【独身淑女のクリスマス】 第2章

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第2章


「ミランダ!」フェリシティの鋭く不機嫌な声が、ナーサリー棟の壁に沿った羽目板から荒々しくこだました。

 ミランダは、自分の部屋に向かう途中で立ち止まり、振り向いた。フェリシティが階段の上に立って、ミランダが来るのを待ち構えていた。

 ミランダは廊下を引き返した。「何か用ですか、フェリシティ?」

 フェリシティは、じれったそうにムッとした顔つきをして、ミランダの方に向かって途中まで大股で歩いて来た。「まったく、あなたの歩き方はナメクジより遅いわね」

 ミランダの母もこのように文句を言ったものだったが、母と同様にベルモア家のその他の家族も、ミランダの足が遅いことと、思考回路が遅いことを同一視していた。こんな時、ミランダはただ口をつぐんだので、相手も居心地が悪くなった。だからこそ彼女は何も言わないのだった。

 フェリシティは返事を待った。そして長すぎる沈黙の後、何度か瞬きをしてから言った。「今日の夕食に出席する必要はないと言いたいだけよ。明日到着されるお客様もいるから、今日はテーブルの人数が揃ってるの」

「もちろんです」ミランダはスカートのポケットの中で拳を握りしめ、下を向いたまま冷静に答えた。

「だけど、夕食が終わったら応接間に来てちょうだい。用事があるかもしれないから。それから、ミスター・フォーモントの馬車に乗せてもらうってどういうことかしら?あんなみすぼらしい上着で歩いているのを見られるなんて、本当に恥ずかしいったら」

「買ってきたリボンを三十分でも早くお渡しした方がいいと思ったので」

 フェリシティは唇をすぼめ、その口をほとんど開けずに言った。「結構。でも私の気持ちを考えるようにしてね。あなたは目立たないに越したことはないってこと」

 ミランダは湖に突き落とされたような気持ちになった。手が震え始め、上着が揺れた。

「十二夜が終わったら、あなたにはポリーの家に行ってもらった方がよさそうね」フェリシティは付け加えた。

「フェリシティ、お願いだからそのことについては考え直してもらえませんか」ミランダは言った。屈辱というより、もっと悲観的な感情のために、手は震えていた。「メイドからミスター・ベイティの噂を聞いたことがあるんです。ベイティ邸の近所の人たちも、逃げ出したメイドたちのことを話していました」

「ポリーはナーサリーで働く人を雇うのにいつも苦労しているの」フェリシティはイライラしながら言った。「だからあなたに行ってもらいたいのよ」

「でも、何かみだらな話があるってそのメイドが言ってましたわ。何でも、二人のメイドは妊娠しているらしくて、別のもう一人は自殺したとかって」

「ミランダ!」フェリシティの顔は火がついたように赤くなった。「でたらめの噂話をよく何度も—!」

 未婚の若い女性として、ミランダがこのようなことを言うのは非常に不適切だが、フェリシティが真実を理解し、考え直すように仕向けなくてはならない。「近くの村の人たちは、いくらお給料がよくても、自分の娘がベイティ邸で働くのを許さないそうです。フェリシティ、分かってもらえますか?」

「あなたに親切心がないということは分かったわ」フェリシティはきつく言い返した。「この家に住ませてもらったお礼として、私のいとこの家で奉公するぐらいのことはできるはずよ」

 ミランダは、メイドに手を出すと噂されている男がいる家で無給の召使い、ということになる。「フェリシティ、お願いです」

「私のいとこの夫のことで、そんなひどい嘘はもう聞きたくないわ」フェリシティは言った。「あなたが私に言ったことをセシールが知ったらショックを受けるわよ。なんて恩知らずで恥知らずなの、あなたって娘は」フェリシティは、怒ってスカートを翻らせながら、ナーサリー棟の通路にミランダを一人残して出て行った。

