、そろってクリスチャンになって以来、さらに親しくなった。彼女らの弱み、欠点、信仰を理解する者は、他に誰もいなかった。
レックスはすわる場所を探さなくてはならない。少なくともこの拷問のようなパーティに来たんだから、高価で高カロリー、高コレステロールの食べ物をがっつり食べなくては。
黒髪の頭、白髪の頭、染めた頭、おにぎりを逆さにしたようなヘアスタイルの子供の頭、ハイライトを入れたり、変わった色に染めたティーンエイジャーの頭の海を、レックスはざっと見渡した。
あそこだ。一つ席が空いているテーブルがある。いとこのボビーとその妻、義母、彼らのひな鳥たちがいる。六人——数えてみた。五才に満たない小さい子供が六人だ。
レックスは子供が苦手というわけではなく、逆に、好きだった。女子バレーボールチームのコーチも楽しかった。だけど、ここにいるのはボビーの子供。九一一番の交換手はこの子達の名前を覚えていた。地元の警察官は電話が鳴ると、誰がその家に出動するかを決めるために、くじを引くのだった。
しかし、ボビーの家族と一緒にすわるのは、それほど悪くないかもしれない。子供は大人より食べる量が少ないから、レックスの食べる分が増えるということだ。
「こんにちは、ボビー。ここ空いてる?」
「空いてるよ、どうぞ」丸顔のボビーは、空いている席を指してうなずいた。
レックスは、心配そうにしている彼の妻に微笑んだ。断続的に高い音を発する乳児と格闘している。「その子は……」(まずい、墓穴を掘ってしまった。何でもいいから名前、名前——)「ええと……カイル?」
赤ん坊がタコのように体をくねらせながら床にうつ伏せにならないよう悪戦苦闘しながら、追い詰められた母親の笑顔は苦笑いと混じり合っていた。「そう、カイリー。大きくなったでしょう?」息子の一人がフォークを持ち上げた。
「ダメよ、いい子だから食べ物を置いてね——!」
揚げ物がミサイルのようにテーブルのこちら側へ飛んだ。野菜とベタベタするソースが弧を描いている。時速百二○キロで飛んでくるバレーボールから顔を守ったことはあるが、飛んでくる複数の食べ物から素早く身をかわしたことはない。レモン味の刻んだレタスは手で避けたが、ソースに浸かった鶏の唐揚げミサイルは、胸に命中した。
ゲッ! でも洗濯できるから不幸中の幸いだ——いや違う、これは普通の綿のドレスじゃない。新品のシルクのドレスだった。値札を見たときは息が止まりそうだったが、ウエストは実際くびれているように見える。「ドライクリーニングのみ」のタグがついたドレスだった。
「大変! レックス、ごめんなさい。悪い子ね。あなたがやったことを見なさい」ボビーの妻は、赤ん坊をつかんだまま、テーブルの向こう側から体を傾けてナプキンを差し出しているが、赤ん坊の足は大皿の焼きそばを引きずっていた。
レックスの隣に座っていた男の子が笑いながら叫んだ。噛んでいる途中のニンニクソース入りチンゲン菜で口の中をいっぱいにしていなければよかったのだが——
胃から逆流したチンゲン菜がレックスの胸に降ってきて、お皿のサニーレモンチキンがべチャッとなっている。子供は彼女のドレスの上にできた模様を指さして、フェルメールを世に送り出したかのような歓声をあげた。
「こら! 失礼だろ」ボビーは息子達をにらんだが、塩コショウ味のエビを口に放り込むのはやめなかった。
レックスは汚れをゴシゴシこすった。ポリエステルのナプキンでは、どうしてもソースのベタベタがドレスから落ちず、粘液のように青いシルクにくっついた。ムカムカしてきて、胃がグルグル鳴った。アスリートである彼女の体の他の部分は強いのに、どうして胃は弱いのだろうか?
汚れを落とさなくては。レックスがやっとの思いで椅子から立ち上がると、後ろに座っていた年配の男性にぶつかった。「ごめんなさい」激しい動きのため吐き気がひどくなったが、すぐにおさまった気がした。(バカじゃないの。しっかりしないと)しかし、彼女の過敏な胃は、頭との連絡が取れなくなっていた。
(息を吸って。吐いて。違う、鼻からじゃなくて。あの男の子の鼻から垂れている鼻水は見ちゃだめ。よだれを垂らしている赤ちゃんからも目をそらして)
外の空気を吸わなくては。今、帰ったら失礼だと言われても構わない。
「いたいた、レックス」
祖母はレストランのはしっこまで来て一体何をしているのか? ここは安全地帯のはずだ。「もっと重要な」家族のメンバーが座っている向こう側から、わざわざこっちまで来たのは何故だろう。
「何てこと! 何が起こったの?」
「ボビーの子供達の隣に座ったのよ」
粉おしろいをはたいた祖母の顔にシワがよった。「さあ、一緒にトイレに行きましょう」キラキラした目が、またレックスの汚れたドレスの前へとそれていき、祖母は息を呑んだ。
大変だ、他に何があるのだろう? 「何なの?」
「いい服は絶対に着ないものね。いつも黒くて醜いのばかり」
「前にも話したでしょ——」
「あなた、胸がないのね。気がつかなかったわ。どうりで男が寄りつかないはず」
開いた口が塞がらない。レックスは、無理やりコホッと咳を出すまで、胸の中で息が詰まった。「おばあちゃん!」
くるっと回る複数の頭が、目の片隅に入った。祖母の声は、サッカーのワールドカップの解説者よりも通りがいい。
祖母は前かがみになって、レックスの胸元をのぞいた。レックスは飛びのいたが、後ろに椅子があるのであまり遠くまで動けない。
祖母は恐ろしく興奮した顔つきで姿勢を正した。「どうするべきか分かったわ」
(やれやれ、今こそウェイターが、お盆でおばあちゃんの頭を叩き割るときだ)
祖母は上機嫌で手を叩いた。「そうね、それがいい。あなたの豊胸手術の費用は私が持ちます」
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※少しでも物語を楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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