 恩知らず?うわさは嘘?それにしたって、いとこの妻であれば、親類が危険にさらされることを心配するべきではないか?いくら血がつながっていないとしても。

 ミランダはかたく目を閉じ、その両手両足は、厳しい冬の風の中で飛び散る葉っぱのように震えていた。フェリシティがいるこの屋敷での生活は辛いが、ベイティ邸へ行くことだけはどうしてもできない。自分を救う方法を何とか見つけなくては。

 ミランダは激しい震えを感じた。さっきまでいた食料貯蔵室は、隣にあるキッチンの熱が伝わってきたため心地よい暖かさだった。しかしこの棟はすきま風がひどく、ショールを取るために自分の部屋へ戻った。ミランダ自身、必死で混乱した感情を抑えようとしていた。

 部屋を出るとき、大きい体の男性とぶつかりそうになった。足音も聞こえないほど頭の中が一杯だったのだろう。

 カタっと木の床の音がして、温かい手が彼女の肩をつかんだ。荒々しい海とミントの匂い、見なくてもジェラルドだと分かった。子供時代に一緒に遊んで以来、彼にこうやって触られるのは初めてで、ミランダはまるで離して欲しくないかのように、身動き一つしなかった。

「ミランダ、何してるの?」後ろにある家庭教師の部屋をのぞき込んだ。「何故そんなところにいたの?」

「ホリデーの間はここで寝てるのよ。お客様で満員だから」

「ナーサリーメイドの部屋で?」

「違うわ、家庭教師と部屋を共有してるの。ナーサリーメイドはいないわ」

ジェラルドは、ミランダの肩から手を離し、顔をしかめた。「セシールだったらナーサリーメイドを雇うぐらいの金はあるだろう?」

「私がここにいる間は、その必要がないのよ」

 表情が暗くなった。「君はこんな扱いを受けるべきじゃない。セシールのいとこなんだから」

「ジェラルド、私は貧しい親類なのよ。だから、これが当たり前なの」

「貧しい親類がみんなこんな扱いを受けていいとは限らない」

「あなただったら、セシールやフェリシティからほとばしるような愛情を期待する?」

 ミランダを眺めているシナモン色の目が細くなった。「それじゃあ、君の寝室には誰がいるの?」

「オーガスタおばさんとアニーおばさんが連れてきたナーサリーメイドよ」

 眉毛にしわが寄った。「メイド?君の寝室に?」

 ジェラルドの怒りを理解するのに少し時間がかかったが、ミランダはすぐさま「私の寝室は家族棟じゃなくてそこなの」と言って、反対側のドアを指差した。

 しかし、これを聞いて彼はさらにショックを受け、彼女の分まで怒っているようだった。「もう一度聞くけど、ナーサリーメイドの部屋で寝てるってこと?」

「エリーの寝室に近いし、それに冬休みで学校から帰ってきているお坊ちゃんたちの部屋にも。私は気にしてないわ」

「ミランダ……」

「時々夜中にエリーに呼ばれるの。まだお母さんが恋しいのよ。ベスが死んでからまだ一年も過ぎてないし。知らない人には分からないことでも、私だったら気をつけてあげられるの」ミランダは付け足した。「私のために機嫌を損ねないでもらえる?」

 彼の返事を見越してか、ミランダはかがんで杖を取り上げた。ぶつかりそうになって彼女の腕をつかんだときに落としたものだった。「はい、どうぞ。すぐ必要なくなるわよ」

 ジェラルドがじっと見つめたので、ミランダは目を逸らすことができなかった。彼女が話題を変えようとしていることには気がついたが、彼はそれを黙認した。「介助なしで立てるだけでも有り難く思わないといけないんだけど、まだこれが要るっていうのがじれったいんだ」杖先をがんと鳴らして木の床に固定した。

 ジェラルドの父が叔父エドワードに送った手紙によって、彼の大怪我のことを初めて知ったとき、ミランダがどれだけ苦しんだか、それ以来、毎晩彼のために熱心に祈り続けていることを、ジェラルドは知る由もなかった。

「エリーに会いに来たの?」ミランダは尋ねた。

「そう、ナーサリーの声が階段の下まで聞こえてくるからね」

「子供たちはいとこたちと再会できて喜んでいるわ」

「僕たちもあの年齢の頃はそうだったね」

 ジェラルドが家族ぐるみの大きな集まりに参加していた頃のミランダは、生き生きしていた。ジェラルドの父とミランダの叔父エドワードはとても仲が良かったので、少なくとも彼が航海に出るようになるまでは、ミランダや彼女のいとこたちと一緒に育ったようなものだった。ミランダがどれほどジェラルドのことを思っていたのか、女の子らしい涙を流すほど彼に恋をしていたことを、彼は決して知らなかった。ミランダはもう少女ではないが、彼に対する懐かしい思い、見つめられるときに感じるはっとするような興奮を、いまだに感じた。

 ジェラルドは絶対に知らない。知られてはいけない。

「子供たちは夕食中よ」彼女は言った。「もう少し経ってから会いに行かれたらどうかしら?」

「チビ達の儀式に出席するわけじゃない。ちょっと入って挨拶するだけだ。相撲でもとって吐かせてやろう」ニヤリとした。「じゃあ夕食のときにまたね」

 正直に真実を言うと彼がまた機嫌を損ねるので、曖昧に答えようかと思ったが、いずれは真実を知るようになるだろう。「私は下には降りません。夕食はナーサリーで食べることになっているので」

 ナーサリーに向かおうとしていた彼は立ち止まった。杖が一瞬空中で止まり、再び床にドスンと落とされた。「なんでそんなことを?」

(フェリシティが全権力をふるって食卓で人数を数えるのよ−−−−)心の中に浮かんだことをすぐに口に出さないように、ミランダは舌を噛んだ。

 しかし、「フェリシティから食堂に入るなと言われてるの?」と彼が疑わしいそうに聞いてきたということは、彼女の表情が真実を語っていたのだろう。

「そんな野蛮なことじゃないの。フェリシティが熱狂的に秩序と外見を重んじることは知ってるでしょ。今夜の夕食のゲストが奇数っていうのが許せないのよ」

 ジェラルドは途方にくれた顔をした。「まったく馬鹿げている」

「ジェラルド、私がいなくても、心配する人は誰もいないのよ」確かに分かっていたが、口に出してそれをいうことで、胸をハンマーで鈍く打たれたような気がした。ミランダがいないことに気づく人はいないばかりか、いることを好まない者もいるぐらいだから。

 ミランダの言葉でジェラルドはショックを受けたようだった。そしてようやく興奮した口調でまくしたてた。「君がいなければ気がつくに決まってるじゃないか。僕たちはみな一緒に育ったんだよ。君がいないのは不自然だ」それから気を取り直していった。「君と、もちろん他のみんなも」

 ジェラルドの言葉から自然に湧き上がってきた熱情の火花に、現実が跳ね返ってきた。ジェラルドは、友達以上の存在としてミランダのことを見たことは決してなかったし、何年も過ぎた今、ミランダだって彼に夢中になっていた少女ではない。ミランダは感情を隠そうとして、悲しそうな微笑みを返した。「ジェラルド、私は食事中無口になるって知ってるでしょ?私の気の利いた言葉なんて、誰も期待してないわ」

 ジェラルドは微かな笑みを浮かべた。「すべて僕が航海に出る前の年のようになって欲しい。イギリスで迎えるクリスマスを何年も心待ちにしてたんだよ」

 その声には切望がこだまし、故郷や家族から遠く離れた船の上で迎えるクリスマスがどんなだったか、ミランダは想像することができた。

「フェリシティに僕から話すよ」

「お願い、やめて」ミランダは一心に言った。

「フェリシティは君を召使いのように扱ってる」

「私たちはもともと仲が良くなかったし、セシールが私を引き取らざるを得なくなったから恨んでいるの。私が夕食の席に座るべきだとあなたが言い張れば、きっと彼女は他の手を考えるわ」

「こんなの正しくないよ、ミランダ」

「あなたができることは何もないのよ……」ある考えが突然ミランダの心に浮かんだ。野原にかかった霧の中で必死に輝こうとするかすかな太陽の光のようだったが、少しずつ光が増し、そして希望が見えてきた。

「ミランダ?」ジェラルドは尋ねた。

「私のことを助けたいと思う?」

「もちろんだよ、何でも言ってごらん」

「私のために、あなたのお母さんに話してもらいたいの。十二夜が終わったら、エリーと一緒に私もフォーモント邸に行かせてもらえないか、聞いてもらえない?」

 ジェラルドはため息をついた。「馬車の中であの人のかんしゃくを見ただろう」低い声で言った。「僕のことでは不満がたくさんある人だから、説得できないんじゃないかと思うよ」

「お願い、試してみてくれない?エリーは私にとてもなついてるの。ナーサリーメイドを雇う必要がなくなるって」

 目の上の濃い眉が低くなった。「ミランダ、僕の家だったとしても、貧しい親類のような扱いはさせないよ」

「ジェラルド、私の立場は絶望的なの」ミスター・ベイティにまつわる恥ずかしいゴシップのことを若い男性に、ましてやジェラルドに話す勇気はなかったが、ミランダは必死だった。いつも自分で自分の面倒を見てきた彼女にとって、ジェラルドにこの絶望感を打ち明けるのは辛かった。

 階段の上でコトっと足音がして二人が振り返ると、アンダーメイドのジーンが階段の上に現れた。なれなれしく品定めをするような目つきで、ミランダとジェラルドを見た。ジーンはいつも、ミランダや家庭教師のミス・ティールのために働くのは気が進まないようだった。そして、この屋敷での自分の立場について、上流階級か召使い階級かに関係なく、誰彼構わず腹を立てているような印象をミランダは持っていた。

「何か用?」ミランダはやや手短かに行った。

「ベルモア夫人の部屋からバラの刺繍が入ったペチコートを取ってきて、明日までに繕っておくようにということです」

 これはフェリシティの侍女の仕事だった。「ホブソンはどうしたの?」ミランダは尋ねた。

「奥様のために手が込んだ上着か何かを間際に仕立て直す必要があって、とても忙しいそうです」

「分かったわ」ミランダはジーンに頷いたが、この娘はいつまでも階段の上にいて、明らかに興味を持った目でジェラルドを見ていた。

 ジェラルドは咳払いをした。「ありがとう、じゃあそういうことだから」

 ジーンは口をすぼめて見せていたが、振り返って階段を降りて行った。

「フェリシティの使用人は何て早熟なんだろう、びっくりするな」ジェラルドが言った。

「ジーンだけだから心配しないで。フェリシティがしっかり管理してるから」

 ジェラルドは笑った。「なるほどね」そしてためらいながら言った。「母に話してみるよ、ミランダ。だけどあまり期待しないようにね」

 こんなに短い時間なのに、自分がジェラルドに頼り始めていることに気がついた。いや、そんなことがあってはならない。自分以外の誰かに頼るのは無駄だと、ずっと前から分かっていた。

 ジェラルドは突然手を伸ばして彼女の手をつかんだ。二人とも手袋をはめていなかったので、ミランダは彼の指にできたタコと、手のひらの温かみを感じた。何故だろう。彼に触れられると、普段この家で感じる以上に大切にされているような気持ちになる。他の人はみなミランダのことを忘れようとしたが、ジェラルドはミランダを見て、理解してくれた。自分のアイデンティティがなくなっていく感情に慣れてきていることに気がついた。

「僕が言ったことは本当だよ」ジェラルドは言った。「君に会えてうれしい。僕にとって君はクリスマスの季節になくてはならないものだから」

 ミランダは微笑んで、フェリシティの部屋まで降りて行き、ジェラルドはナーサリーに向かった。荒々しくつま弾いたハープの弦のように、彼の言葉を聞いたミランダは、胸の中でズキズキする痛みを感じた。

 ミランダのために怒りを表す彼を見ると、自分は一人じゃないと思えたし、彼の親切心は、二年間フェリシティの支配下に置かれていた心を慰めてくれた。でも真実は、ジェラルドとその家族は十二夜が終われば帰って行き、ミランダはフェリシティのいとこの家にやられるのだ。

 自分を救うためには自分に頼るしかない。

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